んだんだ劇場2006年6月号 vol.90
遠田耕平

No60  学生チーム頑張る

カンボジアの青い目の花嫁さん
 6月は友人の結婚式で始まった。事務所の同僚で、鳥インフルエンザを担当しているオーストラリア人女性のメグさんがカンボジア人の運転手のクーンさんと結婚するのである。メグはとびっきりの美人さんとは言えないが、気立てがめっぽういい。彼女の優しい面差しと穏やかな話しぶりは、30歳半ばという年齢とは思えないほど初々しく見える。英語でまくし立て、僕の伝達の3原則に反する、ありがちな白人女性たちのタイプとは全く異なる彼女は、現地のスタッフからも好かれ、事務所のいいムードメーカーである。若いのによく仕事もするメグは、僕が事務所の中で一番信頼しているスタッフでもある。
 その彼女が僕の部屋に来て、「実は結婚するんだけど結婚式に来てくれない?」と顔を赤らめ言うので僕はびっくり。オヤジの僕は多少の落胆を顔に表しながら「誰と?」と聞くと、所長の運転手をしているクーンとだという。これでまた驚いた。確か彼女は2年ほど前にカンボジアに来たときはオーストラリア人のボーイフレンドがいたはずであるが、別れたという。その後、新しい運転手としてオフィスに採用されたクーンと出会う。メグ曰く、「会った瞬間に生まれて初めてスパークが走った。」という。スパーク、、火花か、、ビビって奴だ、、ウーン、オヤジもこれにはかなわない。まさにlove at first sight(一目ぼれ)、恋の原則である。30過ぎの真面目な青年のクーンは苦労人。プノンペン近郊で、牛飼いや、荷役をしながら一人残るお母さんの世話をしてきた。独学で英語を勉強し、外国人の門番の仕事を見つけ、そこで真面目な働きぶりに感心され、車の免許を取らしてもらったという。それで、WHOへ来た。
 メグにスパークが走って驚いたのは実はクーンである。あまりに環境も立場も違う。その戸惑うクーン気持ちを収め、二人を取り持ったのが、前任の粋なオーストラリア人の所長のジムである。二人をオーストラリアに行かせ、メグの両親とも会わせ、説得してくれたらしい。
 「オーストラリアで見た事もないきれいな海岸を二人で歩きながら、自分は、牛の糞にまみれた、ただの田舎ものなのに、これでいいのか、現実か夢なのかまだわからないんだ。」と、クーンが僕に話した。オヤジ曰く、「結婚は始まりが大変なほどいいぞ。」
 彼らの話を聞きながら、似たような人がいるな、と、ある人のことを思い出した。そう、この「んだんだ劇場」の寄稿者で僕の後輩の石川尚子さんだ。彼女は「国境なき医師団」でタイのカレン族難民キャンプで働いているときに、運転手をしていた今のご主人のカレン族のオニさんと出会ったのである。オニさんと結婚したいと言われた時は僕もさすがに驚き、彼女のお母さまは、驚きの余り、僕のところまでやってこられて、何が娘にあったのですかと、問いただされた事があった。
 優しい石川さんの顔はやっぱり優しいメグの表情と重なる。大変な事が一杯あったのだろうが、石川さんは優しいご主人のオニさんに支えられ、二人の可愛い娘に恵まれて、頑張っている。人の人生は計り知れない。

カンボジアの結婚式
 カンボジアの伝統的な結婚式は三日三晩続くと言われているが、最近はどうも簡略化されているらしい。中でも大事な儀式が、親しい友人や親戚を招いて早朝6時頃から行われるフルーツセレモニーである。
 これは新郎を先頭に新郎の家から男女が行列をなして、様々なフルーツやお菓子、肉にいたるまでの供え物を両手に携えて、花嫁の家に花嫁を迎えに行く儀式である。家では花嫁親族が待ち、新郎が花嫁をくださいと口上を述べるわけである。

朝のフルーツセレモニーの行列
 今回の結婚式はクーンの実家の村で行われた。オーストラリアから駆けつけたメグの両親と花嫁のメグがクーンの実家でお母さんと待っている。村の世話人たちが、皆が手に持つ品々が隣の二人が同じになるようにそろえて、村の端から行列の行進である。先頭の新郎のそばには伝統的なバナナの木や、サトウキビ、パーム椰子の実を抱えた男たち、次いで着飾った女性たち、続いて男性たちがぞろぞろと歩く。
 先頭を歩くクーンは前の晩から準備や接待、メグの家族の世話で一睡もしていないのだろうが、やたらとテンションは高い。メグが出てくる前から、「メグは本当に綺麗なんだ。」と興奮気味に僕に耳打ちする。僕もこんな興奮があったかなと、隣にいる女房をふと見やったが、どうもはっきり思い出せない。カンボジアの典型的な農家の高床式のクーンの家に着くと、なんと本当に艶やかに着飾った綺麗なメグが木の階段を下りてきた。ウーン、確かに普段とは違う。綺麗だ。

花嫁のメグさん

左端から花婿のクーンと花嫁のメグ
 この朝の儀式が終わると参加者全員に朝食が振舞われ、それから新郎新婦は忙しい。プノンペンに出向いて、王宮や川のほとりのベストスポットで、お色直しを何度もして、カメラとビデオの記念撮影に収まる。午後の3時過ぎからはクーンの家の前にテントを張って、バンドを呼んで、村中が集まって、披露宴である。バンドの音が騒々しいが、つまらないスピーチなど一切ないのがいい。新郎新婦はお色直しの疲れも見せず、笑顔で、心から幸せそうだ。メグとクーンを見ていると、これからいろんなことがあるだろうが、必ず超えていくだろうなとはっきり感じさせてくれるのである。人の幸せも計り知れない。

泥だらけのポリオキャンペーン完了
 今回の3度目のキャンペーンは1回目のキャンペーンでやり残した地域に2度目の投与をすることに加え、プノンペンのスラムと周辺のベトナム人の村には特別に3度目のワクチン投与を行った。
 プノンペンは当日、朝から雨季の激しい雨で、スラムを歩くと泥だらけである。前回にもお話したプノンペンの中心地にあるスラムは今回大きな変化があった。政府が企業に土地を売却したため、1000戸以上あるスラムの住民を郊外に強制撤去させるというのである。行ってみて驚いた。スラムと言っても住民が苦労して作ってきた家があった。それらは全て壊され、廃墟になっている。行き場を失った半数ほどの住民たちが廃墟と泥の上でビニールシートをかぶって、雨、風をしのいでいた。「難民キャンプよりひどいな。」と、一緒に来た保健省のスタッフがつぶやく。もちろんここでもワクチンを配ったのであるが、皆お腹が空いていて、食料が欲しいという。
 以前、僕はフィリピンのスラムでもこんなやるせない光景の中にいたことがあった。それにしても政府はどうしてこんな無茶な事をするのかなと思う。スラムが不法だとしても、こんなやり方では貧しい人達がもっと貧しくなるだけである。法が弱い人を守れないなら、法は誰の為にあるのだろう。国が弱い人や貧しい人を平気で切り捨てるなら、その国はこれからどうなっていくんだろう。
 あんなに苦しい時代を経てきた人達が、今はお金ばかりに走る。スラムにいる人たちの顔のほうがよほど優しく、僕には人間らしく見えるのである。そんなことを思いながら、雨の中、ビニールシートの下の家族の子供たちを一人ひとり調べて回っていると、ある親子に再会した。以前に調査に来て診た今回の流行でポリオ麻痺になった3人目の子供とその両親である。「まだ、ここに居たんだね。」と言うと、雨に濡れる透明なビニールの向こう側から優しく笑顔で応じてくれたが、若い父親は外に立って雨に濡れ、身を震わしている。僕の心に何かがざくざくと刺さる音がした。

破壊された雨の中のスラムとビニールシートの下の親子
 翌日、アンコールワットのあるシェムリエップ県に飛ぶ。観光で膨張するシエムリエップの街はトンレサップ湖に浮かぶ村とは違う意味で、公衆衛生上の問題が山積である。それなのに、県や郡の衛生局が関心を示すのはお金の事ばかりで、仕事の中身には関心を示さない。ここでも紹介したお腹の突き出たサンボさんはその典型だ。そのせいで、保健所も保健師もやる気がない。
 市場、病院、孤児院、建設現場、アンコールワットの前の土産売りの村からカラオケ売春街にいたるまで回って接種活動を見る。残念な事に、僕らが一週間前に来て事前に助言した事を申し訳程度にやっているだけだ。依然、接種場は人目のつかない涼しい場所にあって、接種チームは、子連れのお母さんを見ても呼び止めもしない。郊外に出ると、大きな道路から少し離れた場所で、一人の子供もワクチンを受けていない村を見つけた。
 目つきの悪い保健所の所長に話すと、なんと「他の監督者が悪いんで、俺のせいじゃないよ。」と、むくれてしまった。やくざっぽいこの男はどうやら札付きらしくて、誰も怖がって話をしない。郡の副所長の言う事だけしか聞かないというので、暗くなるまで彼の登場を待って、翌日の接種のやり直しを頼んだ。なんとも情けない話である。
 もう一人この街には、やくざっぽい奴がいる。無料診療をうたい文句にするカンボジア最大の小児病院を経営するスイス人の院長である。政府の方針に全く従わないにも拘わらず、政府の援助金とヨーロッパの慈善団体の支援を受けて、好き勝手をやっている。
 以前にこの紙面でも話したが、この病院は全てが秘密主義で、無料とはいってもどんな診療がなされているのかわからない。今回のポリオのキャンペーンの協力要請に対しても、外来にくる病気の子供たちにワクチン投与はならないと、拒否した。感染症が蔓延する地域での予防対策は、重病の子供を除いて、少しでも多くの子供たちにワクチンを投与する事である。それが感染の広がりを抑え、これ以上の犠牲者を出さない唯一の方法なのである。一度ポリオの麻痺に罹った子供は、この狂ったスイス人の医師が自慢する高級な薬でも、CTスキャンでも治せない。
 ダメといわれると余計に燃えてくるのが僕の癖である。しり込みする県の衛生局と県知事に頼み込んで、病院の玄関前の幹線道路のわきに接種所を置く許可を得た。当日、早朝にもかかわらず、僕らの呼びかけに足を止めたお母さんたちが子供を連れてひっきりなしにやってくる。一日でその数はなんと650人にも上った。
 一つの接種所が投与できる一日の平均が100-120人程度であるから、いかに多くの子供たちに接種できたかがわかる。二人の接種チームがあまりに忙しいので、県と郡の担当者に頼んで、二人の監督者と、もう一つの接種チームを援軍に呼んでもらった。到着した援軍を配置して、僕らは他の接種所を見るためにやっとその場を離れた。小一時間して戻ってみると、援軍の姿はない。接種チームに聞くと、「あなたたちがいなくなると、彼らも何もしないですぐいなくなったよ。」という。
 保健省からきている女医さんのヤナレス先生はハンドマイクを片手に笑顔を絶やさず、目に入る全ての母親たちを呼び止める。ワクチンを受けてくれてありがとうと言い、お母さんの質問には丁寧に答え、声がかすれるまで、呼びかけてくれている。どうして、この基本的なことが、保健スタッフたちはできないのだろうか。単に給料が安いから?単に炎天下で疲れるから?単にやる気がないから?
 僕にはまだその答えがわからない。予防行政がうまくいかないのは、受け取るお母さん方の問題じゃない。繰り返すようだが、サービスを提供する僕ら行政側に問題がある。それだけの事だ。
 翌日、悪路を4時間以上走って、タイ国境の町ポイペトに着いた。前日降った雨で、道路はひどくぬかるんでいる。タイ資本で出来上がった巨大なカジノ街とタイとカンボジア間の激しい国境間の物流で、ここには大量の人が流れ込み、実際の人口は6万とも7万とも言われるが、わからない。
 国境の検問所に立ちながら、何百台もの荷車で行きかう物流を見ていると、まさに弱い国から強い国にすべてが流れるかのようである。弱い国の基本的な食料となる質のいい米や野菜や果物がタイから見れば安値でどんどん流れ出て、貧乏な多数の農民たちが買えないような化粧品や装飾品などの贅沢品がさらに高値で流入してくる。経済の原理を目の前でまざまざと見せ付けられる感じがする。その上、麻薬、人身売買などの犯罪も絶えず、それもこの高低差で流れる。

泥だらけ学生チーム頑張る
 早朝に保健所の前に行ってみて驚いた。子供たちがぞろぞろ集まっているのである。聞くと、前回酒を飲んで来なかったり、マリファナをやっていたりした質の悪い接種チームを全部辞めさせたという。その代わり、学校に交渉して学生を200人雇ったと言うのである。学生はいいけど、せいぜい高校生だろうと思っていた僕の予想に反して、13歳から18歳までだという。ただでさえ子供っぽく見えるクメール人である。本当に小学校の低学年が混じっているように見える。一時間も遅れてくる眠そうな目をこすりながら来る学生もいるし、こりゃ無理だろうと思わずつぶやいた。そのうち先生も含めた20人の監督者が黙々と学生を10人ずつ束ね、おそろいの黄色いTシャツを着せて、泥道の中を自分の持ち場に消えていった。道路は前夜の雨でドロドロだ。スラム化している町の道は足場を間違えると足首まで泥に埋まるほどである。どうなるんだろう。
 後を追って、仕事ぶりを見て驚いた。はじめはワクチンの投与の仕方がぎこちなかったが、それも次第に慣れて、丁寧に記録もしている。驚いたのは、大人たちが皆嫌がった、一軒一軒の声かけを、泥道の中を歩きながら、見事にやっているのである。泥だらけになりながら、黙々と歩き、子供を見つけてはワクチンを投与する学生たちの姿にまさに脱帽である。

接種に行く準備をする学生たち

泥の中を歩く
 高校生のお兄さんやお姉さんは子供にもお母さんにも優しく話しかける。大したものだ。かつてのダメ監督者たちはというと、不思議なもので、今回は、まさに学生たちの親代わりになって頑張っている。水を持ってきたり、お昼の弁当を買ってきてあげたり、休みを取らせたりと世話をして、仕事の仕方を細かく指示している。
 素直な学生たちが優しいクメール人のハートを自然に刺激したようだ。人前で言い争うのを嫌うクメール人たちは、悪い事がわかっていても、面と向かって意見を言う事がほとんどない。ところが優しいクメール人は子供たちに対しては別である。面倒見が本当にいいのである。そしていいお手本にもなってくれる。その結果、この地域の接種率は前回よりも10%以上も高くなった。
 これで、予定していた最も感染の危険の高いカンボジア全人口の50%の5歳以下の子供たちに2回のポリオワクチンの投与を完了した事になる。これが実現したのも、カンボジア政府の決断と、日本政府のワクチン援助、JICAカンボジア事務所のサポート、ユニセフカンボジア事務所のバックアップ、マニラとジュネーブにいるWHOの友人たちの協力のお陰である。この誠意ある支援が無駄にならないためにも、これから定期予防接種で高い接種率を保って、今回のポリオウイルスの伝播を完全に断たなくてはならない。

迷っても、不安でも、まず漕いでみようぜ。
 こんな事をしているうちに僕は50歳になった。早いもんだと思うが、自分が見事に何も成長していないことに驚く。50になってはっきりしたことは、僕にはわからない事がまだどんどん出て来て、頭の中をぐるぐると回っていて、ますます先はどうなるかわからない、ということぐらいだ。
 秋田に一日だけ帰って、秋田大学の医学部と保健学科の学生たちに雑談をさせてもらった。そこで、「先はわからねえんだ。ゴールも目標もない。ただただ行くしくかねーぞ。」と言ったら皆ポカーンと口を空けていた。申し訳ないことをした。
 どうやって生きていこうかなんてことを今も考えている。若い頃は迷う事が一杯あって、先に横たわる未来も社会もはっきりと見えず、不安を感じた。大人になれば、いつかそんな不安は消えて、迷いもないところに行き着くかと思ったが、50年生きた今もやっぱり迷っていて、不安である。何も見えないし、どこにも辿り着かないとわかった。生きていく事は小舟で大きな海原を漂っているようなものだ。陸地は到底見えない。毎日漕ぐ事自体が生きる事だからそれでいい。どう漕ごうかなんてことだけを考えていたいと思う。そのうちにちゃんと死が来る。「迷っても、不安でもいいんだ。まず漕いでみようぜ。」と、そんな事を言いたかったのだが、またしてもうまく伝わらなかったようだ。


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