んだんだ劇場2006年12月号 vol.96
No30
里のアケビはマツタケ知らず

大福寺納豆
 この表題を見て、「大徳寺納豆の間違いじゃないの?」と思った方は、かなりの食通に違いない。臨済宗の古刹、京都の大徳寺は、一休禅師のお寺として知られるが、もう一つ有名なのが、「納豆」だ。
 でも、これは、かき混ぜると糸を引く納豆ではない。塩辛い豆である……と、ものの本には書いてあるが、私は食べたことがなかった。
 そもそも、納豆を、なぜ「納豆」と言うのか、というと、納所(なっしょ)、つまり寺の台所で作ったからだと言われている。その代表例が大徳寺で、黄檗宗大徳寺派の大本山であるこの寺から、「納豆」が各地に伝えられたと記憶していた。
 ところが10月末、浜名湖周辺を旅する機会があり、旧三ヶ日町(今は浜松市)の大福寺という寺で「大徳寺納豆」のような納豆を売っているのを知った。大福寺も、臨済宗の寺院である。納豆の作り方は、明の時代の中国から伝えられ、大福寺では、室町幕府七代将軍、足利義勝に始まって、今川義元、豊臣秀吉、徳川家康、以下代々の将軍に納豆を献上していたという。寺が、浜名湖の北岸に近いからだろうが、江戸時代中期からは、「浜名納豆」という名で、周辺地域でも広く食べられるようになった……とか、そんな予備知識を仕込んで、大福寺を訪ねた。
 参道の石段を上ると、周辺では名産「三ケ日みかん」が色づき始めているというのに、本堂の前に桜が咲いていた。

桜の狂い咲きに出会った大福寺
 石段の下に、もう一つの門があり、ご住職の住居があって、納豆はそこで売っていた。人を呼ぶ小さな鐘を鳴らし、そこにあった試食品を2粒食べてみたら……
 「なんだ、これは!」
 恐ろしく、まずかった。
 逃げ出したくなったが、「はい、はい」と奥から老婆が出てきたので、しかたなく、1袋700円もする納豆を買った。袋の裏には、「賞味期限 開封から3か月」と印刷された紙が貼ってある。それじゃあ、賞味期限なんて、あってないようなもんじゃないか。私が手にしたのは、いったい、いつ作ったのだろう?
 帰宅して袋を開けると、納豆は、ファスナー付きのポリ袋に入っていた。

大福寺納豆
 だが、こちらは、そんなにまずいものではなかった。塩辛いが、そこはかとない風味がある。寺の試食品は、ガラス戸越しに日の当たるカウンターの上にあったから、変質していたのかもしれない。私のような「もの好き」が買いに来るぐらいだろうから、試食品はちっとも減らないで、何か月(もしかしたら1年以上?)もそのままだった可能性がある。
 大福寺納豆を、よく噛みしめているうちに、私は、中国料理で調味料として使われる豆鼓(トウチ)の味を思い出した。豆鼓の方が、もっと塩辛いが、豆を発酵させた味わいは同じだと感じたのである。
 調べてみると、豆鼓は、大豆を麹菌で発酵させ、塩漬けにして作るという。その製法が日本に伝わり、大徳寺納豆になったのだそうだ。これは、保存食である。
 ところで、それは、室町時代の話だ。ところが、納豆菌で大豆を発酵させた「糸引き納豆」の歴史は、もっともっと古い。東北地方には、平安時代、八幡太郎義家が前九年、後三年の役で奥州に来た時に、煮豆を稲藁(わら)の俵に入れておいたら、偶然に納豆ができたという伝説がある。稲藁には、自然に納豆菌がすみついているから、こんな伝説が生まれたのだろう。
 とすると……「納豆」という言葉ができる以前、この「発酵糸引き豆」は、なんと呼ばれていたのだろうか。
 大福寺納豆に出会ったおかげで、新たな疑問に悩まされている。

納豆余話
 前回、「納豆カレー」という話を書いたら、たくさんの反響があった。それで、いやはや、まあ、納豆の食べ方にもいろいろあるもんだと、驚いている。
 「キムチ納豆」の推薦者は、何人かいた。キムチと納豆をかきまぜ、ご飯にかけて食べるそうだ。でも、これは、酒のさかなにもよさそうだ。居酒屋メニューに、「イカ納豆」とか「マグロ納豆」があるから、何かと納豆を混ぜる発想だ。私は今まで、キムチとの組み合わせを考えなかっただけだ。
 「バタートーストに納豆」というのには、驚いた。焼いた食パンにバターを塗り、醤油でかき混ぜた納豆を載せる、というのである。
 「この分野では、トーストに海苔、江戸ムラサキ、などがあり、決め手はバターと醤油のミックスと思っております。納豆や江戸ムラサキは家族にも相手にされていませんが、海苔については(東京)日本橋の山本海苔店の裏にある山本海苔直営の喫茶店メニューに『のりトースト』を発見してからは、納豆カレーと同じように、市民権を得たのかなと思っております」
 これが、本人の弁。
 「決め手はバターと醤油のミックス」と言うのには、うなずける。というのは、私は子供のころから、熱々のご飯にバターを載せ、それに納豆をかけて食べるのが大好きだった(今も大好きだが、バターは控えようと思っているので、めったにやらない)。バター大好きの北海道人は、熱々ご飯にバターと醤油なんて当たり前、という話を聞いたことがある。それなら、「醤油味の納豆」をかけても、同じだね。
 でも、「北海道の話」でびっくりしたのは、「北海道の人は、納豆に砂糖を入れますよね。私は食べられませんが、北海道では、甘くてつやが出るのでとてもおいしくなる、といいます」という、「東京人」からのメールだった。
 さらに、これを実践している人がいた。
 「ひき割りなら砂糖と醤油で更に粘りを良くして食べます。家内の母から教わりました。美味しいですよ。好みは小粒かひき割り、50回以上かき混ぜ、その後酢でまたかき混ぜ、大方は大根の葉を漬けたもの、青采漬けをそれぞれ千切りにしたものでまたかき混ぜますよ。季節によってねぎや茗荷を使います。勿論一種類ですが。野菜類のない時は秋田の味噌と酢だけ。私にとってはどれも美味しい。毎日欠かした事はありません」
 酢を入れるというのも、初めて聞いた。
 だが、この話には、さらに驚愕する続きがあった。
 「納豆に砂糖、というのは私も最初正直ビックリしました。よく聴いたら、大曲のあたりでは当たり前だ、と言われました」
 この方の奥さんが、秋田県の大曲(現在は大仙市)の出身なのだが、私だってその昔、大曲に4年も住んでいたのである。でも「大曲のあたりでは当たり前だ」という、「納豆に砂糖」は、全く知らなかった。かみさんにも尋ねたが「知らない」という。
 ほんとにそうなのか、だれか知りませんか?

山のアケビは……
 房総半島、千葉県いすみ市の我が家の畑は、西と南を防風ネットで囲ってある。海が近いせいか、夏は南風、冬は西風が強いからだ。
 そのネットの支柱にツルを伸ばして育って来たアケビが、今年、見事な実をつけた。

口を開いたムラサキアケビ
 アケビには、葉っぱが3枚と、5枚の2種類がある。野生のアケビは、たいてい「五つ葉」で、表皮が茶色の小さな実しかならない。我が家は、「サカタのタネ」から購入した「三つ葉アケビ」。大きな紫色の実をつける園芸品種である。
 苗は2本買った。アケビは、同じ株の花どうしでは受粉しにくいと聞いたからだ。だが、1本は枯れてしまった。残る1本は、一昨年10月の台風22号のために川べりの地面が崩れた際、かろうじて助かったのを、防風ネットのわきに移植したのだった。1株で受粉するだろうか、と心配していたのが、大きな実をつけたのである。紫色がちょっと薄いのは、この地が温暖だからだろう。
 おかげで、本当に久しぶりにアケビを味わった。ほとんど食べる部分はなくて、黒い種を覆うわずかな果肉の、ほんのりした甘さだけだが、うれしかった。そして、プランターにタネをまいた。来年の春に芽吹いたら、少し育てて、防風ネットに沿って植えてやろうと思っている。別の株ができると、もっとたくさん実るに違いない。
 ところで、以前にアケビの花の話を書いた時に、東京・新橋の行きつけの居酒屋で、秋田出身のダンナが酔っ払うと歌う「アケビの唄」を紹介したのを、覚えているだろうか。
   ♪山のアケビは、なに見て開く 下のマツタケ 見て開く
 わかる人にはわかる歌、である。
 しかし……「山のアケビ」なら、その下を探せばマツタケがあるかもしれないが、「里のアケビ」ではねぇ……マツタケなどあるはずもないのが、残念だなぁ。
(2006年11月4日記)



石から石が生まれる

遠州の七不思議
 世の中には、ほんとうに不思議なことがあるものだ。
 そう思ったのは、静岡県牧之原市の山中である。ここに、「石から石が生まれる場所がある」と知って出かけた。まさか、そんなことがあるものかと思っていたのだが、事実だった。しかも、この石を代々住職の墓石にしている寺まであった。
 私は昨年10月から、名古屋市に本社のある中日本高速道路という会社に勤めていて、社内報に「インターチェンジ(IC)から20分紀行」という連載を書いている。ICを出て20分以内にある隠れた名所を紹介する連載だ。自分で写真も撮るが、若手の広報マンに写真を教える目的もある。今年は春以降、横浜支社の広報マンと、東名高速を東京から名古屋へ向かって走って来た。
 焼津から掛川の地域を取材するために、資料を見ていたら「子生まれ石」というのがあった。「遠州の七不思議」の一つなのだそうだ。場所は、東名・相良牧之原ICから、太平洋に面した相良町(老中・田沼意次の領地だったところ)へ向かう道筋である。
 ICを出て5分ほどで「子生まれ温泉入り口」という看板があり、そこから600mほど先を右に入った山ふところに、大興寺という曹洞宗の古刹がある。本堂に向かって左手に住職の墓地があった。
 なるほど、繭(まゆ)型というか、ひょうたん型というか、殻付きピーナツのような形の墓石が並んでいた。

奇妙な形の墓石が並ぶ大興寺の住職墓地
 寺の伝承によると、今から600年ほど前、この寺を開山した大徹和尚が死ぬ時に、「裏山から石が生まれる」と予言し、その通り、繭型の石が表れ、下を流れる川に落ちた。この石は、まるで子供が生まれるように抜け落ちるので「子生まれ石」と呼ばれるようになったという。
 寺で、「石が生まれる裏山とは、どこですか」と尋ねると、「子生まれ温泉のそばだ」というので、今来た道を戻った。現場は、温泉の駐車場の向かい側だった。
 細い川に面した崖に、「生まれかかった」石がいくつも見えた。

石から石が生まれる現場
 これは、科学的には、「ノジュール」という現象なのだそうだ。地下深くから上昇してきた化学物質が、化石とか、砂粒などを核として凝集し、石に成長するのだという。地表にごくわずかの隙間があると、そこから外に向かって生育するらしい。だから、石は一直線に並ぶことが多い。ただし、そのメカニズムが完全に解明されたわけではないという。
 ところで、「遠州七不思議」をインターネットで調べてみたら、10以上あった。いろいろな人が言っている「七不思議」は、そのうち7つを組み合わせているという。が、たいてい「夜泣き石」とか、「○○池の大蛇」とか、伝説が多い。「七不思議」というのは各地にあって、岡本綺堂が小説にした「おいてけ堀」などの、江戸・本所七不思議は有名な方だろう。けれども、これも伝説の類ばかりだ。
 しかし「子生まれ石」は、「現実にある七不思議」という意味でも、また、全国に何か所か知られているノジュール現象の中でも典型的という点でも、珍しい場所だった。
(「ICから20分紀行」は、中日本高速道路HPの「地域情報」をクリックすると、左下に案内があります。まだ4か所しか掲載していませんが、ご興味のある方はご覧ください)

ワタの花と実
 今年の春、かみさんが、我が家から車で1時間ほどの鴨川市にある「綿花栽培教室」へ出かけた。江戸時代に日本で栽培されていた綿花の品種を伝え残そう、という人がいて、その栽培から綿糸製造までを伝授している教室だという。
 そこで貰ったタネをまき、夏に花が咲き始めた。

綿の花
 花は、10月下旬まで咲き続けた。花が終わってしばらくすると、殻がはじけて、中からワタの実が顔を出した。

綿の実
 綿花は熱帯原産の植物で、江戸時代、現在の大阪府で始まった栽培が瀬戸内地方へ広まったが、寒い北陸や東北地方では栽培できなかった。しかし、温暖の地、房総半島・いすみ市の我が家では、もうすぐ12月だというのに、次々に綿の実が顔を見せている。
 木綿は江戸時代、日本人に「衣料革命」を起こした。それまで、これほど丈夫で、あたたかく、染色も容易な繊維はなかったからだ。大坂(大阪という表記は明治以後)と蝦夷地(北海道)を日本海回りで結んだ北前船が、巨万の富を得ることができたのも、木綿のおかげだと言っていい。大坂から大量の古着を東北地方、北海道へ運び、帰り船にはニシンかすを満載して北前船は瀬戸内地方を目指した。綿花栽培には大量の肥料が必要で、良質の肥料であるニシンかすは飛ぶように売れたのである。
 綿の実には、タネが入っている、これを「実綿」(みワタ)と言い、タネを取り除いて繊維だけにしたのを「繰綿」(くりワタ)と言う。これも、北前船の大事な商品で、北陸、東北の人々は自分で繊維をつむぎ、糸にして、木綿を織ったのである。魚津市、滑川市など、加賀藩領だった富山県新川地方では、藩が女性や子供の賃仕事として機織を奨励したことから、19世紀初頭には、年間100万反の木綿生産地になった。
 明治30年代に、北前船は終焉を迎える。理由はいろいろあるが、インドから安い綿花が大量に輸入されるようになったことも、大きな要因だった。私は『海の総合商社 北前船』の中で、「日本の綿花は短繊維種と呼ばれ、繊維の長いインドの品種に比べて工業原料としては不利だったことも、減産の速度を速めた」と書いた。
 「それで、日本では綿花栽培が消滅したのさ」と私が言うと、かみさんは「あら、インド綿も繊維は短いよ」と言った。
 繊維の長いのは、エジプト綿なのだという。それが、アメリカ南部で栽培され、アフリカからたくさんの黒人奴隷を連れて行くことになったのだそうだ。
 「綿花栽培教室」へ行くに際して、かみさんは綿花のことをよく調べていたから、かみさんの言うことが正しいのだろう。私は、エジプトとインドの綿花品種をごちゃまぜにしていたらしい。もしも『海の総合商社 北前船』が増刷になれば、ここは手を入れなくちゃならないなぁ。
 それにしても、かみさんは、収穫した綿花をどうするのだろう。「こんなに溜まった」と喜んで収穫しているが、「タネを取り除くのは面倒だし、繊維をつなげて糸にするのは、もっと面倒」と思案している。
 手仕事しか工業がなかった江戸時代の人々は、偉いもんだ、とつくづく思う。
(2006年11月19日記)


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