んだんだ劇場2006年11月号 vol.95
遠田耕平

No64  遠方より来客、楽しからずや

エリックがやってきた
 「日本に遊びに来たよ。」とフランス人の友達から突然電話がかかってきた。エリックだ。僕はそもそもフラン人嫌いである。その理由は14年前ベトナムに赴任していた時にWHOの同僚のフランス人に散々嫌がらせをされた体験から来ている。つまらない話だが、偏見は大体そんな体験から来る。その男は威張り散らす悪いフランス人の見本と言うだけでなく、僕の仕事の邪魔をしては、僕の悪口を電話やファックスでマニラの上司に送りまくったので迷惑した。もちろん彼はみんなから問題視されていたが、僕は当時、彼のために随分と無駄な時間を使わされた気がする。それ以後はフランス人にかなり警戒感を持つようになった。ところがそんな僕にもフランス人の友達エリックがいるわけだ。
 エリックは僕より5〜6歳若い。もちろんフランス人特有のおしゃべりではあるけど、南部の育ちらしいラテン系の陽気な性格だ。10年以上前に彼がコンサルタントでベトナムに来た時にたまたま出会った。現地の人たちに優しく接するのではじめから好感があった。その彼が当時、飲めば「僕の夢はお金を貯めてトルコでべリーダンス(おへそ出して腰を振るダンス)のレストランを経営する事だ。」と真顔で話すので、結構楽しく酒が飲めた。
 そんな彼と5年ほど前、偶然にバングラデシュで再会した時だった。彼は少し照れくさそうに「結婚して12歳の娘のオヤジになってしまった。」と話したので僕はびっくりした。ベリーダンスのレストランはどうなったんだと、思わず問い正したが、幸せそうである。相手はバツイチのグルジア人の子連れの女性だという。グルジアはトルコのすぐ上の国だし、まあベリーダンスとそれほど離れてはいないし、いいか。余程の美人だったんだろうと勝手に納得した。
 それ以後、いろんな国で彼と会うたびに、いつも日本を訪ねたいと言っていた彼だが、お互いの休暇がうまく合うはずもなかった。エリックは今コペンハーゲンにあるヨーロッパWHO事務所で働いている。ところが今回、偶然にも彼が取った休暇と僕が日本の帰国に取った休暇が一致したのである。名古屋の飛行場から秋田にかけてきて、奥さんと日本に着いたという。10日間で東京を見て、箱根に行って、京都を見るという。それでも秋田まで会いに来るというから根性がいい。もちろん大歓迎、秋田は任せておけと豪語。
 大阪からの最終便で秋田に到着したエリックと久しぶりの再会をした。少し頭が薄くなったかな?奥さんのニナは黒髪、すっきりした鼻筋、彫りの深い目と黒い瞳。確かにエリック曰くエキゾチックな美人さんだ。我が家に着くと早速祝杯。
 注がれる秋田自慢の日本酒を「オイシイ。オイシイ。」と二人ともぐいぐい飲み干す。「アルコール度はウオッカと比べれば問題にならないわ。」と笑う。それはそうだろう。じゃ、焼酎はどうだと勧めると、これもグビグビと飲み干す。相手が悪い。グルジアはワインが有名で、客人が来ると水牛の角に1リットルものワインを入れて、飲み干させるそうだ。水牛の角はテーブルに置けないので飲み干すしかないというからなかなか厳しい。「時差ボケがひどくて、日本の旅行中一週間、ずっと眠れなかったわ。」とニナが言うので、「今夜は大丈夫。」と太鼓判を押した。
 かくして僕の太鼓判どおり、翌朝二人は最高の目覚めで起きるなり「秋田のお酒サイコー。」と一言。朝食を終えて、みんなで角館に向かう。杉林を抜け、広域農道を黄色に色づいた田園の中をどんどん走る。二人は外の景色に魅了されている。「どうだ、きれいだろう。」「こんな見事な水田や杉林はフランスにないだろう。」と秋田自慢しきり。角館でお決まりの武家屋敷を見た後、フランス料理のレストラン「遊び庵」を経営している友人の佐藤さんのお店に立ち寄る。彼は秋田県のカヌー連盟のコーチでもある。出してもらったチキンのソテーの美味しさに二人は感激、「セボン、グランシェフ!(料理長、ほんとうにおいしいわ!)」と記念写真をパチリ。

グランシェフ佐藤とエリックとニナ

角館のエリックとニナ
 それから、田沢湖の駒ケ岳を目指す。去年、女房と来て、天気に恵まれ、眼下の眺望に感動した。ところがあいにく今は雨がポツポツと降っている。8合目まで車で登ってみたものの山はすっぽりとガスに包まれ田沢湖も周りの景色も全く見えない。「ガスってこそ山だ。」と、悔し紛れに記念写真をパチリ。
 山を下りて田沢湖高原にある平沢さん(彼もカヌーの知り合い)が管理する秋駒山荘で温泉に入り一泊する。ヒノキ造りの風呂場に田沢湖の温泉独特の白く濁った硫黄泉のお湯が溢れている。実はここに来たかったのは僕である。カンボジアの疲れをここで流すのが最近の僕の帰国の楽しみである。エリックは熱いお湯はダメだろうなと思ったが、さすがエキゾチックが大好き。外国人には珍しくスッポンポンでお湯に入ったと思ったら、「うーー。」と唸っている。まったくオヤジである。
 風呂上りで、再び酒盛り。持ってきた日本酒も焼酎もよく飲む。平沢さんの手料理も美味しく、僕は酔っ払って、頭がボーっとしてきた。酔いに任せて、「グルジアの女性はみんなニナのようにきれいなら、フランスでもてるだろう。」とオヤジ臭い質問をした。すると、ニナが、「グルジア人の女性をフランスに連れて行って商売するなら、その前にみんなの鼻の整形をしないとならないわ。」という。ニナ曰く、グルジア人の鼻は大きくて高くて不細工なので有名なのだそうだ。ニナはおばあちゃんがロシア人で、ロシアの血が4分の1混ざっているせいで鼻筋がいいのだそうだ。やはり混血は大事だ。
 友人から貰ったワインがあったので、飲ませようかと持ってきていた。すると、ボトルのラベルを見たエリックが「おお、何でこのワインがここにあるんだ。」と奇声を発した。ワインの名前はフランス語で「ローマ法王の新しいお城」とか、書いてある。エリック曰く、ローマ法王庁は中世に一度分裂して、アビィニヨンに遷都したらしい。その時に広大なブドウ園を作ってできたのがこのワインだという。エリックの実家はリヨンの少し南らしいが、このブドウ園にも近いらしい。本当においしい特別なワインだという。
 コルクを抜いて、みんなで少しずつ飲むと、確かに美味い。日本酒や焼酎ですでにぼけていた舌ではあるが、深いまろやかな赤ブドウの香りが口の中に広がった。これはグランシェフの佐藤に持っていってやろうと、ボトルに半分残ったワインを、なんと翌日帰りの道すがら角館の彼の店に届けた。
 後でうろ覚えの世界史を確かめた。ローマ法王庁は14世紀初頭1309年クレメンス5世の時にフランス王権に屈してアビニオンに法王庁を移す。これを「教皇のバビロニア幽閉」とも言うらしい。これは70年間も続く。その時できたのがそのブドウ園でこの有名なワインだったわけだ。その後グレゴリウス11世の時に法王庁はローマに戻るが、アビニオンの法王庁はその後さらに40年間、15世紀の初めまでフランク王国の強大な権力を背景にローマと並立する形で存在していたそうだ。
 平沢さんはワールドカップを何度も現地に見に行っているサッカー狂。エリックは地元のサッカーチームもある根っからのサッカー小僧だ。二人はサッカー談義に大いに盛り上がっている。酔っ払った頭がここは田沢湖だか、グルジアだか、フランスだか認識できなくなってきた頃、平沢さんが手製の手打ち蕎麦を出してくれた。その後はもちろん全員、時差ぼけのない深い眠りについた。
 翌朝、もう一度お湯に入ってから車を飛ばして飛行場に向かった。エリックとニナは佐藤さんから貰った秋田のお酒を胸元にしっかり抱え、「今度はトーダたちがグルジアとフランスに来る番だからね。」と言う。飛行場でもう一度、互いに抱き合って別れた。僕らが彼らの所にいけるのはいったいいつだろう。そんなことは分からない。でも、そう考えるだけで楽しいのである。

大曲の花火
 人ごみの嫌いな僕は全くその気がなかった。ところが一緒に秋田に来ていた無口な甥っ子が「大曲の花火を見てみたい。」とボソッと言うので、じゃ、どの程度混んでいるか大曲の病院で働いている大学時代の親友に聞いてやろうと電話したのである。するとその友人曰く、桟敷席が一つ空いているから来いと言う。「それじゃ、久しぶりに再会もできるし、行くか。」と重い腰を上げた。
 僕が大曲の花火を見たのはもう20年以上も前の事になる。ちょうど卒後の研修で大曲の病院にいた。指導してくれた先生たちも看護師さんもいい方たちで、とてもお世話になった。地元の患者さんたちも優しく、半年余りだったが、僕には忘れられないいい思い出の土地である。当時大曲の花火というと、みんなが雄物川の土手に寝っ転がって頭上に打ち上がる大輪の花火を見ていた。ツツガムシに刺されるのだけは要注意であったが、女房とまだ二人だった子供たちを抱いて、夜空に開く大輪の花火を見て、大いに感動したのを覚えている。当時の桟敷席は鉄パイプを組み立てた簡単な階段状のものがちょっとあるだけだった。その下が暗く、トイレ代わりにみんなが用を足すので「臭かったのなー。」と、桟敷にはそのくらいのことしか覚えていない。
 当日友人の忠告に従って、早々とお昼過ぎの電車に乗って大曲に向かったのだが、もう電車は人で一杯である。僕の隣に立っている髭の濃い、体格のいい中年のオカマの人が発する濃い化粧の匂いというか体臭がどうも気になる。それがなんとも外ののんびりした田園風景と釣合わない。大曲にはきっと全国からいろんな人たちが集まっているんだろうなと想像したら、どうものんびりと外の田園風景を楽しむゆとりがなくなった。

土手から見た大曲の群集
 一時間して大曲に着いて驚いた。駅から土手まで群集の大行列である。ぞろぞろと行列のお尻について、土手まで来る。土手を登り、雄物川を一望してまた驚いた。川上の橋から川下の橋まで約2キロくらいだろうか、足の踏み場もないくらいの人、ひと、ヒトの群れである。この日の出足は75万人だったとあとで知った。たぶん僕は生まれてこの方50年間こんな群衆の中に入った事がない。桟敷は川に沿って延々と続き、自分の桟敷の番号を探してたどり着くだけでも大仕事である。群集の熱気に圧されて僕はすでにフラフラ。大学時代の親友と思わぬところで酒を飲み交わせたのは楽しかった。花火も素晴らしかった。昔は申し訳程度に鳴っていた音響も今は大きく響き渡り、花火の派手さは20年前と比べるべきもない。ただ、どうも感動が、あの当時のような素朴な胸に迫る感動がない。どうやら75万の群集の人の気に吸い取られたらしい。
 帰りの電車でまたあのオカマの中年の人としかも同じ車両に乗り合わせた。75万人もいるのに、よほど縁があるらしい。それにしても大曲には懐かしい会いたい人たちが他にも一杯いたのであるが、その人たちに出会う縁はなかった。「いつか静かな時に来られたらいいのだけどな。」と思い、花火の余韻と群集のざわめきの残る大曲を後にした。
 来月は土地バブルと腐敗で騒がしい今のカンボジアのお話をしましょう。

大曲の大輪の花火

群集と花火


無明舎Top ◆ んだんだ劇場目次