んだんだ劇場2006年6月号 vol.90
No10
南部煎餅と南朝

 2006年3月、岩手県の南部地方を訪れる機会に恵まれた。前々から南部地方を中心に繰り広げられた、安東氏と南部氏の抗争や戦国時代最後の戦と言われている、「九戸の乱」に興味はあったものの、貧乏高校生にはお金も時間も存在せず、南部への旅は、今まで通りの思ったような「即行動」とはいかなかった。ところが、ふと時刻表とにらみ合っていると、JRが大型休暇期間に売り出している「青春18きっぷ」とIGRいわて銀河鉄道の「新駅開業記念きっぷ」の発売日が重なって格安で南部地方を訪れることができるということに気づいた。東北新幹線の八戸延伸により、在来線の東北本線は第三セクター化されて、盛岡〜目時間は「IGRいわて銀河鉄道」、目時〜八戸間は「青い森鉄道」となった。新しい風が吹いて、今までより利便性が高まると思われたが、JR時代より運賃は上がり、沿線住民にとっては不便極まりない「鉄道」となってしまったと思う。新幹線延伸の陰がこのようなところに出たとは、少し意外だった。
 ところで、私のような堅物からすれば、南部という由来がいまいち分からない。日本地図で見ると、北にあるのに南部というのはどうも違和感がある。それどころか江戸時代以前にすれば南部領は本州最北端の領地である。南部の由来を調べてみると、勿論、南部氏に由来する。清和源氏の源義光の子孫が、甲斐国南部郷から奥州に下向してきたと言われている。そういう理由から南部という名前が起こったのである。
 また、南部といえば、南部煎餅(なんぶせんべい)が有名である。南部地方では南部煎餅を鍋物に入れた「煎餅汁」という郷土料理があるそうだ。興味をそそられて土産物屋で購入し、自宅でこしらえてみたが、「すいとん」のような味わいである。煎餅がここまで強調されている料理も全国では珍しいと思う。それだけ南部の人々や地域と深いかかわりをもった南部煎餅の由来は、実は南朝と深いかかわりがあるという。
 デーリ東北新聞社(http://www.daily-tohoku.co.jp/index.htm)のせんべい物語・第1部(http://www.daily-tohoku.co.jp/senbei/senbei1.htm)によると南朝の長慶天皇が名久井岳(現・青森県南部町)の麓にある長谷寺に行幸された際、日が暮れて食べ物がなくて困っていた。そのときに、赤松助左衛門という家臣がそば粉と胡麻を仕入れて、自分の鎧兜を鍋代わりに用いて煎餅を焼いて天皇に差し出したとある。天皇はその風味を非常に好んで度々、赤松に作らせたという。天皇は煎餅に赤松氏の家紋「三階松」と南朝の忠臣、楠木正成の家紋「菊水」の印を焼きいれることを許したという。どう考えても伝説の域は拭えないが、現在の南部煎餅には確かに「菊水」と「三階松」の紋所が焼印されている。なかなか興味深い話である。
 「僕のルーツ・中世への旅」では、長慶天皇については触れていなかったが、長慶天皇は後村上天皇の第一皇子で、即位後、度々続けられていた北朝(室町幕府)との和睦交渉を断絶した強硬派の天皇だったようだ。しかし、南朝の名宰相、北畠親房はこの世の人ではなく、もはや南朝の存続すら難しい時期であった。インターネットの百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」によると、長慶天皇は弟の後亀山天皇に位を譲って南北朝合一がされた後は京に戻った形跡はないとある。長慶天皇の即位も疑問視されることが多く、江戸時代のあたりから論争・議論になっているという。そのため、全国各地に「長慶天皇伝説」があるのではないだろうか。やや、余談が多くなってしまったが、一枚の煎餅からこのような南朝の歴史を垣間見ることができた。少なくとも「僕のルーツ・中世への旅」を執る前に南部煎餅の由来を知ったとしても「へぇ〜」としか思わなかっただろう。楠木正成の家紋「菊水」や長慶天皇のことを知っていたからこそ、知識も満たされ南部煎餅の旨さも増すのであろうか。(そう思うのは私だけであろうか・・・)
 ところで、南部煎餅のネタを出したのは書くネタがなくなったからではない。「長慶天皇創始伝承」における南部煎餅誕生の貢献者となった「赤松助左衛門」のことである。赤松氏というと、播磨(現・兵庫県)の名族、赤松氏を思い出してしまう。播磨赤松氏の出自は村上源氏と云われ、家紋は「三つ巴」を用いた。鎌倉時代末期の赤松家当主は赤松則村(入道円心)で、護良親王の宣旨を受けて、後醍醐天皇の率いる反幕府勢力に加わる。則村は、元弘の役などで活躍するが、鎌倉幕府滅亡後の建武の新政においては足利尊氏と同様に、新政権から疎外されてしまった。以降、頼っていた護良親王が崩じて後ろ盾を失った則村は足利尊氏に加わって北朝の中核武将となった。以降、赤松氏は室町幕府の四職(一色・赤松・山名・京極)となり、室町幕府を支える家となったのである。しかし、満祐の代の時に室町幕府六代将軍、足利義教を暗殺するという「嘉吉の乱」を起こす。これにより赤松氏は幕府軍の討伐を受けて、満祐は殺害された。これにより赤松氏は領地没収に遭い、お家は断絶した。その後の赤松氏は前々号でも触れたが、1457年(長禄元年)から二年かけて起こった「長禄の変」で神器を後南朝から奪回して室町幕府の中核に返り咲いて播磨国に戻ったという。
 私の先祖、権大進範睦は後南朝の河野宮に仕えていて長禄の変で討ち死にしたことは前々号でも触れた。このように、何かと南朝に因縁を持つ「赤松氏」だが、果たして「赤松助左衛門」は播磨赤松氏の一族なのであろうか。まず家紋を比較してみると、播磨赤松氏は「三つ巴」で助左衛門の家紋は「三階松」である。巴紋は木曽義仲の室、巴御前が用いた文様で、宇都宮氏や結城氏などの関東の武士たちが多く用いていたそうである。また松紋は古来より歳寒三友(日本で言うところの松竹梅)に数えられ縁起物として知られていて、人名に地名に好んで名づけられたそうである。「赤松」もその代表格であろう。私の勝手の憶測に過ぎないが、播磨赤松氏と赤松助左衛門の出自は違うと思う。家紋の違いなどもあると思うが、ここまで南朝に敵対を抱いている氏族が、長慶天皇を奉じて奥州に行ってまで、自分の兜で煎餅を焼いて天皇に献上するなど、どうも考えずらい。
(南部煎餅由来の諸説として「せんべい物語・第1部」には煎餅好きの後醍醐天皇(長慶天皇祖父)が「元弘の役」の際に楠木正成と赤松則村の忠勤をたたえて、献上する煎餅に「菊水」と「三階松」の印を焼くことを許したとある。)
 歴史というのはおもしろい。考えれば考えるほど様々な答えが出てくる。数式のようなイコールバーで結ばれてはいないのが歴史。勿論、正確な答えを証明する方法など何処にもない。それでいてイフ(もしも)は禁物というから、難しい。この歴史のおもしろさが、私を虜にしているのだろうか。
 南部への「中世への旅」は実のあるものだったと思う。先祖の足跡がまったくない地方にも先祖に関連のあるルーツを見出せた。これは正直「想定外」であった。さらに、南部と私の先祖には他にも思いがけない繋がりを発見できた。このことは、追々述べていくつもりだ。
 ところで、関東の戦場に散った、30代・兵衛範光については前号でも述べた。だが、範光を最後に再び先祖の軌跡は関東から消える。「諏訪家系類項」によるとその後、先祖は突如として西国に現われる。なんと、先祖は播磨赤松氏のもとに向かったのである・・・・

御意見、ご感想は
kitadewa@hotmail.com
まで御願いします。
参考文献
・『諏訪家系類項』(諏訪兄弟会)
・『索引で自由に探せる・家紋大図鑑』(新人物往来社)
・『ウィキペディア』(http://ja.wikipedia.org/wiki/)
・『せんべい物語・第1部』(http://www.daily-tohoku.co.jp/senbei/senbei1.htm)


無明舎Top ◆ んだんだ劇場目次