んだんだ劇場2007年2月号 vol.98
No4
啓蒙の十八世紀 3

 父ヨハンはレオポルト・モーツァルト(1719〜1787)のように、体系立った音楽教育を息子に施したわけではなかった。両者に打算があったことでは共通しているが、将来の展望を洞察しながら、少なくとも音楽に関して息子の成長を考慮しつつ、一貫した教育を施したのはレオポルトであった。ヨハンはむしろ強引で乱暴なやり方で、ピアノの練習を息子に強制したと伝えられている。音楽家としても教育者としても、レオポルトは高い識見と教養を身につけており、飲んだくれのヨハンとは比較にならない。ヨハンは下の二人の息子にも同じようにピアノを施したようだが、二人とも楽聖ベートーヴェンのようにはその才能は開花しなかった。しかし次弟カスパル・アントン・カールは、音楽家をめざそうと本人をその気にさせるぐらいの上達を示していたようである。
 天才の天分を開花させるには体系的なメソッドは重要だが、必要条件ではないだろう。二組の父子がそのことを証明している。目覚めた自我や自己認識が才能の障壁にならないうちに、強制的に身体に覚えさせるのも一つの方法である。だがベートーヴェンはそれを厭わず、途中で投げ出したりしなかった。辛抱強く鍵盤に向かいながら、おそらくそこに喜びを見い出しながら、子供心に音楽が、神の召命による使命と感ずるようになっていったのではないだろうか。ベートーヴェンの芸術的エートスは、幼い頃からの音楽上の鍛練によって形成されていったのである。そしてそれは祖父から受け継ぎ、父の強引な意志から育まれたものであった。
 幼少期に培った音楽的な領野は、少年期に受け継がれる。ベートーヴェンは宮廷歌手プァイファーにクラヴィコードを習い、宮廷楽士ロヴァンティーニにヴァイオリンとヴィオラを学んでいる。パイプオルガンはミュンスター教会のツェンゼンの教えを受け、ミノリート派修道院で毎朝ミサの伴奏をするようになる。宮廷楽団に採用されたベートーヴェンは、ヴィオラ奏者として演奏にたずさわりながら、音楽への知識や情操を楽団の活動をつうじて実地に吸収し学んでいった。こうしたベートーヴェンの少年時代の音楽環境は、のちの作曲家と較べても、豊かで実り多いめぐまれた環境にあったといわねばならない。
 自我や自己認識を育むのに、他者から注目されたり褒められたりした経験は、心の裡に鮮明に刻印されるものだ。それが媚びや世間的な外交辞令と見破る意識が育つ前ではなおさらである。そんなささやかな喜びの芽を膨らまし深めていくのは当人の好奇心と努力である。後世の私たちがその恩恵に与ることができたことは、父ヨハンの負債は帳消しどころか、余りある財産を残したことになる。祖父や父から受け継いだ遺伝子が、三代目のベートーヴェンで大きく開花したのである。
 人間の場合、側頭葉、頭頂葉、後頭葉の接合部であるTPOという部位の内部にある角回というのが、類人猿やサルに較べると不釣り合いなほど大きいことが分かっている。この角回というのは、異種感覚情報を統合する働きを持っている。この領域に触角、聴覚、視覚からの情報が入り高次の知覚が蓄えられる。異種感覚情報を関連づけながら、人間の場合しだいに抽象的な知覚を発達させるとともに、この角回の機能を促進させたと考えられるという。通常別個に働く脳の領域が、交差活性化現象によって、お互いに高次の発達を遂げてきたのである。一見無関係な領域を結び付け概念化して、それを具象化できる能力を獲得してきたのが人間である。
 そうした才能の一つに音楽の創造があり、音楽家のなかでも絶対音感を持つ人の脳は、左半球の上側頭回前部が通常の人よりも大きいと云われている。この領域を発達させ機能させるには、早い段階で音楽のトレーニングを始めると効果が上がるという。繰り返し反復する単純で根気のいる技能は、習得すれば空んじてできるようになる。こうなると鍵盤をなぞりながら、自分の好む音階や和音の組み合わせやその響きに独自の発見を楽しむ余裕も生まれる。こうした長期にわたる集中的なトレーニングを続けると、音楽に関連する脳領域の働きを活発にし、音楽的システムが作られる。現代の脳神経科学から分かったことを当時のベートーヴェンに当てはめてみると、父ヨハンが息子に施したことは乱暴であったが先のコンドルセの指摘するとおり、その効果は理に叶っていたことになる。
 音楽の認識は左右の脳で階層的に分担して行われるが、長期にトレーニングを積んだ専門的な音楽家ほど右脳が活発に働くことが分かっている。旋律に含まれる単純なリズムや楽音を認識するときは、左脳の運動前野と頭頂葉の一部を使うが、楽音間の時間的関係やリズムやテンポが複雑になると、右脳の運動前野や前頭葉が機能し小脳も関与してくるという。演奏は指使いをつうじて知覚される運動をともなう。人間の動作はリズム感覚に支えられていて、道具を使いこなすためには各々にふさわしいリズムやテンポがあることは、音楽と直接関係がない場合でも私たちは経験的に知っている。各種のスポーツなどはまさしくリズムやテンポが動作の基礎を支えている。音楽の場合でも専門的な訓練を受けた経験が豊かな人ほど、右脳と小脳が活性化するようになっていくのだという。
 ベートーヴェンは幼い頃から楽器に触れ、そのことが彼の脳を音楽的構造に仕上げていくうえで大きな成果を上げていたのである。音楽は彼の表現言語となる。祖父や父から受け継いだ遺伝子が環境によって誘発され、ベートーヴェン自身の努力が彼の額を天才に磨き上げていたのである。のちにベートーヴェンを訪ねたベッティーナが、初めて彼を見た印象を手紙に記している。「・・・・・・小柄な人です(魂と心はあんなに大きなのに)。浅黒いあばた面です。いわば醜男ですが素晴しい額です。それは調和のある高貴なアーチを画いています。素晴しい芸術品にひきつけられた時のように見つめてしまいます。・・・・・・」というように、ベートーヴェンの額は人の目を惹き付けずにはおかない魅力を具えていた。
 ベートーヴェンの音楽環境は、一族のネットワークを敷いていたバッハの環境と較べると、その範囲も規模も狭いものだが、三世代が職業音楽家という家系は以降の作曲家たちを見渡しても稀である。幼くして彼の周りに音楽が満ちていたことは、ベートーヴェンの音楽的情操を育むには、恵まれた環境にあったことになる。世襲的職業音楽一家に生まれたベートーヴェンは、芸術的資質のうえではけっして不幸な生い立ちではなかったのである。 
 ところでベートーヴェンは一七八七年、最初のヴィーン訪問を機会に、アウグスブルクでシュタインのピアノ工房を訪ねたらしい。残されたベートーヴェンの最初の手紙が、このアウグスブルクの弁護士シャーデンに宛てたもので、彼の妻はピアノ製作家ヨハン・アンドレアス・シュタインの娘であった。その妹がナネッテ・シュトライヒャー夫人である。シュトライヒャー夫妻がピアノ製造所をヴィーンに移し、ウンガルガッセにピアノ販売店を開くと音楽家たちのサロンとなり、ベートーヴェンもこのサロンに度々通っている。ベートーヴェンはこの夫妻と生涯にわたって親しく交流した。
 ピアノはイタリアのチェンバロ製作家バルトロメオ・クリストフォリ(1655〜1731)が、一七〇九年にチェンバロの躯体を使って考案したのが最初と云われている。これをヴィーン式アクションとして完成させたのが、ヨハン・アンドレアス・シュタイン一家であった。のちに一七九六年一二月一九日付けの手紙でベートーヴェンは、このピアノは自分には良すぎて、音を自由に創造する余地をなくすと述べている。ピアノはチェンバロとは違う表現力を持ち、ダイナミックな音量と豊かな余韻は、色彩的で均整のとれた音色を奏でることができるようになった。弦を爪で引っ掻くチェンバロと、ハンマーで叩くピアノとでは、その構造と機能性に見かけ以上の違いがあり、ベートーヴェンはその奏法を工夫し卓抜な演奏技術を獲得していた。ベートーヴェンは、従来のチェンバロの延長にあった切分音にころがすような奏法から、全パッセージを打鍵するのが全く聞こえないように、あたかも弓で擦るかのようにレガートさせ、かつそのように響かせねばならないと述べている。
 カール・ルートヴィヒ・ユンカー(1748〜1797)は一七九一年一一月二三日付けで、ベートーヴェンの演奏について、楽想の豊かさ、演奏の個性的な表現法、演奏の手捌き、訴えかけの深さ、アレグロだけでなくアダージョにも優れた演奏を聴かせる彼の特徴を記している。ベートーヴェンが教師としてもヴィーンの寵児となるのは、ピアノの特徴をよく生かした奏法と表現力に卓越していたからである。こうした過渡期にハイドンはクラヴィーア用独奏ソナタを、五〇曲から六〇曲前後作曲している。小品と云っていいような規模のものが多い。モーツァルトは一八曲を残している。これに較べてベートーヴェンは、作品番号の付いたものだけで三二曲のピアノソナタを作っている。この分野に限って云えば、ピアノソナタという様式と、その後の発展を促したのはベートーヴェンだったのである。まさにピアノがベートーヴェンの人生を切り開いたと云っても過言ではない。
 さて一七八四年にマキシミリアン・フリードリッヒが亡くなると、後任に就いたのがマキシミリアン・フランツ(1756〜1801)である。前選帝侯フリードリッヒの甥になる。彼はオーストリアハプスブルク皇帝ヨーゼフ二世の末弟であった。兄ヨーゼフの啓蒙的改革に同調する啓蒙君主で、ヴィーンの雰囲気をボンに持ち込んだ。彼もまた前任者と同じく財政の立て直しに迫られ、国民劇場を一旦閉鎖する。官吏の棒給を半減し宮廷楽団も縮小するのだが、ネーフェを従来のまま留任させ、彼の推薦でベートーヴェンは宮廷オルガニスト助手に任命される。そして一七八九年には、ベートーヴェンは正規の宮廷楽団員に採用されるのである。
 マキシミリアン・フランツは、アカデミーを昇格させ一七八六年にボン大学を創設する。神学、法学、医学、哲学の各学部で構成し、既成の価値観にとらわれない自由主義的な教授陣で編成されていたという。また宮廷図書館を一般解放し、翌年には読書協会「レーゼ」が設立され、市庁舎の一画に集会所を設けるなど開明的な施策を打ち出していく。当時のドイツ圏の読書人口は成人の二五%に達しており、この頃には二七〇に達する読書協会が設立されていたという。この読書協会は自由と平等の下に、身分や序列や性別を問うことなく交流する人々の集まりであった。こうした施策と呼応するように、マルクト広場にある寡婦コッホ夫人の経営するレストラン兼書店「ツェアガルテン」は、進歩的知識人や芸術家たちの集会所となり「ツェアガルテンの仲間」と呼ばれる読書会もできる。ゲーテやシラーの作品に触れ談論を交し、当時の斬新なカントの哲学も話題になったことだろう。ベートーヴェンもこの「ツェアガルテン」に足を運んでいる。シラーの友人であるルードヴィヒ・フィシェニッヒ(1768〜1831)と出会ったのもこうした機会をつうじてのことだったと思われる。ベートーヴェンの自由主義的な思考は、こうした交流をつうじて確かなものに育まれていったのである。
 こうした時代の潮流のなかで詳しい経緯は不明だが、一七八九年五月一四日付けでボン大学はベートーヴェンを入学させている。隣国フランスが革命の火蓋を切ることになる全国三部会が開催された時期である。大学にはロベスピエールの熱烈な支持者であるシュナイダー教授が教壇で熱弁を奮っており、彼はこのあとフランス革命に身を投じ断頭台に消えることになるが、ベートーヴェンが彼の薫陶を受けたであろうことは容易に想像できる。
 閉鎖されていた国民劇場も再開され、音楽監督にヨーゼフ・ライヒャ、舞台監督にネーフェが就き、一七八八年から翌年にかけてモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」や「フィガロの結婚」が演目に上がっている。こうした文化活動が再び開花し始めた一七九一年には、ドイツ騎士団の団長であったマキシミリアン・フランツの随員として、ベートーヴェンはメルゲントハイムへ演奏旅行をする機会が与えられる。八月から一〇月にかけたこの演奏旅行は、彼に見聞を広めるとともに、音楽の持つ感動の力を認識する旅であったかもしれない。
 こうしてベートーヴェンは、旧来のカトリック信仰とその文化のなかで音楽を学び、時代の思潮である啓蒙思想をつうじて知識を吸収していった。時代の趨勢がどのように変わろうと、自由と解放を希求するベートーヴェンの妨げにはならなかった。ベートーヴェンの音楽への一貫した態度は、このような社会的気運のなかで醸成されていったのである。また周囲の人々は、父ヨハンの不行跡を見放すことなく、一家に助力を惜しまなかった。ベートーヴェンの弟子となったフェルディナンド・リースの父フランツ・リースは、ベートーヴェンにヴァイオリンの手ほどきをしたほか、物心両面にわたって援助をする。その感謝をベートーヴェンは息子フェルディナンド(1784〜1838)をヴィーンに迎え、弟子とすることで報いている。そして選帝侯の官僚として赴任したヴァルトシュタイン伯爵(1762〜1823)の知遇も得た。彼はヴィーンの社交界にも通じていたほか、音楽への深い造詣も合わせ持っていた。
 ベートーヴェンの友人となるフランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラー(1765〜1848)との出会いがあり、ピアノ教師としてブロイニング一家との交流が始まる。ヘレーネ・フォン・ブロイニング夫人とその子息たちとの交流は、多感な少年期を潜り抜ける上で大きな助けともなり、その一家に集う知識文化人たちとの邂逅が、知識や教養を高める上で刺激となり触発されていったに違いない。シュテファン・フォン・ブロイニング(1774〜1827)とは一時深刻な仲違いもあったが、終生ベートーヴェンは交友を続けている。のちに彼はベートーヴェンの死に際し、後始末や葬儀の準備などに心労を費やし、彼の死後三ヶ月余りで後を追うように他界する。
 また姉のエレオノーレ(1771〜1841)とは、青春のほの淡い交流に、微妙なときめきが芽生えていたようである。彼女が寄せた誕生祝いのカードには、乙女心のほのぼのとした憧憬が感じられ、好意を持った者でなければ分からない、ベートーヴェンへの懸念が伝わってくる。ベートーヴェンの死後発見されたというから、彼はこのカードをボンを発つときから懐中にしていたのである。ベートーヴェンの誕生日に「かれの弟子から/幸福と長い命を わたしは今日 君のために祈り/あわせて わたしも自分に 何かを望んでいる。/君について わたしに望むことは 変わらない愛を/わたしについて 君に望むことは 寛大に忍ばれんことを。/あなたの友人でもある門生の ロールヘン・フォン・ブロイニングより」(ベートーヴェン 生涯篇 属 啓成 著 音楽之友社)。
 エレオノーレはボン時代に、ベートーヴェンにお手製のチョッキを贈っている。そしてヴィーンに来て一年後の一七九三年一一月の便りで、ベートーヴェンは再びチョッキをねだっている。この手紙によると、ヴィーンに発つ前に二人の間には諍いがあったことを示している。これにたいして彼女は、今度はこれもお手製のネクタイを贈ってくる。誕生カード、記念帳、チョッキ、ネクタイを四点セットとして描いてみると、ベートーヴェンへのエレオノーレの並々ならぬ気持ちが窺われる。
 周囲の無責任な言動が二人を誤解させる何かを含んでいたようであるが、それが原因でベートーヴェンはエレオノーレにあらぬ態度をとったと思われる。のちのヨゼフィーネ・ダイム夫人との関係を窺わせる男女の機微が働いていたのかも知れない。そのことをベートーヴェンはおおいに恥じて許しを求めている。エレオノーレはそれに応えて、手製のネクタイを贈ることでメッセージを送ったとも考えられるのである。この思わぬ贈り物に狂喜したベートーヴェンは、お礼と和解の気持ちを込めて、エレオノーレにヴァイオリンとピアノのための作品を捧げた。WoO四〇モーツァルトの歌劇フィガロの結婚より「もし伯爵様が踊るならによる一二の変奏曲」である。


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