メガネと住居表示
この週はずっと体調不良で、ソファに寝転がっているほうが多かった。仕事を始める前に事務所でコーヒーを飲み、新聞を読んでるとムカムカしてきて、結局なんとなくエンジンがかからぬまま1日が終わってしまう。どこに原因があるのだろうと必死に考えたら、週末ようやく答えが見つかった。老眼が進んでメガネの度数が合わなくなっていたのである。それで新聞を読んでるときにヘンになっていたのだ。さっそく眼鏡屋で検査をして「遠くは見えにくいが近くはちゃんと見える」メガネを買った。もうこれで大丈夫。
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仕事の調子が今ひとつだったので、気分転換に外に出る(といっても近所を散策するだけだが)機会が多かったのだが、わが町内にはほかと比べて「多い」ものを2つ発見した。ひとつはおコメの自動精米機。これは周辺に農家が多いからだろう。もうひとつが問題なのだが、各町内の住所掲示板である。これがいたるところにある。それもご丁寧に住所だけでなく個人名をもフルネームで書いているものまである。個人情報保護法を持ち出すまでもなく、これはこの辺を徘徊する営業マンにとっては「絶好の目印」。犯罪にも結びつく。小生の名前もあったが「安倍」を「阿倍」に間違えているのはご愛嬌だが、こんなもの出してくれと頼んだ覚えもないし、町内会が会費を使ってこんなバカなことをやったのなら大問題だ。どうやらこうしたもの専門の広告屋さんがやっている仕事のようだが、こうした表示が問題になる日は近い。ガソリンスタンドの中でタバコをすっているようなもの。1日も早くやめたほうがいい。
これが近所の表示板 |
おまけに名前が間違ってる |
ネット書店で変わった「読書の仕方」
ある作家の本が面白いとなると、次から次に同じ作家の昔の本を買い込み読む癖がついたのは、やはりネット書店・アマゾンの影響だろう。昔はこんな本の読み方をしなかった。新刊が面白くてもその作家の過去の作品を書店や古本屋で探し出すには大変な労力が必要だったからだ。それがいまではネット書店で作家検索をかけると昔の本(主に文庫本)がユーズド・プライス(古書価)でズラズラと出てきて、ほとんどが1円から100円以内で買える。面倒な手続きは一切不要で(ここがものすごく重要)クリックすれば数日で本が手許に届き、代金決済はネット書店がすべて代行してくれる。そのための送料や手数料が340円かかるが、ほとんどの本が500円以内で入手できることを考えれば、高くはない。ここで本(古本)を買い始めてから「(リアル)書店は生き延びられないかも」というのが実感に変わった。とくに地方在住者は何十年も「本がすぐに手に入らない」辛酸をなめてきている。面倒な手続きが要らず新刊も古書も瞬時に入手できるこのアマゾンの「仕組み」にメロメロになるのも致し方ない。そんな事情で、三浦しをん、高野秀行、山田稔といった作家の本の周りをあきもせず何周を回っている。この3人が気に入ったというよりも(もちろん好きなのだが)ネット書店で寄り道の楽しみができたので、なかなかこのサークルから脱出できないというのが本当のところかも。ネット書店の出現は「読書の仕方」まで変えてしまったようだ。
原稿とプライバシーについて
(社)日本文藝家協会から「生原稿流出等についての要望」なる手紙が届いた。書面に個人名は書かれていないが出版関係者であれば誰でも知っている、村上春樹の肉筆原稿を、先年亡くなった安原某氏が勝手に古書店に売った事件についての遺憾の意を表した要望書である。生原稿の所有権は著者にあることを表明しているのだが、それはいいとして、これが村上春樹氏の肉筆原稿(「生原稿」という言葉は編集者のスラングで、いい言葉ではないとおもうけど)でなければ、こんなに問題になっただろうか。売り払った人物も毒舌人気評論(書評)家ゆえに、こんな大きな騒ぎになったのではないのだろうか。というのも昔の編集者らはよく作家の肉筆原稿や色紙、短冊の類を小遣い稼ぎに売っていた、とある先輩編集者から聞いたことがあったからだ。個人情報保護法などで、そうしたことに世間の目が厳しくなった、という社会事情もあるのだろう。書面では後半、著作者・遺族の書簡類の公表、刊行にも触れていて、それらも事前に著作者・遺族への許諾を得るべきであることを強く要望している。これはもちろん基本ルールなのだが、小舎の著者の中にも自分の本をいろんなところに贈呈し、その礼状の文面をそっくり印刷(もちろん無許可で)、小冊子にして配るのを趣味にしている年配の御仁がいる。いくら注意しても、そのどこが悪いのか理解できないらしく、いまも同じことを繰り返している。本を貰ってもうかつに礼状は出せない。まあ読者でも買った本に一字誤植があったから金を返せ、本を全部回収しろ、と騒ぐ人もいる。いずれにしてもこれからの出版者や作家は、プライバシーや個人情報の取扱いに、ごくごくナーバスに対処していくしか道はないようだ。
なんとなく本が売れているような……
今年の雪害で痛めつけられた事務所の外壁や屋根、水周りの補修工事がほぼ終了した。保険がおりることになったのはラッキーで、実は保険のことを知らずに工事を発注したのだが、業者さんが「これは雪害なので保険がききます」と教えてくれたのだ。久しぶりにいいニュースだったが、反動はすぐ来た。パソコンが突然クラッシュ、パニックに陥ったのも今週である。新聞連載用の5回分の原稿がパー。ハードデスクが壊れたのでデータを取り出すことができなかったのだ。もう一回同じ原稿を書くのはしんどいなあ。これで夏休みは帳消しになるかも。
週末は、できるだけ外に出ることを心がけている。先先週は鹿角、十和田まで足を伸ばしたし、先週は横手から山内を抜け岩手県湯田町まで行ってきた。とくに何かするわけではなく街をぶらつき、道の駅に寄り、日帰り温泉でひと風呂浴び(実はあまり温泉が好きではない)帰ってくるだけなのだが、机の前に垂れ込めているより精神衛生上いいようだ。あまりよく知らない県境の町を訪ねるのがこれからの週末の「目標」である。
ところで、このごろ新刊ラッシュである。めずらしく本がよく売れているような気がするのだが気のせいかな。このところめっきり選ばれることが少なくなった日本図書館協会選定図書に『東北民衆の歴史』と『わらべうた文献総覧解題』が連続で選ばれ、23日の朝日読書欄に『写真集秋田内陸線縦貫鉄道』が写真入で載った。もちろん選定や掲載はうれしいのだが、実は在庫がほとんどない本ばかりなのだ。増刷すればそのまま残ってしまうリスクがあり、そう簡単に決断はできない。もしかすると初版部数を低く低く抑えていることが「売れている幻想」をもたらしているだけなのかもしれない。新聞社や雑誌社からの取材依頼がけっこう増えているのも気になる。個別の本の取材ではなく無明舎出版そのものを取り上げたい、という依頼が増えているのだ。理由はわからない。