んだんだ劇場2006年8月号 vol.92
遠田耕平

No62  森の中のピラミッドと天空の城

風疹(三日はしか)の流行
 カンボジアでは乾季が終わり、雨期に入って熱帯の激しい雨が時折降る。お陰で少し涼しくなって助かるが、期待している麻疹疑いの報告が少しも入ってこないので、どうも気分は雨期の空のように晴れない。何かおかしい。確かにいつもの年なら麻疹(はしか)の流行のなくなる時期ではある。その上、毎年何万人も報告されていたカンボジアの麻疹の感染は麻疹ワクチンの全国キャンペーンの後に激減した。それでも、麻疹を疑う「発熱と発疹」の報告は通年あっていいはずである。特に麻疹によく似た三日麻疹(三日はしか)と言われる風疹は、たとえ麻疹がなくなった後でも、流行は続く。
 シェムリエップ県は世界遺産のアンコールワットがあり、観光の影響で人口が急増し、「発熱と発疹」の報告が上がってきてもいいが、一つも報告がない。
 この県は、以前にここでも紹介したポリオのワクチンキャンペーンでも金銭問題があった。まあ、実際に行ってみようということになって、保健省の仲間と出かけた。案の定、県の衛生部はピリッとしない。スタッフの集まっているところで、「麻疹の報告を待っているんじゃなくて、発熱と発疹のあるものなら風疹も含めて何でも報告して欲しいのだけどな。」と話していると、一人のスタッフが、ボソッと呟いた。「それだったら僕の家の隣にいるよ。」という。
 スタッフの言う街中にあるその家に行ってみて驚いた。家の中から全身に細かい発疹のある13歳の男の子が出てきたのである。元気そうだが、まだ微熱がある。初めに熱が出て、3日前から細かい発疹が額からサッと全身に広がったという。僕の診た感じでは風疹に見えるが、麻疹も否定はできない。麻疹の発疹は色素が抜けたように痕がしばらく残るのであるが、風疹では全く残らない。とにかく2年前にあった麻疹の流行以来久しぶりに見る見事な全身の発疹である。「近所にもっといるんじゃないか?」と聞くとこの子の遊び仲間が同じように発疹が出ているといって、友達を3人連れてきた。そのうちの一人はまさに今全身に発疹が出ていて、もう一人は一ヶ月前に出ていたという。さすがに3人とも仲の良い友達である。3人から血液を採取させてもらって、プノンペンで調べる事にした。これは学校でも流行っているなと思ったが、隣のプレビヒア県に移動しないとならない。県の担当者に頼んでプレビヒアに向かった。

地雷の中の遺跡「コッケー」
 実はプレビヒアに向かう途中のアンコールワットから100キロほど離れた森の中に歴史的に有名な遺跡ある。アンコールワットよりも200年も古い西暦900年代に建てられた「コッケー」と呼ばれるその遺跡は最近まで地雷原の中にあり、容易に近づくことができなかったのである。保健省の仲間が最近、地雷が完全に除去され、行けるようになったから行ってみないかと言う。もちろん僕は二つ返事でOK である。
 赤土の森の道を走りながら、地雷処理中の赤いドクロマークの建て看板を横目に、入り口らしき所にたどり着いた。政府の地雷処理班がまだテントを張っている。お堀の跡らしきところを回って、うっそうとした茂みが切れたその瞬間、突然目の前に40メートルもある石のピラミッドが現れた。息を呑む。近づくと、7段に巨石が積み上げられていて、中央の崩れかけた階段の上に新たに木で作ったはしごが掛けられていて、何とか登れる。神殿だったのだろう。気がつくとみんな這いつくばるように登り始めていた。
 最上段にたどり着くと、樹海の上をさえぎるものなく吹き抜けてきた風が、僕の汗ばんだ体に気持ちよく吹き付けてくる。てっぺんにカンボジアの国旗が竹竿にくくり付けられて誰に見られることもなくたなびいている。なんだか少しこっけいだ。足元には、木や草が、こんな高い所でも石の間から茂っている。立って、周りを見渡すと、360度、果てしなく続く緑の樹海を眺望できるのである。ここは、成書によると600年続いたアンコール王朝(802-1432)が一時的に遷都された場所で、ジャヤバルマン2世(928-942)の間だけ栄えたらしい。
 このピラミッドの前には比較的こじんまりとした王宮の廃墟がお堀に囲まれてある。全ては樹海に完全に呑まれていたのだろうが、木を焼いたり切ったりして、最近やっとここまで見えるようにしたという感じだ。観光客が押し寄せるのは時間の問題だろうなと思う。この廃墟には、傾いた石作りの書院などが、驚くことにまだ石の屋根の部分を残して建っている。ただ、お金になりそうな彫り物はほとんど持ち去られた跡らしい。それでも、体の半分が鳥で残りが人間の「ガルーダ」というわれる等身大の石の彫像は現在もプノンペンの王宮の隣の国立博物館の正面玄関に飾られ、観光客の目を楽しませている。それに廃墟の石には当時のクメール文字がまだはっきり残っている。保健省の仲間に聞くと、なんとか読めるが意味はよくわからないという。僕らが日本書紀を読むようなものなのかな?それにしてもクメールの歴史は古い。
 用を足そうとしたら、まだ地雷が残っているかもしれないからあまり遠くに行くなと、近くの村の人に脅かされた。出しかけたものを引っ込めて、車の近くでへっぴり腰で用を足し、再び赤土の道をプレビヒアへ急いだ。村の人に聞いたら、この森の村にも保健婦がワクチン接種に来ているというから感心だ。

コッケーの神殿ピラミッド

第一神殿とカンボジアの国旗

プレビヒア 天空の城
 プレビヒアはカンボジアの北部で、タイ、ラオスと国境を接する森の豊かな県である。プレビヒアでもう一つ有名なのはタイ国境の600メートルの山の上に建つプレビヒア神殿である。神聖な山の上に建てられたこの神殿の完成は889年から1152年に及んだと言われ、アンコール王朝を通して祭事に使われたらしい。
 この山の神殿には歴史にまつわる話が尽きない。14世紀アンコール王朝衰退後の数世紀の間はタイ領土になり、タイでも神聖な山とされていたらしい。19世紀になるとフランスの植民地化の波の中で、1907年カンボジア領に戻される。ところが1957年フランスがインドシナから正式に撤退すると、再びタイが領有権を主張して軍を派遣して占領してしまった(タイから言えば取り戻した?)。これに怒ったのがフランスから独立を果たした若きシアヌーク王だ。国際法廷に訴えて、1962年に再び取り戻した(タイから見れば占領された?)。1979年になるとベトナムのカンボジア侵攻と同時にポルポトの圧制から逃れようとした4万人以上のカンボジア人がこのタイ国境に殺到したらしい。東部の国境では数十万人の難民を受け入れたタイだが、ここでは受け入れを拒否し、国連も無策のままだったという。路頭に迷った何千人ものカンボジア人が飢餓と地雷原の上で命を落としたという。
 その後、この山は侵攻して来たベトナム軍と山に立てこもったポルポト軍の残党との間の激しい戦場になったという。1998年になるとタイとカンボジアが歩み寄って、プレビヒア神殿の観光化の話が一気に進む。日本の援助も入って地雷除去が本格化し、国境はタイが山の9合目の神殿の石段のすぐ下まで領有するということになったらしい。するとタイ側はまたたく間にアスファルトの高速道路をそこまで敷いて、土産物屋から観光バスの巨大な駐車場まで全てを完備してしまった。その後タイが、さらに石段の上の神殿の入り口までの領有権を主張したため、2001年12月にカンボジア政府が軍を送って、一時国境が閉鎖された。

第4神殿の本院

神殿に刻まれたレリーフ
 2年前の2004年に僕が初めてプレビヒアの街を訪ねた時は、すでに国境は開かれていたが、カンボジア側の山道が悪かった。当時その急峻な山道を登ろうとしていたランドクルーザーが悪路のために崖から転落し、何人か死んだと聞いて、行きたいなと思ったが諦めた。ところが今回は道は修復されて大丈夫だと、ちゃんと下見してきた保健省の仲間が言う。ちょうど近くの保健所を見に行く事になっていたので、ついでに行こうと言う。もちろんこれも二つ返事でOKである。普段の仕事はため息交じりが多いのであるが、こういう時は僕も彼らもばっちり共鳴してテンションが上がる。
 雨期の合間の晴れ間をついて急峻な山道を登り始めたが、コンクリートパネルで修理したと言う道もあちこちで壊れている。4輪駆動車でも、しばしば歩くようなスピードでゆっくりと注意深く登ってやっと頂上近くに辿り着いた。すると目の前に第一神殿の崩れた何本もの石柱が、たなびくカンボジア国旗とともに見事に空に向かって突き建っている。その向こう側は長い石段がタイ側に向かって下っている。一方、カンボジア側は尾根づたいに神殿が続き、神殿は4層になって少しずつ登りながら、4つの神殿がそれぞれの回廊でつながって、最後は山頂の本院に達し、崖っぷちまでせり出して終わるのである。まさに天空の城である。
 傾いた石柱に感動していると、同じ色のTシャツを着た団体客ががやがやと登ってくるのである。タイ人の団体さんたちだ。舗装された高速道路が石段のすぐ下まできていて、冷房付きの豪華な観光バスを何台も乗り付けてくる。ふと足元を見ると疲れきったようにしゃがみ込んでいるお年寄りの団体がある。こちらはカンボジアの人たちだ。聞くと2日間かけてトラックで悪路を走り、山を登り、隣の県の村からやっと辿り着いたと言う。この山の神聖さをどちらがより感じるのだろうかと、複雑な気持ちで彼らの顔をみた。するとはじめの回廊の石畳の横に「私達はカンボジア人に生まれたことを誇りに思う。」とクメール語と英語で書かれた大きな看板があった。誰がこんなものを作ったのだろうと思うが、正直嬉しくなる。そのままの気持ちをそこにしゃがみこんでいるカンボジアのお年寄り達に伝えたくなった。経済の格差、国の強弱の差を露骨に目の当たりに見るとき、こんな形のナショナリズムが却って心を和ませてくれる。
 神殿はアンコールワットよりさらにずっと古いにもかかわらず、その形を実に見事に残している。貴重な品はタイ人、ベトナム人、カンボジア人によってかなり持ち去られたらしいが、岩の建物に残る数々の深いレリーフは素晴らしい。雨風の厳しい自然に晒されながらよく残ったものだと思うが、森の木などの植物による侵食が少なかった事が下界の遺跡に比べてよかったのかもしれない。最上層の第4神殿は本院が半分崩れているものの他は全て石の屋根が崩れずに残っている。本院の裏の崖淵に立つとタイ、ラオス、カンボジアの国境の山と樹海が一望でき、そのまま空に飛んでいきそうである。
 盗賊の何人かはここから足を滑らして谷底に落ちたと地元の人が教えてくれた。神聖な山の所以である。近く世界遺産になる話があると聞いたが、そんなことには余り興味がない。ただ、天空の神殿の自然との一体感はこの地をアンコールワットの遺跡群よりもさらに魅力的なものにしていることだけは確かだった。

神殿の下に広がる国境の山と虹

神殿の裏の断崖と国境の山と空

ラッキーの続き 学校と孤児院の風疹の流行
 怠け者で正直者の僕は、仕事はほどほどで遺跡探訪にうつつを抜かしていた後ろめたさも保健省の仲間としっかり共有し、赤土の道をシェムリエップ県まで戻った。「発熱と発疹」の子供達はどうなっただろうか。県の衛生局のスタッフと子供達の通っている学校に行ってみた。学校の先生達はもう3ヶ月前から少しずつ発疹の子供達が出ていたと教えてくれた。先生達は流行はもうおさまったようだといったが、一つ一つ教室に入って子供達に聞くことを許してもらった。
 可愛い子供達が教室に一杯だ。「チュムリップスオ(こんにちは)」とみんな立って丁寧に両手を合わせて挨拶をしてくれる。「熱が出て体にブツブツの出たお友達知っている?」と聞くと、指差しながら「あの子よ。」何人かの子供たちが前に出てきた。元気だけどまだ全身に発疹がある。すると一人の子が「この子達、みんな孤児院の子たちよ。」と言う。孤児院はどこなのと聞くと、なんと学校の隣だ。行ってみると、孤児院の先生達も協力してくれて数人の発疹のある子供達を見つけてくれた。血液を採取させてもらってプノンペンに持ち帰った。検査の結果は風疹。すぐに学校にも孤児院にも報告した。この流行、期せずして、血液検査で確認されたカンボジアで初めての風疹の流行となった。ラッキーの続きである。でもラッキーは続かない。この次のフィールドはもっとまじめにやろう。


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