んだんだ劇場2006年12月号 vol.96
No2
啓蒙の十八世紀

 ベートーヴェンが青春時代を送ったのは、啓蒙の世紀終盤の小都市ボンであった。当時のドイツ圏にはドイツという統一した国家は形成されず、三〇〇余の小国家群が封建的に割拠して各々主権を主張していた。ヴェストファーレン条約の締結で、三十年戦争(1618〜1648)が終息した十七世紀半ばには、選帝侯国、公国、侯領、司教領、伯領、帝国都市、修道院領、騎士修道会領などの領邦に分立していた。領民は専制領主と土地に緊縛され、みずからの人生を自分の力で切り開く自由は、制度上体系的に奪われていた。権利の一切は領主が所有し、それを支えていたのは領民の義務であった。領主は、専制支配のためにあった君・臣のイデオロギーを、領民に押し付けていたのである。
 三〇〇余に分立した領邦はその性格も様々で、専制独裁領主の恣意的な支配から啓蒙君主による開明的な支配の間に、性格も見識も異にする領主たちとその政体がひしめき合って並立していたのである。このほか日本の徳川幕府の天領のような飛び地領も存在した。シラーやヘーゲルの生まれたヴュルテンベルク公国は領主カール・オイゲンが独裁支配する領邦であったし、ゲーテが生まれたフランクフルト・アム・マインは、商業を中心とする自治組織が敷かれた帝国都市であった。またゲーテが行政に携わることになるワイマール公国は、領主カール・アウグストが支配する開明的な君主国であり、ベートーヴェンが育ったボンは、オーストリアハプスブルク家と繋がりの深い選帝侯国であった。
 三〇〇を超える網の目のような割拠状態は、かえって外圧の脅威を分散させていた。各々の領邦には領地を確保し領民を縛り付けておくために、支配の法が張り巡らされ、また領邦間にも外交上の取り決めが規定されていた。独立国家の体裁を整え、ドイツ圏全体を蜂の巣のような集合体に作り上げていたのである。しかし巣穴のひとつひとつは、あくまでも独立した個の原理を貫いていた。領邦と呼ばれる小国家群の領地と領民は、専制君主の支配を隅なく網羅するには適当な広さと人口であった。領主は領地や領民共々、まるで私有財産を管理処分すると同様な扱いをしていたのである。飯塚浩二氏によるつぎのような記述がある。
 「イギリス国王は、植民地アメリカの叛乱軍を鎮圧すべき軍隊をととのえるため、ドイツの小君主たちとイギリス国王とのあいだで、計二万九千人の兵隊が七百万ポンドという値段で売買されたあの事件に関連して、俺の人民を俺が売りとばして何が悪い、封建君主として当然の権利だ、と開き直ったのは、ヘッセン伯であった。同じく売り手の一人として登場するアンスバッハの辺彊伯カール・アレクサンダーは、はじめパリの女優クレーロンに、ついでクレヴン夫人に夢中になって、国庫を空にしてしまい、自分の軍隊をイギリス国王に売りとばすにいたったわけだが、それでも足らず、とうとう国そのものを現金と引き換えにプロイセンに売り、自分はイギリスに引退してしまったという。この男は、ふつう日本人からも『大王』という修飾をつけて呼ばれているプロイセンのフリードリッヒ二世の甥にあたる。」(「東洋史と西洋史のあいだ」岩波書店)。
 傭兵化した軍隊を、戦争が養い育てていたのである。シラーの初期の戯曲「たくらみと恋」も、領主のこうした暴君ぶりを描いたものである。ある領邦の君主が自分の愛妾を他の貴族と結婚させることにして、その結婚祝いに宝石を贈る。その代金を捻出するために、傭兵として領民七〇〇〇人をアメリカ独立戦争に売り渡すのである。こうした傭兵による軍隊の内情は、三十年戦争を舞台にした同じシラーの「ヴァレンシュタイン」でも描かれている。
 周囲の国々はドイツという統一国家が誕生して、国力がまとまることを望んでいなかったので、蜂の巣を突つくような愚挙に出ることはなかった。巣のなかで蜂どうしが争う分には一向に構わなかったのである。それでもドイツ国民のための神聖ローマ帝国という、ハプスブルク家を頂点とするドイツ圏の看板は、小国の傘として生きていた。だがこの巣穴からプロイセンが力をつけ軍事大国としてのし上がってくると、ドイツ圏にも波風が立つようになる。北のロシアは東ヨーロッパを飲み込もうと機を窺い、肥沃な西ヨーロッパの背後を脅かす。その西ヨーロッパではフランスがライン川に国境線の攻防を繰り広げ、ドイツ圏の冠たるオーストリアハプスブルク家と覇権を争い、これに各国が絡んで紛争の機会を狙っていたのである。一方ドーバー海峡を挟んで常に大陸の動向を窺うイギリスは、事あるごとに大陸の隙を突いては策動を廻らしていた。
 こうした状況の下に領邦諸国にも啓蒙思想が伝播した。十八世紀の時代思潮となる啓蒙思想は、人間の理性と善性へのゆるぎない確信が支えていた。その批判精神は、自由を抑圧し思想や行動を封じ込める絶対主義的権威を否定するようになる。また信仰への考え方も、来世へ幸福を求める救済ではなく、実際の生活に実現する功利的な幸福を求めた。世俗化した教会は宗教による不寛容を押し付けて、人間の理性を重んずる科学的な態度とも対立する。このような十八世紀の時代思潮は、ルネッサンス期から宗教改革にいたる過去の潮流と合流していた。
 十六世紀前半に起こった宗教上の紛争で、ルター(1483〜1545)が主張したのは、神との間に介在する一切の人為を斥け、聖書を唯一の拠り所として、神と直接に交わる個人の信仰を求めたものであった。ルターがみずからに課した厳しい信仰体験から得たものは、現世の堕罪から人間を救うのは教会や教会の教理ではなく、神と個人の直接の信仰以外に道はないという導きであった。世俗化しながら教理に縛られた形式的で虚栄的な教会に信仰の自由はなく、神と向かい合う二人称の世界に真の信仰があることを見い出したのである。一五一七年一〇月三一日、ルターはザクセン選帝侯領で頒布されていた贖宥状(贖罪符)に疑義を唱え、「九十五箇条の提題」をヴィッテンベルクの城教会で発表し、ローマ教会を批判した。贖宥状というのは、これを代価で購うことで、諸々の罪が許され、その罰も免れるという免罪証書である。今日ではルターが実際にヴィッテンベルクの城教会の扉に、この提題を貼り付けたかどうかその真偽が疑問視されているが、これがきっかけとなりルターの撒いた小さな種は、ヨーロッパを席巻することになったのである。
 キリスト教に限らず宗教は善行を奨励する。信者が贖罪のために贖宥状を代価で購うことは徳とされる。神への寄進を積むことによって罪が赦され、彼岸の至福に導かれるのである。だがその内実はマクデブルク大司教の職にあったアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクが、神聖ローマ帝国皇帝を選出する選帝侯を兼ねるマインツ大司教の座を手に入れ、その就任の際にローマ教皇へ巨額の寄進に迫られて、大富豪のフッガー家から莫大な借金を重ね、その返済に充てるため、ローマ教皇と売り上げを折半する条件で贖宥状を発行したのである。実体は官職売買である。ルターはカトリック教会のこうしたやり方に疑義を唱えた。信者が義とされるのは善行によるのではなく信仰のみによる確信からであって、免罪や救済を仲立ちする教会は、かえって個人の信仰義認の妨げになるというのである。ルターの提議はエラスムス(1466〜1536)との論争へ発展する。
 ルターはヒューマニズムというものをエラスムスが考えるような、人間の自由意志によって自力で一切が救われるという、自由の主体的な意志に信頼を置くというようには信ずることができなかった。人間に与える自由意志が、ルターには自己に固執する傲慢に映った。神の摂理に反逆してまで己を主張する人間のエゴイズムに他ならなかった。彼によれば自由意志とは、神のみに値する名であって、神の尊厳以外の何ものにも帰しがたい恩寵であり賜物であった。罪に染まった良心の呵責は、神の恩恵によって救われるのである。ルターは人間性のなかに、良心の発露を感じながら、同時に罪と卑俗を見ている。「神の義」を要求する神と、それに到達し得ない人間の間には超えることのできない乖離が生じており、人間が神の恩恵を賜物として受け取るには、神との直接の信仰以外に道はないというものである。ルターの考える自由は、神との自由ではなく、神への自由であった。だが教会の立場では、ルターこそ教会の教理を冒涜する傲慢と映ったのである。
 一方エラスムスは、理性が授けられた人間は、神にたいして自由に応答できる意志を具えており、悪を排除した世界秩序を保つためには、自由意志を具えた人間の理性で抑制できるものと考えた。自由意志を人間に認め、人間の自立を神が援助し、神のものである摂理や福音を、人間の理性が実現できるというのである。一五二四年九月に彼は「自由意志論」を著わす。それは近代的自我の先駆けを成すものであった。しかしルターにとって自由意志の付与は、善に向かう自由が悪に服従する自由になり、神を排斥し己の欲する我意の奴隷になることに通じるのである。エラスムスへの反論として一五二五年一二月、ルターは「奴隷意志論」を出版する。こうした両者の論争は、今日に至るまで善悪の黒白を明らかにしているわけではない。けれども私たちの歩んできた軌跡を振り返ってみると、エラスムスの思考した道を模索しながら、ルターの危惧が常に現実の警鐘となっているように思える。
 ルターとエラスムスに起こった信仰の自由にたいする論争は、自然を観察しながら普遍性を解き明かそうとする科学への関心に向かう。それはコペルニクスからガリレオへと繋がる宇宙への視座から広がっていった。自然にたいする科学の接近は、事実を実証的に解明しようとする人間の飽くなき好奇心から生じたものである。キリスト教的自然観と科学的自然観の衝突であったが、教会の存在を覆えすことが目的ではなかった。だが教会はこれを教会にたいする挑戦と受け止めたのである。教会の教理は位階制を支え、その裏付けとなるものであり、信者を教会の囲いに繋ぎ留めておくための規範である。神への信仰は、教会と教会の教理に疑いを持ってはならなかった。信仰における教理を独占することは、ローマ教皇を頂点とするカトリック教の位階制支配を維持する重要な手段であり目的であった。したがってローマ教皇庁にとって異教徒の侵入よりも、内部の異端の方が脅威だったのである。
 カトリックの宗教的権威は、人々に精神的支配を押し付けておきながら、現実の経済基盤は教会財産や十分の一税に依存しており、教会も世俗化を免れるものではなかった。その世俗の世界では、神聖ローマ帝国を頂点とする領主による支配が優位に立っていた。領民からすれば心と労働が二つともに、聖俗二元支配に晒され二重に搾取されていたのである。一五二四年から二五年にかけて勃発した農民戦争で、農民たちが掲げた「十二箇条」の要求は、二百数十年後のフランス革命の胎動を想起させる社会要求の原型を孕んでいた。聖職者の選出権と罷免権を自分たちの共同体に与えること、家畜十分の一税は廃止すること、穀物十分の一税は共同体の管理とし、この税を神と弱者のために使うことを教会の改革として要求した。その一方で領主にたいしては、農奴制の廃止、狩猟・漁獲禁止の解除、水利権の共同体への譲渡、森林開発権の制限や撤廃、共有地の開放、賦役の軽減と労賃の支払い、貢租・地代の軽減、裁判の公平な審理、死亡税の廃止を要求している。農民たちは神の摂理と福音による「神の法」として、聖書に照らして正当な要求であると主張したのである。これらの要求はのちに隣国のフランス革命で、再び取り上げられることになる。
 ルターの信仰はヒューマニズムを刺激したが、あくまでも個人の内に収まる信仰の自由であった。農民戦争の勃発は、かえってルターをしてその鎮圧に与することになる。ルターは家父長制の延長に、領主と臣民の支配関係を置く中世の国家観を否定したわけではない。個人の内なる信仰が教会の干渉に乱され、神との直接の信仰体験が分断されることを強く懸念しただけである。今日的な視点で見ると、信仰にたいするルターの考えは、すべての魂が神の前では自由であるという言説につうじる。神の導きの下に、自由で平等な共同体社会を実現できる可能性を示したものであった。だが実際にはむしろその逆で、神が創造した世界を世俗の領主が統治することを否定しなかったのである。
 ルターの提唱する信仰のあり方や精神を、政治的に利用しようとする領主たちは、領主の側からの宗教改革を断行し、領主側はルターを擁護した。ルターにしてもカトリックローマ教皇庁と対決するためには、領主たちの援護を拒む必要がなかった。だがこれがかえって封建領主の権力を固めることになる。機に臨んだ領主たちは、神に擁護される権威と、世俗による権力の二つを手に入れ、この後も領地と領民を長きにわたって支配し続ける。古来民衆の言語から発し、土地を意味するようになったドイッチュラントは、領主の土地として私有化されていたのである。神聖ローマ帝国の歴史は、こうした領邦領主で構成する連合体の頂点に君臨する皇帝権と、カトリック教自治組織であるローマ教皇庁の位階制の頂点に立つ教皇権の二つの権力の相克で綴られてきた。聖俗二つの最高権力は互いに相手を凌駕しようと覇権を競い合い、時には異教、異国の侵略と戦いながら、この二つの勢力が西ヨーロッパ圏を支配してきたのである。
 現実世界の幸福よりも、彼岸に導かれる信仰によって神の国に至ると考えられていた中世の宗教観は、農民戦争を経て「神の法」を現実世界に適用させ、現世の幸福を肯定するようになる。思想の醸成には長い年月を要したが、それは遅々としながらも確実な足取りで熟成されていく。やがて局処的な個別の異端は、二〇〇年の時をかけて大きなうねりとなり、実証的な真理の探究へと合流するのである。十八世紀の啓蒙思潮は、未来永劫に続くかと思われた二元的支配を突き破り、封建的な支配原理に亀裂を生じさせたのである。それはディドロやダランベールたちの「百科全書」の出版という形で象徴的に現われた。
 ドイツの啓蒙思潮は上からの恩腸という支配者の都合から始まったが、領民を私有物のように取り扱う専制君主にたいして、ようやく人々が人権や自由への意識を覚醒し始めた時期に、先験的な生き方を携えて登場したのがベートーヴェンであった。ほんものの文学者あるいは芸術家なら、その人の生涯は、彼が生きた時代の象徴にならねばならないと後の世紀にトーマス・マン(1875〜1955)が述べるまでもなく、ベートーヴェンはまさしくこの時代を象徴するとともに、時代を超えて音楽芸術を体顕する芸術家となるのである。
 後年ルドルフ大公が枢機卿に叙任され、オルミュッツの大僧上に就く一八一九年六月に、ベートーヴェンはみずからの心境の到達点を示す書簡をルドルフ大公に送っている。ミサ・ソレムニスの作曲に没頭していた時期である。「・・・・・・さぞかし多くの祝詞がわが恵み深き殿下のお手許に殺到していることでございましょう。しかし、わたしは今回の新しい御栄職は殿下には犠牲を伴うものであることを十分承知しております。だが、殿下御自身にも、殿下の高貴なるお心にも、この御就任が広大な御活躍の分野を広げるかと思いますと、他の者と同じくわたしも御祝詞を差し上げてしかるべく存じます。犠牲なくしては│何一つ善きことは得られません。また高貴な、より優れた人こそ他の人々よりよけいに犠牲を払うよう定められており、それにより徳性が磨かれるのでありましょう。」と述べる。
 最後に「・・・・・・殿下の頭上に神のお恵みが豊かに注がれんことを希います。殿下の新しい御任務は人間の愛情を覆い包むものでございますから、恐らく最も美しい任務でございましょう。また殿下は世俗の世界、宗教の世界双方に跨って最も美しい規範であられますように。」と結んでいる。ここでベートーヴェンが述べている犠牲というのは、持てる者の謙虚な態度であり、禁欲への譲歩を含んでいる。しかるべく存じますというもってまわったベートーヴェンの言い回しには、当時の世俗と宗教の関係に彼独特のアイロニーが隠されていたのである。


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