No3−春よ来い−
雪について
2月に入ったらまた強力な寒波襲来で、融けかけた雪も元の木阿弥です。雪が憎くて仕方ありません。世界の事象も人生も「禍福はあざなえる縄の如し」で、これはすごくリアリティーのある言葉だと思うのですが、雪という「禍」の裏側にある「福」はなんなんだろう?と真剣に考えてしまいます。雪の「福」は、あまりに劣悪な自然環境やそこから派生する交通事情などで、沖縄のような軍事基地、公害を撒き散らす巨大工場、自然環境を破壊する大きなプロジェクトなどが簡単に進出できないので、紛争の火種が少ないこと。これだけ冬のハンディが大きいとヤクザも進出するのをためらうだろうし、犯罪発生率もたぶん雪の降らない地域よりはずっと低いはず……贔屓目に見た「福」というのはこんなものかなあ。 日本全国を旅していると、古代から人間は少しでも暮らしやすい場所(雪が降らない温暖な環境)を選んで集い、町を造ってきた、ということを実感します。日本海側と太平洋側では、まるで町の賑わいやその性格までが違います。札幌はどうなの、といわれそうですが、あそこは雪国世界の頂点(限界)都市ですから例外と考えたほうがいいでしょう。日本に札幌クラスの雪国都市をもう2,3つ造るなんてことは未来の経済力からしてもう不可能なのです。雪国とはコストのかかる町、という意味でもあります。 今年の秋田の雪(正確には88年ぶりの大雪というのは秋田市だけです)は、一知半解な素人判断ですが、やはり地球温暖化の影響でしょう。温暖化が進み海水面温度が上昇し、そのためにできた巨大な雲群がシベリアからの寒波に過激に反応しているのではないでしょうか。 仕事は順調に行っても、雪が降っているだけで憂鬱な気分になる、ということを生まれてはじめて感じています。とにかく仕事や楽しみに集中したくても雪が降ることで、その後の不愉快な後始末に思いをはせブルーになってしまうのです。実家のある湯沢市は昔からの豪雪地帯ですが、今年の雪は「ちょっと例年より早い」ぐらいの感覚で、普段どおりの暮らしをしています。雪の少ない秋田市の暮らしに私自身の心身がすっかりなまっているのかもしれません。秋田市の小学生の半分以上がスキーをしたことがない、という事実もこの大雪で判明し、大ショックを受けました。都会っこでもあるまいに、と半畳も入れたくなりますが、この子らが都会に出て、どのようなふるさと自慢をするのでしょうか。 あわただしい1週間でした 1月末日にようやく「冬の愛読者DM発送」を終えた。ぎりぎりセーフ。秋号が10月だったから、これ以上遅れると春号になるところだった。DMは年4回出すのだが、このために新刊案内やチラシを数万枚作り、印刷代や郵送料など1回数十万円の費用がかかる、小舎にとっては大きな販促イベントで、売れる本も金額ベースで200万をこえる。東北の各新聞に全3段1面広告を打っても波及効果は知れたものだが、このDMの愛読者というのは文字通り「本好きの全国の東北出身者が多く、無明舎ファン」といったカテゴリーに属する人たちなので購買パーセンテージが圧倒的に高いのだ。 2月にはいると父の1周忌。あれから1年たったのか。去年のこの日のことは1時間刻みですべて脳裏に刻まれている。東京の国立公文書館でずっとある復刻本のための調査と申請をしていた。法事は、子ども時代の家のまん前にあった料理屋さんで板前さんも経営者も幼馴染。建物も当時のまま。子ども時代の風景と還暦近くなったいまの自分の間にある「時間」のギャップがなかなか埋まらず、複雑な気分だった。仕事に戻ると、1日がかりのISOのサーベランス(定期審査)が待っていて、これも緊張で疲れる。サーベランスは年2回、担当責任者のSが2人目を身ごもったこともあり、将来の状況(継続)はかなり厳しくなりそうな予感がする。 2月2日には晶文社の中村勝哉さんの「偲ぶ会」が神楽坂の出版クラブであり、これだけはどんなことがあっても出たかったのだが、父の法事やISO審査と重なり断念。晶文社は一番影響を受けた出版社であり、学生時代から今に至るまで尊敬の念がまったく変わらない憧れの存在だ。社内にも知り合いが多く、自分の本まで出してもらい、中村社長とも懇意にしていただいた。いまはひたすら出版社の存続を願うばかり。合掌。 明るいニュースは、高齢化の進む事務所にH君という20代の若者が新戦力(アルバイト)として出入りするようになったことだろうか。秋田大学中退で、山チャリで廃道探検を趣味にしている変わり者。「廃道」研究をライフワークにしたいフリーランスなのだ。彼が戦力になると無明舎にも少しは活気がよみがえるかも。でも年寄りに囲まれて、がみがみお小言を言われるのは大変だろうな。 お楽しみについて 雪が気持ちに与える影響なのだと思うが、最近はもっぱらビデオレンタルもハワイを舞台にしたコメディやノーテンキなものばかり。とにかくこれ以上気持ちが暗く落ち込む「問題作」はイヤ。音楽もクラッシクより井上陽水。彼の歌詞はいい。意味不明でも「腑に落ちる」からだ。30年前の曲や歌詞が今になってもリアリティがあるというのは天才だからだろう。若い人の歌を聴いているとその歌詞の稚拙さ、いもっぽさに愕然とする。1,2年しか持たない言葉しか使えないのだ。読書も、できるだけ軽くておもしろくて、ためにならないものを選ぼうとする傾向が強い。去年の暮に『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)をようやく読了。ものすごく感銘したのだが、いまは奥田英朗の『ガール』や『ララピポ』とか、げらげら笑いながら読める本が好き。話題の『県庁の星』はどこがおもしろいのかよくわからないが、最近の小説に必要なのはスピード感と現代性、というのはよくわかる。5年前の小説は、すでにしてその状況設定が通信情報機器などを核に大きく変化しているので、いま読むと違和感がある。この5年で日本や世界の環境は大きく変わってしまったのだ。小説の普遍性とは何か、ということを深刻に考えてしまう。 机にへばりつきながら ほとんど雪のない、穏やかな1週間だった。雪が降らないだけで気分がいいし、心身とも活動的になる。で、唐突に秋田県の自殺率の高さと「冬の閉塞感」はやはりどこかでリンクしているのではないだろうか、などと考えてしまう。それほど今年の雪はダメージを与えたということだ。ひさびさに春の到来を予感させるような天気だったが、個人的には、のどの奥が痛くて、痛みの取れないまま過ぎた1週間だった。「風邪だな」と散歩やストレッチなどをやめ、休養をとるようにしたのだが、なかなか痛みは取れなかった(ようやく楽になったところ)。昔のようにちょっとした体調不良なら一晩寝れば治る、という年ではなくなったようだ。 仕事のほうは、「新しい企画」を考えるのに夢中で、ほとんど机の前に張り付いていた。無明舎の初期のころの舎員で、いまも校正を手伝ってもらっているM君から細かなアドヴァイスをもらいながら、名著といわれた昔の郷土本の復刻をあれこれ考えていた。復刻は、いいなと思っても著作権者や版元の了解が得れなかったり、遺族との折衝が難航することがあり、机上だけではどうにもならないことが多いのだが、ヘタな新刊を出すよりもずっとインパクトが強く、売れたときの喜びもひとしおだ。昔より今の企画を、といわれそうだが、これは決して「後ろ向き」の発想ではなく、ときにはこうして先人たちの優れた作品をリニューアルするというのも版元の重要な仕事、といつも思っている。あ、今週は3回、違う新聞記者の取材を受けた。これもちょっと頻度が高いので書いておいてていいことかも。 |