二つの朝廷
時代の流れは足早に過ぎていく。わずか三年の間に鎌倉幕府が崩壊し、建武の新政による後醍醐天皇の政治。そして、建武政権樹立の功労者、足利尊氏の叛乱と立て続けに政変が生じている。後醍醐天皇が掲げた平安朝以来の悲願であった「新政」は、鎌倉の流れを組む武家中心の社会により「失政」ととらえられてしまったのではないだろうか。1336年(建武三年)、足利尊氏は後醍醐天皇(大覚寺統)と対立関係にあった持明院統の光明天皇を擁立し、京の室町に幕府を開いた。世に言う室町幕府である。
尊氏は、なぜ地元である足利(現・栃木県)でなく京都に幕府を開いたのだろう。その真意は分からないが、京に幕府を開くという行為は、朝廷の拠点を制圧し、第二の後醍醐を出さないようにするためだと私は思う。鎌倉幕府の中枢にあり、幕閣を見てきた尊氏らしい判断だと思う。この尊氏の大きな策で、天皇が二人存在する異質かつ奇妙な時代となった。同年12月、権威を失った後醍醐は吉野(現・奈良県吉野町)に隠棲する。これにより尊氏の北朝(室町幕府)、後醍醐の南朝(吉野朝)が分裂し、対立していく「南北朝時代」が始まった。
南北朝時代の大きな特徴は「元号」が二種類存在することである。元号というのは「昭和」や「平成」といった日本の年号で、当時は天皇の崩御のみならず、政変や戦、疫病、飢饉といった災いや朝廷の気分次第で変えることができたものである。奥州などの辺境の地では元号が変わったことも分からず、また知った上で昔の元号を使い続けた豪族諸氏も数多い。私は、この「元号」が当時を知る貴重な歴史的重要資料であると考えている。今回の南北朝時代の場合、例えば北朝暦が延元元年、南朝暦が建武三年といった具合にどちらも公式なモノとして位置づけられている。
「諏訪家系類項」にある家系考証資料には、「17・範稚(左馬頭)」「18・範英(右京亮)」「19・範是(帯刀長)」という南北朝時代を生きたであろう三名の先祖が該当している。この中の記述には南朝に組したであろう記述が数多い。前項でも述べたように先祖が後醍醐の笠置山挙兵に同調したことからも、南北朝時代は南朝方の人間であったことは当然のことと思われる。しかし、それぞれ書かれている年号が北朝暦で書かれている点をつい先日に発見した。南朝方の人間だったら南朝暦で記述するのではないか。そのような考えが頭をよぎったが、謎は深まり、結論には至らなかった。
さて、実際の史実に話を戻そう。後醍醐天皇は吉野へ落ちる途中に「加名生(あのう)」の堀家を行在所とした。「諏訪家系類項」には度々、この後に「加名生」という地名が登場する。私は最初「あのう」と読むことができず家系調査の際、途方に暮れたことがあった。勿論、後醍醐天皇(南朝)に関連する地名だとは知るよしもなかったことだが。ところが、吉野の近くに「賀名生(現・奈良県賀名生町)」と呼ぶ地名を発見したことから、「私の中世への旅」は大きく躍進した。明らかに「加名生宮」は「賀名生宮」であったのである。その理由は先祖と南朝、加名生の接点から追々述べていくつもりだ。
ところで、後醍醐天皇を支えた悪党、楠木正成は前年の尊氏の上洛戦ともいえる「湊川の戦い」で討ち死にしてしまった。余談になるが、秋田県内はじめ北東北には南北朝期の攻防の歴史が多い。特に南朝の拠点であったことが、数多くうかがえると思う。「郷土史事典 秋田県」によると南朝の重臣であり参議の葉室光顕(はむろみつあき)が出羽守として、秋田に赴任してきた。あくまでも伝説の域ではあるが、湊川で倒れた楠木正成の孫である楠木正家が由利(現・秋田県由利本荘市)に入部した。「大内町史」によると旧・大内町役場の敷地内に「楠正家公の墓」と呼ばれるものがあり、実際私も訪れた。さらに信じがたい話だがその楠氏がその後、由利十二頭の打越氏(うでちし)になったという逸話まである。
また、後醍醐天皇の笠置山挙兵の際に三種の神器を持ち脱出した万里小路藤原藤房の墓がなんと秋田市にあるというのだ。実際に1/25000地形図にも「藤原藤房の墓」と大きく表記されている。この事実に非常に興味を持った私はママチャリにまたがり、現地にいってみることにしたのである。その場所は秋田市山内松原にある補陀寺から少し先の山中にある。長々と続く、砂利の坂道は辛かったが「探究心」には変えられない。クマが出没しそうな予感すらした。そして、大嫌いな虫たちが歓迎する真夏の炎天下の中、杉林の中に大きな石碑が見えてきた。これが藤原藤房の墓であるという。どうみても伝説の域からは抜けられない話であるが、なぜかしら南朝の重臣が吉野から遠く離れた秋田で果てたという事実は哀愁をさそった。南北朝の秋田は複雑で、私はまだまだ勉強が必要である。これらの伝説や南朝の拠点「秋田」を知るために、私は無明舎出版から刊行されている「北羽南朝の残照」を参考にしている。興味のある方は是非とも読んでもらいたい。そして、秋田が南朝の拠点であったということは偶然にも今後の先祖の動向にも影響していくのであると私は考えたのである・・・・
南朝は奥州霊山の北畠顕家や北陸の新田義貞を軸に北朝討伐に向けて動き出した。1337年(建武四年)のことである。「諏訪家系類項」には「十七 範稚」の記述がある。「左馬頭 右近衛大将顕能公に属」とある。後の記述は、家系図の下が切れてあり、また私の古文知識の浅さから読めない文字があるなどして正確には読めなかったが、京にて戦死という単語は読めた。ここで、初めてある固有の人物が登場した。前回までは「京に住む」とか「笠置戦死」といったおおまかな歴史の流れしか書かれていなかったが、ついに人物名が登場したのである。ところで「右近衛大将顕能」とは誰のことであろうか。「中世の旅」でも長いこと使っている、インターネットによる検索をここでも使ってみることにした。すると、顕能とは「北畠顕能」であることが分かった。顕能は南朝の重臣、北畠親房の三男で奥州霊山を守る顕家の舎弟だという。ついに大物とも思える人物が浮上した。
南北朝の対立とともに、先祖の動向も激しくなっていく。
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参考文献
・『諏訪家系類項』(諏訪兄弟会)
・『郷土史事典秋田県』(昌平社出版)
・『大内町史』(大内町史編さん委員会)
・『北羽南朝の残照』(大阪高昭著・無明舎出版)
・『週刊 ビジュアル日本の歴史』(デアゴスティーニ)
・『羽顕誌』(http://www.geocities.jp/kitadewa/suwa.htm)
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