んだんだ劇場2006年10月号 vol.94
遠田耕平

No63  やっとの休暇

休暇が入ったために、9月号を休稿してしまいました。陳謝。秋田弁ではこういうのを「だじゃくでねえが」と言うのでしょうか。5年以上休まずに書いてきたのですが、僕の文章を楽しみにしていた読者の方には、深くお詫びします。「休暇なら暇で、書けるだろう。」とお叱りを受けるところですが、僕の休暇は移動の連続、パソコンを持って歩く習慣のない僕は根性なし「だじゃく」で、書けなくなってしまうのでした。

休暇直前の衛生局長会議
 僕の休暇中の間抜けな話をする前に、少しこの話を。
 いつもとる時期に休暇をとりそこね、時期はずれの休暇を心待ちにしながらも、ワクチン不足の対策や、他のワクチン関連のレポート等、やる事が次から次へと重なり、多少うんざりしていたところに、実は一番大切な会議が待っていた。それが、上半期を総括する衛生局長の会議。
 実はこの会議、例年は保健省の真面目な準備にもかかわらず、なんとも形式的。衛生局長はあまり参加せず、副局長を代理で出席させ、その連中さえ、プノンペンにいる日当だけ貰って会議には半分程度しか出ない。会議での議論もほとんどせずに、後は別な用事をプノンペンで済ませている。業を煮やした保健省は地方都市の小さなホテルで開催して、2日間参加者を缶詰にして討議すると提案した。結局は同じ結果に終わるのではと、危惧しつつ、もう一つ大きな仕掛けに期待した。
 実は2年前に政府が突然、保健師が村に行って予防接種をする費用を、保健所から半径10キロ以内の村には出さないといって、予算の大幅な削減をした。当時、保健所ではなく、村に出向いてやる予防接種に100%依存していたため、定期予防接種は大きな打撃を受けると誰もが予想した。たぶん全国の80%の地域では、村に行く足代が出なくなると予想されたのです。ところが、予想に反し、接種率はほぼ維持された。「それなら、いいじゃないか。」と、言われそうですが、どうしても変なのです。各県の担当者が、お金がない、予算がない、と散々政府に文句を言い、別な支援をよこせといい続けるのですが、保健師たちに聞くと、以前より大変だが、何とかやれている。予算が遅れるものの、別な予算を回したり、外の団体の支援を受けたりしているという。それなら、本当にいくつの郡が、政府なり、外の団体からの支援を受け、どこが本当に困っていて、今支援を必要としているのか。実はこれが保健省も分からない。面と向かって問い詰めないカンボジアの習慣が、その辺を見事にあやふやにしている。どうせ、衛生局長に聞いても、予算はないの一点張りで、何もわからないだろうという諦めがいつもある。でも、やって見ようと僕は発破をかけた。衛生局長全員に、発言してもらって、各郡の予算と支援の実態を話してもらう。事前に文章で各県に通達も送った。

 さて当日、狭い会議室に24県から60人以上の参加者がひしめいた。24県のうちの半分以上の県からは衛生局長が来ている。上出来だ。顔に覚えのある局長、次長達が、得意の口調で発表するが、予想していたとおり、あまり肝心な事を言わない。そこで憎まれ役の出番である。
 保健省の責任者のスーン先生が僕に自由な質問を許してくれた。一人の発表が終わる度に、「すみません。」と手を挙げては、「そこの郡はどの団体が支援しているのですか。」「そこの郡はどのくらい支援されているのですか。」と、突っ込む。「どの団体の支援もないなら、県はどの予算を使って支援しているのですか。」とさらに突っ込む。
 ある衛生局長は、自分の県は外部の支援なんかなくても大丈夫だと豪語した。みんなからすごいなーと、感嘆の声が漏れたが、次の瞬間、爆笑の渦になった。何を言ったのかと思ったら、「自分は県の財務のトップの奴と親友だから、そいつが予算の別枠を取って都合をつけてくれるんだ。友達は大切だぞ。」と言ったらしい。休憩の時間に彼の周りに人だかりがして、みんながどんな裏ワザを使ったのかさらに聞いていたらしい。後で聞いたのだが、結局、財務の親友に手数料を50%も払っていたという。真面目な局長連中はうちの県じゃ無理だなと肩をすくめた。
 もちろん不正経理はよろしくないが、予算がいったいどこに流れてしまうのか皆目不明瞭な国では、中央政府に負けないしたたかさで、予算をぶんどり、自分の県のスタッフの面倒を見て、仕事を何とかやらせる責任感も県のトップの技量のひとつではあるのだ。
 不思議な事に、誰も途中退席する人がいない。全員が他の県の実情や、予算取りの裏ワザに耳を澄ましている。癖のある連中の本音ぎりぎりの話をみんなが楽しんでいるのである。作戦成功。僕は2日間憎まれ役を演じ続け、彼らの答えを一言も聞き漏らすまいと、トイレに行く時間さえないほどだった。
 2日目の終わりには、困難だと思われていた郡のうちのかなりが外部の団体の支援を何とか来年の上半期までは受けている事が分かった。結局、24県75郡のうち、18郡だけが少ない県の財政だけに頼っていて、そのうちの50%程度が中央政府からの支援を早急に必要としている事がはっきりしたのである。
 もちろん、問題の解決にはほど遠いが、小さな一歩である。ぼんやりと暗かった襞のある布をテーブルの上に広げてみると、襞が伸びて全体の感じが少し明るくなった。県の責任者たちの目も心持ち明るく見える。僕のひいき目かもしれないが、保健省の仲間達はなにやら自信のある笑顔を見せた。成功の鍵は結局、自分の国を思う心で繋がっている彼らクメールの人たちの人柄と言うことなのだろう。

やっと休暇で一時帰国
 やっと休暇だと、荷物をまとめて女房と満席の日本に向かう夜行便の飛行機に乗った。ところが、どうも喉がいがらっぽい。もしかして、、、そう言えば、保健省のスーン先生が風邪を引いて咳き込んでいたなと、思い出したが、もう遅い。日本に戻った日から2週間咳が止まらなくなかった。ついていない。全くついていない。
 目黒の駅で3人の子供達と待ち合わせをした。サレジオ教会の地下の墓地(クリプタ)に眠る僕の母の墓参りをしようと決めていた。はじめに時間通りにちゃんと待っていたのは案の定、几帳面な長男である。次に現れたのが相変わらず寝坊助の次男、最後に1時間近く遅れて現れたのが、やはり案の定、長女である。みんな性格どおりの現れ方をする。携帯を皆持っているので、少しは時間通りに事が進むのかと思いきやそうでもない。思えば携帯があるからといってだれも時間を守る気持ちになったわけでもなく、携帯ゆえに言い訳の数が何十倍にも膨れただけのことらしい。今や生まれたばかりの赤ん坊から神様に召されるご老人まで日本の全人口の3人に2人は携帯を持っているという。僕は今だに仕事以外では携帯を持たない。
 教会の中庭で、気さくで日本語の実に流暢なイタリア人の主任神父と偶然会い、家族全員を紹介。地下のクリプタに降りて行くと、2メートルほどの高さで上下5段のロッカーが小さな祭壇の向かって奥行き4〜5メートル程で数列並んでいる。それがお墓である。一個3-40センチ四方のロッカーの正面に名前と洗礼名が刻まれている。中央列の中段あたりのロッカーにマリアテレジアという洗礼名の母の名前をみつけた。その前で、5人で静かに手を合わせる。
 入り口にある簡単な記帳用のノートをぱらぱらと見るのが僕がここを訪ねた時の癖だ。クリプタに眠る親族縁者に向けて書いた一言を盗み見るようなのはいけないと思うのだが、つい見てしまう。「OOちゃん、また来ちゃった。また来るね。」と、幼い子供を亡くした親の一言が何日も続いていた。見ているうちに目頭が熱くなる。目をノートに戻すと、一言「元気です。」と、こいつはなんとも味気ないなと思って見ると僕の弟の名前だ。一番下の弟夫婦が最近来たらしい。あいつらしい。

 以前ここでも紹介した事のあるぺトラッコ神父を隣の修道館に訪ねた。あのぺトちゃんである。80歳を越えた今もヘルニアと心臓の持病はあるものの相変わらずお元気である。僕らの顔見るなり「おお、マンマミーヤ!」と例の岩のような厚い手で5人と握手し抱擁した。興奮させたくないのであるが、若い人、特に若い女性を見るとやたらとテンションが上がる。案の定、長女の手を握って離さない。「これから咲く花、きれいに咲く花、すごーい、すごーい。」「花には何が必要ですか?そう、そう、タイヨウ、太陽。おお、マンマミーヤ。」と少し意味不明な部分もあるが、とにかくすごい。ぺトちゃんパワーにやっぱり圧倒される。これ以上興奮すると神様の所に行ってしまいそうなので、また来ますねと約束をして、もう一度しっかり握手をして、教会を後にした。

ぺトちゃんと家族とのショット

秋田へ
 秋田には甥っ子と次男も一緒に来た。免許取立ての息子と、高速を運転した事のない甥っ子の目的の一つは東北自動車道で運転の練習をしっかりすることだった。運転しないで助かると思いきや、これが結構疲れた。無事家に到着。家の前に立つと、この冬の豪雪で一階の屋根まで降り積もり、雪まみれだった家が嘘のように素っ裸になっている。その代わり、大して自慢もできない小さな庭の木の枝は折れ、雑草で茫々である。夏は夏で仕事が待っている。雑草取りは苦手だ。やめろといっても動き続け、働き続ける女房と違い、僕は生来の怠け者。庭にある木や草を見るのは大好きなのだが、まめに手入れをしようという気にはならない。ならないから女房に白い目で見られながらも、まめな、いい亭主ぶったりもしない。そのうえ、あの草取りのしゃがんだ姿勢でぎっくり腰になった事がある。野育ちの女房とはやはり違うんだと勝手に自分に言い聞かせる。今年はラッキーだ。息子と甥っ子に号令をかけただけで、すっかりきれいになった。
 少し咳がおさまってきたので、愛用の自転車に乗って大学のプールを見に行った。実はこの冬の豪雪でドームを支えていた支柱が折れて屋根が崩壊、全て崩れ落ちたのである。とうとう大学のプールも使えなくなったなと、諦め半分で見に行ったのである。ところが、どうだろう。つぶれたドーム状の屋根はきれいに取り除かれ、ちゃんとプールが青空の下にあった。20年前の姿に戻っただけのことだ。屋根のあったところには僕が学生時代に見たと同じ夏の青い空と白い雲があった。そして足元には青く澄んだプールの水。風で揺らめくコースロープ。50オヤジの僕は、学生がいないことを確かめて、着ているものをかなぐり捨て、「うぉー。」と奇声を発し、プールに飛び込んだ。最高。

 もう一つ、珍客に遭遇。僕の家は大学本部と医学部の間に横たわる小高い丘を宅地にした場所にある。そこはもともと「仁別国民の森」と呼ばれる森から連なる山が最後に町に突き出して終わった部分だ。つまり森とつながっている。この小高い丘の西の斜面をまっすぐ自転車で下ると大学のプールに辿りつくのだが、僕はいつも信号のない近道の杉林に囲まれた斜面のお墓の中を通り抜ける。その杉林を走り抜けようとしたその時だった。ふわっと白っぽい何かが目の前を動いた。カモシカだ。僕は自転車をそこに投げ出してそっとその杉林に近づいた。すると、目の前に子牛ほどの大きさの若いカモシカがキョトンとした顔をしてじっと僕を見て立っている。カモシカはお馴染みの花札の鹿や奈良のお寺にいる鹿とは違い、ウシ科に属する野生動物である。険しい斜面を生活の場として、日本北部の山岳地帯に多く生息している。20年ほど前までは秋田市内でカモシカと遭遇する事はそれほど珍しいことでもなかった。ところが最近は見ることが少なく、僕もここ10年位は見かけることがなかった。
 距離はほんの2メートルほど、手を伸ばすと届きそうだ。大きな黒い目、耳の間に突き出した小さな角、若々しい白い毛並み、凛とした立ち姿、堂々としている。僕に向かって「何だ、おまえは?」と言った気がした。僕は「ただの人間です。」と答える。ただの人間は意味もなく興奮して、喜んでいる。するとカモシカはくるりとお尻を向け、すぐそばの杉の根元に前足を折ってぺたんとしゃがみ込んだ。無視だ。こっちもくるりとお尻を向けた。ただの人間はこのくらいのことしかできない。後ろ髪を引かれる思いで、僕は木漏れ陽の落ちる杉林の斜面を一気に駆け下りた。一瞬の思いがけない夏の出会い。

来月号は夏の続き、突然秋田に現れたフランス人の友達夫婦と大曲の花火のお話を。


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