んだんだ劇場2006年3月号 vol.87
No21
冬だからできる乾燥野菜

軒下の割り干し大根
 とにかく大量の木を切って、割って、薪を作らなければならないので、2月9日、10日(木、金曜日)と連休を取って、名古屋から房総半島・いすみ市へ帰った。土、日も含め4日間はへとへとになるまで薪割りに精を出した。おかげで、材木の山の上に乗っていた大木の主要部分は切り落とし、薪割りも先が見えて来た。
 と言っても、まだまだ時間はかかる。
 温暖の地、房総では日差しも、少し春めいて来たようだ。
 その日差しの中で、かみさんが作った「割り干し大根」が軒下にずらりと並んでいた。正確に言うと、2階にちょっと張り出した物干し台の下である。南に面して、とても日当たりのよい場所だ。

1本ずつひもを通した割り干し大根
 「お父さんと二人だと、大根が食べきれないから」
 今年は何本作ったのか数えていなかったが、父親は毎年、冬の間は毎日食べても間に合うくらいの大根を作る。どれもみごとに育つので、1本だけでも、1日では食べきれない。しかも、私が名古屋へ「出稼ぎ」に行っているので、かみさんと、父親だけではなおさらだ。もうすぐ薹(とう)立ちする季節なので、そうなってはもったいないからと、干すことにしたのだという。
 屋内には、「切り干し大根」も作ってあった。大根の千六本で作る「切り干し」の方が、短時間に干しあがる。が、切る手間が大変だ。それで「割り干し」にしたのだろう。
 大根を10センチほどの輪切りにして、それを八つ割りぐらいにして干すのである。かみさんは、その1本ごとにひもを通し、物干し竿にぶら下げていた。
 「切り干し」にしても、「割り干し」にしても手間がかかる。昔からの野菜保存法の一つなのだが、面倒なので、自分で作る人は農家でも少ないようだ。
 かみさんは、「偉い!」。
 「割り干し大根」は、ある程度のボリュームを保つことができるので、水で戻してから豚肉と煮物にするとおいしい。それに、乾物には、生にはない独特の香りがあって、これがまたうまいのである。
 ところで、この温暖の地に移り住んだ8年前だったと思うが、そのころは元気だった母親が、「この辺の人は、芋ガラを食べないのかね」と首をひねっていた。
 サトイモを収穫したあと、大きな葉を広げていた茎がそのまま畑に捨てられているのを目にしたからだ。サトイモの茎の乾燥品は、一般に「ずいき」と呼ばれて市販されている。これにはこれで専用品種があるのだが、芋を食べる品種でも、茎は食べられる。ただしサトイモの茎は、かなりアクが強い。それを乾燥させると、アクが抜けてしまう。乾物にはそういう効用もある(実際は、乾物を水で戻すときに、アクが流れ出てしまうので、本体にアクが残らないという理屈だ)。
 母親の話を、私も「そうだね、もったいないね」と聞いていたのだが、実際にやってみて、この辺では芋ガラを干さない理由がわかった。
 我が家でもサトイモは、9月下旬から収穫できる。11月に入ると地上部分は枯れて来るので、その後は土をかぶせて凍らないようにおいて、冬の間中、食べたい時に掘り起こせばいい。で、10月ごろは、まだまだ暖かいし、湿度も高いので、芋の茎を干しても、水分が抜ける前にみんなカビが生えてしまうのだ。
 今年の房総半島は3回も雪が積もったし、寒い日が多かった。でも、日光が当たれば、切り割った大根からも水分は抜けて行く。もしかしたら「干し大根」には、絶好の年だったのかもしれない。

山奥のビーナス
 まず、「ミロのビーナス」の写真を見ていただきたい。

青空を背景にしたミロのビーナス
 「どっか、おかしい」と、誰でも思うだろう。
 そう、背景が青空なのである。
 パリのルーブル美術館にある「ミロのビーナス」は、台座も含めて高さが2・5メートルくらいで、通路の真ん中に置いてあり、私も「ふくよかなお尻だなぁ」などと思いながら、ビーナスの周囲を何度も回った。しかし、この写真のビーナスは、屋外にあって、しかも高さは10メートル近くあるだろう。
 これがどこにあるのか、と言うと、三重県一志郡白山町(今年1月に合併して、今は津市)の山奥である。
 伊勢自動車道を南下し、津インターチェンジの次の久居インター(以前は久居市だったが、ここも津市に合併した)で下りて、国道165号を20分ほど走った所だ。国道をそのまま走ると、三重県伊賀市、名張市を経て、室生寺がある奈良県宇陀郡室生村に通じる。かつては「初瀬街道」と呼ばれていた道筋だ。
 「山奥のビーナス」は、国道から、また少し入った山中にあった。すぐそばに、近鉄大阪線の榊原温泉口駅があるが、電車が止まったので「駅があるのか」と気づいたくらいの場所だ。なぜ、こんな所に行ったのかと言うと、この近くに「紀貫之の墓」があると知ったからだ。
 私は今、中日本高速道路という会社に勤めていて、毎月の社内報に「インターから20分紀行」という連載を書いている。高速道路沿線の隠れた見所を紹介しようという企画だ。
 「紀貫之の墓」は「農協の裏にある」と、旧白山町の郷土資料館で聞いたのだが、農協の建物が見つからずに、車を走らせているうちに、「ルーブル彫刻美術館」にたどり着いてしまったのである。その入り口にあったのが「ビーナス」なのだが、その右側には、天使の羽を背負った「サモトラケのニケ」、左側には、アメリカへ送ったものの原型でもある「自由の女神」まで突っ立っているではないか。
 いやはや、「たまげた!」。

びっくりの3巨像
 あとで入手した案内パンフレットによると、「ルーブル美術館の姉妹館」なのだそうで、ルーブルにある本物から直接型をとって再現した彫刻作品が展示されているという。だから、「本物と寸分違わない」彫刻が、屋内にはあるのだろう。
 実はここには、「高さ33メートルの純金観音像」というのもあって、そちらは「大観音寺」という名称になっている。広い駐車場からは、観音像の頭だけ見えた。
 どちらも、個人で建設したようだ。が、創設者の意図はともかく、「悪趣味」としか言いようがない。
 駐車場の入り口に門番のおじさんがいて、「美術館は1500円、純金観音は1000円の入場料ですが、共通券なら2200円です」と言われた。
 「高いですね」と私が言うと、おじさんも「そうですね、高いですね」と気の毒そうな顔をして答えた。もちろん私は、「無料の駐車場」を一周して外に出た。
 さて、「紀貫之の墓」の方だが……農協の建物の裏にへばりつくように、小さな墓石があった。隣に、「明治十六年一千年忌碑」と刻まれた石があった。しかし、いろいろな資料を見たが、「没後千年」が「明治16年」という確証は見つからなかったし、初瀬街道筋のこんな場所と、紀貫之がどんな関係があるかもまったくわからなかった。
 (この「日記」を書くために、インターネットで「ルーブル彫刻美術館」と、「大観音寺」を検索したら、物好きな入館者のルポがあって、大いに笑えた。私は、高い入場料を払わなくて本当によかったと思っている)

ハヤシもあるでよ〜
 私の単身赴任宅がある愛知県稲沢市の、名鉄国府宮駅前のコンビニで、私としては珍しくカップ麺を買った。それが、これ、「名古屋発 オリエンタル マースカレー きしめん」(208円)である。

まさに「名古屋の味」のカップ麺
 製造販売は、寿(す)がきや食品。と言って、ピンと来る人もいるだろう。1990年代に、カップ麺「小さなおうどん」シリーズがヒットしたメーカーだ。ミニサイズのカップに、真空パックの生うどんが入っていて、コンビニ弁当にもう一品ほしいサラリーマンや、若い女性が「これで十分」と人前でダイエット努力を見せたがるのに重宝した。
 そのころ、そういう取材もしていたので、寿がきやが名古屋の会社であることは承知していた。今回の「カレーきしめん」も「生タイプ」である。
 しかし、オリエンタルカレーも名古屋の会社だとは、認識していなかった。
 カップのふたの縁には、「昭和20年インスタントカレーの元祖誕生! 純なカレーの歴史を感じさせるレトロな味わい」と書いてある。それで調べて、いろいろなことが思い出された。
 名古屋市中村区で、オリエンタルカレーが誕生したのは、昭和20年11月。終戦からわずか3か月後のことだ。小麦粉とカレー粉を合わせたものを「即席カレー」として売り出したのだという。つまり「とろみ」もつくカレー粉、というのがポイントである。
 昭和37年には、チャツネを別添えにした「マースカレー」を売り出した。それが「スパイス別添えの始まり」だそうだ。そういえば、「カレーのルーが溶けてから、最後に加える別袋」のついたインスタントカレーが流行した時代があった。
 と、ここまでは、私も知識だけだが、昭和44年発売のレトルトカレーは覚えている。大塚食品がレトルトの「ボンカレー」を売り出したのがその前年で、「長寿商品」という企画記事を書くために、大塚食品へ、当時の商品開発の苦労話を聞きに行ったことがある。もちろん、ボンカレーも、オリエンタルカレーのレトルトも発売当時に食べた。そのころの味は覚えていないが、オリエンタルの方は、「ハヤシもあるでよ〜」というCMが懐かしい。お笑いタレントの故南利明が出演していたCMだ。
 「○○もあるでよ〜」は、当時の流行語にもなった。
 そうか、「あるでよ〜」は、名古屋弁だったんだと、今ごろになって気づいた。
 一方の寿がきや食品は、昭和37年に、日本で初めてスープの粉末化に成功した企業なのだという。4年後に袋麺の「みそ煮込みうどん」を発売したのが、名古屋らしい。
 そして今回、両社のブランドを合わせて「マースカレー きしめん」が出たのだろう。これも、名古屋ならではの「味の融合」と言える。
 ところで、写真の左側に、コック帽をかぶった少年の顔が出ている。これは、マースカレーのキャラクターだ。40年前とまったく同じ写真である。よく見ると、写真のピントが少し甘い。この辺も「レトロ」ではあるが、モデルの少年は、今は50歳を過ぎていることだろう。はたして、今もキャラクター使用料は払っているのだろうか。
 よほど、このキャラクターを大切にしているのか、それとも新しいキャラクターを開発する経費を惜しんでいるのか……「名古屋人はケチ」という先入観で、ものを言ってはいけないのだろうなぁ。


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