北奥羽の戦国時代・2
先月号では、先祖のことから少し離れて北奥羽の戦国時代を南部氏・安東氏を中心に綴ったが、今回も北奥羽の戦国時代を綴ってみたいと思う。
初回の方でも述べたことがあったが、私は長い日本史の中でも戦国時代(厳密に言うと、室町時代末期〜安土桃山時代〜江戸時代初頭なのだが、ここでは敢えて戦国時代と一まとめにしている。お許しいただきたい。)というものが、一番興味があると思う。私のこの時代に関する意欲・関心・執念は誰よりも高いと勝手に自負しているが、ほんとに好きなのである。城館跡を訪れると哀愁に誘われ、隅々まで見たくなる。家のすぐ近くにある神社に立っている一本の標柱を見て、歴史を肌で感じ取る。
思えば、小学五年生の時から今に至るまで数多くの城館を訪れた。両親にねだって東北地方や関東甲信越の城館まで車を飛ばさせた。私にとってはどんなテーマパークよりも城館というものが「遊び処」であり愛しい存在であった。それから一人旅をするようになっても城館跡はこよなく愛し続けた。(自分で言って恥ずかしくなってくるが・・・・)
2002年(平成十四年)私にとっての戦国時代が大きく変わった出来事があった。昌平社で発行した『郷土史事典・秋田県』という書籍の「謀殺された軍師八柏道為」という項目に私の目は釘付けになった。そして、私の住む秋田にも戦国時代が存在したということを大きく自覚した。これ以降「車や鉄道で行かなくては見ることのできない戦国時代」から「身近にもある戦国時代」に私の活動は大きく変化した。それから数年は秋田市内から河辺郡、南秋田郡と自転車を飛ばし名も無いような城跡を積極的に訪れた。林道を走り森の中にもよく入り城館を探し続けたことはいまでも記憶に新しい。以上の内容はいささか誇張してしまったかもしれないが、私の秋田の戦国時代に関する想いは大きい。
「僕のルーツ・中世への旅」を綴るようになってから、やはり真先に気になったのが「戦国時代における先祖の動向」である。「諏訪家系類項」においてでも詳細は分からない。ただ一つだけ言える大きなことは、「先祖の工藤氏が戦国時代あたりに各地を転々としながら、北奥羽にやってきて最後は秋田(由利郡)に土着した。また諏訪姓に改名したのもこの頃。」である。私なりに簡潔にまとめてみたつもりだ。
というような理由で北奥羽の戦国時代を先祖とは全く関係ないのにも関わらず紹介している。しかしながら、父方、母方のルーツともに数百年間秋田に土着しているので、関係はないとは言い切れないのも事実である。
安東氏と南部氏が台頭して凌ぎを削っていた頃、秋田県南部の上仙北(上浦郡・現在の平鹿、雄勝一帯)には小野寺氏が君臨していた。「郷土史事典・秋田県」によると1427年(応永三十四年)に小野寺政道が足利将軍家(室町幕府)に駿馬を献上したとある。
小野寺氏は下野国(現・栃木県)の国人領主であったが、1189年(文治五年)に行われた奥州征伐(源頼朝の奥州藤原氏平定)で軍功を挙げ、雄勝郡(現・秋田県湯沢市一帯)を賜ったといわれている。 その後、小野寺経道が出羽雄勝に下向して稲庭城(現・秋田県湯沢市)を築き、西馬音内(現・秋田県羽後町)などの郡内の要衝に一族を配置して磐石な体制を築いた。
話は室町時代に戻すが小野寺氏の貢馬の記録は1464年(寛正五年)にも存在しており、八代将軍、足利義政の時代までは継続されていたようである。一方、南部氏も将軍家に対して貢馬を続けていたのだが、翌年には小野寺氏と南部氏の抗争が激化。南部馬の進上路がふさがれてしまい南部氏は貢馬ができなくなってしまった。これは南部氏と将軍家のつながりを弱めるための小野寺氏の作戦だったのではないだろうかと「郷土史事典・秋田県」にはある。小野寺氏の16世紀初頭の動向は諸説があって定かではないが、小野寺種道の代の時に始祖累代の居城であった稲庭城を叔父の晴道に預けて種道は沼館城(現・秋田県横手市雄物川町)に移ったと言われている。この移転には稲庭城が領国支配に関して不便になったからと旧・雄物川町教育委員会が沼館城跡に建てた標柱には書かれてあった。1521年(大永元年)、小野寺種道は上洛し、将軍に拝謁した。
話は少し遡るが「応仁武鑑」の出羽の項には小野寺政道が貢馬の際に出羽守護職に任じられて京都の姉小路高倉に居館を構えていることが記されているそうだ。種道もまた、在京の折は姉小路高倉の京屋敷で過ごしていたものと思われる。
種道はその後、沼館に戻り小野寺氏に反抗的な態度を示した柴田平九郎や小笠原信濃守を討って羽後境(現・秋田県大仙市協和)から間室(現・山形県真室川町)まで勢力を伸ばしたという。ところが長年、忠誠を誓っていた小野寺一族の大和田佐渡守と金沢八幡別当の金乗坊が小野寺種道に逆心を抱いたのである。1552年(天文二十一年)6月、小野寺種道は3000余騎を率いて出陣した。種道勢は沼館から真先に佐渡守の籠る朝倉城(現・秋田県横手市横手公園)に向かったが佐渡守は家中きっての戦術家であって容易にはいかなかった。さらにこの情勢を見た家臣の増田大学と浅舞内蔵助が種道から離反。種道は止む無く湯澤城(現・秋田県湯沢市)に退却した。佐渡守勢は種道勢を追撃し、この戦で種道譜代の重臣が多数討ち取られたという。 1555年(弘治元年)に佐渡守は小松山城主(現・秋田県仙北市角館町)戸沢道盛の援護を受けて湯澤城を総攻撃した。種道は矢玉にあたり絶命した。総大将亡き後の湯澤城は成す術も無く落城してしまった。種道の遺児、四郎丸は関口出羽と落合十郎らに抱きかかえられて庄内の武藤氏を頼り最上経由で落ち延びた。
以上のことは深澤多市著の「小野寺盛衰記」に拠ったが、種道の上洛から戦死までは典型的な戦国時代の縮図であると思う。湯澤城が落城した同じ年、信濃川中島(現・長野県長野市)では長尾景虎(上杉謙信)と武田信玄との間で「第二回川中島の戦」が勃発し、安芸厳島(現・広島県廿日市市)では老将、毛利元就が陶晴賢を滅ぼす「厳島合戦」が展開されていた。世の中のムードも最も戦国らしく不穏な時期であり、北奥羽でもそれに似たような戦国が小規模ながらも繰り広げられていた。これぞ「身近にもある戦国時代」の典型であると思う。
また、対立の激しかった安東氏内部での一族の対立も始まるかに見えた。下国安東尋季と湊安東定季はこの危機的状況を脱するために政略結婚を講じた。湊定季の娘を下国尋季の嫡男、舜季(きよすえ)に嫁がせることとなり両者は見かけの和睦に落ち着いた。この頃の安東氏に関する資料も諸説があってはっきり分かっていない。但し、この後二つの安東家は下国安東によって統一されることになる。
その大きな発端となった事件は湊安東定季の後継者争いであった。「秋田安東氏研究ノート」によると、定季には下国家に嫁がせた娘しか子供がおらず、甥の友季を養子に迎えて後継としていた。しかし、友季は不運なことに十六歳で早世。隠居していた定季(鉄船庵)は再び表舞台に立たざるを得なかった。定季は尭季(たかすえ)と名乗りを改めて再度、湊家当主となった。しかし、年すでに高齢の尭季に政務を司ることは困難であり孫の春季(下国家に嫁いだ娘の次男)を養子に迎えたが、これもまた十六歳で早世。1551年(天文二十年)悲しみにくれる尭季も追い討ちをかけるように息を引き取った。後継者が絶えた湊家に目をつけたのは、無論、下国家であった。湊家の重臣の反対を押し切り茂季(舜季三男・春季弟)を湊安東氏後継として湊城(現・秋田市土崎港)に入城させた。このときの下国家の当主は下国愛季(舜季嫡子)であり愛季の母は尭季の娘であった。舜季は1550年(天文十九年)に蝦夷地大規模巡検を行った後急死。愛季が下国家後継となった。
「秋田安東氏研究ノート」によると下国愛季(ちかすえ)の記述として次のようなものがある。
「安東愛季の生涯は、陣営を塒に東奔西走といった戦野に明け暮れた。しかしそうした忙中にも打つべき手はぬかりなく打った。神社・仏閣の保護に手を差しのべ民心の把握につとめ、中央の覇者織田信長に使を派し交誼の絆を固め、己れの顕在を示した。国にあっては檜山郡に接する浅利氏、その東方の南部氏、北隣の津軽氏、内陸にあっては海湊を求め雄物川下流地域の攻略を目指す仙北の戸沢・小野寺氏、由利侵入を企てた庄内の武藤氏駆逐など、まさにあたたまる暇とてない多難な年月を送った。」
湊安東氏に舎弟を入れて懐柔した愛季は秋田郡南部の憂いを絶ち北国攻略に乗り出した。1558年(永禄元年)比内の「浅利王国」を築いた浅利則頼の次男、浅利勝頼を懐柔して南部領と境を接する十二所(現・秋田県大館市十二所)に家臣の大高筑前を派遣。鹿角(現・秋田県鹿角市)の国人、花輪中務と会見して愛季はいよいよ鹿角攻略への準備をはじめた。
さらに愛季は、鹿角攻略前に比内郡内を統一するため、浅利勝頼と共に勝頼の兄、浅利則祐を扇田長岡城(現・秋田県大館市比内)に攻めてこれを滅ぼした。1562年(永禄五年)のことであった。浅利一族を傘下に組み込んだ愛季のもとには阿仁(現・秋田県北秋田市)
の嘉成資清や西津軽の国人が従属を求めてやってきた。1564年(永禄七年)足元を固めた愛季は大軍をもって南部領鹿角へ侵攻した。
鹿角は鉱山の宝庫であり豊穣の田園を兼ね備えており周辺勢力の攻略の的であった。また、「一村一館」とも言われており攻略は容易にはいかなかった。事実、このときの愛季の攻略は成功せず、翌々年に再度、愛季は鹿角へ侵攻。このときの戦では、由利十二頭や蛎崎季広の援軍も取り付けていて万全な出兵であった。しかし、鹿角の堅城として詠われる「長牛城(秋田県鹿角市八幡平)」は容易には落せなかった。やっとのことで、大高筑前が長牛の出城、谷内城を落城させた。じわじわと愛季は長牛城を攻めた。
長牛城跡(秋田県鹿角市八幡平)
愛季は、落城寸前の長牛城主、長牛友義(なごしともよし)に矢文を送った。
「長牛はせたくれ牛にさも似たり あぶにさされて尾をぞふりけり」
友義は返書をしたため愛季の陣に送った。
「あぶ三つ せたくれ牛に食いついて尾にてひしがれ しようこともなし」
同年10月16日、長牛城は落城して友義は落ち延びる。愛季は勝利を収めたのである。しかし、1569年(永禄十二年)来満山から南部配下の石川高信・長牛友義を総大将に、七時雨街道から剛勇で詠われる九戸政実が鹿角に侵攻して愛季の勢力を一掃してしまい、再度、鹿角は南部色に塗り替えられてしまった。
だが、愛季が鹿角を治めた三年間は、日本の歴史上初めて秋田の勢力が鹿角を治めた瞬間であった。南部氏との長い抗争の中で下国安東愛季は鹿角に君臨して南部晴政の咽喉元を衝いたのであった・・・
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参考文献
・『諏訪家系類項』(諏訪兄弟会)
・『秋田安東氏研究ノート』(渋谷鉄五郎著・無明舎出版)
・『郷土史事典・秋田県』(昌平社)
・『小野寺盛衰記』(深澤多市著・人物往来社刊)
・『ウィキペディア』(http://ja.wikipedia.org/wiki/)
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