なんだか懐かしい味
3kgのカリフラワー
6月8日の夕方、愛犬モモと、いつものように「健康のため」の散歩に出て、いつものように片道30分のコンビニまで行って、いつものように「健康に悪い」煙草を買って、10分ほど戻った田んぼのあぜ道で……珍しく、携帯電話が鳴った。
「早く帰って来て」と、かみさんの声だ。
「お父さんが、カリフラワーを収穫したんだけど、3kgもあるのよ。写真を撮って」と言うのだ。
それが、この巨大カリフラワーである。
両手でやっと持てるほどのカリフラワー |
1週間ほど前にも、大きなカリフラワーを収穫した。切り分けて塩ゆでし、単にマヨネーズをかけて食べた。ほのかに甘みがあってうまかったが、3日目に父親が「食べ飽きた」と言ったほどの大きさだった。
その時は、写真を撮り忘れた。それで今度は、かみさんが撮影しようとしたが、私がモモと散歩する時は必ずデジカメを持って行くので、家にカメラがなかったのである。
父親は、「福島にいたころは、よく作っていた」と言うが、千葉県の外房、大原町に住んでから、カリフラワーを作ったのは、たぶん初めてだと思う。苗を見つけて、久しぶりに作ってみる気になったらしい。
いつもは、冬を越して育ったブロッコリーの大きな花蕾(からい)を食べ、わきから出て来る小さな花蕾も食べつくすと、それで終わりのはずなのだが、今年は春になって、父親が、またブロッコリーを2株、それにカリフラワーも2株植えた。
5月に入ると次々に大きな葉を広げ、ブロッコリーは少しずつ形が現れて来たが、カリフラワーの方はいつまでたっても中心部の葉が巻いたままで、花蕾が見えなかった。
それが、6月に入るころ、古臭い表現では「あれよ、あれよという間に」大きくなったのである。この勢いには驚いた。
形の似ているブロッコリーとカリフラワーは、どちらもキャベツの仲間だ。花蕾、つまり花のつぼみを食べるのも同じ。地中海の東部地域が原産地で、植物学上は、ブロッコリーが先で、そこからカリフラワーが進化したとされている。
ところが、2世紀にローマ人がカリフラワーを栽培していた記録があるそうで、その後の普及も、どういうわけかブロッコリーよりカリフラワーの方が、一歩先んじて来た。日本でも、カリフラワーが急速に広まったのは1960年代、ブロッコリーが一般的になったのは、70年代である。
しかし最近は、圧倒的にブロッコリーの消費量が多い。考えてみると、カリフラワーを食べたのは久しぶりだった。「緑の野菜」であるブロッコリーの栄養価と比較されて、カリフラワーの人気が落ちたためだろう。
そんなことを思いながら野菜の図鑑を見ていたら、「キャベツの仲間」というページに、ブロッコリーと並んで、芽キャベツの写真があった。
そう言えば、これもしばらく食べていない。小学校の給食には、よく出てきた覚えがあるのだが、どうして芽キャベツを最近みかけないのだろう。この理由はわからない。
ゴボウは茎も食べられる
春まきゴボウが、ずいぶん育って来た。品種名はわからないが、我が家の畑は表土がそれほど深くないので、あまり長くならないゴボウを作る。地上の茎(葉柄)は、大きなものは50cmほどに伸び、葉も大きくなった。そろそろ間引きしてやらなければいけない時期だ。そして、ゴボウの間引きには、楽しみがある。
茎もおいしく食べられることだ。
間引きしたゴボウ |
地下のゴボウも、15cmほどになっていた。こういう若いゴボウは、タワシで皮をこそげ落とし、薄く切って、少し水にさらしてアクを抜けば、マヨネーズであえて生サラダで食べられる。
茎の方は、蕗(フキ)と同じ調理をすればいい。葉は落とし、茎だけをさっとゆでる。茎の端に包丁の刃をあてて、ていねいに表面の筋を取る。この手間が少し面倒だが、あとは出汁で煮たり、きんぴらにしたり、いろいろな料理に使える。姿も味も、蕗によく似ている。関西の方では5、6月に、茎を食べるための専用品種が出回るそうだから、これは我が家の専売特許ではない。
我が家では昨年から、サツマイモを作るのをやめた。いつも最後には食べきれなくなるし、この2、3年、その時期になると、近所の農家からおすそわけをいただくようになったからだが、もしも自分で作れば、サツマイモの葉柄も、同じ手順で食べられる。そしてこれは、思いのほか上品な味わいだ。
サツマイモの葉柄は、戦中・戦後の食糧難のころは、当たり前に食べられていた。父親も「あの頃、さんざん食ったから、今さら食べたくない」と言う。豊かになった現在の日本では、なるほど、わざわざ手間をかけて食べなければいけないほどのものではない。だが、「こうすれば食べられる」という先人の知恵を、知っていて損はない。
そういうことでは、里芋の茎(正しくは葉柄)も同じだ。乾燥させた物は「芋がら」と言う。「ずいき」という名前で知っている人も多いと思うが、「ずいき」は、生でも、乾物でも、そう言う。そしてこれには、えぐ味(アク)の少ない専用品種がある。
芋を食べる品種の茎はアクが強いが、食べられる。皮をむいてすぐ水にさらしておき、酢を入れた水に入れてゆであげる。亡くなった母親は、重曹を入れてアク抜きしていたようだ。このアクは、不思議なことに、乾燥させるとほとんど気にならなくなる。乾物を水で戻す時に、アクの正体「シュウ酸」の多くが水に溶け出してしまうからだろう。これも昔の人の知恵だ。こうして下処理してから、味付けすればいいのだ。
福島から大原町へ引っ越して来たころ、畑に切り捨てられている里芋の茎を見て、母親は「この辺の人は、芋がらを食べないんだね。もったいない」と言っていた。
しかし、それは間違いだった。母親が里芋の茎を干してみたら、みんなカビが生えてしまったのである。大原町で里芋を収穫する9月、10月ごろはとても暖かく、海が近いので湿気も多く、福島のようには乾燥させられなかったのだ。土地が変われば、気候風土も変わって、「おふくろの知恵」もそのままでは役立たなかった、というわけだ。
コンフリーを知ってますか?
モモと散歩の途中、薄紫色で、釣鐘のような小さな花が咲いている草を見つけた。
コンフリーだ。たぶん、この20年ほど目にしていなかったと思う。
今は珍しいコンフリーの花 |
ムラサキ科の植物で、葉も茎も、花も、でんぷんを豊富に含む根も食べられて、しかも葉にはビタミン、カルシウムが多いというので、一時期もてはやされたことがある。
どうしてこんな草を知っているかと言うと、俳句の季語になっているからだ。それは学生時代、俳句仲間に教えられた。私は大学の文学部日本文学科に入り、現代俳句を専攻した。今はほとんど作らないが、そのころは明けても暮れても俳句を作っていた。
大学の恩師、山本健吉先生が編集した『最新俳句歳時記』(文芸春秋社)の「春」には、コンフリーが載っている。そこには「日本には1958年に、イギリスからオーストラリアを経て飼料用に輸入された。その一系統が、その薬効や栄養分が言いはやされ、家庭菜園に普及した。やわらかい若葉を摘んで、てんぷらや汁の実にする」と書かれている。
「薬効」というのは、ヨーロッパでは昔、胃潰瘍の治療に使われたことがあるのを指しているのだろう。
「若芽を摘んで」だから、春の季語にしているのだろうが、実はコンフリーはいつでも食べられる。私も秋田県に住んでいたころ、そのあたりに勝手に生えているコンフリーを取って来て、てんぷらにして食べたことがある。だが、とりたてて「うまい」というほど特徴ある味ではなかった。野菜として栽培するような魅力もなかったので、一時期の「健康ブーム」が過ぎたら、みんなが忘れて、コンフリーは雑草になってしまったのだ。
今回、あらためて調べてみたら、これを季語にしているのは、山本先生の歳時記だけだった。その前の、たとえば高浜虚子はもちろん、石田波郷の歳時記にもないし、比較的新しい集英社の『大歳時記』にも載っていない。山本先生の歳時記にしても、例句は収録されていなかった。
「懐かしい味」と思う人がいなくてもかまわないけれど、歳時記の例句になるような俳句を作ってくれる人はいてもいいじゃないか、と思わせる草である。
野菜の花
再びコンフリー
前回、「歳時記にコンフリーは載っているが、例句がない」と書いたら、俳句仲間から「まさか、大久保明仁君の傑作を、忘れたんじゃないだろうね」と、きつく叱られた。
これは、私としては、申し開きのできない失態だった。
コンフリーの花や戦争知りたくて
これは25年ほど前、私が今も所属している俳誌『杉』に載った作品である。少し長いが、主宰の森澄雄の評を引用させてもらう。
作者は三十歳前の青年、したがって太平洋戦争後の戦争を知らない世代だ。だが、戦は平和とともにたえず意識の中にあるのだ。戦争とはなんだろう、どうして起こるのだろう。雑草のように生えたコンフリーの花を見ながら、否定と不安と多少のあこがれをまじえながら、そんな思いがあるのだろう。それに反戦平和といったこのごろの学生運動の紋切型の一律の思想ではなく、もっと人間の原初的な何かだ。そこにこの一句の解明しがたいが、不思議な魅力と青年の不安がある。
森澄雄は、私の俳句の実作の師である。『杉』の創刊は、昭和45(1970)年、私が大学に入った年の10月だった。縁あって入門し、俳句に精進した……と書けば、もっともらしいが、そこは学生の気軽さで、しょっちゅう先生の家へ行っては飯を食わせてもらっていたようなものだ。なにしろ、初心者には季語などちんぷんかんぷんだし、難しい字が多くて、大学入試程度の国語力では、句会に出ても字が読めないのである。それに句会では最初のころ、「まあ、お若いのに……」と、よく言われた。「……」の部分には、「もの好きな」というニュアンスが込められていたと思う。
ところが、不思議なことにそのころ、森先生の家には、若い人がたくさん出入りしていた。そのうちに、自分たちで同人誌を出そうという話がまとまり、昭和49年3月に『麒麟』というガリ版刷りの雑誌を出した。当時、20代の俳句仲間に呼びかけたら、全国から40人もが参加してくれた。大久保明仁君は、中心メンバーだった。
『麒麟』は隔月刊で出し続けたが、昭和52年4月の「17号」で終わった。発行所を引き受けていた私が、その翌月、読売新聞秋田支局へ赴任することになったためだが、それまで明仁君とは、月に2、3度は顔を合わせていた。
それなのに、彼の代表句を思い出せなかったなんて、恥ずかしくてしかたない。
恥をかいたついでに、私の句も書いておきたい。
二十歳(はたち)まで死人を見ざり寒椿
学徒出陣から生還した経験を持つ森澄雄は、こう評してくれた。
ぼくら戦野で青春を過してきた者は二十代を死人ばかり見て過してきたといっていいが、加藤君の世代は時代的にも恵まれた世代である。また加藤君自身の家庭環境も、近親、友人にも死者を見ずに順調に育ってきた。それは加藤君の幸福であろう。だが、いま成年に達して、それが本質的に幸福であったかという自問がある。それを自らに問うことによって、何かを見つめているのだ。
自分自身、今、この句を読み返してみて、「あのころは、青臭くて、若かったな」などという感慨はない。二十歳を迎えた時、この作品を残せたことは、今でも幸せだと思っている。それは、「あの時の私」にしか発せられない言葉だからだ。
「スローフード日記」としては、そぐわない話と思う人もいるかもしれないが、そうではない。今はほとんど俳句ができないが、「今の私」にしか発せられない言葉を持ちたい、という気持ちは常に抱いている。そういう気持ちで周囲を見ると、同じ木に、去年と同じように花が咲いても、「どこかが違う」と、いつも新鮮に見つめることができる。それは、自然が、より豊かに感じられることでもある。
毎年、同じ野菜を作っても、あらたな感激を覚えるのは、俳句で培った、そういう気持ちがあるからだろうと、自分では思っている。ビジネスに結びつけがちな「スローフード運動」以前に、大地の恵みに対して、謙虚に、そして真摯に目を向ける気持ちが、「スローフード」を実践するためには大事なことではないのだろうか。
しかし、それにしても……今は50代になった『麒麟』の仲間の何人かは、この「日記」を毎回読んでくれて、そして今回のように「まさか、忘れたんじゃないだろうね」と言ってくれることは、ありがたく、俳句によって生涯の友を得たことに感謝している。
春菊の花
畑では今、春菊の花盛りだ。
かわいい春菊の花 |
花が咲くと、茎が硬くなって春菊は食べられなくなる。だから父親はいつも、こうなる前に全部収穫し、残った株も引き抜いてしまうのだが、今年は「花があんなにきれいだとは思わなかった」と、わざと放置していた。どこかで、春菊の花を見てきたのだろう。そして、母親の墓に供えたいと思ったという。
春に花が咲くから「春菊」というのだが、父親は、「野菜は野菜」としか見ないところがあり、食べられなくなったら無用とばかりに、すぐ次の野菜のために畑を整理してしまう。だから今まで、このかわいい花にも気づかなかったのだろう。
しかし、野菜は意外に美しい花を咲かせるのである。
たとえば、ニンジンの花だ。
ふわふわとした感じのニンジンの花 |
これは、どうしたわけか、私が担当しているハーブコーナーに芽が出て、育ったニンジンである。父親が種をまいたニンジンは、今、収穫できるまでに育っているが、薹(とう)立ちするとニンジンが硬くなるので、そちらでは花を見ることはできない。
でも、咲けば美しいのである。
その隣には、ハーブのディルが咲いている。
ニンジンに似たディルの花 |
黄色い花だが、形はニンジンそっくりだと気づかれるだろう。それは当然で、どちらもセリ科の植物だ。前に、花を咲かせてこぼれ種から芽吹くのを待つ、と紹介したセロリもセリ科で、今、同じように、茎のてっぺんから線香花火のような花を咲かせている。
ゴボウは、アザミのような花を咲かせるが、たぶん、これは、その前にみんな引き抜かれてしまうだろう。
野菜の花の中で、最も美しいのは、オクラと干瓢だと、私は思っている。干瓢は作ったことがないが、わかりやすく言えば「夕顔の花」である。
農家のように出荷する必要のない家庭菜園には、1株残して花を見る楽しみもある。
さいわい、オクラは花の後に育った若いサヤを食べるので、花を咲かせないと収穫もできないからクリーム色の花をたっぷり見ることができる。それが咲くのは真夏だから、その時期になったら写真をお見せしたいと思っている。