んだんだ劇場2006年5月号 vol.89
遠田耕平

No59  がんばりましょう

ポリオキャンペーン第2ラウンド完了
 200万人分の経口ポリオワクチン、3400万円相当がプノンペンの飛行場に届いた。日本政府からの緊急ワクチン支援を受け、4月に予定通りポリオワクチンの2回目の投与が、実現したのである。日本の税金である。この場を借りて、日本の皆様に心から感謝。対象人口を1回目の2倍に広げ、5歳未満の全人口の半分にあたる81万人の児童を対象に、人口が過密で、貧しく、頻繁に移動する感染の危険の高い地域で第2回目のキャンペーンを実施した。
 今回は先月の2倍の規模の8000の接種所で、1万8千人の接種チーム、監督官、地域リーダーたちを動員して行われた。WHOが計上した2500万円余りで人件費、ガソリン代など全ての費用をまかなわないとならない。前回、いくつかの県には予算を着服する札付きの連中がいる事は話したが、保健省の内部にもわざと高い予算を県に要請させてその見返りを取ろうとする連中が居る。内憂外患である。その連中に対抗するために今回は県ではなく郡からの要請を一部優先したり、保健省内で別の予算策定チームを作って、予算の無駄を再チェックして、予算の透明性を重視することに心血を注いだ。全く無駄な時間のようだが、人間臭すぎて、フィールドで仕事をするよりずっと疲労感がある。

ワクチンを受けて貰った風船を膨らます子供たち

4ヶ国語で予防接種の説明したビラを読むクメールの子供たち
 いいこともある。今回は10万個の風船を購入し、特に貧しい地域の子供たちに風船を配って、より多くの子供たちがワクチンの接種所に集まってくれるように工夫した。今の日本の子供たちの多くは風船の楽しさを忘れてしまっているが、ここの子供たちにはまだまだ人気がある。ベトナム製の風船が安く大量に購入できるのである。さらにベトナム語とクメール語など4ヶ国語で予防接種のことを説明したビラを10万枚印刷して、地域のリーダーとお母さんたちに配り、定期予防接種への参加を呼びかける。
 当日の朝、プノンペンのスラムでは案の定うまくいっていない。接種チームはハンドマイクを渡されているにも拘わらず、お母さんたちに何も呼びかけないので、少しも子供たちが集まってこないのである。すぐに市の担当官、監督官たちに連絡して、一時間以内に改善してもらうように要請。線路沿いの大きなスラムでも接種チームが見当たらない。探すと、一人は道端でも物売りを始めていて、残りの一人は別のチームにくっついてぶらぶら歩いている。たくさんの子供がワクチンを受けていないので、これまた市の担当者に連絡である。
 保健省の予防接種担当の責任者のスーン先生も駆けつけてくれて、炎天下を一軒一軒訪ねて子供たちの接種を聞いて回り、接種が完了する夕暮れまで陣頭指揮してくれたことには本当に頭が下がった。もう一つ感心したのは、ベトナムとイスラム教徒の居住区でよくやられている事である。ベトナムのリーダーは事前の打ち合わせの効果があって、組織的に協力してくれ、一方イスラム教徒の地域でもモスクのマイクを活用して実に効率よく子供たちを集めてくれていた。ここ10年間の接種活動の中で完全に欠落していた少数派に対するケアが、スーン先生の賢明な判断で初めて実現したと言えるだろう。
 夕暮れに、朝活動の悪かったスラムに戻って子供を調べてみるとほとんどの子供たちが受けていて、少し安心。でもまだ僅かの子供は受けていない。市の連中はやはり細かい仕事はできないのだろうなと諦めたその時だった。薄暗がりの中で懐中電灯を片手にワクチンを下げて歩いている人影を見つけた。近寄ってみると市の担当者のリナが移動チームを連れて歩いているのである。正直、目を疑う。リナは指導力が弱くて、仕事がうまくいかないことが多いからだ。彼も僕を見つけて少し驚いたようだったけど、僕は嬉しくなって、「有難う」と、彼を抱きすくめてしまった。するとリナは「トーダ大丈夫だよ。ちゃんとやっているから。」と、得意げな顔をしてささやいた。本当に嬉しい。夕闇の中で僕の目頭が熱くなった。

経口ポリオワクチンの投与

線路沿いのスラムで指揮を取る保健省の責任者のスーン先生
 翌日、タイの国境まで飛んだ。主要な物資の輸送路とともに、カジノ、犯罪、人身売買等の問題もある地域で、5万人以上の人がスラム化して住んでいて、1万人以上の子供がワクチンの対象になっている。日中には人口の数十パーセントがタイ側に働きに出て人口は減少し、夕方にはカンボジア側に戻ってくる人達で人口が膨れる。歩いてみると接種所の場所はかなりいい加減に置かれ、監督はほとんどなされず、お母さんたちへの呼びかけも弱い。ある接種チームは予定の時間まで来なかったり、来ても昼間から酒を飲んでいる人がいる。地域のリーダーもいなくなってしまうし、マリファナまで吸っているのがいる。
 これじゃまずいと、お昼に監督官たちを召集して、地図を広げ、チームの数と位置を見直し、監督の強化を話し合う。暑さのせいか、みんなはぼんやりした顔をしていて反応が悪い。僕は戸惑うのであるが、ここで助かったのは郡と県の担当者がそれなりに指導力を示してくれた事である。国境の検問所を設け、国境沿いに移動チームを走らせてくれる。夕暮れが近づいて、子供たちの接種状況を調べて見ると、まだ2−30%受けていない子供の居る地域が点在する。さらに驚いた事にたくさん運送会社の敷地内まで入り込むとその裏に会社で働く20−40戸の家族が住んでいてワクチンを受けていないのである。
 嬉しい事に県の衛生局長も駆けつけてくれた。多くの家族がタイ側から帰ってくる時間でもある。帰り急ぐ接種チームを何とか引き止めて、夜の8時まで、子供たちが受けたかどうかワクチンを持ってもう一度歩き回って欲しいと頼んだ。承諾してくれる。早く帰りたがる接種チームに夜残ってもらうのは大変である。翌朝、家々を回って接種状況を確認すると、予想以上にワクチンはよく行き渡っている。県の衛生局長に報告するととても嬉しそうである。
 翌日アンコールワットで有名なシエムリエップの町へ悪路を車を走らせた。ここでの問題は最近の急速な観光開発に伴い、急速に流入し膨れる人口のスラム化である。街はそれほど大きくないのであるが、新しくできる建設労働者の居住区やカラオケ売春街に居る子供たちが見落とされている。さらに人が集中するマーケットや病院の前、さらに孤児院など大事な場所に一つも接種所が置かれていない事には驚いた。そう、ここは先月号でお話した札付きの問題児サンボさんが県の責任者のところである。
 サンボさん、お金の見返りが少ないとわかると興味をなくしたのか、問題のある場所に連れて行っても、歩くと自分の膝が痛いとか、暑いから麦藁帽子を買いにいくとか、お腹がすいたから何か食べてくるとか、ついには午後は用事があるからといってプノンペンに行ってしまった。これにはさすがに僕らも失笑、サンボの太く突き出た太鼓腹をたたいて大笑いした。確かにわかり易い人だ。ここは大事な県であるが、県の指導力が全く弱い。たぶんお金に絡んだことが多すぎるのだろう。
 貧しい県の方がしっかりしているから人間は不思議だ。それでも保健所と郡の責任者はそれなりによく問題の場所の穴埋めをやってくれ、夜の8時まで仕事をしてくれたのである。翌朝の確認でもカラオケ街や建設現場も含め予想以上にワクチンはよく子供たち届いていた。
 後日集計を取ると、81万人以上の子供がワクチンを受け、接種率は99%になった。数の上では一見いい結果であるが、お話したように問題はまだ一杯ある。僕が実際に見れなかったベトナム国境にもいろいろ問題があったらしい。来月には最後の3回目のキャンペーンをやる。一回目のキャンペーンに含められなかった地域での2度目の接種とプノンペンのその周辺のスラムで特別に3度目の接種を行う。がんばろう。

ちょいと休暇ハノイ、ハロン湾の旅
 2回目のキャンペーンが終わるとすぐにクメールのお正月に入った。この時期はカンボジアの暑さは一年のピークで、正月中はお店も閉まる。去年もこの時に涼しいハノイに行ったのであるが、今年も女房とハノイに避難する事にした。三晩ハノイに泊まり、一晩はハロンベイ(ハロン湾)の船の上で泊まった。長くベトナムに居たのにハロンベイに行った事がなかったのが不思議なくらいであるが、当時は行くのに一日かかるというので行くのが億劫だった。ところが、今はハイウエイができて、どんどん広がるハノイ郊外の工業団地を横目に3時間余りで行ってしまうのである。
 もう一つ驚くのはツアーの安さ。4食付、船上で一泊、カヤックも入って38ドルである。はじめは騙されたのかなと少し疑ったが、そうでもない。船も立派で、ご飯もおいしくて、甲板で寝るのかなと思ったらちゃんとシャワー付きの船室がある。お勧めである。
 ハロンベイは2000以上の島や岩山が海中から突き出ている。トンキン湾に面していながらこれらの岩山が外海の波と風を干渉して、海面は全く波がなく穏やかで、潮のにおいのないさわやかな風が吹いてくる。船の旅なので、ほかの観光客とぞろぞろ歩かないでもいいのがいい。まあ、観光地嫌いの僕の許容範囲である。
 もう一つ面白かったのは乗り合わせた10人の連中である。普通はこれが煩わしいのであるが、イスラエル、シンガポール、フランス、アイルランド、オーストラリア、スウェーデンから来た連中で、みんな周りへの気遣いのできる人達だった。自然に優しい雰囲気が流れて、自然に仲良くなった。こんな事もあるんだなと思った。
 ハノイでは旧知の人達と再会し、路地を散策し、絵画を見、お茶を飲み、気晴らしになった。ハノイのここ10年の変化は激しいが、町の街路樹の素晴らしさ、中心部の古い家並みと細い路地、そこでお茶を飲み、フォーを食べるハノイの変わらない生活がまだしっかりある。田んぼをつぶし、工場を建てる郊外の変化は15年前を知る僕には心を痛めるものがあるが、ハノイっ子の粋は途絶えていないようだ。
 僕らのいる間にちょうど5年に一度の人民総大会が開催されていて、ハノイは次の5年にはホーチミン市(サイゴン)を抜いて発展するとスローガンを新聞に書いていた。サイゴンをいつか抜いてやるというのは北ベトナムの人たちの長年の執念というか妄念のようなものである。僕はつい「この緑のハノイのままでいいのに、なぜ?」と言いたくなるのである。
 中国も中央政府のある北京は絶対に上海や広州に負けたくない。北京の力を見せるためにオリンピッを機に北京の古い町並みは全て壊れてしまった。でも、僕は僕の好きなハノイは残るだろうと不思議に確信するのである。理由はない。

3度目のメコンリバースイム
 今年もまたメコン川を泳いで渡る恒例のメコンリバースイムが週末にやってきた。11回になる今年の大会は去年まで組織してくれた会社が引き上げたため、例年よりもさらに手作りの感じである。参加者が少ないかなと思っていたら200人以上の参加者があった。今年はJICAから3人、青年協力隊が一人、と合わせて5人の日本人が出場。
 僕は泳ぎがとても好きである。プノンペンにいる時は毎日のように泳いでいる。どんな泳ぎでもできるし、今でも少しずつうまくなっていると密かに思っているのだが、大学の後半から始めた僕の泳ぎは決して早いというわけではない。その上、本番ではいつも緊張して思うような泳ぎができない。

ベトナムのハロン湾と乗り合わせた仲間たち

メコンリバースイムのメンバー、左からJICAの伊藤君、鵜飼さん、僕、高橋さん、協力隊の坂井田さん。
 困った事はプノンペンの外国人の中で僕が早いと思っている連中が意外にたくさんいることである。「今年は一番だったか?」といつも聞かれるのが実に苦痛なのである。2年前にはじめて泳いだときから一番で泳ぐと思われた。ところが風で波が立って、水をがっぷり飲んで大いに順位を下げた。去年は波がないのでいいかなと思ったら、元気のいい若い白人たちのほうが、ずっと早く泳いだ。
 今年は経験もあるし、少しはよくなるだろうと実は歳甲斐もなく密かに燃えていた。が、当日、風が下流から上流に向かって強く、白い波が立っている。その上、見えないメコンの流れが上流から下流に強く流れていた。泳ぎだすと見事にまた水を飲んでしまい、2度も3度も呼吸を整えるために泳ぎを中断。流されながら何とか体勢を立て直して泳ぎきり、泥だらけの対岸を這い上がってゴールしたときにはフラフラ。驚いたのはこの一年間、僕が泳ぎを教えていたJICAの高橋優子さんが僕をぴったりマークして、水も飲まずに見事に完泳。
 僕のすぐ後ろで余裕のゴールである。大したもんだ、と感心していると、隣にいた体格のいいドイツ大使が「君がトーダか、一番か?」と聞いた。首を振りながら今年も照れ笑いである。まあ、幸いにも一人も行方不明者はなく無事終了。カヤックのサポートが5艘出てくれて、よく監視してくれた。
 数日して、組織委員会から突然電話がかかってきて驚いた。「今年は外国人に早い人がいなくて、トーダの前にいた10人余りのカンボジア人のナショナルチームの連中を除くとトーダとタカハシが外国人男女で一番になるよ。」という。大笑い。みんなもどうやら水を飲んで流されたらしい。何か賞品をもらえるのかなと思いつつ、ちょっと複雑な気分。来年もやっぱり緊張するかな、するだろうな。でもバカな僕はまた泳ぐだろうな。バカなりにがんばりましょう。


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