啓蒙の十八世紀 2
音楽上の師という立場に当たるとはいえ、ベートーヴェンは社会身分上では支配される側にある一介の音楽家であった。社会的身分に序列があった時代に、その庇護を受ける当の相手にベートーヴェンは右のような言辞を截然と述べるのである。神の摂理と契約を旨とするヨーロッパ人の考えでは、芸術への保護もその一貫とみなし、施しを受けるという意識はなかったのであろう。「高貴な、より優れた人こそ他の人々よりよけいに犠牲を払うよう定められて」いるというのがベートーヴェンの論理であった。ルドルフ大公も音楽にたいする並々ならぬ造詣を抱いていたにしろ、芸術上の師弟関係は身分や公私の利害に止まらない率直な二人の関係が見えてくる。
ベートーヴェンの生き方には、たとえ金銭の援助による経済的な囚われがあっても、人間関係で卑屈にならず媚びを売らず、尊厳において対等かそれ以上に徳性の優越を人間関係に求めるのである。周囲は数奇な人物を眺めたときの寛容が、彼の奇行と映る振る舞いを大目に見ていたとも云えるのだが、ベートーヴェンの先験的な生き方というのは、こうした人生への態度なのであった。ベートーヴェンの立脚点は、隣国革命フランスの洗礼を通じて醸成されていく。ひとりの芸術家が希求する共和主義的な言動は、まだ支配者には脅威とは映っていなかった。いまヴィーンに旅立とうとしているベートーヴェンは、選帝侯領の小都市ボンで静かにその羽化が始まっていたのである。
三〇〇を超す領邦の宮廷では、ブルボン王朝のロココ趣味が、洗練された教養であり、文化の向上につながるものとして積極的に取り入れられていた。勢力を伸ばし始めたプロイセンのフリードリッヒ二世は、ヴェルサイユ宮殿を真似て離宮となる宮殿を造営している。この宮殿の名称までサン・スーシ(無憂宮)とフランス語で呼ぶのである。自国語を軽んじてフランス語やラテン語を用いることが教養であり、文化的洗練を示すものであった。領民には、政治に関与するなどということは思いもよらなかった。宮廷のシステムや因習のまえに、服従が彼等の唯一の自由であった。生活の保証は君主の恣意に任されており、啓蒙思想が現実の力として働くようには一般民衆に浸透するはずはなかった。カントの云う「制限された臣下の悟性」であって、フランスのように民衆の体制批判として道を切り開くものではなかったのである。
ゲオルグ・フォルスター(1754〜1794)は各地を見聞しながら、その滞在記を残している。一七七二年から三年間にわたるキャプテンクックによる二回目の世界一周旅行にも同行した。その見聞録「世界周航記」を出版し、ヨーロッパにその名の知るところとなった。フランス革命の折にはマインツを制した革命軍の支援を受けて、フォルスターは革命政府の要職に就くが、その後反革命側が政権を奪うとパリに亡命する。彼はフランス革命の現場に立ち合いながら、病のためパリに客死している。そのフォルスターが眺めたドイツは「ドイツには七千人の著作者がいるのに、世論は存在しない」と映ったのである。
フランスを旅行して、ルソーの影響を受け、シェイクスピアにも通じていたヨーハン・ゴットフリート・フォン・ヘルダー(1744〜1803)は、国家というものは人為的な機関であり、理性を逸脱するものであり、専制国家や世襲による統治がそれを明らかにしていることを見抜いていた。そして人間性の発展を、個々人の自律的な啓発によって捉えるよりも、集団の特性とその発展に求めた。ヘルダーは、国家や体制をルソーとおなじような視点に立って観察していたが、国家を民族という単位による集団のナショナリズムに根拠を置いた。ドイツ固有の民族文化を国民的基礎にした、文化的統一体としての民族国家を構想したのである。一方ルソーは個人の意志にもとづいてその主権者、すなわち個人を総和した一般意志と契約し、その契約の下に個人の自由は保障されると考えた。個人の自由は主権者によって制約されるということではない。国家という一般意志と個人の特殊意志は相容れないものではなく、二つの意志は人間の善性によって一つにつながるのである。意志の根拠を最小単位である個人に求めるルソーと、民族文化を背景とする集団に単位を置くヘルダーの違いである。
当時のドイツの政治経済の閉塞状態が、逆に思想や文化の発酵を促し、多くの思想家を生み多彩な芸術を開花させる。しかしフランスとは違いブルジョワジーの未成熟という状況の下では、言論が変革の契機として働くまでには至らなかった。芸術、文学、哲学、言語、科学、宗教などの文化的背景に支えられながら、ドイツ圏を一つに統合する国家像をいまだ描くことができなかった。三〇〇余の縦割りの支配が横断的な国家統一を阻み、民族文化の統一体としての国家を目指す気運は、領邦の版図の前に細かく寸断されていたのである。
だが啓蒙思潮にともなう文化のフランス化の傾向は、その反動として、文化人や知識人の間に、ドイツ民族の歴史的伝統や、民俗伝承文化にたいする回帰を抱かせた。一七七〇年代から八〇年代にかけて勃興したシュトルム&ドラングの気運がその一つである。ヘルダーの影響を受けたゲーテやシラーたちが参画したこの文化的昂揚は、啓蒙的合理主義に反発して内面的な感情の表出を主張した点で、ロマン主義的傾向の先駆けとなったといわれている。こうした傾向は、内面の自由な飛翔をもとに精神の陶冶を目指すという点で、宗教改革の契機となったルターに接近しながら、自律する人間の自由意志を意識することではエラスムスを継承していた。
さて当時のボンは、マキシミリアン・フリードリッヒ(1708〜1784)が在位の頃である。ケルン選帝侯に就任したのが一七六一年であった。もともとカトリック教ケルン大司教座は、宮廷とともにケルンに置かれ大司教は領主も兼ねていた。ところがケルン市の世俗勢力がカトリック支配に抵抗するようになり、有力な市民たちが中心となり大司教を追放すると、独立の都市国家となった。このため十三世紀半ばに、当時の大司教ファルケンベルクは、ボンに宮廷を移したのである。以来カトリック教の重要な儀式の度に、大司教はボンからケルンに赴くことになる。ケルンの大司教でありながら宮廷はボンに置くという状態が、五〇〇年以上にわたって続くのである。だがそれも一七九四年のフランス軍の侵入によって終りを告げることになるが、ボンはカトリック信仰が色濃く反映された門前町であった。
ボンは古来、交通の要衝として栄えてきた町である。国境はオランダ、ベルギー、フランスに接しており、文化的にはこうした隣国からの影響が大きかった。ライン川の西岸に位置しラインラント人独特の軽妙な華やかさは、東岸のゲルマンに較べフランス的な気質を合わせ持っていた。当時の人口約一万人弱の、大司教であり選帝侯を領主とする役人の町であり、文教と芸術の町であった。直接的にも間接的にもその影響下に市民の営みがあり、いわば選帝侯という人物によって市民の暮らしが左右されていたのである。歴代の領主は比較的自由な雰囲気と、市民の篤い信仰に支えられ、他国との関係を友好的に結びながら、隣国の侵略から免れてきた。過去にハプスブルク家とブルボン家の間で板ばさみとなり、数度の戦禍を経験したボンは、オーストリアハプスブルク王家と深い関わりを保ちながら、常に周囲の国々との外交に友好を結び、文化国家として二つの大国のあいだに宥和政策を取り続けてきた。一方は旧体制打破に進む未来を志向する勢力が台頭する国である。他方は旧体制から脱皮して、近代的な国家に再生しようとしている女帝マリア・テレージアと息子ヨーゼフの爛熟した文化を享受する伝統の王朝であった。
マキシミリアン・フリードリッヒは、財政再建のため宮廷の財政を切り詰める。それでも一七七八年には国民劇場を立ち上げグロスマン劇団を招聘し、ドイツのジングシュピールやイタリアのオペラブッファ、そしてフランスのオペラコミックの上演を行なったり、シラーの戯曲「群盗」や「フィエスコ」なども公演している。翌年にはクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ(1748〜1798)が招かれている。プロテスタントであったが、彼は宮廷オルガニストに任命され教会の仕事にも携わるようになる。ネーフェはヨハン・アダム・ヒラーの下で作曲を学び、ジングシュピールや歌曲の作曲家として名を知られるようになっていた。彼はライプチィヒで法律を学びながら、音楽を勉強した努力の人である。ライプチィヒは大バッハゆかりの地であり、彼は多くの芸術家や文人、哲学者たちとの交友があり、当時の知識文化人であった。ベートーヴェンはネーフェからバッハの音楽の真髄を学ぶ機会が与えられるとともに、人格形成の上でも彼の影響が大きかったといわれる。ネーフェから初めて本格的な音楽理論の指導を受けたことが、作曲家ベートーヴェンの基礎となったのである。
一七八二年にネーフェの指導と斡旋で、ベートーヴェンはWoO六三「ドレスラーの主題による九つの変奏曲」というピアノ曲を出版している。これが彼に残っている最初の作品である。また一七八三年にはマキシミリアン・フリードリッヒに献呈したWoO四七「選帝侯のための三つのソナタ」を作曲する。わが国でいえば中学生になるぐらいの年齢であり、この年齢でほぼ鑑賞に耐え得る作品を生み出していたのである。さらに一七九〇年にヨーゼフ二世の死去にともないWoO八七「皇帝ヨーゼフ二世の死を悼むカンタータ」と、レオポルド二世の即位を祝うWoO八八「レオポルド二世の即位を祝うカンタータ」を作曲する。この二つのうちのいずれかがハイドンの眼にとまり、ヴィーン留学の契機となったのである。ヴィーンを発つまでに残された彼の作品は、室内楽、ピアノ曲、歌曲を合わせると四〇曲近くに上る。ベートーヴェンが生涯にわたって歌曲を作り続けたのは、祖父や父が歌手だったことやネーフェの影響と無縁ではなかった。
作家は処女作に向かって成熟すると言ったのは、音楽やオーディオにも造詣の深い五味康祐氏であるが、その謂からすれば、正式には作品一が付けられた三つのピアノ三重奏曲がベートーヴェンの処女作ということになる。しかしそれ以前にこうした作品を書いていたのである。十二歳といえば、ロッシーニ(1792〜1868)もこの年頃に作曲したと伝えられる二丁のヴァイオリンとチェロ、コントラバスのための「六つの弦楽のためのソナタ」を残している。これが後にオペラ作曲家としてもてはやされたロッシーニの処女作に当たるかどうか詳らかではない。ただ華麗で溌剌とした旋律に優れ、作品のディレッタント的な完成度でいえばロッシーニに軍配が上がる。
その後の創作の深化という点では、ロッシーニをモーツァルトやベートーヴェンの上位に置くことはできないが、この時点だけを捉えていえば、まさしく天才作曲家の登場であった。しかしロッシーニはおそらくこの作品を超える作品をその後生み出すことのないまま、オペラ作曲家として音楽史にその名を留めることになる。イタリアオペラの旗手としてヴィーンを席巻したロッシーニは、一時ベートーヴェンをその風下に立たせている。だがベートーヴェンは違った。処女作を超える作品を次々に生み出し、様々な種類の果実を収穫して独自の世界を形成していく。規模で例えるならば、ビッグバンから銀河系を創生して、光かがやく恒星や惑星の数々を生み出したのである。交響曲、協奏曲、弦楽四重奏曲、ピアノ独奏曲そして歌曲など、珠玉の星々を生んだ作曲家である。こうした創造はベートーヴェンの資質に持つ天分に加え、彼の性格と努力がなければ成し得なかったことである。
フランス革命に散ったコンドルセが「公教育の全般的組織についての報告と法案」と題して一七九二年四月二〇日、二一日の立法議会で報告している。「天分というものは自由であることを欲し、服従はすべて天分の生気を失わせる。しかし天分が全面的に開花するときにも、天分の最初の芽が幼年期の訓練のなかで芽生えてきたときに受けた刻印をもちつづける」ことが多いと述べている。革命フランスは教育制度と教育の機会均等へ向けた施策にも意を注いでいたのである。さてそうした天分というものは、どのように育まれて開花するものなのだろうか。生得的に具わった才能もそれを磨いてくれる環境との出会いがなければ、最初の芽は育たない。ベートーヴェンの音楽的な資質は、祖父ルードヴィヒ(1712〜1773)の土壌から生まれる。
祖父はベルギーのメヘルンに生まれ、幼くして聖ロンバウトのカテドラル聖歌隊少年合唱団に入り、後にレーベンの聖ペテロ教会の合唱長を務め、さらにリュティヒの聖ランベール教会のバス歌手に就く。そしてケルン選帝侯クレメンス・アウグスト(在位1723〜1761)に見い出されて、一七三三年二十一歳でボンの宮廷歌手となる。年棒四〇〇グルデンであった。この年に祖父はマリア・ヨゼファ・ポルと結婚している。彼等の子どもで生き残ったのは、ベートーヴェンの父となるヨハンだけであった。祖父は一七六一年にはカペルマイスターの称号を授けられ、宮廷楽団を率いることになる。大作曲家の父であるヨハン・ヴァン・ベートーヴェン(1740?〜1792)は、父ルードヴィヒの引きもあったのであろう、一七五二年に無給の宮廷歌手となる。一七六四年には宮廷テノール歌手に登録され、年棒二五〇グルデンを支給されている。ヨハンが、マリア・マクダレーナ・ケヴェリッヒ(1746〜1787)と結婚したのは一七六七年である。彼女は再婚であった。マリア・マクダレーナはトーリア選帝侯の宮廷料理長の娘で十六歳で結婚するが、三年後に前夫と死別している。この母は慎ましく寡黙な女性であったという。夫との間に七人の子をもうけるが、ベートーヴェンはその第二子に生まれた。成人まで生き残ったのは三人の男子だけであった。ベートーヴェンはこの母に終生変わらぬ思慕を抱き続けていたという。
|