んだんだ劇場2006年2月号 vol.86
No6
顕家と義貞

 2006年(平成十八年)1月5日、秋田市内は30数年ぶりの74センチもの類を見ない積雪に埋もれ交通や物流がストップ。まさしく陸の孤島となってしまった。聞くところ34年ぶりだという。実際、私も生まれて初めて「豪雪」といえる雪を見たような気がする。雪が降ることは楽しいこと。そんな考えが私の頭をよぎることはしばらくないだろうと思う。雪を楽しむ、スキー場すら閉鎖に追い込まれているところもあるというのだから・・・・
 「雪」というものが、世の中に及ぼす影響は今も昔も変わりないのではないだろうか。特に歴史的に見た「雪」の影響は殊更に大きいと思う。雪が降ると人々は家から出られなくなる。食料は春のうちに採った山菜を塩漬けしたものや、秋に実った米を備蓄して冬に備える。そのような状況で戦なんてもってのほかである。冬になると戦ができない。秋田における中世末期の戦史を見ても冬季中に戦が行われた形跡はほとんどないのである。さらに人の往来がないということは、中央で起こった出来事の情報が入ってこない。北陸や東北などの日本海側の土地は「雪」が降ると時代が止まってしまうのである。
 雪に関する象徴的な文がある。司馬遼太郎の北越戊辰戦争や河井継之助を描いた歴史小説「峠(新潮文庫)」の文をそのまま引用させてもらう。幕末期、長岡城下の冬支度の場面である。
「(北国は損だ)とおもう。損である。冬も陽ざしの明るい西国ならばこういう無駄な費えは要らないであろう。北国では町中こうまで働いても、たかが雪をよけるだけのことであり、それによって一文の得にもならない。が、この城下のひとびとは、深海の魚がことさらに水圧を感じないように、その自然の圧力のなかでにぎにぎしく生きている。この冬支度のばかばかしいばかりのはしゃぎかたはどうであろう。」
「雪は百害あって一利もなし」
それにも関わらず、雪と向き合っていかなければならない。これが日本海側に住む人々の宿命であろうか・・・・
 1336年(建武三年)の十月。この年の冬も2006年のような尋常ではない雪だったそうだ。日々情勢の悪化する南朝方の新田義貞(にったよしさだ)は恒良、尊良親王(どちらも後醍醐天皇の皇子)を奉じて、比叡山を発ち北陸に逃れようとしていた。叡山のある近江(現・滋賀県)から越前(現・福井県)へ抜ける七里半越は北朝方によってふさがれているという噂を義貞は耳にし、北東に大きく迂回した「木ノ芽峠」を越える方法を選んだ。「木ノ芽峠」は今でこそJR北陸本線の北陸トンネルや北陸自動車道の敦賀トンネルがあるが、その当時はひどい難所だったそうである。その悪路に加え、新田らの軍勢はこの峠で猛吹雪に遭い、数多くの凍死者や脱落者を出し、ほうほうのていで敦賀(現・福井県敦賀市)に着いたと言われている。これは「太平記」の記述であるが、旧暦の十月といってもこの年の冬は著しく寒かったといわれている。
 それを表す内容として、中央公論社刊の「日本の歴史9・南北朝の動乱」によると気候七百年周期説を唱えている人文地理学者の西岡秀雄氏が「寒暖の歴史」において興味深い研究を発表しているとある。その内容は長野県木曽御料林のヒノキの年輪成長曲線が示すところ1336年(延元元年=建武三年)のヒノキの成長が前後の十年に比べて最も悪かった年だというのである。ヒノキの年輪で当時の気候が分かるというのは驚きである。結果から「1336年」という年は前後十年において最も寒かった冬だったのである。旧暦十月といえども凍死者が出たという「太平記」の記述は信憑性が高いかもしれない。
 翌年、金ヶ崎城(現・福井県敦賀市)に拠った義貞は奥州霊山に篭る南朝の北畠顕家の配下、結城宗広に顕家軍の上洛を要請したが、顕家も奥州や関東の土豪の動きや豪雪のために軍勢を出すことはできなかった。北朝方の斯波高経、高師泰は大勢をもって金ヶ崎を包囲して、1337年(建武四年)三月、越前金ヶ崎城は落城し、尊良親王は自害し、恒良親王は捕らわれて京に送られた。新田義貞本人は落城前に越前の土豪、瓜生氏の居城、杣山城へ逃れた。その後、義貞は善戦して越前国府を奪回するも1338年(暦応元年)に戦陣で戦死した。義貞の享年は諸説があって定かではないそうだ。「新田義貞」という男は南朝にとって失うには惜しい人材であったことは確かである。
 同様に南朝の期待の星であった、奥州霊山の北畠顕家には吉野や北陸(新田義貞)から度々、上洛要請の文書が届いていた。しかし、当時の鎮守府将軍「顕家」の立場は「奥州に派遣された」というよりも「奥州に篭っている」というような立場だった。顕家は北朝方に散々に攻撃されていた。しかし、顕家は再三の吉野の要請に応えるため上洛を決意した。1337年(建武四年)8月、幼い義良親王(後醍醐天皇皇子・後の後村上天皇)を奉じて顕家は霊山を発った。下野(現・栃木県)の小山氏との攻防に思いのほか時間がかかったらしく、鎌倉に入ったのは年も暮れようとしていた頃であった。翌年、1338年(暦応元年)の正月二日、顕家は鎌倉を発ち二十日で美濃(現・岐阜県)に入った。1月28日、美濃青野原において顕家は北朝方の高師冬の軍勢と戦い大勝利する。青野原とは現在の滋賀県と岐阜県の県境にある関ヶ原である。後に徳川家康が石田三成を破った地でもある。おもしろいことに、この二つに共通することはどちらも美濃側(要するに東側)から攻め入った軍勢が大勝利をおさめている。その後、顕家は伊勢街道を上り奈良に入り西上するも、同年5月22日、和泉国(現・大阪府南西部)堺浦で行われた戦で戦死した。享年21歳であったという。若き名将として「北畠顕家」は描かれているが、あまりにも早すぎる死であったのではないだろうか。その数ヵ月後、北陸で南朝方は新田義貞を失う。
 義貞、顕家の華々しく激動のクライマックスとなったであろう、凍てつくような1336年。私の先祖も同じく動乱の世の中を生きていたはずである。そう考えると、今まで遠かった「南北朝時代」が身近な「等身大の歴史」となって感じられる。私の先祖であろう十七代、左馬頭範稚は顕家の舎弟、顕能に仕えていたということは前回でも触れた。
 ところで、期待の嫡男を失った北畠親房の悲しみは相当なものであっただろうと推測できる。後醍醐天皇は親房とその次男の顕信を鎮守府将軍に任じて再度、義良親王を奉じて奥州に下向させた。よって、親房の三男の顕能は北畠家の本領、伊勢(現・三重県)を守るため伊勢国司に任命されて伊勢に下向した。私の先祖、範稚がその軍に従属して伊勢に行ったのかは定かではないが南朝の中枢、北畠氏に属していたことは確かである。
 1339年(暦応二年)楠木正成、北畠顕家、新田義貞を追うかのように、吉野の当主である後醍醐天皇が没した。52歳であった。彼ほど動いた「主上(しゅじょう)=天皇」も類をみないと思う。隠岐に流され、幕府を滅ぼし、二つの朝廷を存在させるという激動の時代を経験した、後醍醐天皇。彼は最後まで足利尊氏を滅ぼすことを願っていたに違いない。その最期は右手に剣、左手に法華経を握っていたという・・・・

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参考文献
・『日本の歴史9・南北朝の動乱』(中央公論社)
・『峠(上)』(司馬遼太郎・新潮社)
・『週刊 ビジュアル日本の歴史』(デアゴスティーニ)
・『羽顕誌』(http://www.geocities.jp/kitadewa/suwa.htm)
・『豪雪特集 - 秋田魁新報』(http://www.sakigake.jp/kikaku/gosetsu2006/)


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