んだんだ劇場2006年3月号 vol.87
No22
靖国に祀られた女性

松前の烈婦
 北海道唯一の大名、松前氏の居城があった松前町は、箱館戦争で二度も戦火が襲った激戦地だ。最初は明治元年十一月五日、土方歳三率いる榎本軍の攻撃で落城した戦い。次は翌年四月十七日、新政府軍の松前奪還攻撃である。この日、榎本軍では六十人余が戦死し、彼らの遺体は、ひとまとめにして埋められた。
 この例に限らず、戊辰戦争を通観して思うのは、「賊軍」とされた側の戦死者の扱いが、きわめてぞんざいなことだ。
 例えば、明治元年九月二十二日に会津藩が降伏して、「官軍」の戦死者はすぐに埋葬されたが、奥羽越列藩同盟軍の戦死者は、翌春まで放置された。新政府の会津征討軍は、遺体に手を触れることさえ許さなかった。飯盛山で自刃した白虎隊士の遺体が発見されたのは雪が降ってからで、飯盛山を含む当時の滝沢村肝煎(きもいり)吉田伊惣次が、少年たちを近くの寺に仮埋葬したのだが、それが罪に問われた。あげくには、戦後処理にあたった新政府民生局監察方兼断獄の福井藩士、久保村文四郎は、少年たちの遺体を掘り起こして元の場所に捨てるよう、吉田に命じたのである(久保村は、任期を終えて帰国途上、旧会津藩士に暗殺された)。放置されたために、野犬に食い散らかされた会津藩士の遺体もあったと伝えられている。
 この恨みは深い。
 私は戦後生まれだが、「子供のころは毎朝、ばあさまに、長州は敵だ、と言い聞かされた」という会津出身の友人がいる。奥羽山脈を隔てた福島市で育った私には、驚愕する話だった。会津人のそうした気持ちは、戦争そのものより、戦後の仕打ちによるものなのだろう。
 この「余話」でも、新政府軍に惨殺された咸臨丸乗員の遺体を清水の次郎長親分が収容し、埋葬したことが、山岡鉄舟と知り合うきっかけになったことを書いた(「次郎長と愚庵」参照)。
 箱館戦争でも、市街地に放置されていた榎本軍兵士の遺体を集め、埋葬したのは侠客柳川熊吉と、その子分たちだ。柳川は新政府軍に捕まり、軍事裁判で死刑判決を受けた(柳川の侠気に感激した薩摩藩士、田島敬蔵の奔走で、柳川は後に釈放された)。
 松前では、榎本軍兵士の墓は法華寺にある。と言っても、小さな土盛りがあるだけだ。私が訪ねた2001年当時は木柱が立っていたが、白いペンキがはげ、字はほとんど読めなくなっていた。「官軍墓地」である「招魂場」とは雲泥の差だ。
 法華寺は、函館湾沿いに松前を目指し、白神岬を回りこんで市街地に入ると、すぐ右手にある寺だ。法華寺のわきを通る道を、市街地の背後にそびえる神止山(かみどめやま)へ向かって車で十五分ほど登ると、左手の一段高い場所に石碑の並んだ広場がある。
 ここが「招魂場」だ。
 道路から石段を登って右側には、薩摩、長州、水戸、弘前など遠来の人々の大きな合葬墓がならび、それに続いて、六十人余の松前藩戦死者の個人墓が、広場を取り囲んでいる。が、その最後、つまり、石段を登ってすぐ左側に、倒れたままの石碑があった。
 これは、「川内美岐」という女性の顕彰碑だ。彼女の墓石は隣にあって、「烈婦川内氏之墓」と刻まれている。
 土方歳三の松前攻撃軍が城に突入した時、城内に残っていた美岐は、はさみを喉(のど)に突き刺して自決した。三十七歳だった。
 しかし彼女は、足軽北島幸次郎の妻なのである。それなのに、彼女についての記録はすべて、実家の「川内」姓になっている。これについて、『箱館戦争のすべて』(須藤隆仙編、新人物往来社)の中で、作家の脇哲氏は、「実は夫が敵軍の侵入に恐れをなして、いずこかへ遁走してしまったという有力な説がある」と書いている。つまり、それが、みっともない行動をとった北島の妻ではなく、「川内美岐」の名で彼女がたたえられる理由だという。そして松前藩では、彼女を「烈婦」に仕立てることによって、戦後復興の「精神的バックボーン」にしたのだという私見を述べている。脇氏は、その証拠として、時間がたつにつれ、この女性の行動が次第に美化されていく過程をたどっている。
 ついに川内美岐は、靖国神社に祀られることになった。別の資料では、彼女が「靖国神社に最初に祀られた女性」とされていた。その「別の資料」が現在、確認できないでいるが、箱館戦争関係資料の一つに、確かにそういう記述があった。それを読んだとき、私は首をかしげた記憶がある。
 なぜなら、最初の女性祭神を、「もう一人」知っていたからだ。

銃弾に倒れた女性
 私の書棚に、昭和五十二年八月発行の、『ふるさとの戊辰戦 付―戊辰の烈婦・山城みよ女』(佐藤徳治郎、よねしろ書房)という本がある。『戊辰戦争とうほく紀行』(無明舎出版)を書く時に集めた資料の一つだ。
 この本に、「山城みよ女」は、「明治二年靖国神社に日本最初の女性祭神として祀られた」と書いてあったのである。
 「みよ」は、秋田県の旧北秋田郡比内町扇田(現大館市)の煙草屋、山城八右衛門の嫁だった。戦死したのは慶応四年(1868)八月二十日のことで、三十五歳だった。盛岡藩軍の銃撃を受けたのである。
 奥羽列藩同盟の中で、盛岡藩(南部氏、二十万石)は最もぐずぐずしていた。すでに新潟県では戦火がほぼ終息し、福島県、秋田県で激戦が続いていた八月九日になって、ようやく秋田藩領内へ攻め込んだ。十和田湖に近い、現在は秋田県になっている鹿角市(当時は盛岡藩領)から、大館・北秋田地方へ侵入したのである。盛岡軍は米代川の流れに沿って進撃し、中流域の二ツ井町荷上場(今年三月二十一日、能代市に合併)まで進んだところで、銃砲の優劣に格段の差がある新政府軍の猛反撃を受け、結局は鹿角まで押し戻され、九月二十二日には盛岡へ撤退した。
 さて、その最初の頃……米代川の川湊として栄えていた扇田は、簡単に盛岡軍に占領されたが、八月十二日、秋田藩軍は夜明けの奇襲攻撃で扇田を奪還した。
 そのころ「みよ」は、兵糧などを運ぶ軍夫として従軍していた。夫の八右衛門が既に他界していて、その代わりとして働いていたのだった。
 ところが八月二十日、総力反攻に出た盛岡軍のために、扇田の街は焼き尽くされ、秋田藩軍は撤退せざるを得なくなった。共に後退しようとした「みよ」は、その混乱の中で銃弾に倒れた。
 私の手許にある本の『付―戊辰の烈婦・山城みよ女』では、彼女の行動をかなり詳しく書いている。だが、この部分は、実は「紙芝居」の絵と文章をそっくり再録したものだ。昭和十八年に「秋田翼賛壮年団」が原作を作り、「県内はおろか東北一円を廻って演じ歩いた」紙芝居だという。太平洋戦争が敗勢に傾き、今から見ればヒステリックに「戦意高揚」が叫ばれていた時代の産物だ。
 『ふるさとの戊辰戦』の著者、佐藤徳治郎氏も「史実そのままでない脚色した部分もある」と述べている。それは、紙芝居を作るときに脚色されたばかりでなく、それ以前の段階での創作も多分にあったと思って間違いない。
 紙芝居の最後の方に、「靖国神社忠魂史第一巻に彼女の行動は永久に記録され」とあり、さらに「同じく靖国神社忠魂誌第五巻にも女性祭神殉難誌の一つとして彼女の事跡が明細に記録され」という文章がある。「忠魂史」と「忠魂誌」……字が違うのは、単なる誤植なのか、それとも別の本なのか、原本を確認していないので何とも言えないが、紙芝居の「原作」がこの辺にあることは想像がつく。
 脇哲氏によると、松前の川内美岐にしても、土方歳三の攻撃軍を迎えて、松前藩が撤退を決めたことに美岐が悲憤して自害した、というストーリーは『靖国神社忠魂史』で語られているのだという。たぶんこれも、「女性祭神殉難誌の一つ」なのだろう。
 それより重要なのは、『靖国神社忠魂史』が昭和十年に出たことだ。
 北秋田地方の戊辰戦争についてのかなり詳細な記録である『大館戊辰戦史』(笹嶋定治編、大正七年刊=昭和四十八年、名著出版復刻)には、「烈婦 山城みよ女」は記録されていない。この本は、秋田藩主佐竹氏の分家である、城代佐竹大和が統治していた旧大館町を中心とした記録であるという事情を考慮しても、大正七年の時点では、旧比内町扇田ではよく知られていた「烈婦 山城みよ女」を、「大館の戊辰戦争」に記録しなければいけないほどのエピソードとは、旧大館町の人々は認識していなかったのではないだろうか。
 逆に言えば、そういう「些細なこと」まで拾い集めたのが、『靖国神社忠魂史』なのだろう。
 昭和十年は、美濃部達吉の「天皇機関説」が排撃された年だ。国家を法人とみなし、天皇はその最高機関であって、主権者でもないし、ましてや「神」でもないという憲法学説が「国体にそぐわない」と国会で攻撃され、貴族院議員だった美濃部が辞職に追い込まれた。以後、天皇は「神」になってしまう。日本のファシズムが理論的根拠を得た年、と言ってもいいかもしれない。
 前年には満州国が樹立され、翌昭和十一年には「二・二六事件」が起きた。そういう時代に、『靖国神社忠魂史』がどんな意図で書かれたかは、読まなくても明白だろう。
 では、そもそも、靖国神社とは、どんな神社なのだろうか。

靖国神社の成立
 『日本近代思想体系4 軍隊 兵士』(岩波書店)に、「靖国神社の創建」という一節がある。その最初は明治元年(正しくは慶応四年)五月十日の「殉難者合祀の沙汰書・布告」になっている。
 これは、嘉永六年(1853)の「ペリー来航」以来の殉難者を祀る神社を、新政府が、京都・東山の山中に創建するという内容だ。解題によると、幕末、尊皇攘夷派の志士たちは、幕府に処罰された志士たちの「招魂祭」を盛んに行っていたといい、「これは尊攘派の中心、長州藩の伝統でもあった」としている。
 明治二年六月十二日には、東京・九段に「東京招魂社」を創建することが発表された。旧幕府の歩兵調練所があった場所で、ここを新たな神社設置の場と決めたのは大村益次郎だった。同八年一月には、京都・東山招魂社をはじめ、各地で招魂祭を執り行って来た霊を、すべて東京招魂社に合祀することになった。
 そして明治十二年六月四日、東京招魂社は、靖国神社と改称された。
 改称を発議したのは、陸軍省だった。それは、明治十年の西南戦争で多数の戦死者が出たことがきっかけだった。同年、東京招魂社で西南戦争の臨時大祭が執り行われ、明治天皇も参拝した。しかし当時、東京招魂社に神官は不在で、祭典を行う場合は、陸軍卿か海軍卿が祭主となった。そこで陸軍省から、東京招魂社に神官を置き、「永世不朽ノ大社」にすべきだと、太政官に対して意見が上申されたのである。これに、海軍省、内務省が同調し、要望を受け容れることにした太政官は、靖国神社を別格官幣(かんぺい)社(人臣を祭神とし、国として格式を認めた神社)と位置づけた。そして、その管理と運営は、内務、陸軍、海軍各省の共同所管となった。
 ……と、ここまでを要約すると、長州人の伝統であった「殉難者の慰霊」を、次第に国家神道に組み込んで行った結果が「靖国神社」というわけだ。その後、日清、日露、日中、太平洋戦争を経て、今は、およそ二百四十七万柱の霊が祀られている。
 さて、戊辰戦争直後、各地に「招魂場」が造営された。北海道函館市の函館山の中腹にある護国神社を訪ねると、「招魂場」と大書された石碑が残っている。
 ここに「招魂場」の広い平地が造成されたのは、箱館戦争が終わってわずか三か月後の明治二年八月だ。新政府は、降伏した榎本軍捕虜を使役して、この平地を造成したのである。すぐに「招魂社」と名が改まり、昭和十四年に「函館護国神社」と改称した。
 こういう流れの中で言えば、秋田の「山城みよ女」が「明治二年」に靖国神社に祀られたというのは、厳密には間違いだ。が、彼女が「官軍の戦死者」であり、最終的に靖国の祭神となったのは事実である。ついでに言えば、松前の「川内美岐」も同時であり、どちらも「最初の女性祭神」なのである。
 これに対して、最後まで奥羽列藩同盟として戦い、降伏した諸藩の戦死者がぞんざいな扱いを受けたことは、冒頭にその一部を紹介した。しかし、実は、それほど単純ではない事例がある。

亀田藩の戊辰戦死碑
 福島県の太平洋岸北部に位置していた相馬中村藩(相馬氏、六万石)は、列藩同盟軍として各地で戦ったが、慶応四年八月六日、密かに使者を送って降伏し、翌七日には中村城(相馬市)へ征討軍を迎え入れ、すぐさま隣接する仙台藩領へ攻め込んだ。
 相馬中村藩では、元治元年(1864)の天狗党の挙兵に十四人の藩士が参加している。水戸藩以外では、かなりまとまった数で、それだけ尊皇攘夷思想が浸透していたと推測される。そのことは、この「余話」でも触れた(「関東狂少年」参照)。戊辰戦争に際しても、征討軍に敵対する意志は薄かったようだ。しかし、列藩同盟に加盟したのは、北には仙台藩(伊達氏、六十二万五千石)、南には平藩(安藤氏、三万石)と強力な佐幕派にはさまれていたためだ。
 七月四日に列藩同盟を離脱した秋田藩主、佐竹義尭(よしたか)は、相馬家から養子に行った人だ。そのころには、実家の相馬中村藩でも、首脳部は同盟離脱のチャンスをうかがっていたらしい。きっかけとなったのは、八月一日、現浪江町の高瀬川をはさむ戦いで、主力部隊が惨敗したことだ。この日、相馬中村藩では十二人が戦死した。
 戦後、相馬中村藩は、「勤皇藩」として遇された。だが、『相馬市史』(相馬市)には、「相馬人にとって戦争の傷あとは、官軍に降伏前の犠牲者はすべて賊徒として葬られ、むなしく不祭の鬼となっていることであった」という記述がある。これは、正式に埋葬することができなかったという意味だ。相馬中村藩では、戊辰戦争で百二十四人が戦死した。そのうち、八月七日以降の戦死者は三十七人だが、八月一日以前の戦死者は八十七人にのぼっている。同盟軍として死んだ人の方が多いのである。彼らの葬儀が許可されたのは、十月十三日に所領安堵の沙汰書が発せられてからだ。
 農兵も含めて、相馬中村藩の人々が、いつ、どこで戦死したかをたどってみると、彼らが常に全力で戦っていたことがわかる。途中で「掲げる旗」が変わっただけだ。藩命によって行動したことに変わりはない。それなのに、靖国神社に祀られたのが、八月七日以降の三十七人だけであることは、言うまでもない。相馬の人々にとって、それは理屈でわかっても、感情としてはしこりの残ることなのではなかっただろうか。
 現在の秋田県由利本荘市にあった亀田藩(岩城氏、二万石)では、全く逆のことが起きた。当初は秋田藩などとともに列藩同盟を離脱し、庄内征討軍に加わっていたのが、途中で庄内藩(酒井氏、戊辰戦争当時十七万石)に降伏し、以後は庄内軍とともに秋田藩領へ攻め込んだ。その経緯については、この「余話」の「藩主たちの戊辰戦争」を読んでいただきたい。結果として、亀田藩は「賊軍」となった。その間に、官軍としての戦死者も、賊軍としての戦死者もあった。
 今、旧岩城町亀田を訪ねると、城跡の天鷺神社境内に「戊辰戦死碑」が立っている。明治十三年、旧亀田藩有志によって建立されたこの石碑には、十六人の名が刻まれている。今は字が摩滅してほとんど読めないが、『亀田藩戊辰史』(旧岩城町史 資料編T、旧岩城町教育委員会)によると、このうち九人は靖国神社に祀られているが、残り七人はそうではない。
 私は気づかなかったが、秋田市の郷土史家、吉田昭治さんは『風雪期の人びと 秋田の戊辰戦争』(叢園社)の中で、秋田県内で江戸時代に藩があった秋田、本荘、矢島にはそれぞれ招魂社が造営され、そのうち秋田の招魂社は後に護国神社になったが、「亀田には招魂社がない」と指摘している。
 旧亀田藩の人々は、藩命によって戦った人たちを等しく遇したのである。だから、戦死者の名をすべて刻んだ慰霊碑を立て、扱いが不平等になる招魂社は造らなかったのだ。
 これは一つの節操であり、見事な見識である。
 さて、太平洋戦争が終結してからでも六十年が経過し、平和な現代に生きる我々は、そろそろ戊辰戦争を、近代国家日本誕生の「生みの苦しみ」と考えるべきではないだろうか。西南戦争にしても、そう考えて不都合はないはずだ。
 軍人、民間人にかかわらず、そして空襲で命を落とした方々をも含め、近代日本誕生以後の「戦争の犠牲者」を慰霊する場所があれば、私も掌を合わせたいと思うが、「A級戦犯が合祀」されているとかいないとかという議論の以前に、「勝てば官軍」の都合で造られた靖国神社には、とても参拝する気にはなれない。
 それは明治以後、「白河以北一山百文」と言われた東北人としての私の、感情の問題である。

[参考文献]
箱館戦争のすべて=須藤隆仙編、新人物往来社
ふるさとの戊辰戦 付―戊辰の烈婦・山城みよ女=佐藤徳治郎、よねしろ書房
戊辰戦争とうほく紀行=加藤貞仁、無明舎出版
箱館戦争=加藤貞仁、無明舎出版
大館戊辰戦史=笹嶋定治編、名著出版
日本近代思想体系4 軍隊 兵士=岩波書店
亀田藩戊辰史(旧岩城町史 資料編T)=旧岩城町教育委員会
風雪期の人びと 秋田の戊辰戦争=吉田昭治、叢園社
相馬市史=相馬市教育委員会
近代日本総合年表第二版=岩波書店


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