んだんだ劇場2006年9月号 vol.93
No13
北奥羽の戦国時代・1

 これまでは、私のルーツと南朝について、前回は私の先祖と津軽の浪岡北畠氏との関係を述べたが、当時の北奥羽(現在の青森、岩手、秋田の三県)の戦国時代というのはどのようなものであったのだろうか。少し先祖のこととは離れて北奥羽の歴史について述べたいと思う。
 北奥羽では、大きく見てみると、三戸(現・青森県三戸町)に本拠を置く南部氏と、秋田郡を中心に檜山(現・秋田県能代市桧山)を居城とする下国安東(しものくにあんとう)氏の二者が大勢を誇っていた。しかしながら、このときすでに関東では、室町幕府の守護大名から戦国大名化を図った甲斐武田氏や、第9部でも述べたように、素浪人から身を起こして戦国大名となり南関東に大きく勢力を拡大した相模北条氏、守護代の身分から主家の勢力を凌いで戦国大名となった越後長尾氏など強大な勢力が次々と誕生していた。これらの勢力と比較すると北奥羽の勢力は統制がとれておらず関東のそれらと比較できるものではなかった。
 南部氏と安東氏は長年に渡り北奥羽の耕土で争い続けた。この因縁の対決のはじまりは、平安朝に繰り広げられた「前九年の役」まで遡らなくてはならない。
 前九年の役とは、1051年(永承六年)から1062年(康平五年)まで続けられた奥六郡の俘囚、安倍頼時の朝廷に対する反乱のことである。奥六郡とは現在の東北地方の太平洋側北部を指す地名であり、俘囚(ふしゅう)というのは朝廷に捕虜として降った蝦夷(えみし)のことである。1053年(天喜元年)に朝廷は陸奥守、源頼義を鎮守府将軍に命じて安倍氏討伐に乗り出したのである。安倍頼時亡き後も、その子、貞任が朝廷軍を相手に戦い、1057年(天喜五年)の黄海の戦いでは源頼義率いる朝廷軍を破った。しかし、1062年(康平五年)出羽清原氏を援軍につけた源頼義、義家(八幡太郎・頼義の子)によって貞任は討ち取られてしまう。
 安倍貞任は優れた武人であったが、文人としても優れていたと言われている。その故事が「古今著聞集」に記録され安倍貞任と源義家が和歌の応酬をしたという逸話が残っている。衣川の柵から脱出を図った貞任を義家は見つけて「衣のたてはほころびにけり」と貞任に向けて和歌の下の句を叫んだ。貞任はとっさにしころを振り向けて「年を経し糸の乱れの苦しさに」と上の句を返した。この故事の伝説の域はいささか拭えないが、古代奥羽にも和歌の文化が普及していて、貞任のような武人でも和歌の教養を身につけていたことが伺える。
 さて、話を元に戻そう。諸説はあるが安東氏は安倍貞任の遺児、高星(たかあき)を祖とする説が有力だ。一方の南部氏は源頼義の子、義光を祖とする源氏の家柄である。これが因縁の関係と言われる由縁である。高星は津軽藤崎城(現・青森県藤崎町)を築城して十三湊(とさみなと・現在の十三湖)一帯まで勢力を拡大した。これが津軽安藤氏(便宜上、津軽に居を構えていた時代の安東氏を分かりやすくするため安藤氏とする。)のはじまりである。安藤氏は鎌倉時代、執権北条氏の信頼厚く幕府の「身内人」として活躍していた。しかしながら室町時代になると勢力を拡大した南部氏が津軽へ侵攻を開始して安藤氏の領土は南部氏によって切り取られていった。この状況を危惧した、安藤鹿季(あんどうかのすえ)は父や兄には内密に水軍を率いて、津軽の遥か南方の軍勢が手薄な南部領小鹿嶋(現・秋田県男鹿半島)の染川城へ侵攻した。染川を落とした鹿季は、その勢いで当時、三津七湊の数えられていた良港、土崎湊(現・秋田市土崎港)へ侵攻して湊城を手中に治め、そして「湊安東」を称した。 一方、鹿季の兄、安藤盛季が籠城する十三湊は南部氏の攻撃を受け陥落して、蝦夷地渡島(現・北海道松前付近)まで落ち延びた。 数十年後、湊安東惟季(鹿季の孫)は安藤政季(盛季の曾孫)を誘い、南部支配下の国人、葛西秀清の籠る堅城「檜山城」を攻撃して落城させる。以後、安藤総領家は檜山に居住し「下国安東」を称したのである。
 1410年(応永十七年)南部守行は刈和野(現・秋田県大仙市刈和野)で湊安東鹿季の軍勢と対陣していた。現在の秋田県の中央部を占める北浦地方(現・秋田県仙北市、大仙市一帯)を治めていた南部にとって、ここで安東に刈和野を奪われれば北浦全郡を奪われる危険性があった。「南部世譜附録」によると、その緊迫した南部の陣営上空を二羽の鶴が舞って飛び去っていった。守行はこれを縁起のよいものとして全軍に総攻撃を命じた。(なぜなら南部家の家紋は「南部鶴」という二羽の鶴の文様だからである。)驚いた湊安東勢は土崎に逃げ帰ったという。守行は金沢城(現・秋田県横手市)に三男、久慈彦六郎を配置したが、上浦地方(現・秋田県湯沢市一帯)に勢力を張った小野寺氏に攻められ南部氏は自領、陸奥国に撤退したのである。
 湊安東氏と下国(檜山)安東氏は同族ではあったものの、両者は次第に対立していった。渋谷鉄五郎著の「秋田安東氏研究ノート」によると、「湊安東惟季は下国政季を渡島から呼び、兵を合し檜山地区を攻め取ったものの、その後における政季の藤崎に理由のない出兵に、惟季の嗣子昭季をはじめ湊衆は怒り、湊家と檜山家の間は冷却したようである。」とある。どうやら二者の対立の元凶は下国安東政季の津軽出兵であった。津軽藤崎は前にも述べた通り、安東氏発祥の地であり、政季にとって藤崎奪取は悲願であった。1470年(文明二年)に政季は津軽に侵攻したが、藤崎城主の安東義景(安東一族)や浪岡城主、北畠氏の抵抗にあって断念した。これが、同族である湊安東氏ばかりか、自らの家臣の信頼をも失い、1488年(長享二年)家臣の長木大和守に攻められ糠野で下国安東政季は自刃したという。政季の津軽侵攻の時、私のルーツが浪岡御所に仕えていたかは定かではないが、津軽を含めた日本最北の地の状況は平穏ではなかったに違いない。
 秋田における南部氏の動向は15世紀末から弱まっていった。北浦地方には戸沢氏や本堂氏といった国人領主が次々と南部氏から独立した。また比内地方(現・秋田県大館市一帯)には、浅利則頼が南部支配下の独鈷(とっこ)城で挙兵した。独鈷城跡の大日神社に立つ「まつろわぬ者たちの系譜〜歴史は甲斐の国から出ず〜」という標柱によると、「もともと浅利氏は清和源氏の流れを組む甲斐国(山梨県)の領主・武田氏の分流で南部氏、佐竹氏とは古い縁続きにあたる。(中略)甲斐を後にして苦労の末比内にたどりついた浅利一族は、当時南部の支配下にあった十狐(独鈷)城に夜襲をかけ、これを攻め落とし鹿角小豆沢から館平砦(二ツ井)まで百四十五村を領有した。」とある。
 この頃の南部氏の当主は晴政で、後に「三日月の丸くなるまで南部領」と言わしめるほど広大な領土を持ち南部氏最大の版図を築くことになるのである。秋田の拠点を失った南部氏ではあったが、未だその領土は広大であった。北奥羽の戦国時代はこれ以降も南部氏を中心に進められていくことになるのである。

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参考文献
・『諏訪家系類項』(諏訪兄弟会)
・『秋田安東氏研究ノート』(渋谷鉄五郎著・無明舎出版)
・『郷土史事典・秋田県』(昌平社)
・『戦国時代史の謎』(小和田哲男著・U-CAN生涯学習局)
・『ウィキペディア』(http://ja.wikipedia.org/wiki/)


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