んだんだ劇場2006年1月号 vol.85
遠田耕平

No55  生きてりゃいいさ

マニラ
 12月はなぜ、こんなカンボジアでも忙しいのだろう?なぜかわからないが、仕事が詰まっている。やり残しの計画の予算処理や、一年のしわ寄せのように出てきた予想しなかった新たな予算提示に、WHOのマニラの地域事務局と掛け合い、保健省の話を聞き、バタバタとする。そしてふと年の瀬にいる自分に気がつくのである。

 一週間ほど、ポリオ(小児麻痺)根絶の地域会議があって、カンボジア保健省の二人と一緒にマニラのWHO地域事務局へ行った。
 マニラの街は来るたびに汚れて行く。何故だろ。高層のオフィスビルやホテルが立ち並び、巨大なショッピングモールがいたるところにあるのに、街が汚い。失業者が路地にたむろし、ホームレスの家族があちこちで道にしゃがんだり、寝たりしている。ひしめく高級車の列に混じって、市民の足の軽トラックを改造したジプニーという個人の経営の乗り合いバスが15年前と変わらず道を埋め尽くし、さらにその間を自転車にサイドカーのように客席をつけた輪卓がみすぼらしく走っている。物が増えたのは明らかにわかるが、市民の暮らしはどう見ても楽になったとは僕には見えない。根っから明るいフィリピン人と話していると、僕のほうが心配しすぎているのかなと思うが、やはり見えない暗い影を感じるのである。
 会議はポリオ根絶の世界の状況、西太平洋地域の現状を話し合うものだ。会議というのは所詮大半が時間の浪費に感じることが多いが、ポリオは過去15年間関わってきた仕事なので、アメリカ、ヨーロッパ、そして日本の古くからの知人、友人と久しぶりに会って、いろいろと本音を聞けるのは楽しい。
 今回勉強になったことは、
1)オーストラリア、ニュージーランド、韓国、香港、などアジアの先進国が、アメリカの習って、すでにIPVという注射型の死活ポリオワクチンに変更していることだ。日本も近くそうなる。これは従来のOPVという経口の生ポリオワクチンでごく稀に見られるワクチンによる麻痺がない点で優れている。しかし、価格は10倍以上で、腸内に免疫を作れないので一度伝染が広がると止めることができない。国家財政が貧しく、まだ伝染の残る途上国ではとても選択できないが、金持ちはできる。なんとなく、金持ちの国と貧乏な国を差別したようにも見えるので困る。
2)経口ポリオワクチンの型別のワクチンをアフリカやインドなど伝染の残る地域で使い始めた。ポリオは本来、型の違う3種類(1型、2型、3型)の兄弟ウイルスいずれによっても引き起こされるもので、経口ポリオワクチンはそのそれぞれを弱毒化して、混ぜてたミックスジュースのようなものである。ひとつで三つおいしいわけだが、このミックスは、どれかが強すぎると残りを抑えて、おいしくない。つまり、うまく免疫を作れない欠点もある。2型ウイルスは1999年のインドの症例を最後に消えた。それなら1型と3型だけのミックスにすればいいと僕はずっと言ってきたが、製造会社が時間をかけて安全性試験を新たにする気がないという。今年になってやっと1型だけのワクチンが使われ始めた。もうすぐ3型だけのワクチンもできるという。
 これは朗報である。3型の伝染の残るところは世界でも限られているのだから、効きのいいワクチンを使ってまずは3型を早く世界から無くしてしまい、1型だけとの戦いに集中することである。これにはいろいろ利点がある。まずワクチンによる麻痺が1型によるものは残るが、2型、3型はもうワクチンに入っていないのだから心配しないでもいい。IPVを買えない貧しい国にも助けになる。それに、ワクチンが突然変異を起こし、毒性を増して広がる稀な伝染に関しても、2型、3型の突然変異を心配する必要がなくなる。
 ポリオ根絶は本来、型の異なる3つの兄弟ウイルスと別々に戦っていると考えたほうがいい。3つの同時の根絶宣言を目指すよりも、型別の根絶宣言をして、最後は1型との戦いに集中するのが得策だと考える。2型、3型ワクチンを中止したその後の経過も同時に観察できる利点もある。ジュネーブにいるポリオ根絶の指導者たちはどう考えいるのだろうか?

ベトナム
 マニラから帰って、慌しくまた、ベトナムのサイゴン(ホーチミン市)へカンボジアの保健省の予防接種部門の中心スタッフ4人とともに出かけた。これは先月号でも紹介したベトナムとカンボジアの予防接種の交換視察の続きである。今回は、今まで一度も僕の仕事のフィールドを見たことがない腰の重い女房(車酔いをする)を、サイゴンで買い物する時間くらいはあるとだまして、同行させた。
 サイゴンの保健省のパスツール研究所に着くと顔なじみの人たちが少し驚いたように挨拶してくれる。実は4月に8年ぶりに来たばかりだったからだ。僕らも再び今年中に来れるとは思っていなかった。ベトナムでは、先月号でも紹介したフォン先生とハー先生が取り仕切ってすべての準備をしてくれている。
 前回は亡くなった親しい知人や友人のお墓参りが目的で、何か特別な気持ちで、ある意味でとても心が重かった。ところが、今回は10年前に通い慣れたメコンの町を再び訪ね、予防接種活動が見れるとあって、心は始めから軽い。

 着いた翌朝に、サイゴンから300キロ、車で5時間走ってアンザン県というカンボジアと国境を接するメコンデルタに向かった。
 朝起きて驚いたのは僕を待っていた車である。なんと、僕がパスツールで働いていた13年前から3年余りの間、WHOの僕専用のプロジェクトカーとして使った青いトヨタのランドクルーザーII、その車そのものである。WHOのマークだけが消えかかっているが、青の車体も塗装もそのまま、なんと驚くことに、走り心地も昔とあまり変わりないのである。エンジンの音も決して悪くない。ドライバーはパスツールの顔なじみで、何キロ走ったのか恐る恐る聞いてみた。すると、メーターを指して、42万キロだという。驚いた。13年前に新車で入れたのだから、13年間メコンデルタを走り続けたのである。凄い。カンボジアでは新しいステーションワゴンを援助でたくさん導入しているが、ベトナムの半分も走らないで壊れる。ベトナムの人たちが、いかに機材の管理に心を砕き、少ない機材を多く人たちで使い続けているか、好対照である。
 アンザンに向かう道路の変化に驚くばかりである。メコンに向かう通い慣れた道なのだが、10年前はこの辺でフォーを食べたかな?とかこの辺の椰子の木の下でコーヒーを飲んだかな?とか、思うのだが、回りの風景が変わっていてうまく思い出せない。道は広がり、いたるところでさらに拡張工事をしていて、道路に沿った工場がサイゴン郊外まで延々と延びている。
 気がつくと、巨大な橋の上を走っている。数年前にオーストラリアの援助でできたという。いつもフェリーを小一時間待った場所である。その先でフェリーに乗った。ほとんど待つことなくフェリーが来て、車も人も2キロほど先の対岸に運んでいる。驚くのは物売りや物乞いが一切いなくなっていることである。10年前は車から降りると20人くらいが寄ってきて落ち着く暇がなかったが、くじを買ったり、耳掻きを買ったり、暇つぶしにもなった。今は逆に物足りないほど小奇麗なのである。政府が一掃したという。

 アンザンの首都、ロンスエンに着いてこれまた驚いく。街が10年前の3倍にも4倍にも大きくなり、ビルや新しい店が増えて、道路が整備されているのである。当時荷役の人でごった返していた川の周りのスラムはすっかり一掃されている。
 県の衛生局に行くと、局長のベー先生が出迎えてくれた。10年前も局長だったあのベー先生である。お掃除のおばさんも含めスタッフの顔ぶれも10年前とあまり変わっていない。みんなと抱き合って再会を喜んだ。みんな昔より小奇麗な服を着て、少しふっくらと太った感じがする。人民委員会の研修は相変わらず続いているのだろうけど、生活が落ちついて良くなっているのが肌で感じられる。
クメールの人たちが50%以上住んでいるという郡でポリオの予防接種のキャンペーンを見た。保健所は子供を連れたお母さんたちでごった返している。クローマというカンボジア独特のチェックの柄の布を頭に巻いているのでクメールのお母さん達だとすぐわかる。カンボジアから来たスタッフがクメール語で話しかけると集まっているお母さんたちの顔が急に明るくなる。僕もへたくそなクメール語で少し話してみる。
「お母さんたちはベトナム語が読めて話せるのか?」と聞くと、「できない。」という。それなら、「どうやって今日キャンペーンがあることがわかったんだ?」ときくと、「クメール人の保健婦が保健所に2−3人いて、村まで来て、ちゃんと口頭で説明してくれた。」という。

ポリオのワクチンキャンペーンに集まるクメール人の母親たち

ベトナム側のカンボジアの国境でのワクチン接種
 渡されている登録用の紙はベトナム語であるが、意味はわからなくてもいわれたとおり持ってきている。今話していたお母さんが、「モイティェット(私、もう一人子供がいるよ)」と、接種所に駆け寄っていった。下手でも言葉がわかるというのは不思議なものだ。僕がベトナムにいたころ、やはりクメールの村も見て回った。でも、政府の共産教育が行き届いていて、ベトナム語くらいはある程度わかるだろうと、ベトナム語でただ話しかけていた。実はわかっていなかったんだ。少数派の人の言葉がわかるというのはこんなにもその人たちを近くに感じるものなんだなと改めて感じる。
 少数民族の社会主義化が政府の政策であるにしても、ベトナムの保健政策には教わる点が多い。例えばクメール人でも、ベトナム語を学びある程度の勉強をすれば保健婦として働ける道がある。さらに医師として働く人もいる。保健所には20%程度はクメール人スタッフを採用し、所長がベトナム人でもクメール語を流暢に話せる人もいる。少数民族に対する政策が明確でなく、自分の民族だけで精一杯だというカンボジアの現状では難しい。
 もう一つ勉強になることは保健所の所長にちゃんと医師がいることである。これにはいろいろな苦労があったらしい。現地出身の優秀な学生に県や郡が学費を支援し、義務年限を学費支援の1.5倍として現地に呼び戻している。違反した時は支援した額の3倍を返還するそうだ。これはまさに日本でも僕が学生のころ僻地へ行く医師を養成したやり方である。さらに看護師でも見習い医師でも、さらに4年勉強すれば医師になれる道を開いている。カンボジアでもかつて医学部卒業生に義務年限をつけたらしいが、みんな賄賂を払って田舎から逃げてきたらしい。
 ベトナムも決して一夜にしてやったわけではない。10年以上かけてやっと形になってきたという。カンボジアも、現状が大変でも、先をにらんだ正しい方向性が求められている。
 ベトナムの定期予防接種も、まさに今のカンボジアの問題に一つのアイデアを見せてくれた。というのは、ベトナムではここ10年ほどの間に、今まで、村に行ってやっていることの多かった定期接種を村に行くことを一切止め、毎月25日を予防接種の日と決めて保健所でやるようになったというのである。これには人民委員会の協力、婦人会、青年会、そして保健婦たちの村での説明など、多くの努力があったらしいが、ベトナムだからできる細かい住民登録票をもとに、質の高い保健所での予防接種を実現させている。
 社会基盤の異なるカンボジアでは必ずしもベトナムのようには行かないだろうと思うのだが、これもやはり先をにらんだ正しい方向性が求められている。現在保健省の仲間と取り組んでいる保健所での予防接種の試行は間違ってはいないと確信する。

 サイゴンに帰っていいことがあった。パスツール研究所の仲間が10年前に僕らの家で働いていたお手伝いのユンさんとプロジェクトカーの運転手のチュウさんの住所を探し当て、会いに来てくれるように段取りをつけておいてくれた。誰よりも嬉しかったのはユンさんと10年ぶりに再会できた女房だっただろう。今は40歳を少し超えたくらいのユンさんだが、当時は女房を支え、子供たちもほんとうにかわいがってくれた。もし万一ユンさんに会えたらと、小さなプレゼントを用意していた女房の夢がかなった。
 地方の仕事で一番頼りにしていた運転手のチュウさんに会えた僕も幸せだった。僕よりも少し年上のチュウさんは長男が数年前にバイク事故から脳挫傷になり家で動けないらしい。彼も最近はずっと無職だという。ユンさんは相変わらず料理の手伝いをしながら細々と生活している。この二人に共通していることは、二人とも南ベトナムの出身であるということ、つまり1975年のベトナム戦争終結を境に負けた側の人たちだということ。その人たちがどれほどつらい思いをしたか聞くには余りある。そして、やはり今も、その基本の形は変わっていない。

お手伝いのユンさんと運転手のチュウさん

カイン先生と今も愉快な看護婦さんたち
 今回いろんな人たちと再会して、共通して感じたことがある。とにかく再会できて良かった、嬉しいという素直な明るい気持ちだ。生きていてくれてよかった。生きていてくれてありがとう、というような気持ちでもある。
 悲しいことが一杯あっただろう。つらいことも一杯あっただろう。でもこうして生きていてくれてありがとうという感じである。ただ生きていてくれた相手に、ただ生きてきた自分に、純粋に感動した。そして、会える機会をくれた大いなるものに感謝した。
 周りの景色は変わり、時は流れてきたのだけど、過去を懐かしむようなセンチメントを差し挟む隙間は実はないだと気がつく。それは、その人の生という意味では、過去も現在も未来もまったく関係がなく、その人が一本の木のように生き続けているのが見えたからだ。過去は年輪となり未来は若い枝となりそこに、その体に刻まれている。そのものの姿が目の前にある。お互いが生きていたということが感動で、これからも生きてゆこうという勇気をお互いが与え合っている。
 こんな感動はない。「生きてりゃいいさ。」、僕の好きな河島英吾が作り加藤登紀子が歌った歌の題名をふと思い出した。ただ生きているということがどんなに大事かとわかる。僕は足や手がなかったり、もっと激しい身体障害や、後遺症を背負っても生きる人の姿を見ると、感心する一方で、何がそうさせるのかわからなかった。僕なら死んでしまいたいと思うかもしれないと感じた。でも生きる、その意味はなんだろうと。「生きてりゃいいさ。」ただ生きていること、少しでも長く生きようとしていることがすでに感動なんだなと。生きてきたというそのことが、再会するときの最も失礼のない、最もおごっても、へりくだってもいない、自然な人間同士の真面目な挨拶なのかもしれないと。多くの人と交わりながら、死が自然に訪れるまで「生きてりゃいいのさ。」と。
 帰りの空港に向かう前に、僕がポリオの患者さんの臨床をよく教えてもらった熱帯病病院の小児科医長のカイン先生と看護婦さんたちとやっぱり10年ぶりに再会した。当時はポリオの子供たちで病棟はあふれていた。カイン先生も看護婦さんたちも驚くほど昔のままだ。抱き合いながら「生きてりゃいいさ。」とつぶやく。
 若く死んだ同僚のビンさんの家に立ち寄ってお母さんにご挨拶し、遺影の前で今回の報告をした。「お前も、生きていたらよかったな。」とつぶやいた。夕暮れのサイゴンの飛行場で、またみんなと会いたいなと思う、生きてりゃいいのだから。
 プノンペンに帰ると、今年も、アメリカ、ペンシルバニアに住む90歳近いDr.シューマンと恒例のクリスマスの電話交換をした。僕から電話をした。受話器の向こうの例のしわがれ声はやはり聞き取りにくいが、24日の日本時間の正午きっかりに秋田に何度も電話したが、出ないのでとても心配したと言う。今年は帰りが遅れたんだと言うと、馬鹿な政治家のせいで死んだら損だから早く日本に帰るほうがいいと、本当に心配していてくれていた。Dr.シューマンは何日も何ヶ月も前から正午に電話しようと思っていてくれたのだろう。ペンシルバニアでは朝の5時くらいである。この人も僕に生きる勇気を与えてくれる「生きてりゃいいさ」である。

 クリスマスは年に一度、子供を思う日でもありたいと思う。世界にいる悲しい、寝る場もない、食べるものも満足にない、戦火の下にいたり、災害の中にあったり、一見平和に見える都会の中で虐待されていたり、いじめにあったり、心のやり場がなかったり、そんな悲しい子供たちを静かに思う日でもありたい。悲しい子供たちにわずかなぬくもりが訪れることを静かに祈りたい。
 
僕の今年の新年のご挨拶は大好きなジョンレノンの詩の一節にします。

And so this is Xmas by John Lennon

And so this is Xmas
For weak and for strong
For rich and the poor ones
The war is so wrong
And so happy Xmas
For black and for white
For yellow and red ones
Let's stop all the fight

A very Merry Xmas
And a happy New Year
Let's hope it's a good one
Without any fear


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