んだんだ劇場2006年2月号 vol.86
遠田耕平

No56  慌しい新年の幕開け

豪雪の地へ
 年の瀬も押し迫って、日本に帰った。女房の実家のある栃木から大学生の末息子を連れて車で秋田に辿り着いたのは年が明けた2日だった。夕暮れの迫る秋田の市内に入って驚く。とにかく真っ白で、家の輪郭も雪に埋もれてはっきり見えない。自分の家の前まで行くと、駐車場は積もった雪と除雪車が寄せた雪で見事な雪山になっている。息子と夜中まで雪寄せをしたが、結局、車は入れられず、その日は諦めて、やけ酒を飲んで寝てしまった。それから連日、雪寄せの日々、秋田の人たちの苦労を肌身で感じる。一階部分ではあるが、初めて屋根の雪下ろしもした。それにしても痛い背中と古傷の膝をさすりながら、力の余っている息子を連れて来てよかったとしみじみ思う。とは言え、女房の冷たい視線を感じつつ、一年間楽しみにしていたスキーには、やっぱり、しっかり、一泊で出かけたのである。
 熱帯からとんでもない時に帰ってきたものだと、はじめは後悔したが、雪寄せをしてみて、これはただ事ではないと実感。放っておけば、確実に我がボロ家は潰れていただろうと実感するのである。10年前に「10年位持てばいいよ。」なんて気楽に答えて、女房がハイと言って決めたまったくの中古住宅なのである。ところがボロ家でも愛着は湧くもので、後10年位もってくれたらなー、なんて思い始めている。これからまだどのくらい雪が降るかは想像がつかないが、いつもはもっと雪よ降れと叫ぶ僕だが、今年はどうかお手柔らかにと願う気の弱い僕なのである。
 雪寄せをしていると日本の感染症研究所の友人とマニラのWHO事務局の担当官から次々に電話が入った。カンボジアのポリオ疑いの患者から採取した便検体から珍しい変異したポリオウイルスが分離されたというのである。今年のびっくりは、どうやら大雪だけではないらしい。それから慌しくカンボジアの保健省の担当者やWHO事務所の所長に緊急な連絡を取り、対応を協議する。僕に早くカンボジアに戻って欲しいという空気は露骨に漂っているが、僕の休暇はまだ1週間弱残っているし、うーーん、この際、保健省の人たちにしっかりと仕事を任せるいい機会かなとも思って、しっかり雪寄せをしてから帰ることにした。

熱帯の地へ
 僕がプノンペンに戻ったのは1月15日の夜だった。身も心も寒冷地モードだったスイッチを一気に切り替えて、身も心も熱帯モード、カンボジアモードに無理やり戻す。翌朝、保健省の仲間たちと話し、彼らが実に手際よく最初の調査やレポート、便検体の採取などをやってくれていたとわかった。「本当によくやってくれたね。ありがとう。」と言うと、照れくさそうな顔をしている。やっぱり、口を出し過ぎないのがいいのだな。
 午後から僕もその麻痺した子供のいる村に行ってみた。プノンペンの街のすぐそばである。王宮の前の船着場からフェリーでトンレサップ川とメコン川の合流部を横切って、メコン川の対岸に辿り着くとその村がある。王宮からも遠くに見えるほどの位置にある。5000人ほどのクメール人の村の10%はベトナム人で、川沿いに集落を作っている。麻痺になった子供もそこにいる。1歳8ヶ月のその子供は離婚した母親が美容院で働いて、母親の両親つまり祖父母がごみの収集をしながら面倒を見ている。

麻痺の子供と世話をする祖父母

村から見た対岸のプノンペン市街
 その子は左足と右手にだらりと動かないポリオ(小児麻痺)特有の麻痺をみせている。ポリオのワクチンを3回飲んだ記録があるが、運悪くこの子供には3回のワクチンでは十分な免疫が得られなかったらしい。どんなワクチンも100%効果があるというものはなく、10%程度は効きの悪い子供が残る。衛生状態の悪い熱帯では特にその傾向が強い。そこにウイルスの感染が濃厚にあると感染する確立が増える。効きの悪い子供の場合はより多く摂取するほうがいい。それよりもこの子供の場合問題となったのは便から分離されたポリオウイルスの形である。
 分離されたウイルスはワクチン由来の変異ポリオウイルスと言われるものである。ポリオのワクチンはもちろん安全なワクチンであるが、ワクチン自体も50年前まで世界中で猛威を振るった野生株を弱毒化したウイルスで、RNA遺伝子によってできている。ウイルスは人間の身体に入り増殖を繰り返し、また首尾よくほかの人間の身体に入り、生き延びていく。その過程で、ごく僅かながらウイルスの遺伝子の一部に変異を起こす。もし首尾よく一年間生き延びたと仮定すると、1%程度の変異が起こるだろうと言われているが、ほとんどワクチンウイルスは数ヶ月で死に絶えてしまう。ところが、ごくまれに生き延びるやつがいる。しかも、ほかのウイルスと遺伝子を交換してさらに生き延びやすくして、生き延びるやつがいる。その中で、たまたまポリオの野生株と同様の麻痺を起こす部分に変異を持っているものが現れて、生き残り、ポリオワクチンを十分に受けていない、免疫を持っていない子供を見つけて、感染し、不運にも麻痺を引き起こす。
 要するに実に稀な確立でしか起こらないことが不運にも起こったのである。この事例は世界でもまだ7例しか報告されていない。しかし、これが見つかったと言うことは、子供のせいでも、ワクチンのせいでもなく、予防接種率の低い地域が広く散在して残っていて、ウイルスが変異し、生き残っていくことができたことの証明でもある。遺伝子に起こった変異の程度を見ると、いったいどのくらい長くウイルスが生き残ってきたかがわかると言う。今回見つかったウイルスはどうやら2年以上静かに見えない感染(不顕性感染)を続けていたらしい。この変異したウイルスを再び消滅させる唯一の手立ては広範なポリオワクチンの摂取キャンペーン以外にはない。カンボジアは1997年、今から8年前にポリオの野生株の根絶を実現したが、カンボジアは今この変異したウイルスの根絶を2006年に達成しなくてはならない。

 話をさっきの村に戻そう。驚いたことに聞き取りをしていると、麻痺になった子供の斜め向かいの家の2歳半の子どもが、はじめの子供の4日後に発症して右手の麻痺にかかっていた。ポリオのワクチンは一回しか接種されていない。ポリオに罹ってしまった子供を治してあげる手立てはない。ただ、感染を最小限にとどめる手立てはある。そのヒントはこの村の人たちの生活のなかにある。
 この村は今、目の前のメコン川から取れる小魚の漁の季節である。川べりには女性たちが集まってコンコン、コンコンとまな板の上で小魚の頭を切り落とす音が村中に響いている。この大量の小魚は一度天日干ししてから壷に入れ、泥のようになるまで醗酵を繰り返して「クロポップ」というクメール人の大好物になる。この生臭い醗酵した匂いはすごい。何キロも先まで届く。僕が川沿いのプールで泳いでいる時に鼻をつく激しい匂いが漂ってくる時があるのだが、それはこの対岸のこの村から流れてきものだとわかった。

クロホップの魚の頭を落とす女性たちと子供たち

醗酵させているクロホップ
 この時期、周辺の村、さらに何十キロも離れた村からも手伝いに女性たちが村に集まる。そして子供たちも一緒に連れてくるのである。もしワクチンを十分に受けていないと、この子供たちが感染の拡大の経路になる。僕らは手伝いに来た人たちがどこの村から来たのが一人一人聞いて回り、それからその村を一つ一つ訪ねて、麻痺している子供がいないか、ワクチン接種がどの程度いきわたっているかを調べていくのである。そしてその結果をもとにどの程度の広さでワクチンキャンペーンを実施したらいいのかを決定する。
 この村は、もう一つ特徴があって、1979年のベトナムのカンボジア侵攻とともに共産主義化の宗教弾圧から逃れたいベトナム人のキリスト教徒がたくさん移り住んでいる。麻痺を起こした子供の家の隣は建て直したばかりの新しい教会である。去年のクリスマスには盛大なお祝いをして、たくさん人が周辺の10以上の村から集まったと言うから、とんだクリスマスプレゼントだったのかもしれない。これも感染経路を知る大事な手がかりである。
 翌日からはじめの村と繋がりのある村々を保健省の人たちと麻痺の子供を捜して訪ね歩く。さらに、僕が作った、子供の年齢、ワクチン歴、BCG摂取痕の有無などを書き込める簡単な調査票を保健省、県の衛生局の人たちに配り、一軒一軒を尋ねてはワクチンの摂取率を調べる。そういえば、インドでも、バングラディッシュでも、ネパールでもこうして自分で作った調査票を持って、村から村へ調べ歩いていたなーと思い出した。ここでもやっぱり同じようなことやっぱり同じようにやっている。
 実際、何十人もの5歳未満の子供のワクチン摂取歴を見てみると、麻痺が出た村では摂取率は60%にも満たない。政府の公的なデーターでは80%以上あるので現実とは随分と開きがある。確かに80%以上あった村もあったが、多くは60%にも達せず、ある村では35%しかない。その村では半分以上の子供たちが一度もワクチンを接種したことがないのだから、もし、ここにウイルスが持ち込まれれば明らかに感染拡大が起こると十分に予想ができる。
 この調査からわかったことは、摂取率の極端に低い村がメコン川、トンレサップ川の流域に広く点在していることである。しかしこのことはすでに昨年からわかっていた事実で、特にベトナムの村とその周辺のクメール人の貧しい村(人口の10%)の5歳以下の児童を対象とした特別なワクチンキャンペーンを昨年10月に大変な苦労をして実施したばかりだった。ベトナムの保健省の僕の友人たちにも来てもらって、その時の様子はこの紙面にも報告したとおりである。ただ残念なことは、今回麻痺の子供が見つかった地域はそのキャンペーンの対象には含まれていなかった。要するにまだまだよく見れば、カンボジアにはワクチン接種の悪い場所がたくさん残っていると言うことである。
 対策として、まず、調査の数日後に県と郡の衛生部の主導で近隣の数十の村々を対象に5歳未満の児童5000人以上にポリオワクチンの緊急摂取を実施した。問題はそれからである。この変異したウイルスはすでにワクチン摂取率の悪い村を見つけながら転々として広がっているのである。そのことを考えると、ウイルスの伝播を完全に押さえ込むには十分に広い範囲でポリオワクチンのキャンペーンを2回実施しなくてはならない。もちろん全国キャンペーンができれば一番いいのであるが、そのためには400万人分のワクチンと人件費が8000万円かかる。インド、インドネシア、アフリカのポリオ対策で追われている本部にはカンボジアにさく予算がほとんどないと言う。
 連日の保健省との協議の末、とにかく一番危ないところを対象に、間髪おかずに第一回目のキャンペーンをやろうと決めた。まず「作戦ありき。」である。人口の最も密集する今回の患者の見つかった首都に隣接するカンダール県と首都のプノンペン全域、さらにトンレサップ川とメコン川の流域とトンレサップ湖の周辺で人口の25%をカバーする。ワクチンはまず50万人分、予算は1000万円あればできる。定期予防接種で余る在庫のワクチンをかき集め、ユニセフとWHOのカンボジア事務所の金庫の残金を集めて人件費に当てれば何とかやれる見通しが立った。

村の調査をする保健省、県の衛生部の人たち

ワクチン接種率の低いベトナムの村での調査
 3月の第一週に実施する。2回目のキャンペーンはさらにその周辺の地域を含め人口の50%程度まで拡大して実施したい。ただ、ワクチンの目処が立たない。いや正確に言うと、本部には市場から緊急に供給できるワクチンは100万人分あるが、それを購入する資金がないという。
 世界のポリオ根絶を目指している本部が、カンボジアのような小国のしかも100万人分(1500万円)のワクチン支援もすぐにできないようでは先が思いやられるが、ぼやいても仕方がない。とにかく先に具体的に進むだけである。だめなときはそのとき考えよう。対象の県の衛生部の代表者をプノンペンに呼んで事情と計画を説明して、それからは3月の第一回キャンペーンまで各県を回って準備を見て回ることなる。そのときまでにワクチンの供給が好転してくれることを願う。
 政治的なことや、いろいろな人たちの思わくに一喜一憂するのはどうも僕は苦手である。僕に見えるのは最良の対策をしたいと願う保健省の人たちの真面目な顔とその対策を待っているお母さんたちの子を思いやる顔だ。不思議だが、妙に確信を持って「とにかく決めた方向に動いていればいい。」とそんな声が聞こえてくる。周りが難しい、ダメかもしれない、と言えば言うほど、なぜか僕中にはファイトが沸いてくる。向かって歩く方向さえ自分で考えて、間違っていないと確信していれば僕には十分なのだから、僕のへそはやっぱり曲がっているらしい。


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