んだんだ劇場2006年4月号 vol.88
No32 年長さんの岐路

煙るチェンマイ
 タイの正月、水かけ祭りを目前に、じわ、じわと暑くなってきている。あちらこちらで下草を燃やしている煙と、バイクや車の排気ガスが混ざり合って、市内はもやーっと煙っている。
 我が家は市のはずれにあるので排気ガスの害は免れているが、家内工業でレンガを焼いている家が近くにたくさんあるので、やっぱり煙たい。極めつけは隣の家の焚き火であるが、この中にはお隣さんが掃き集めてくれた我が家の落ち葉も含まれているので、私たちに文句をいう権利はない。
 確かにこの季節は暑いのだが、ここ数年の異常な暑さには環境汚染の影響も少なからずあるような気がする。どんどん拡張される道路、増え続ける車。うーん、チェンマイは大丈夫なのであろうか。なんとなく不安である。
 さてタイの学校は長―い夏休みに入った。近所の子供たちは我が家の庭で砂遊びに余念がない。長女と次女の幼稚園はまだ休みに入っていないのだが、彼女たちも帰宅するとすぐに仲間入り。7時ごろまで明るいし、家の中は暑いので、近所の人もみーんな外で夕涼み。全然家に帰りたがらない娘たちをなだめすかしてご飯を食べさせ、お風呂に入れるのが一苦労である。
 リサーチの方はとうとうデータ収集が終了し、これでやっと腰を落ち着けて論文にとりかかろう、と思っているのだが、なんだかんだと用事ができて、なかなかじっくり机に向かうことができない。
 やっと時間がとれて、子供たちのアンケートの結果を入力したと思ったら、なぜかデータの保存がうまくいかず、数時間の努力があっというまに水の泡、、、ということも数回発生。よろよろとよろけながらまたやり直し、となんだか前途多難なのだが、やらねばならぬ。やらねばならぬのじゃー!!と活を入れている今日この頃である。

ベビーカー
 チェンマイではほとんどベビーカーをみかけない。使っているのは外国人だけである。中国でもほとんど使われていなかったような気がする。というよりベビーカーに乗る年頃の幼児を外に出すことがあまりないといったほうが正しいか。一方のタイでは、あちこちで幼児を見かけるが、大抵どの子も抱っこされていることが多いようだ。
 日本でベビーカーはかなり使われていると思うが、ロンドンはそれ以上である。とにかく皆使っている。すごいことに4−5歳と思われる子供までベビーカーに座っている。
 この差は一体どこにあるのか。
 私はこれを人手の差ではないかと考えている。
 例えばタイ人が子供を病院に連れて行くとき。母親と子供、そして親戚と思われる子守要員が一人ないし二人付いて来る。または母親と子供、そして父親というパターンも多い。とにかく家族総出でやってくる。
 一方、日本人が子供を病院に連れて行くときは、ほぼ間違いなく、母と子供のみである。これが欧米系の家族になると、母と子供に父親が混じる率が少し高い気がするが、でもやっぱり基本は母と子だ。
 人手が十分にあるタイのケースでは、ベビーカーなど使う必要は全くない。ところが後者の場合、だれも手伝ってくれる人がいないので、どうしてもベビーカーが必要になるわけだ。
 我が家も人手がないためベビーカー派である。長女も次女も本当にベビーカーのお世話になったが、子供の立場にたって考えてみれば、タイのケースのようにずっと抱っこされている方が幸せなんじゃないかと思う。
 でもこれは親類血族同士のつながりがとても強いタイならではの贅沢で、核家族が標準化している日本や欧米では望むべくもないことなのかもしれない。
 大きな体をベビーカーに押し込んで、おしゃぶりをちゅぱちゅぱしている子供たちと、いつも誰かに必ず抱っこされている子供たち。先進国というものは子供にとって必ずしも住みよいところではないような気がする。

お受験
 長女の現在通っている幼稚園は年中組までしかないため、今年8月からは他の学校の年長組に編入しなければならない。
 そこで先日編入のための面接を受けにチェンマイ市内のとあるインターナショナルスクールへ行った。昨年、長女の幼稚園からはほとんどの子供がこの学校へ進んだし、願書を出した時にも、入学は問題なしと言われていたので、私たちはお気楽にほとんど何の準備もせずにいった。
 ところがなんと現実は厳しかったのである。親にはほとんど質問らしい質問はなかったのだが、長女は、絵を見せられてその説明をさせられるわ、クレヨンの色を言わせられるわ(しかも赤だか茶色だか紫だかよくわからん色のクレヨンを出すわ)、アルファベットの大文字、そしてなんと小文字まで読まされるわ、極めつけには好きな本のあらすじを話させるわ、私たちは長女の横に座りながら冷や汗タラタラであった。
 長女は彼女なりに健闘した。だいたい、ものすごく恥ずかしがりやの彼女が初対面の面接官、しかも男性(おじさん!)に口をきいたという事だけでも、私たち親は感動していたのだ。
 が、、落ちてしまったのだ。その理由は、母親が家で日本語だけを話し、子供への英語のサポートをしていない、長女がアルファベットをよく読めなかった、面接官にあまり話しをしたがらなかった(!)、他に受験した子供の英語力の方が高かった、ということらしい。
 落ちるということを全く予想していなかった私たちは、まさに唖然としてしまった。願書を出した時に、「大丈夫、入れますよ」って言ってたじゃないのー!
あまりのショックに立ち直れずにいると、夫がポツリと、
「そういえば、あの学校って親が欧米人じゃないと入れないって、昔聞いたことがある、、、。」
と言うではないか。おおー、君はなぜそれをもっと早く言ってくれなかったんだ…。
 でも文句を言っていても始まらない。何しろ、滑り止め(!)のことは全く考えていなかったのである。
 そこで大慌てでまた学校探しである。何だかちょうど一年前も同じことをしていたような。全く進歩のない親でほんとに子供に申し訳ない。
 さて、結果がわかった次の日に幼稚園の担任に相談に行った。彼女は、幼児時代は思いっきり遊ぶべき、文字や数字の勉強はあとからでも追いつける、という考え方だ。彼女は、
「だいたい4,5歳の子供を文字が読めるかどうかなんかで評価するのは間違ってるわ。しかも一回の面接だけで判断するなんて。あきらめちゃだめよ。私が直接学校にいって話してくるから。」
と言ってくれた。親としてはそれだけでもう十分である。
 長女の英語に関しては、確かに家では私とは日本語、父親とはカレン語で、英語を話すことは禁止に近い。彼女の一日の大部分を占める英語に、弱い言語である日本語とカレン語が負けないよう、親は必死なのだ。
 そもそも私自身が、幼児に文字を教えることに疑問を持っているので、アルファベットだけでなく、ひらがなでさえも家では教えたことがない。長女自身が興味を持って書いているぶんには好きなようにさせているが、親のほうから教えようとしたことはないのだ。
 でもそれではこの時代はだめなのだろうか。私や長女の担任のような考え方は時代遅れなのか。これから他の学校の面接を受けるために、長女にアルファベットを教えるべきなのかどうか、ちょっと迷っている。
 本当にばかばかしいお受験。でもそれにまかれてしまっている自分をどうしていいのかよくわからない。長女がもっともハッピーな道を選んでやりたいのだが。ああだこうだと悩んでいる私に夫は「たかが幼稚園。高校まで同じ学校で勉強するわけじゃないんだから、考えすぎないほうがいいよ。」といっている。
 たしかにそれはそのとおりなんだけどね。 


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