初代中央気象台長(下)
宮古湾の海戦
明治二年(1869)三月十二日に浦賀を出航した新政府艦隊の一部が、宮古湾(岩手県宮古市)に姿を現したのは、十六日だった。箱館攻撃を目指す新政府艦隊は、甲鉄を旗艦とする軍艦四隻と、輸送船四隻である。このうち、最初に宮古湾へ入って来たのは軍艦二隻と輸送船一隻で、甲鉄の姿はなかったが、宮古に配した榎本軍の見張りは、すぐに箱館へ伝令を走らせた。
榎本軍は、新政府艦隊が宮古湾で休息することを予想し、ここで「叩く」作戦を立案していた。それは「甲鉄に回天を横付けして兵が乗り込み、甲鉄を乗っ取る」という奇策で、回天艦長甲賀源吾が考え、海軍奉行荒井郁之助が榎本武揚に提案した。この辺りの経緯は、吉村昭氏の小説『幕府軍艦「回天」始末』(文春文庫)に詳しい。そのための訓練も十分に重ねて、甲鉄が宮古湾に入るのを待っていたという。
宮古からの伝令が箱館に到着したのは、十九日の夜だった。翌二十日の深夜、荒井郁之助を司令官として回天、蟠龍(ばんりゅう)、高雄(秋田藩の船だったが、箱館に寄港した際、榎本軍に接収された)の三隻が箱館を出港した。三隻は、まず八戸市(青森県)の鮫(さめ)港に寄港し、一気に宮古湾へ入る予定だった。が、ここでもまた、天が災いした。
鮫港を出た二十二日の夜から海が荒れ始め、三隻はばらばらになってしまった。二十三日も風波は強く、二十四日に洋上で回天と高雄は再会できたが、蟠龍は行方不明だった。荒井司令官は二十五日早朝、二隻で宮古湾へ入る決断をした。だが、その途中で高雄が機関故障を起こし、結局、回天だけが甲鉄に突進した。
横付けして乗っ取る作戦は、失敗した。回天の舷側から甲鉄の甲板まで三メートルもの差があって、斬り込み隊が飛び降りるのを躊躇したのである。その間に、甲鉄はガトリング機関砲を回天に向ける余裕が生じた。その弾丸を浴びて、回天艦長甲賀源吾は、築地の軍艦操練所以来、ともに数学、英語を学んで来た荒井郁之助の目の前で絶命した。
箱館総攻撃
宮古湾からの帰途、高雄は逃げ切れず、現在の岩手県田野畑村の海岸に乗り上げて、自沈した。僚艦とはぐれた蟠龍は鮫港に戻っていて、回天とともに箱館へ帰還した。
新政府軍の第一軍千五百人は四月九日、江差から十キロほど北の乙部に上陸した。以後、新政府軍は着々と増強され、榎本軍は、前年の進撃路を逆にたどるように後退する。五月一日には、現在の函館市周辺地域に押し込められた。しかもその直前、軍艦千代田形が函館湾内で座礁し、動転した艦長森本弘策が、離礁作業も行わずに艦を放棄する事件が起きた。ところが満潮になると、千代田形は自然に浮かび、漂流するうちに新政府軍に捕獲されてしまった。森本艦長は錯乱状態となり、一兵卒に格下げされた。
榎本軍の軍艦は、回天と蟠龍の二隻だけになってしまったのである。しかし二隻は奮戦した。
五月七日早朝、新政府の軍艦五隻が、函館山のふもとの弁天崎砲台(現在の函館ドック)に迫った。この中には、宮古湾の海戦の時には姿のなかった「朝陽」が加わっていた。咸臨丸と三つ子の兄弟の「朝陽丸」だ。四月になって、東京から来援したのである。
艦長は、佐賀藩の海軍伝習生だった中牟田(なかむた)倉之助である。
激しい砲撃戦で、回天は八十発もの砲弾を浴びたが、射撃をやめなかった。最後は弁天崎砲台わきの浅瀬に乗り上げ、陸側にあった大砲をすべて海側に移して応戦した。蟠龍は機関故障で自由には動けなかったが、新政府艦隊の目標が回天に集中したため、被弾数は少なかったようだ。回天が動けなくなったのを確認して、午前十時ごろ、新政府艦隊は引き揚げた。
そして五月十一日早朝、新政府軍の箱館総攻撃が始まった。
回天は動かぬ砲台として応戦したが、機関故障を修復した蟠龍は自在に走り回った。後に新政府軍が作った報告書には、「運転進退きわめて巧者」と書かれている。長崎海軍伝習所二期生だった、艦長松岡磐吉(いわきち)の手腕である。
松岡は、伊豆・韮山代官、江川太郎左衛門の手代だった。代官所の手代は地元から採用するので、松岡は本来の武士ではなく、町人か農民の出身だったと思われる。韮山代官所からは何人かが伝習所に入った。松岡は、咸臨丸のアメリカ渡航では航海士官として乗り組んでいるし、咸臨丸の小笠原諸島探検にも参加している。
海軍の軍服を着た松岡磐吉の写真が残っていて、細身で、写真で見ただけでも小柄だったことがわかる。しかし、闘志にあふれた人だったのだろう。蟠龍艦長として榎本軍の北行に参加してから、元は英国王室用のヨットだったこの小型艦をあやつり、榎本軍が松前藩を追い出すまでの戦いには、陸戦を援護して奔走した。
そして新政府軍の箱館総攻撃の日、松岡は、絶好の標的をとらえた。新政府軍の陸上攻撃を支援するために、函館山からは北方、五稜郭よりやや北側の海岸近くで陸上の榎本軍を砲撃していた朝陽である。松岡自身が何度も乗った経験のあるこの船に、蟠龍は肉薄した。その一発が、朝陽の右舷を貫いて、弾薬庫で爆発した。
真ん中から二つに折れた朝陽が、海中に没するまで二分もかからなかったという。日本の海戦史上、大型船がたった一発の砲弾で轟沈(ごうちん)したのは、初めてだった。朝陽では五十四人が戦死した。艦長の中牟田倉之助は重傷を負い、海に投げ出されたが、湾内にいたイギリス船が出したボートに救助され、一命をとりとめた。
それは、午前七時半ごろのことだった(時刻については諸説がある)。
穴だらけになった回天を、荒井郁之助海軍奉行が「戦闘不能」と判断し、乗員に退艦を命じたのが何時ごろかは、はっきりしない。蟠龍が砲撃をやめたのは、午後二時だった。戦闘不能になったのではなく、砲弾を撃ち尽くしたからだ。松岡艦長は蟠龍を、回天のわきに座礁させ、総員に上陸を命じた。
この時点で、榎本艦隊は壊滅した。新政府軍は、無人の回天、蟠龍に火を放った。
咸臨丸の最期
そろそろ、咸臨丸の「その後」を書かなくてはならない。清水港の海上に春山弁蔵らの遺体を残して、新政府軍に持ち出されてからの「その後」である。
咸臨丸は浦賀で大修理が行われた。その際、大砲はすべて撤去された。そして箱館戦争終結後の明治二年七月、明治政府は北海道(正確には、蝦夷地を北海道と改称したのは八月十五日)に開拓使を設置し、八月には咸臨丸を開拓使所属の運送船とした。北海道への移住者を運ぶ船になったのである。この時、開拓使運送船となったのは、もう一隻あって、それは薩摩藩が独力で建造した洋式帆船「昇平丸」である。以後、二隻は函館(函館と改称したのは箱館戦争後だが、正確な日付は不明)、小樽などへ頻繁に航海した。
ところが明治三年一月二十四日、米などを積んで小樽へ向かう途中の昇平丸が、北海道渡島半島の西岸、江差町の手前の上ノ国町木ノ子海岸で座礁し、沈没してしまった。この遭難事故では、五人が水死した。この海岸を通る国道二二八号の道の駅「もんじゅ」に、昇平丸の模型が展示されているのは、遭難現場のすぐ近くだからだ。
そして、咸臨丸もまた、北海道の海に消えた。それは、明治四年九月二十日のことだ。函館から小樽へ向かっていた咸臨丸は、午後七時ごろ、函館湾から津軽海峡へ出る手前の木古内町更木(さらき)海岸で座礁したのである。
現地では「更木岬」と呼んでいるが、陸が海の方へほんの少しふくらんだような地形で、岬には見えない。だが、海岸から沖へ向かって暗礁が連なっている場所だった。合田一道(ごうだ・いちどう)さんの『咸臨丸 栄光と悲劇の5000日』(北海道新聞社)によると、アメリカ人船長の操船ミスのようだ。
咸臨丸には、北海道へ移住する旧仙台藩白石城主、片倉小十郎家の旧家臣と家族、四百人余が乗っていた。遭難場所は陸地から二百メートルほどの距離で、すぐに住民が気づいて船を出し、翌朝までには全員が救助された。だが、横倒しになった咸臨丸は、その後の強い風雨のために次第に船体が破壊され、九月二十五日未明、海中に没した。
現場には今、国道二二八号沿いに「咸臨丸ここに眠る」という看板が立っている。そして木古内町埋蔵文化財作業所には、咸臨丸のものかもしれない西洋式の錨(いかり)が保存されている。二〇〇一年六月に私が訪ねた際、錨をくるんでいたシートの一部をはずしてもらって、写真を撮った(無明舎出版刊『箱館戦争』に掲載)。合田一道さんは、咸臨丸を建造したオランダの造船所を訪ねて咸臨丸の船籍番号を知り、この錨にその番号が刻まれていないか調べようとしたという。だが、錨の表面は錆びてボロボロになっていて、確認は不可能だった。この海岸では、四隻の遭難船があり、この錨がどの船のものかは、いまだにわかっていない。
ところで、町役場から埋蔵文化財作業所への道筋に、「山形庄内藩士上陸之地」という記念碑があった。木古内町は、明治十八年から十九年にかけて、旧庄内藩から百五戸が入植して開拓した町なのである。
明治政府は、北海道を開拓するために、「賊軍」奥羽越列藩同盟諸藩の人々を、半強制的に送り込んだ。今でも北海道の人々には、先祖をたどれば東北地方出身者が多いのは、そのためだ。
咸臨丸の遭難に巻き込まれた旧仙台藩・白石城下の人々はその後、別の船で小樽へ行き、石狩川流域の開拓に入った。現在の札幌市白石区が、その場所である。
初代中央気象台長
咸臨丸が海中に姿を消したころ、箱館で降伏した榎本軍幹部十人は、東京で獄中生活を送っていた。彼らが釈放されたのは、明治五年一月のことだ。しかしこの中に、新政府軍艦「朝陽」を撃沈した蟠龍艦長、松岡磐吉の姿はない。蟠龍の「運転進退きわめて巧者」と新政府からも評された松岡は、獄中で病没していた。
出獄した人のほとんどは、北海道開拓使出仕を命じられ、再び北海道へ渡った。このうち榎本武揚は明治七年、特命全権公使としてロシアとの間に千島樺太交換条約を締結し、文部、外務、農商務大臣を歴任するなどの華やかな人生を送った。長崎海軍伝習所総督で、榎本軍箱館奉行を務めた永井尚志(なおむね)は元老院権大書記官、陸軍奉行だった大鳥圭介は清国特命全権大使、学習院院長、榎本の片腕だった沢太郎左衛門は海軍兵学寮教授と、それぞれに日の当たる道を歩んだ。
これに対して、宮古湾海戦を指揮し、新政府軍の箱館総攻撃では最後まで「回天」艦上にあった海軍奉行、荒井郁之助は「控え目な人生」を送った。
荒井は、まず開拓使発刊の『英和対訳辞書』を編集した。以後、荒井の英語力はさまざまな場面で活かされる。
翌明治六年六月からは、北海道の測量に参加した。伊能忠敬の地図には北海道も描かれているが、それは海岸線を測量しただけだった。北海道開拓のためには、内陸部の地図が必要だった。小野友五郎に従って東京湾の沿岸測量に従事した経験がある荒井は、開拓使にとって非常に有用な人材だった。それどころか、北海道測量のために来日したアメリカ人技術者たちから、「荒井が担当するなら間違いない」という意味の、最大限の賛辞を受けている。荒井郁之助の測量技術は、当時の最高レベルに達していたのである。
北海道三角測量の基線は、苫小牧市と、東隣の鵡川町の間に広がる平坦地に引かれた。見通しのよい二点を基点に直線距離十五キロメートルの直線を引き、ここからもう一点を測量することから、北海道の正確な地図づくりが始まったのだ。今、苫小牧市勇払の旧国道沿いに、「史跡 開拓使三角測量勇払基点」がある。その最初の測量地点に立った一人が荒井だった。
しかし荒井は、三年後の明治九年六月に開拓使を辞めて、東京へ戻ってしまう。その理由はさまざまに推測されているが、はっきりしない。だが、そのために戻ったのか、荒井が東京に戻ったから企画されたのかわからないが、一年後、元榎本軍陸軍奉行・大鳥圭介と荒井が中心となって、総合科学雑誌『中外工業新報』が発刊された。
欧米の新技術を紹介して、日本の工業を発展させようとする内容で、『人物叢書 荒井郁之助』(原田朗、吉川弘文館)によると、「石灰製造法」、「セメント製造法」、「石鹸製造法」というように、きわめて実用的な記事で埋められているという。しかも、B5版二段組み、二十ページという小誌ではあったが、隔週というスピードで百五十一号まで発行された。荒井自身は、雑誌発刊から二か月後の明治十年八月に内務省に入り、その立場上、表面的には雑誌に登場していないが、東京地学協会、東京数学会社、日本地震学会、東京気象学会など、当時相次いで創設された各種学会に参加しており、あらゆる科学情報を雑誌に盛り込む原動力となったことは間違いない。
そして、『中外工業新報』は、現代日本まで連綿として続く、「工業立国」の源流の一つだったと、私は評価している。
さて、荒井郁之助は、四十二歳で内務省に入った。月給百二十円(三年後には百五十円に増額)という、お雇い外国人並みの待遇で迎えられ、地理局測量課長に就任した。このころ日本の測量事業は、軍事目的の陸軍省参謀局がある一方で、太政官、大蔵省、工部省がそれぞれに行っていたのを内務省に統括することになり、人材の確保が急務だった。それで、北海道で実績のある荒井郁之助に白羽の矢が立ったのである。
ところで、前任の測量課長は小林一知(かずとも)だった。前名を小林文次郎という。記憶力のよい方なら覚えているだろう。榎本艦隊が品川沖を脱走した時の、咸臨丸船長である。咸臨丸が清水港で拿捕(だほ)され、春山弁蔵らが惨殺された時、小林は駿府藩庁へ出かけていた。事件を知った小林は、すぐ咸臨丸へ戻り、新政府に逮捕された。その後新橋―横浜間の鉄道建設測量などに従事し、明治十年には、内務省地理局測量課長になっていたのだ。が、荒井郁之助の測量課長就任に際して、小林は次席に退いた。
荒井は翌年、内務省に測候所設置を建議し、明治十五年には「気象観測の数値単位を全国で統一するとともに、諸外国と交換するため」として、メートル法採用に尽力し、明治十六年二月には東京気象学会長に就任した。十八年に地理局第四部長、十九年に地理局次長に昇進したが、二十一年十二月に地理局気象課長になっている。これは降格ではなく、当時、政府が頻繁に行っていた組織改変のためで、その前に三角測量部門は陸軍省に統合され、二十三年三月には内務省地理局を廃止する方向に至った。
しかし同年八月、中央気象台が設置された。気象観測部門だけを内務省管轄に残したのである。そして荒井郁之助が、初代台長に就任した。
回天との、ある再会
箱館戦争時の荒井郁之助は、軍人だった。最終的には百五発の砲弾を浴びた回天艦上で最後まで戦闘指揮をやめなかった荒井の姿は、海軍軍人以外のなにものでもない。
だが、戦後、荒井は海軍からの誘いもあったのだが、それを断った。荒井が考えたのは、船舶の安全な航行のために、これからの日本はどうしたらよいか、ということだった。箱館戦争を振り返ってみれば、純粋に戦闘で失ったのは、回天、蟠龍の二艦しかないのである。残りは、開陽、神速、美嘉保丸をはじめとして、ことごとく悪天候や座礁事故で姿を消したのだった。咸臨丸の最期もそうだった。
北海道開拓使に出仕して、測量の実務に就いたのも、安全な水路を案内するための第一歩だったのだろう。内務省地理局測量課長に招聘された後、次第に気象観測へ仕事がシフトしているのも、「安全な航海」という長期目標を実現するためだったに違いない。荒井自らがそういうことを語った記録を私は知らないが、彼の足跡をたどると、そう考えざるを得ない。
本来は「隕石」に由来する「meteorology」を「気象」と訳したのが誰かは不詳だが、この言葉を「定着させたのは荒井郁之助だ」と、『人物叢書 荒井郁之助』の中で、原田朗さんは述べている。明治十二年に、アメリカ人学者の書いた自然地理学の本を翻訳して『地理論略』を発刊した時、「気象と訳す」と、荒井は明言している。それまでは気候、現象、あるいは「空気の学」という古い訳語もあったのを統一したのである。
荒井郁之助は、そういう地道な努力ができるタイプの人間だった。ふだんは、非常に控えめな人柄だったという。
明治二十四年三月三十一日、五十六歳で荒井は退官した。二代目中央気象台長は、小林一知が就任した。
それで、荒井郁之助の業績が完結したわけではない。明治二十六年五月には、通信に伝書鳩を使うことと、高層気象観測のために気球を利用するという内容の『鳩たより風船はなし』を出版したという。さらに、高山気象台の建設を大日本気象学会に要望し、浦賀に船体を修理するドック(当時は船渠=せんきょ)建設に関わった。日本が保有する汽船が増えるにつれて、その修理施設の不足が目立ってきたからだ。
荒井が中央気象台長を退官して間もない五月、浦賀の入り江を見下ろす山に「中島三郎助君招魂碑」が建立された。海軍伝習所一期生であり、生きていれば明治の日本が間違いなく必要とする技術者になっただろうが、中島三郎助は新政府軍の箱館総攻撃の日に、二人の息子とともに戦死した。函館市中島町が、その場所だ。
碑の除幕式には、榎本武揚も出席した。荒井郁之助は、榎本に眼下の入り江を指し示して「ここに船渠を造ったらどうか」と提案したのである。それは明治二十九年、浦賀船渠株式会社(現在の住友重機追浜造船所浦賀工場)として実現した。その直後のことらしいが、会社設立に奔走した荒井は浦賀で、新会社に造船技術者として雇用されていたボーケルというドイツ人から、思いがけないことを聞かされた。
「あなたの座っている椅子は、回天の木材で作ったのですよ」
荒井郁之助は、耳を疑ったに違いない。
ボーケルは浦賀に来る前、岩崎弥太郎が起こした海運会社、三菱会社で働いていた。函館港を浚渫したことがあって、海中から回天を引き上げ、記念としてその木材で椅子を作ったのだという。荒井郁之助が腰かけていたのが、その椅子だと言うのだ。
宮古湾で甲賀源吾が倒れ、函館湾で多くの血が流れ、荒井が総員退艦を命じた船だ。『人物叢書 荒井郁之助』では、「感慨に堪へざりき」と荒井の著述を引用しているが、実際にはその時、荒井は何も言えなかったのではないだろうか。
人が、本当に大きな感動に出遭った時、言葉など発し得ないものだからだ。それからしばらくして、ようやく「感慨に堪へざりき」という短い表記だけができたのだろう。荒井の人生を思えば、それ以上のことは言葉にできない方が自然だと、私は思っている。
さて、そのころ、箱館総攻撃の日に回天とともに新政府軍に火を放たれた蟠龍は、実はまだ「生きていた」かもしれない。
吉村昭氏の小説『幕府軍艦「回天」始末』(文春文庫)によると、回天は焼失したが、蟠龍は炎上中にマストが倒れた衝撃で横倒しになり、海水で火が消えたというのである。それをイギリス商人が買って、上海まで曳航して修理し、再び日本へ持って来て北海道開拓使に売り込んだという。その後は「雷電」という名の輸送船として使われた。「さらに明治十年に軍艦となり」と、吉村氏が書いているのは、西南戦争で使われたのだろうか。
そして「明治二十一年、土佐の人に売られて捕鯨船として使われ、やがて老朽して解体された」という。
船に対して「人生」という言葉を使うのは不適切かもしれないが、ヴィクトリア女王が乗船したこともあったかもしれない英国王室用武装ヨットとして誕生した蟠龍は、数奇な運命をたどった末に、「老骨に鞭打って」鯨を追いかけ、そして解体という「老衰死」を迎えたのである。
こういう挿話に出遭うと、つくづく歴史の不思議さを思い知らされる。
参考文献
写真でみる会津戦争=早川喜代次・宮崎長八、新人物往来社
戊辰戦争とうほく紀行=加藤貞仁、無明舎出版
会津戦争の群像=前田宣裕、歴史春秋社
会津白虎隊=星亮一、成美堂出版
箱館戦争=加藤貞仁、無明舎出版
長崎海軍伝習所=藤井哲博、中公新書
海の総合商社 北前船=加藤貞仁、無明舎出版
後は昔の記=林董、東洋文庫
幕末軍艦咸臨丸(上・下)=文倉平次郎、中公文庫
幕府軍艦「回天」始末=吉村昭、文春文庫
咸臨丸 栄光と悲劇の5000日=合田一道、道新選書
侍たちの海=中村彰彦、角川文庫
人物叢書 荒井郁之助=原田朗、吉川弘文館
追跡 一枚の幕末写真=鈴木明、集英社文庫
銚子市史=銚子市史編纂委員会長島田隆
明治維新人名辞典=吉川弘文館
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