んだんだ劇場2006年10月号 vol.94
No28
むかご飯

毎年できるけど
 父親は毎年、ヤマイモを作る。すりおろして「トロロ」にする芋だ。
 私が育った福島市では、正月の三日に「三日トロロ」といって、トロロ飯を食べる習慣がある。ヤマイモは消化がよいので、正月の酒で疲れた胃袋を休める知恵なのだろうか。まあ、そんなことも理由にはなるだろうが、福島には「納豆七杯、トロロ十(とっ)杯」という言い習わしもあって、納豆なら七杯ご飯を食べられるが、トロロなら十杯でも食べられるというくらいに、トロロ飯の人気がある地域らしい。
 父親も、トロロ飯が好きだから毎年タネ芋を植えて、秋の収穫を楽しみにしている。
 9月の初めに、千葉県いすみ市の家へ帰ったら、芋のツルがよく伸びて、そのところどころに「むかご」ができていた。

ヤマイモのツルにできた「むかご」
 これは、「肉芽」と言ったり、「球芽」と言ったりするが、地下にできる芋と全く同じものだ。手の小指の先ほどの大きさしかないが、これを地面に埋めておくと、発芽してツルを伸ばし、ヤマイモができる。たぶん、この植物があみだした「子孫拡散の方法」なのだろう。
 「むかご」は、俳句では秋の季語で、
   ほろほろとむかご落ちけり秋の雨 小林一茶
というような句があって、私も昔から知っていた。
 が、毎年、こいつを見ながら「むかご飯」は食べた記憶がないなぁ、と思うのである。「むかご」をゆでて食べたことはあるが、「むかご飯」は知らないのである。
   寂しくばたらふく食しぬむかご飯 日野草城
という俳句もあるくらいで、「むかご」の食べ方としては、最もポピュラーなものだろう。しかし、私はご馳走になったことも、自分で炊いたこともない。「なんでも食べてやろう」と思っている私としては、不思議なことだ。
 亡くなった母親などは、「これは、食べられる」と言っていたのに、私に食べさせてくれたことがない。
 インターネットで「むかご飯」を検索したら、何人かがレシピを公開していた。味付けは醤油か塩か、2派に分れるけれど、どれも炊き込みご飯にしている。もしかしたら、父親は炊き込みご飯があまり好きではないので、母親も作らなかったのかもしれない。
 まあ、「道の駅」あたりでは売っているかもしれないが、「むかご」が八百屋やスーパーに並ぶことはない。それだけに、貴重な野菜かもしれない……などと思いつつ、やはり今年も「ほろほろと落ちにけり」になってしまうのだろうなぁ。

湖南三山
 9月9日の土曜日、滋賀県湖南市へ出かけた。東海道53次の51番目の宿場、石部町と、隣の甲西町が平成16年に合併して誕生した市だ。名神高速道路の彦根の次の次、竜王インターか、その先の栗東インターで下りる、滋賀県では最も南の地域だ。
 ここに、いま私が勤めている中日本高速道路の「緑化技術センター」がある。高速道路の植栽や、刈り払った雑草を堆肥にする研究などをしている施設だ。そこの社員が、近くの名所を社内報に紹介してくれたのだが、写真があまりにも下手なので、私が撮ってやろうと思い、出かけたのである。
 もっとも、いつもは、そんなことはしない。社内報だから、「素人写真」でもしかたないと思っているからだ。しかし今回、その気になったのは、紹介してくれた名所に、常楽寺と長寿寺という、どちらも本堂が国宝になっている寺があったからだ。

国宝・常楽寺本堂
 なるほど、立派な伽藍である。開基は8世紀という、天台宗の古刹だ。14世紀に焼失したが、直後に再建されたのが、今ある本堂だという。本堂の裏手にある三重塔も、西暦1400年に建てられたと推定されていて、これも国宝だ。

これも国宝の、常楽寺三重塔
 さらに、山門の説明板を読むと、本来の山門は、豊臣秀吉が伏見築城に際して移築し、さらに毛利輝元が大津の三井寺(園城寺)の大門として移築したという。国宝になっている三井寺の大門は、もともとはこの寺のものだったというのである。
 それだけでも驚いたが、拝観料500円を払うと、「国宝」の中を歩けるのである。そして本堂内には「二十八部衆」と呼ばれる古い仏像が立ち並んでいるのに圧倒された。
 長寿寺は、車で5分。しかもこちらは拝観料無料だったが、中には入れなかった。

国宝・長寿寺本堂
 常楽寺よりは、少し小さいが、歴史を感じさせる建築物だ。すぐわきには、国の重要文化財の弁天堂もある。
 どちらも、厚い桧皮葺(ひわだぶき)の屋根で、補修するのは大変だろうと思い、常楽寺の住職に尋ねると、「そうなんですよ。この寺は檀家がないので、毎年、国にお願いしているのですが、金がありません」という返事だった。
 国宝にも指定されている寺に檀家がいない、というのも意外だった。戦前は広大な土地を持っていて、小作料だけで「左うちわ」だったのが、戦後の農地解放で収入がなくなってしまったのだという。50歳にはまだ間があると見受けたご住職は、つい2、3年前まではサラリーマンで、給料は全部、寺の維持費にしていたそうだ。
 それが一昨年、湖南市が誕生して、「湖南三山」という観光キャンペーンが始まり、状況が変わった。滋賀県には昔から、「湖東三山」があった。愛東町の百済寺、秦荘町の金剛輪寺、甲良町の西明寺である。「だったら、新生湖南にも三山と呼ぶにあたいする古刹があるじゃないか」。というわけで観光の目玉に持ち上げられたので、「だから、湖南三山というのは、歴史のあるものではないんですよ」と、ご住職は言う。
 その結果、観光客は増えたが、会社を休む日も多くなり、とうとう退職したのだそうだ。常楽寺の収入は現在、拝観料だけだ。「あと5年は持つと思う」という屋根の葺き替え時期が来たらどうするのだろうか。
 さて、「湖南三山」のもう一か所はどこかというと、善水寺という。常楽寺、長寿寺とはだいぶ離れた山の上にある寺院だ。ここも奈良時代に創建された天台宗の寺で、国宝の本堂は14世紀、南北朝の時代の建築だという。

国宝・善水寺本堂
 住職の説明によると、本堂は比叡山延暦寺の建築様式にならったという。常楽寺も長寿寺も、ほとんど同じ様式だった。しかし、善水寺で驚嘆したのは、その中だった。梵天・帝釈天、四天王、十二神将、文殊菩薩、金剛力士(いわゆる仁王さん)……ずらりと並ぶ仏像のほとんどに「国宝」と書かれた板が立てられていた。しかし、よくよく見ると、その板の上に、「旧」と小さく書いた紙が貼り付けられていた。つまりこれは、戦前は国宝だったが、戦後の法律改正で重要文化財となったものだということだ。だからと言って、その価値が低いというものではないだろう。
 私が育った福島県には、国宝は2件しかない。8年半の新聞記者生活を送った秋田県の国宝は、たった1件である。
 近江の国の、はるかなる歴史の重みを感じた1日だった。
(2006年9月10日記)




オチカンコウ

われも村人
 「9月16日は、必ず帰って来てくれ」と、父親が言うので、その前後に休みを取って、千葉県いすみ市の家へ帰った。
 「その日に、オチカンコウがあるが、オレは酒が飲めないので、代わりをしてくれ」と、父親は言うのである。父親が今、酒を飲めないのは、昨年10月に胃癌で胃袋の3分の2を切除する手術をし、その後「1年間」の予定で抗がん剤を服用しているからだ。医者に酒を止められたわけではないのだけれど、飲んでみると体調を崩すことがわかって、まったく飲まなくなった。晩酌を欠かしたことがなかった父親としては、つらいことだと思う(その後の経過は、順調です)。
 それにしても、「オチカンコウ」とは、なんのことだ?
 父親が言うには、年に2度、町内の人が日中、誰かの家に集まって、酒を飲む会なのだそうだが、その際、酒も食べ物も、開催場所の当番になった人が負担するという。そして、必ず1人分ずつ仕出し弁当を用意し、その弁当は手をつけないで各自が持ち帰る習慣なのだそうで、「酒のサカナ」は、別に用意しなければならない。
 参加者は、我が家を含めて7軒だから、3年に1度、順番が回って来る計算になる。
 弁当の手配は父親がやり、つまみは、かみさんが用意した。だからと言って、私がただ酒だけ飲んでいればいいというわけでもなく、テーブルセッティングをやり、正面になるところに、掛け軸を掛けた。

準備ができたオチカンコウ
 掛け軸には「八幡大神」と書かれていた。
 以前、父親に「オチカンコウって、漢字ではどう書くの?」と尋ねたら、「さあね、オレもわからない」と言っていたが、今回、お隣さんにきいたら「氏神講」と書くのだそうだ。「ウジガミコウ」が、どうして「オチカンコウ」にまで訛るのか、途中経過がちっともわからないけれど、最初に掛け軸に手を合わせてから会が始まったのを見ていたら、これは「ムラのしきたり」なんだということが、よくわかった。
 ところで、かみさんは「念仏講」というのに参加している。これも、町内のご婦人方が集会所に集まって、「ハンニャ〜ハ〜ラ〜ミ〜タ〜」と念仏を唱える会だ。こちらは月に1度あって、かみさんは「町内のつきあいだから」と入ったのだが、「念仏のあとに、お茶とお菓子で、雑談するのが目的なのよ」と言う。そこでは、お決まりの「嫁と姑」の愚痴から、地域のうわさ話まで、みんながよくしゃべるそうだ(建設的な意見は、皆無らしい)。
 オチカンコウが終わってから、かみさんが「これって、念仏講の男版ね」と言った。言われてみれば、なるほどと思う。昔から、いろいろ名目をつけて集まり、地域の連帯をはかって来たのだろう。そういう集まりは、全国どこにでもあるに違いない。
 そういう会の一員になったのは、新しく移り住んだ我が家としては、ありがたいことだと思っている。「あこがれの田舎暮らし」に失敗する人には、地域の慣習を無視して、都会の生活で押し通そうとした例が多いと聞いている。「田舎暮らし」は、「別荘暮らしの延長」ではないのである。その辺をわきまえていないと、だんだん住みにくくなるはずだ。
 と言っても、地域に溶け込んだら溶け込んだで、わずらわしいことも出て来るのだが、それはしかたないことさ。
 ひとつだけ、40代後半で移住したおかげで、消防団に入らなくてもよかったことだけは、正直、「助かった」と思っている。訓練でも本番でも、重いホースを持って走るなんて……想像しただけでも息が切れる。

巨大茄子
 「オチカンコウ」が終わって、名古屋へ戻る時に、父親が収穫しておいた茄子を、かみさんが私のバッグに入れてくれた。戻って、開けてみたら、こんな巨大茄子が1個、入っていた。

手のひらより大きな茄子
 初夏に、かみさんが「白茄子だって聞いたよ」と、どこかから苗をもらって来たものだと思う。どんどん大きくなって、次第に色が薄くなるが、まっ白にはならないようだ。ヘタが緑色をしているから、米(ベイ)茄子の1種なのだろう(アメリカから渡来した巨大茄子の類をベイナスと言います)。
 切ってみたら、タネができていた。収穫時期としては、遅かったのである。初めて作ったので、そういうところがわからない。

茄子のタネは、こんなふうにできる
 輪切りにし、オリーブ油で焼いて、ミートソースをかけて食べた。この大きさを生かす食べ方としては、こういう調理法が多い。日本在来の茄子であれば、小さいうちに採って漬物にしたり、味噌汁の具にしたり、中華風に炒めたりとさまざまに調理できるが、米茄子は食べ方が限られているから、人気が出ないのだろうか。茄子らしい香りも薄いように感じた。
 でも、面白い野菜だ。来年また作れるように、ちゃんとタネは採取しておいた。
(2006年9月23日記)


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