土着前
群雄割拠の戦国時代、北奥羽の事情については三回に及ぶ「北奥羽の戦国時代」でお伝えした通りである。安東、南部の両氏が領地を奪い合い、多くの小勢力が集散離合を繰りかえし領土を守るために必死になっていた。
そんなとき私のルーツは日本の北の果てで何をしていたのだろうか。残念ながら詳しいことは定かではない。しかしながら、私の最も気になる「戦国時代」の先祖の動向を何とかしてでも調べてみたい。自らの勝手な憶測や夢物語を綴ってみることにする。
まずは、「諏訪家系類項」による資料の記述から抜粋してみたいと思う。
三十二 範祐 行岳御所候ス 龍千代 加名生次郎範茂長男
三十三 範脩 三郎監物 範祐長子 行岳候ス
範興 三郎舎弟 主馬進 範祐四男奥州○○住ス(天正十八年討死)
範敏 三郎舎弟 帯刀 範祐五男 奥州和賀住ス(天正十九年討死)
祐脩 範脩ノ長男 行岳行宮ニ仕官ス大谷諏訪姓祖
※ ○は参考資料の劣化により読むことのできない語句である。
この資料から分かることはごく限られていると思う。三十二代の範祐は「加名生次郎」と名乗った範茂の嫡男である。前にも触れたが加名生(あのう)とは吉野にある南朝の行宮のことである。南北朝が統一されて、「後南朝」と呼ばれるものができたことは第8回でも述べたが、その後、先祖は吉野を追われ放浪人になったに違いない。ところで「行岳」というのは「なまおか」と読み現在の青森県青森市浪岡のことを言うのだと諏訪家系類項の著者、諏訪稔さんからご教授いただいたことは第12回でも取り上げた。その行岳(なまおか)についてもう少し詳しく紹介したい。平凡社刊の「日本歴史地名大系 青森県の歴史」によると次のように記されている。
『天文年間(1532〜55)の津軽郡中字名に「浪岡七郷」という呼称があり「葦町 本郷 皐淵川 百々郷 験所寺 行岳郷 達叟時」とある。ただし「行岳郷」と「達叟時」の関係は不明だが、法然の弟子と言われる金光開基の西光院が中野村にあって行岳山を冠しているから、「行岳郷」は中野村と思われ、「達叟時」が江戸時代の浪岡村とみられる。』
中野村というのは現在の浪岡地内の北中野というところであり黒石街道に沿って北を浪岡川と正平津川が流れている場所で対岸に北畠氏の居館「浪岡御所」があるところなのだそうだ。その中野という処に「行岳山 西光院」という浄土宗の寺院が有るという。
また「日本歴史地名大系 青森県の歴史」の項にははっきりと「行岳=なみおか(浪岡)」ということが書かれていた。この事実は私をおおいに驚かすことに至ったことは言うまでも無い。
浪岡城跡(浪岡御所)は浪岡北畠氏の居館である。浪岡城跡や浪岡北畠氏の概略については、第12回でも述べたが、陸奥に君臨する氏族としての名声は高く、南部氏や安東氏、津軽の諸氏からも「津軽地方の大きな権威」として扱われた名家であったようである。
浪岡城跡(青森県青森市浪岡)
1568年(永禄十一年)に津軽の国人、大浦氏の名跡を為信(ためのぶ)が継ぐことになった。大浦氏は大浦城(現・青森県岩木町)に本拠を置く豪族で有り、藤原秀郷の末裔と言われている。学研の「戦国の戦い(東北・北陸編)」によると、大浦氏は三戸南部氏と姻戚関係を結んだが、大浦氏の勢力拡大を恐れる南部氏によって大浦家当主は四代もの間、軟禁状態に置かれることになってしまう。軟禁を解かれたのは大浦光信の時であり、光信は1491年(延徳三年)に種里城(現・青森県鯵ヶ沢町)に帰還して、1502年(文亀三年)には嫡子の盛信を入城させた。その後、盛信、政信、為則と三代に渡り続くが、為則に嫡子がいなかったため、為則の娘婿として為信が大浦家の名跡を継いだ。為信の出自には諸説があって、南部一族の久慈氏の子息であるとか、大浦為則の弟の子とか定かではないとある。
何はともあれ「大浦為信」という人物の登場は津軽にとっても北奥羽にとっても大きな衝撃になることになる。突然、大浦為信は今まで従ってきた三戸南部氏に反旗を翻すことになるのである。1571年(元亀二年)に為信は石川城・和徳城(現・青森県弘前市)を急襲して攻略してしまう。為信は石川城主を自害に追い込んだ。城主は石川高信という武将であり、南部氏の重臣であり、津軽地方の代官でもあった。1574年(天正二年)には南部氏配下の郡代、大光寺光愛を大館(現・秋田県大館市)に放逐して大光寺城(現・青森県平賀町)を攻略してしまった。
この翌年に、大浦為信は浪岡城を襲撃することになる。「戦国の戦い(東北・北陸編)」によると次のようにある。
「為信の津軽平定戦はなおも続く。次の標的に選んだのは浪岡城による北畠顕村だった。為信はすぐには攻めない。浪岡北畠氏は吉野朝の忠臣として知られる北畠顕家の子、顕成を祖とする名族だ。領民からは御所様と仰がれ、その権威と勢力には侮り難いものがあった。為信がようやく兵を動かしたのは大光寺城攻略から三年半を経た1578年(天正六年)七月二十一日だった。このときも為信は策計を用いた。あらかじめ細作を忍び込ませて城内の攪乱を策するとともに、ならず者や野伏(のぶせり)、郷民などを煽動して城下を混乱させたうえで、浪岡城に襲いかかっている。しかも北畠顕村は助命を条件に開城したものの約束を守らず自刃を要求、浪岡北畠氏を滅亡させたのである。」
為信の奇策によって要害の浪岡城は簡単に攻略されてしまったのである。この中で浪岡北畠一族は四散。たまたま、この時に油川城(現・青森県青森市)を巡検のため訪れていた北畠顕則は難を逃れ、乱後南部氏を頼り落ち延びた。顕則の弟の慶好は秋田の安東氏を頼り落ち延びて、岩倉右近を称することになる。岩倉右近はその後、秋田実季の時代になって一門同様の破格の待遇を受けることになり秋田氏内部での一翼を担っていくことになるのである。
さて、私のルーツの範脩はどうなったのであろうか。浪岡北畠氏に仕えていたものの、「諏訪家系類項」には主家滅亡後のその後の所在が書かれていない。そのルーツを探るヒントは範脩の弟である、範興、範敏の動向だと思う。
範興、範敏は奥州に住んでいて、1590年(天正十八年)あたりに討死していることが読み取れる。浪岡落城後の日本の情勢は大きく変化して、織田信長という天下人の死をきっかけに羽柴秀吉という天下人が登場して全国統一を目論んでいた。奥羽の情勢も変化を続け、米沢(現・山形県米沢市)の伊達政宗が会津(現・福島県東部)の名族、葦名氏や常陸(現・茨城県)の佐竹氏と大いに争い勢力を伸ばし続けていた。また、越後(現・新潟県)の上杉景勝の勢力が庄内(現・山形県北西部)に進出して、山形(現・山形県山形市)に本拠を置く羽州探題の最上義光(もがみよしあき)と抗争を繰り広げていた。また、最上の勢力が由利の諸勢力や仙北の小野寺氏にも介入し始めた。秋田では安東愛季が角館(現・秋田県仙北市)の戸沢盛安との交戦中に息を引き取り、一族内での内紛が起きて南部氏や小野寺氏などの干渉も受けることになったが、その内紛を勝ち抜いた安東実季(さねすえ)が秋田実季を名乗り愛季以来の勢力を盛り返した。津軽では、大浦為信が津軽を統一して南部氏の勢力が衰退した。その原因として他に絶対的な権力を誇った南部晴政が後継者を曖昧にしたまま逝去したことが挙げられる。これを発端として南部氏内部では九戸政実といった有力一門衆と跡継ぎとなった南部信直の勢力の対立が生じた。
しかしながら、奥羽の戦国時代も関白となった豊臣秀吉が発した「小田原攻め」によって終止符が打たれることになる。1590年(天正十八年)関東にあって秀吉に反抗的な態度をとった北条氏政、氏直親子を封じるために大軍を派遣する。世に言う「小田原征伐」である。奥羽の諸将にも小田原攻めへの動員令がくだることになった・・・・
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参考文献
・『諏訪家系類項』(諏訪兄弟会)
・『秋田安東氏研究ノート』(渋谷鉄五郎著・無明舎出版)
・『郷土史事典・秋田県』(昌平社)
・『戦国の戦い(東北・北陸編)』(工藤章興著・学習研究社刊)
・『ウィキペディア』(http://ja.wikipedia.org/wiki/)
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