んだんだ劇場2006年7月号 vol.91
No26
これからも続く長い旅(あとがきに代えて)

ミクロのドラマ
 丹念な調査と、深い洞察力によって「自由民権運動の時代」を語った色川大吉氏の『明治精神史』(講談社学術文庫、上・下)の最初の方に、こんなことが書いてある。
 「劇的な時代というものは、どの部分を切りとってみても、その断面にはミクロのドラマを内在しているようである。それは、一時代が、高度の緊張と、個人には抗しえない高揚のなかにあったからであろうか」
 「幕末とうほく余話」の中で、私が書き続けてきたのも、そんな「ミクロのドラマ」だった。幕末の尊王攘夷運動から、箱館戦争も含めた戊辰戦争の中で、なにかしらの行動を起こした人々の「断片的な記録」と言ってもいい。個人を主人公にして一冊の長編小説が書けるような人物は、主役にはしなかったし、するつもりもなかった。
 同じ方向を向く人がどんどん増えて行って、それが大きな流れになり、時代を動かすのである。劇的な時代というのは、そういうことだ。少数の英雄豪傑の力によって、時代が動くわけではないのである。
 さらに、受動的な行動しか取れなかった人々――世の中の流れに翻弄された人々も、また、その時代を生きたことによって、時代の変革に参加したと、後世の人々は考えるべきだろう。少なくとも、多くの庶民が「歴史の語り部」にはなり得るのだから。
 色川氏は昭和四十三年(1968)の夏、現在の東京都あきる野市深沢(当時は五日市町)という山村で、廃屋となっていた土蔵から、「条文二〇四条をもつ人民憲法草案」を始めとして、「日本に二、三種しか残っていない国会開設期限短縮建白書」や「民権結社の規約、メモ類」など、膨大な量の「民権運動時代の驚くべき記録」を発見した時のことを、『明治の文化』(岩波書店・同時代ライブラリー)の中で、「山村に及んだ維新の衝撃」と題して生々しく書いている。
 「この村は街道筋から離れ、馬車も通れないような山径(やまみち)にそって点々と人家があるだけで、その径さえ奥多摩山塊の壁の前で行き止っている」
 色川氏の言葉を借りれば、そんな山奥にまで「維新の衝撃」が及んでいた。
 土蔵の持ち主は深沢名生(なおまる)という人で、天保元年(1830)の生まれだから、黒船がやって来た嘉永六年(1853)には二十三歳だったが、以後、「日米和親条約をはじめ、日蘭、日露、日英、日独、日仏和親条約および通商条約の全文をたんねんな毛筆で数冊に写しとっている」という。それは、「武州(武蔵国)の代官支配の一小村の一領民が(略)天下の政治事に口をさしはさむことは重罪に処せられた時代である」。
 色川氏は、「その時代にこの人びとが執念をこめて、国際条約を一条一条写しとったということは、当時の国民的関心がいかに深いところまで下降しつつあったかを示していないだろうか。(略)私たちが農村史料調査を通じて感動するのは、こうした民衆の隠れた情熱に触れうるからであり、これが日本の社会の発展や新文化の創造の原動力になっていたことを知らされるからである」と述べている。
 私は、色川氏のように直接史料によって歴史を探求する立場ではないが、あの時代に生きた人々の行動を追いかけてみることによって、色川氏の受けた感動を、私もまた、実感として受け止めることができた。
 ただし、「日本の社会の発展や新文化の創造の原動力」という点については、「江戸後期以降」、もう少し厳密に言うと「十九世紀以降」という注釈が必要ではないかと思われる。高い識字率に裏打ちされた庶民の文化的実力が、その百年前とは比べ物にならないほど増していただろうと考えるからだ。ましてや、そのはるか昔に、琵琶法師の語りによって『平家物語』が各地に伝えられたのとは、わけが違うのである。
 「情報化社会」と言われる現代日本には、確かに情報があふれている。しかし、それはそういうシステムができている、というだけのことではないだろうか。個人にとって必要な情報を、うまく取捨選択できているかと考えると、必ずしもそうではないだろう。幕末という時代は、現代に比べれば情報量は圧倒的に少なかっただろうが、ある意志を持つ人にとっては、非常に密度の濃い情報を得ることができる時代になっていたのだろう。
 でなければ、「尊王攘夷思想」というようなくくりで、多くの人々が同じ方向を向くわけがないのである。
 
自由民権の里
 今年(2006年)四月、神奈川県厚木市周辺を車で走り回る機会があった。それには別の理由があったのだが、私はその予定の中に「厚木市荻野地区」(上荻野、中荻野、下荻野の三地区の総称)を入れておいた。市の中心街から北西へ、車で十分ほど走ったところだ。
 私が見たかったのは、「荻野山中藩陣屋」の跡だった。そこは現在、公園になっていて、「山中城址」と刻まれた大きな石碑が立っていた。

山中城址の碑
 荻野山中藩というのは、小田原藩大久保氏の分家で、幕末のころは一万三千石の小藩だった。ただし、藩主は若年寄にまで昇進する家柄で、天明三年(1783)、中荻野村に陣屋を構えて以後は、半年ごとの参勤交代を勤めた。陣屋は、周囲の農地よりは一段高い台地にあって、厚木市教育委員会の調査では一・五ヘクタールもの広さがあったという。
 その陣屋が倒幕派浪士に襲われたのは、慶応三年(1867)十二月十五日の夜だった。襲撃犯は三十人ほどだったという。陣屋に何人の藩士がいたかは不明だが、金目のものは奪い去られ、長屋に放火されて陣屋は焼失した。
 ここで、この「余話」の「赤報隊に参加した秋田人」を思い出していただきたい。江戸・三田の薩摩屋敷に集結した浪士が、関東の三か所で騒ぎを起こし、その混乱に乗じて江戸市中で武装蜂起する計画があったことだ。その中で、私は「秋田の岩屋鬼三郎は相州隊に加わり、小田原藩大久保氏の分家の陣屋を焼き払った。しかし同時蜂起するはずの甲州隊が鎮圧されたため、さっさと江戸へ戻った」と書いた。
 その陣屋が、この場所なのである。
 実は、「赤報隊に参加した秋田人」を書いた時、文献で「荻野山中陣屋」ということはわかっていたが、現在のどこかということまでは調べがつかなくて、簡単にしか書けなかった事情があった。それで、今回、現地を訪ねることにしたのだ。
 場所がわかったら、ほかにもいろいろなことがわかって来た。その一つが、荻野山中藩陣屋襲撃には、薩摩屋敷の浪士だけでなく、現地の人々も加わっていたことだ。上荻野村の石井道三、飯山村(この村の正確な場所は調べていない)の山川市郎らで、彼らは後に、この地域の自由民権運動の指導者になる。
 たぶん、彼らは、幕政への不満から陣屋襲撃に参加したのだろうが、その反骨精神は明治政府への批判にもつながったのだろう。そして、自由民権運動の中でも、急進的な一派を形成した。
 陣屋跡から少し先に、戒善寺という寺がある。その本堂の前に「自由民権の里」という記念碑が建立されたのは、二〇〇四年十月だった。

戒善寺の「自由民権の里」碑
 石碑の裏には、近辺の自由民権運動家四十四人の名が刻まれている。その一人、現在の座間市出身の大矢正夫は、明治十四年十一月から、荻野山中学校(後の荻野山中尋常高等小学校)の教員となった。が、ここで民権運動の洗礼を受け、大矢は次第に運動の中心人物の一人になって行った。そのころ、この学校自体が、民権運動家の私塾のようだったという。そして、荻野地区の運動家の中からは、大矢をはじめとして、明治十八年の「大阪事件」に多数が連座した。
 明治十七年に、「加波山事件」、「秩父事件」が起こり、自由民権運動が大弾圧を受けて閉塞状態に陥った時、朝鮮半島に渡り、当時の朝鮮改革派を支援して立憲国家を建設しようという目的で、爆弾を製造し、資金調達のために強盗までやったのが「大阪事件」だ。
 なぜ、日本に憲法を制定し、国会を開設せよという自由民権運動の延長に、朝鮮国の改革がつながるのか、この事件の指導者だった大井憲太郎という人の思想が屈折していて、私には理解できないが、袋小路に追い込まれた民権運動急進派の暴発事件だったと見ることはできるだろう。そして外国への干渉が「正義」であるかのように、一般民衆が議論していたことに、私は注目している。
 それは、後に、日清、日露の二つの戦争を経て、中国侵略、太平洋戦争へと続く、一つの伏線にもなったのではないか……。
 ともあれ、大矢正夫は、実際に強盗をやった。
 文学者の北村透谷も、自由民権運動に参加していたが、親友とも言うべき大矢に「一緒に強盗をやってくれ」と頼まれ、悩んだ末に断り、民権運動からも離脱することになる。
 実は、色川大吉氏は『明治精神史』の中で、かなり詳しく北村透谷を追跡している。大阪事件についても、大矢正夫(号は蒼海)についても、きちんと触れている。
 だが、この本を最初に読んだ時には、大矢と北村の関係も、急進派の人々のつながりも、その個人個人の思想も、不鮮明なままだった。
 ところが今回、薩摩屋敷浪士の焼き討ち事件現場を訪ね、思いがけず、そこが「相州の自由民権運動のメッカ」とさえ言われている場所だったことを知り、歩き回ってから『明治精神史』を読み直したら、今度は、すんなりと頭に入った。
 これは、不思議なことだ。
 過去の人と同じ場所に立ち、同じ山や川を眺め、その場所の夏の暑さ、冬の寒さを知る。そういうことが、「文字に残された歴史」ではわからない「実感」を、それを知ろうとする心に直接伝えてくれるのかもしれない。
 色川大吉氏も、「その径さえ奥多摩山塊の壁の前で行き止っている」場所に立ったからこそ、「この人びとが執念をこめて、国際条約を一条一条写しとったということは、当時の国民的関心がいかに深いところまで下降しつつあったか」と、「山村に及んだ維新の衝撃」を実感として述べることができたのだ。

旅の途中
 今回は「あとがき」でもある。
 鹿児島から始まった旅が北海道まで至り、ようやく終わった。そんな気がしている。
 が、今回は、「今すぐ書けることだけは、書いた」という気持ちでもある。
 史料がなくて書くことができないテーマも、まだまだある。
 例えば、『箱館戦争』のあとがきにも書いた、仙台藩・見国隊の二関源治のことだ。彼については、非常に魅力を感じているものの、戊辰戦争後、罪人とされたこともあって、ほとんど史料が見つからない。
 戊辰戦争の秋田戦線で、庄内藩二番大隊を指揮し、秋田城下近くまで攻め込んで「無敗」のまま引き上げた、酒井玄蕃のことも知りたい。この時、すでに結核に侵されていて、明治九年に三十五歳で亡くなってしまう人である。細おもてで、きゃしゃな体つきの遺影は、どうしてこの人が「鬼玄蕃」と呼ばれるほどの戦闘指揮ができたのだろうと思わせる。戦場では兵士と同じ食事をし、敵軍の秋田藩士の遺体を埋葬した至誠の人でもある。
 福島県の自由民権運動の指導者となった河野広中については、別の意味で、さらに調べたいと思っている。河野は、三春藩の郷士の出だ。会津征討軍と交渉して三春藩を征討軍側につかせることに成功し、二本松藩攻撃では、道案内を務めた。明治になってからの活躍が河野のすべてのように思われているが、そうではない。だが、後々の河野には、傲慢な言動が散見する。彼の一生は結局、低い身分から這い上がろうとする意識に貫かれていたのではないか。それは幕末以後、おびただしい日本人が抱いていた意識だ。
 歴史という織物は、白いたて糸とよこ糸をきちんと織っただけの「さらし木綿」ではないだろう。太さの違う糸があり、色の異なる糸がある。さらに、刺繍糸がからみついて華やかな模様も見せてくれる。
 ここは、どんなふうに織ったのだろうと、糸をときほぐしてみると、思いがけないことに出遭うのが、歴史を調べる面白さかもしれない。
 この連載は、無明舎出版の舎主、安倍甲さんのご好意で、好きなことを、好きな長さで書かせていただいた。連載当初、「パソコン画面で読むには、長すぎる」という批判も、複数の方からいただいたが、「気にせずに。最終的に、どんな本にまとめるかを考えて、書いてくれればいい」と言ってくださったのも、安倍さんだ。
 字数に制限のある雑誌連載では、これほど自由には書けなかったと思う。ここまで書き続けることができたのは、ひとえに安倍さんのおかげだと感謝している。
 そして、連載中に、無明舎のホームページを開き、毎回のようにさまざまな感想を寄せてくださった、多くの方々に、あわせて感謝したい。
 なお、この連載中に、市町村の合併が進み、地名が変わってしまった場所も多い。だがそれを直すと、歴史的な地名がわかりにくくなる場合もあるので、ホームページに掲載した日付を付し、文中の地名はそのままにした。
二〇〇六年七月五日 加藤貞仁

参考文献
明治精神史=色川大吉、講談社学術文庫
明治の文化=色川大吉、岩波書店・同時代ライブラリー


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