んだんだ劇場2006年8月号 vol.92
No12
津軽

 職業インタビューということで無明舎出版の門戸を叩いた瞬間。あの暑い夏からもう一年が経とうとしている。先祖の軌跡を追い続けてはいるものの、私にとって古文の難解な内容や、想像を超える難易度な歴史解釈などこの一年間は常に勉強であった。「先祖調査なんか自分にとっては簡単だ!」と安倍甲舎主に高をくくった一年前が恥ずかしくも思えるが、一年を経て自分も僅かながらではあるが成長したようにも思える。(読者の皆様にとってはただの子供の書いた駄文にしか過ぎないだろうが・・・・)
 ところで、前々号から二回に渡り、播磨赤松氏と先祖の関係について触れたが新たなことが分かったので紹介したいと思う。諏訪家系類項に記されている「三十一 範晴 ○麿弟 播州赤松○○ニ仕フ」という記述の赤松○○の欄には「持彦」という人物名が入るようなのである。正確な確証はないのだが、諏訪家系類項における家系考証資料には「持彦」という字が僅かながら読み取れるのである。果たして赤松持彦とは現存した人物だったのだろうか。また、どういう人物だったのであろう。今までのように、便利なインターネット検索を行ってみたが、一件も検索ヒットが出てこなかった。そこで「持彦」と名前だけで検索すると「有馬持彦」という人物名が登場した。最初、有馬氏と聞いたとき九州のキリシタン大名、有馬氏を想像してしまったが、実際は赤松氏の一族である有馬赤松氏のことだった。有馬というのは有馬温泉で有名な兵庫県神戸市北区の地名である。赤松持彦は有馬赤松氏である可能性が高いことが分かったか、赤松持彦に関してはインターネット検索では確かな確証が得られなかったので詳しいことが分かり次第追々述べていくことにする。
 話は変わるが、先日「諏訪家系類項」の発行者である諏訪稔さんのご自宅を訪問することができた。初対面の私に対して丁寧に応対してくれて感謝しきれないほどの御厚意を頂いた。諏訪さんからは先祖に関する様々な情報を得ることができた。諏訪家系類項には次のような記述がある。

「三十二 範祐 行岳御所仕 龍千代 加名生次郎範茂長男」

範祐の記述については「行岳」の文字の意味を知ることができなかった。諏訪さんと会うまでは「行岳=御嶽」だと思い込んでいた。御嶽は木曽御嶽と呼ばれる長野県木曽谷の西端に鎮座する霊山のことである。ところが、諏訪さんの口から語られた情報は、想像し難いものであった。
「行岳はなまおかと発音して。現在の青森県浪岡御所を指すのだそうだ。」
ということは、「行岳御所」は「なまおかごしょ」と発音して、現在の青森県青森市浪岡の浪岡御所(浪岡城跡)と同様のものであるということになる。これには正直言って驚いた。なぜなら、私はこの事実を知る以前に浪岡御所を訪れているのである。浪岡城跡は国指定史跡の一つで城主は南北朝時代に南朝の鎮守府将軍として奥州に下向した北畠顕家の子孫であるという。浪岡城跡に位置する「中世の館」のパンフレットには、北畠氏の浪岡入りは、1394年〜1428年頃であったと掲載され、南北朝時代、後醍醐天皇の率いる南朝の中心的存在であった北畠顕家が鎮守府将軍として奥州に下向した。その後、その子孫が南部氏の庇護を受けて浪岡の地に入部したと伝えられるとある。戦国期の浪岡北畠氏の当主は北畠具永であった。具永は菩提寺の京徳寺を建立し、都の山科言継に使いを出すなど積極的な当主であったようだ。その甲斐あってか、従五位下侍従に任ぜられるなど朝廷工作に秀でた男であった。この当時、津軽は南部氏の統制の下に北畠氏、大浦氏、大光寺氏の三者が代官という形で治めていた。浪岡近隣では具永が次男の具信に断絶していた「川原御所」を継がせ西側の守りを固めさせた。 1555年(弘治元年)浪岡御所中興の祖である、北畠具永が亡くなり、その後継は直孫の具運が継いだ。しかし、それから七年後の1562年(永禄五年)に川原御所の具信が総領家の具運を突如として殺害する騒動が勃発した。世に言う「川原御所の乱」である。この乱の直後、具運の弟である顕範が川原御所の具信らを討って鎮定したが、この乱を境に北畠一族の結束は崩れたと言われている。具運の死後、幼少の遺児である顕村が叔父、顕範の補佐のもと総領家を継いだのである。
 以上のことから、浪岡北畠氏の戦国時代は激動なものであったようだ。私の先祖、範祐がどのような時代に浪岡に在ったかは定かではない。ただ、私のルーツが南朝に忠節を尽くし南北朝時代や後南朝が終わった時代でも「南朝の勢力」に仕えて忠節を尽くしていたということは確かなようだ。日本最北の南朝勢力である浪岡北畠氏に先祖が仕えていたことは大きな発見だった。
 さらに範祐の長子、範脩(のりのぶ)に関する記述も諏訪家系類項には見られる。

「三十三 範脩 三郎監物 範祐長子 行岳候ス」

範脩も範祐の後継として浪岡御所の北畠氏に仕えていたことが上記からうかがえる。
 2005年8月15日。終戦記念日に私は青森県の弘前に向かうために秋田駅から始発の普通列車に乗り込んだ。弘前への用事は、弘前大学のオープンキャンパスに参加するためであり、車内にもそれに参加するらしい高校生の姿がまばらに散らついていた。大館駅のホームは高校生たちで溢れかえっていた。満員の二両編成の電車は矢立峠を越えて青森に入った。いつもの旅ならば、青森県最南端の駅、津軽湯の沢駅を見ると旅情に浸れるのだが、この時ばかりは都会の満員電車化された奥羽本線であったので、とても旅情などという悠長な気分に浸れる余裕はなかった。弘前駅のホームにつくと「津軽三味線」の発車メロディーが奏でられた。ここではじめて「津軽に来たんだな・・・」という実感が湧いた。弘前大学で少し講義を聞いて図書館で時間を潰していると、ふと浪岡御所のことを思い出した。浪岡はいつも通り過ぎているだけで、実際訪れたことはない町だったのである。私はそのころ私は、秋田の戦国時代を夢中になって調べて歩き回っていたので、文献にかなりの頻度で登場する、浪岡北畠氏や浪岡御所についてそれなりの興味があったのだ。
「これは行くしかない・・・」
いつもの旅癖が始まった。猛暑の昼下がり、弘前から下り電車に乗って私は浪岡駅に降り立った。バスやタクシーに乗れるほどのお金も所持していなかったので、駅前にあった観光案内の看板を頼りに浪岡の町を散策してみた。どれくらいの距離を歩いたかは記憶にはないが、やっとの思いで浪岡城跡にたどり着いたことを記憶している。汗が噴出すような暑さだった。殺風景な城郭を見てここにかつて城があったのかと考えさせられた。と、同時に深い追憶の念がこみ上げてきた。城跡を後にして、浪岡の駅に戻り、田舎館村の川部という駅から五能線快速「リゾートしらかみ」に乗って秋田に帰ることにした。私が幼かった頃の冬も同じようにリゾートしらかみに乗っていたところ、北金ヶ沢という無人駅で3時間も止められた記憶があった。だから五能線にあまり良いイメージはもっていなかった。(天気の影響ですぐ運行がストップする五能線は地元住民から「不能線」と呼ばれ皮肉られている。また、夕陽が沈む光景を間近にできることから失恋列車とも呼ばれている。)
 だから、この日のような天気の良い日に五能線に乗れることは非常に稀なのであった。たまたま私の向かいの席に座っていた紳士が「小説・源頼朝」を読んでいた。その歴史に興味があるだろう紳士は私に話しかけてくれて思わぬところで歴史談義が展開された。その方は横浜の方で、奥さんの実家である秋田に遊びにきていて、一人で五能線に乗っているのだという。その方に浪岡御所や秋田の戦国時代の話をすると、熱心に聞き入ってくださって、私の口からは休むことを知らずにマシンガントークを炸裂してしまった。高校生の身分で先祖を研究しているということを誉めてくださって終点の秋田駅まで楽しい時間を過ごすことができた。
 このような思い出に残る浪岡への旅だっただけに、私の先祖が浪岡に関係しているという事実には本当に驚かされた。諏訪家系類項の中でも詳細が不明な戦国時代。その時代にあって先祖の軌跡を少しでも調べられただけでも大きなルーツへの成果なのではないだろうか。

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参考文献
・『諏訪家系類項』(諏訪兄弟会)
・『浪岡御所と秋田』(http://www.geocities.jp/kitadewa/namioka.htm/)


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