んだんだ劇場2006年4月号 vol.88
No8
四散

 「1392年、南北朝時代は後小松天皇により統一された」
通史では、これで南北朝時代は終わったとされている。ちなみに後小松天皇とは北朝方の天皇で有り、かの有名な室町時代の僧、一休宗純の父親と言われているが詳細は不明である。
 男山八幡から四十年。南朝も北朝も争い続けて疲れ果てていた。実際には南朝方の大半の豪族が離反して、室町幕府に帰順したことが「南北合一」の大きな理由だと思う。
 今の我々から見ると「室町時代」という大きな時代の中の前半を南北朝時代、後半を戦国時代と呼んでいる。では中盤は平和な「むろまち」だったのだろうか?その答えはあきらかにNOだと私は思う。南北朝時代から戦国時代、すなわち南北朝合一から応仁の乱までの時代に何があったのか。南北朝と戦国は何処かで繋がっているはずだ・・・
 しかし、私がこう考えるようになったのはごく最近のことである。これも「僕のルーツ」を始めてから考えるようになった。南朝と共に歩んできた「先祖」は、南北朝合一の後、どうなったのか。「諏訪家系類項」の「家系考証資料」によると次のようにある。

「廿四範睦 権大進 長禄元戦死 河野宮仕官」

 大進とは律令制の官位であるそうだ。「大辞泉」によると、「律令制で、中宮職・皇太后宮職・東宮坊・京職・修理職・大膳職などの判官のうち、少進の上に位するもの。」とあるが、難しくてよく分からない。とりあえず、それなりの官位であると思われる。しかし、この当時の人々は、自称官位を名乗っていたので、私の先祖と思われる、範睦の場合もこれに当てはまるだろう。
 この記述で注目すべきところは二箇所ある。まず、一つ目は「長禄元戦死」というところである。長禄元年は1457年ということで、史実上では南北朝も合一されて「平和な室町時代」だったはずだ。しかし、何故そのような時代に戦死する必要があるのだろうか。深い疑問を抱いた。
 二つ目は「河野宮」というところだ。河野宮というのは、何なのだろうか。いつものように、インターネットの検索エンジンを利用して、検索をしてみたが、いつものようにはいかない。情報量が少なすぎるのである。
 図書館などで調べてみると、ある大きな存在が浮上した。それは「後南朝」というものである。南北朝は合一されたのに後南朝とはいったいどういうことだろう?
 森茂暁著の「南朝全史」によると「南北朝の合体条件はことごとく踏みにじられ、履行されなかったことにより旧南朝の皇胤たちは不満をあらわにした。また、室町幕府支配がいまだ完璧とは言いがたく、幕府の内外に幕府支配に反抗する勢力がなお現存したので、旧南朝の皇胤たちはこうした反対勢力たちに担がれて幕府支配に抵抗するような場面が少なからず見られた。」とある。そう、まだ南北朝時代は終わってはいなかったのである。
 この出来事は後醍醐天皇の行った、建武の新政のときとそっくりだと思う。新政の処置に不満をあらわにした足利尊氏。そして、時代は南北朝に分離していった。
 ところで「南朝全史」にある「南北朝の合体条件はことごとく踏みにじられ・・・」とはどういうことなのであろうか。インターネットの百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」によると「南北朝合一時の約束「明徳の和約」では天皇は北朝系と南朝系から交代で出すことになっていたが、1412年(応永十九年)に北朝系の後小松天皇の次代として、その皇子、称光天皇が即位したことをきっかけに、北朝系によって天皇位が独占されるようになったのに反抗して後南朝が起こった。」とある。
 「南朝全史」によると「後南朝」というのは「旧南朝勢力の皇位回復運動」のことをいうそうである。よって、「後南朝」は一つの政府のようなものではなく、むしろ「ルネッサンス」のような、運動を指すのだと思う。しかし、実際には復興運動という名前のような、生易しいものではなく、血みどろに争う戦だったはずだ。
 そこで、後南朝ということで長禄元年に何があったかを調べてみることにした。すると、1457年(長禄元年)から二年かけて起こった「長禄の変」という出来事が有ったことが分かった。「南朝全史」では「嘉吉の乱(将軍暗殺)」で世の中から追われた赤松氏旧臣が神器奪回にかかわる事件」とある。
 以前まで旧南朝勢力と室町幕府の間では、何度も三種の神器の争奪が繰り広げられていた。長禄の変とは、赤松の旧臣が「後南朝」に加わるように見せかけて吉野の奥に潜伏していた、後亀山天皇の孫である、一宮(北山宮)と二宮(河野宮)の兄弟を殺害するという事件である。

 ここで一つの謎が解けた。河野宮とは後亀山天皇の孫で「後南朝」における中心的な役割であったに違いない。しかも、長禄元年に「長禄の変」という小競り合いが生じている。
 「諏訪家系類項」に話を戻すと、私の先祖は長禄の変で戦死したのかもしれない。確証はないがこの二つの注目すべきところが「後南朝」において合致している。
 今までは「左馬頭 右近衛大将顕能公に属」とか「権大納言隆資に従・・・」など河野宮ほど大きな人物は登場していなかった。「河野宮仕官」とは直接、河野宮に仕えたのであろうか。そして、おおよそ長禄の変で河野宮の配下として戦死したのだろう。
 もはや南朝という名は過去の存在だったのかもしれない。何人もの人間がこの世の中の動乱に巻き込まれていった。勿論、私の先祖も「南朝」という幻のために最後まで忠義を尽くしたのであろう。しかし、時代は平和を求めていた。これはいつの時代もそうである。争いを好めば好むほど犠牲が増えていく。しかし、後南朝の抗争は終わることもなく、室町時代は応仁の乱を経て長い長い戦国時代へと道を歩んでいくのである。先祖もまたしかり。僕のルーツは中世にあるのだから。

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参考文献
・『諏訪家系類項』(諏訪兄弟会)
・『大辞泉』(小学館)
・『南朝全史』(森茂暁著・講談社)
・『北羽南朝の残照』(大阪高昭著・無明舎出版)
・『ウィキペディア』(http://ja.wikipedia.org/wiki/)


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