んだんだ劇場2006年7月号 vol.91
No25
大穴馬券

生きていた柿の木
 この春、とてもうれしいことがあった。
 枯れたか、と思っていた柿の木の幹から、新しい芽が出て来たことだ。

新しい芽が出た柿の木
 昨年1月の「日記」を覚えていらっしゃる方もいると思う。父親が木に登って実をもいでいた、あの柿の木である。
 一昨年秋の台風22号で、我が家の東側を流れる落合川の土手が崩れ、河川改修をやることになって、造りかえられる土手の範囲内にあった柿の木は「あきらめるしかない」と、日記に書いた。それでも、一応は幹を切り、枝も切り詰めて、河川改修工事に来た建設会社に頼んでショベルカーで掘り起こしてもらい、畑の隅に置いておいた。が、それはそのまま、昨年の夏まで放置されていた。
 夏が過ぎるころ、堤防工事の範囲が確定したので、それに引っかからない場所に穴を掘ってもらい、柿の木を移動して根元にたっぷりと土をかぶせてもらった。もともとの土は、幹の直下にまとわりついていた分だけで、そこからはみ出た根の先端は黒ずみ、「瀕死の状態」だったことは間違いない。柿の木の移植は難しいと言われていたし、「だめでもともと」という気持ちで植え直したのである。
 それが……3月の末ごろ、幹にほんのちょっと切れ目ができて、目を凝らして見なければわからないほどの、ほんとにわずかの緑が見えたのだ。
 名古屋から大原(いすみ市)の家に帰るたびに、緑は確実に大きくなり、数も増え、次第に「枝」の姿を見せるようになった。
 この芽が本当の枝になるには、これから3年はかかるだろう。新しい根がしっかりと大地を抱き込み、枝や葉に十分な水と栄養分を供給するには、たぶん、それくらいの時間はかかるだろうと思っている。父親が登って柿の実を取ることができるようになるには、さらに長い時間がかかるだろう。
 しかし、それは、待てばいいのだ。
 「生きている」ということには、そういう楽しみがある。
 
ボクの花壇
 我が家の西側には、乗用車がやっとすれ違えるくらいの市道(ついこの前までは町道だった)が通っている。その道路向かいの空き地は今、ヒルザキツキミソウの花盛りだ。

風にそよぐヒルザキツキミソウ
 温暖な外房、千葉県いすみ市のこの場所に家を建てた1998年4月当時、道路向かいの空き地には、「ゴミを捨てるな」という大きな看板が出ていた。そのころ、周囲には1軒の家もなく、空き地には、車から投げ捨てられたと思われる空き缶などがあった。
 しかし、なぜ「ゴミ捨て場」になるのかと言うと、そこが雑草だらけの道端だからだ。花がたくさん咲いていればゴミを捨てる人も減るだろうと、私は考えた。それで、表面の土を少し掘り起こし、ヒルザキツキミソウを植えたのである。
 漢字では「昼咲き月見草」と書くアカバナ科のこの花は、マツヨイグサ(月見草)の仲間だ。ただし、昼間に咲く。北米から持ち込まれ、いつの間にか野生化した。野生になれるくらい丈夫な植物で、どんどん四方に根を伸ばして新しい株を作る。
 「ゴミ捨て場」にはもうひとつ、アップルミントも植えた。こいつも「はびこる植物」だからだ。
 計画どおりに、5年もたったら、セイタカアワダチソウとか、ヤブカラシとかの、いわゆる雑草を駆逐して、ヒルザキツキミソウとアップルミントが地面の大半を覆うようになった。おかげで、ゴミはなくなった。いつの間にか「ゴミを捨てるな」という看板は壊れ、姿を消した。壊れた看板が、道路の土手の下の方に落ちていたのを見た記憶はあるが、その後は知らない。あるいは、台風22号の増水で流されたのかもしれない。
 ゴミがなくなったのは、私としては、ちょいと自慢なのだが、かみさんも、父親もたいして評価してくれない。まあ、実を言えば、家の前の花壇はかみさんと父親の縄張りで、「ボクの花壇」を作る場所がなかったという事情もある。その際、家の前の花壇にはびこって困るヒルザキツキミソウとアップルミントを移植したのだ。だから二人は、「モノズキな」というぐらいに思っているのだろう。
 しかし……時々、雑草を抜くために「ボクの花壇」に足を踏み入れると、ミントの香りが充満して、とっても気持ちがよい。
見た目だけではわからない、ひそかな楽しみなのである。

清水の次郎長、荒神山の大喧嘩
 4月12日の名古屋の新聞に、「三岐鉄道北勢線で脱線」という記事が出た。三岐鉄道というのは、「三」重県と「岐」阜県を結ぶ目的でできた私鉄なのだが、桑名をスタートした北勢線の線路は、三重県いなべ市で止まっていて、岐阜県には達していない。
 今回は、鉄橋を渡り終えた途端に車両が脱線したという事故だ。幸い、負傷者はいなかった。事故の原因は、鉄橋を支える橋脚が、増水した川の水で土台部分の土砂が流されて、わずかに傾いたためだった。
 そんな私鉄があること自体を知らなかったので、インターネットで「三岐鉄道」を検索してみたら、「大穴馬券」なるものを売っていることに驚愕した。

三岐鉄道の「大穴馬券」
 桑名から通勤している同僚に、1枚400円の「大穴馬券」を買って来てもらった。よくよく見ると、実は一種の記念乗車券なのである。
 この鉄道にある大泉駅、穴太駅、馬道駅の頭の字を集めて「大穴馬(乗車)券」というわけだ。その乗車賃が400円なのである。「大穴」じゃなくて、「大笑い」の話だ。
 が、「穴太」という字を見て、なにか「ピン」と来た人がいたら、よほどの時代劇好きか、あるいはこの無明舎のHPに私が書いているもう一つの連載、「幕末とうほく余話」の熱心な愛読者に違いない。
 「穴太」は、「あのう」と読む。
 三重県、つまり昔の「伊勢」で「穴太」と来れば、荒神山の大喧嘩で清水の次郎長一家を敵に回した「穴太徳」が思い浮かぶじゃないか。
 穴太の出身で、桑名に一家を構えたヤクザの親分が「穴太の徳五郎」なのである。こいつが悪いやつで(と、講談や東映の映画では決まっている)、若い二代目親分の神戸の長吉が仕切っていた「荒神山の賭場」を奪い取った。それが事件の発端で、神戸の長吉に助けを求められた三州(三河)吉良の仁吉が立ち上がり、たまたま仁吉の家にやっかいになっていた次郎長の子分たちも一緒になって、穴太徳一家と大喧嘩をやったのだ。それは、慶応2年(1867)4月8日のことで、吉良の仁吉は鉄砲で撃たれ、次郎長の子分の法印大五郎は斬られて死んだ。
 それを知らされた清水の次郎長は、弔い合戦だというので、2艘の船に子分500人、鉄砲40丁、槍170本、米90俵を載せて海を渡り、伊勢に上陸した。当時としてはとんでもない「軍勢」で、勝ち目のない穴太徳はスタコラと逃げてしまった。
 要するに、ヤクザの縄張り争いなのだが、この喧嘩で、次郎長が「東海一の大親分」と呼ばれるようになった、一世一代の名場面なのである。
 ……というようなことを、「幕末とうほく余話」の、「次郎長と愚庵・下」に書いた。
 だが、実を言うと、「穴太徳」の穴太がどこにあるのかは、三岐鉄道の事故の記事を読むまで知らなかった。穴太という地名は、ほかにも何カ所かある。そのどこかということまでは、調べる気になれないでいたのだ。なにしろ「悪役」の方だから。それが今回、思いがけず、わかったのである。
 ついでに、「荒神山というのは、どこだろう」という、かねてからの疑問も調べてみることにした。「別名・笠砥山」ということまでは知っていた。
 これも、わかった。
 今の、三重県鈴鹿市だった。
 JR関西本線に「加佐登」(かさど)という駅があって、すぐ南側を国道1号が通り、さらにすぐ南に鈴鹿川が流れている。その北側に「加佐登神社」があって、神社から西へ向かうと「荒神山観音寺」という寺がある。まさか寺の境内ではないと思うが、この辺りで大きな賭場が開かれていたのだ。周辺は、津藩、幕府、旗本などの領地が入り組んでいて、役人に追われても、すぐに他の領地へ逃げ出せる、一種の治外法権地域だったらしい。賭場を開帳するには絶好の場所で、城下町桑名にいた「穴太徳」が触手を伸ばしたのも、うなずける話だ。
 というわけで、脱線事故をきっかけに、長年の疑問が氷解した。
 さて、三岐鉄道では、すぐに1区間をバス代行輸送に切り替えた。それはいいが、事故から3日ぐらい過ぎて、地元新聞に載った社長の談話を読んで、また驚いた。
 「会社に金がないので、鉄橋を直せない」と言うのである。
 正直と言えば正直だが、それじゃぁ通勤通学客は困るじゃないか。赤字にあえぐ鉄道は全国にたくさんあるけれど、これほどあからさまに「貧乏」を明言する社長には驚かされた。「大穴馬券」も、少しでも収入を増やすアイデアであることは、言うまでもない。
 でも、鉄道に乗れる「大穴馬券」では、大金は手に入らないしなぁ……と思っていたら、どこで、どうやって工面したのか知らないが、5月29日に、鉄道は復旧した。ただし「仮復旧」だという。本格復旧は、まだ見通しがたっていない。
(2006年6月4日記)


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