んだんだ劇場2007年3月号 vol.99
No5
啓蒙の十八世紀 4

 だが彼女は、一八〇二年にヴェーゲラーと結婚する。三十歳を過ぎての初婚は当時としては晩婚である。ベートーヴェンへ操を立てていたとも考えられないこともない。彼女はベートーヴェンのボンへの凱旋を、心待ちにしていたのではないだろうか。一八二五年にヴェーゲラーが十数年ぶりにベートーヴェンに便りを出した折、エレオノーレはそれに添えて、真心のこもった心情を彼に吐露している。彼女はボン時代のなつかしい思いを、ベートーヴェンに抱き続けていた。その誠実な人柄が文面から伝わってくる。ベートーヴェンがボンを発って以来一度も再会を果たせなかったエレオノーレは、終生ベートーヴェンへの想いを暖めていたのである。
 ベートーヴェンが旅立つにあたり、エレオノーレは一七九二年一一月一日付けで記念帳に記している。「良き人との友情は、人生の太陽が沈むまで、あたかも夕暮れに影が伸びるように育つ」。ヘルダーからの引用という。現存している記念帳は一四名の人たちから寄せられ、ベートーヴェンと同世代の若者が多く、貴族の出身や使用人の出身など様々でボンでの自由な交流が偲ばれる。
 ヴァルトシュタイン伯爵やネーフェのような外部の人間の眼には、ベートーヴェンの素質に並々ならぬ才能が秘められていると見抜いたに違いない。ハイドンやモーツァルトのような大立者の後ろに控えながら、その若い才能が嘱望されたのは、周囲にベートーヴェンの才能を見極める炯眼な人物たちの存在があったからである。ベートーヴェンの音楽的資質は、こうした宮廷楽団での経験やブロイニング一家をはじめ周囲との自由な雰囲気に培われたのである。天才の天分はその才能によって独力で開花するだけではない。周囲との交流や無償の援助に応えるようにして、豊かな果実を収穫したのである。ベートーヴェンはボン時代のこうした交流を、生涯忘れることはなかった。つねに彼の音楽の底を流れるヒューマニズムの脈動が聴こえてくるのは、この時期の生活に負うところが大きかったのである。
 芸術家の金銭感覚に乏しかったり生活に無頓着なことは、天才の所以として語られることが多い。幼少期に相応な生活に恵まれていたモーツァルトには、音楽的天分と経済的観念の間に乖離があった。かなりな収入を得ていたにもかかわらず、妻コンスタンツェとせっせと浪費する。父レオポルトのマネジメントによる英才教育は、息子の音楽的天分を大きく開花させることはできたが、生活上の知恵を施すまでには手が回らなかった。本人にもその才能を、生活に回す分は残っていなかった。
 一方ベートーヴェンは父ヨハンに代わり、早くから一家を支えなければならなかったことから、モーツァルトには欠けていた生活基盤を確保することの自覚は強かったのである。出納管理が上手だったとはいえないベートーヴェンが、生活を支えるために収入を確保する必要性と、その算段についてかなりな努力を払っていることは、残された彼の手紙から窺い知ることができる。また雇い入れた使用人としばしばいざこざを起こしたのも、小額な金銭にたいする彼の疑心から生じたものである。
 ベートーヴェンは一七八九年には、一家の世帯主を演ずることになる。一家の柱である父カールは酒に溺れ、声を失って宮廷歌手を解職され、年金が支給される身となっていた。この父の年金の半分を直接自分に支給するよう、ベートーヴェンは宮廷に請願書を提出し、これが受理され父の年金から一〇〇ターラーが彼に支給されることになった。ベートーヴェン自身も一七八四年二月一五日に、宮廷礼拝堂のオルガニスト助手として任命され一五〇グルデンが支給されていたので、二人の弟を抱えた苦しい生活をしのぐことができたのである。ベートーヴェンは吝嗇な生活者ではなかったものの、生活は稼いで得るものという観念は、ボンでの生活を通じて体験的に身につけていた。生活していくうえでの虚栄は、モーツァルトに比べてはるかに小さかったのである。
 けれども生活上の煩雑な事々はさすがに創作に支障をきたしたのか、一八〇一年の年初に出版者のホーフマイスター宛ての手紙で「世の中に芸術倉庫といったものがあってしかるべきですよ。芸術家が自分の芸術作品をそこに持ち込めば、彼の必要なものを渡してくれるといった所ですよ。ところが現在は半分商人でないとやっていけません。どうしたら芸術家が商人になれるんです。」と吐息を洩している。
 さてベートーヴェンが雄躍を思い描いているヴィーンは、女帝マリア・テレージア(1717〜1780)の下での繁栄と、息子ヨーゼフ二世(1741〜1790)の改革の渦中にあった時期である。一回目のヴィーンの短い滞在でベートーヴェンが見たものは、喧騒で活気に溢れた大都会の繁栄する姿だったかもしれない。だがこの市街に残るバスタイと呼ばれる堡塁跡は、もともとこの地が要塞都市であったことを示していた。
 過年東方のオスマントルコが脅威となっていて、一三八九年に始まるハンガリー、オーストリアへの度重なる侵攻は一六八三年までの約三百年間に三七回に及んでいるという。そのなかでも一五二九年の大帝スレイマン率いるトルコ軍の襲来は、ヴィーン市街の城壁まで迫る際どい戦闘であった。一二万のトルコ兵と二万八〇〇〇頭のラクダが城壁を囲むように郊外に陣を敷いた光景は、ヴィーン市民を恐怖と混乱に陥れる。ヴィーン市側で防衛に当たったのは、一万八〇〇〇人から成る兵士と市民の混成軍であった。トルコ軍は総勢二五万ともいわれ、九月下旬から三週間にわたって熾烈な攻防戦が繰り広げられた。ヴィーン市側は勇敢に応戦しトルコ軍の侵入を阻止する。
 この戦いはキリスト教圏とイスラム教圏の衝突という宗教上の戦いでもあった。ルターの宗教改革の嵐が押し寄せるなか、ここではプロテスタントもハプスブルク家の擁護に回っている。神聖ローマ帝国のキリスト教圏の傘下にある領邦諸国は、この事態に一応の歩み寄りを見せるが、フランスはオスマントルコと裏で工作しながら高みの見物を決め込み、漁夫の利を狙っていた節がある。戦闘は二〇日あまりで終了する。トルコ軍は冬の到来を怖れ、帰途の行程を考慮すれば、ヴィーンに長く逗留することはできなかった。また食糧が乏しくなり自陣に疫病が発生し、ついに退却を余儀なくされたとも伝えられている。一〇月一六日トルコ軍は退却を開始し、ヴィーンは陥落寸前のところで窮地を脱する。
 この戦闘でヴィーンは、大砲を使用し火薬を用いた敵の攻撃に城壁が耐えられないことが分かり、改築工事に着手する。五角形に突き出した十二の稜堡を造り、稜堡間を幕壁で繋げて六つの門を設ける。このうちケルントナー門のそばに建ったのが、ケルントナートーア劇場である。ベートーヴェンの交響曲第九番「合唱」は、一八二四年五月七日にここで初演されている。市街を円形に囲むように鞏固な城塞都市がヴィーンに出現した。また城壁の外周を無人地帯にして斜面の堤を築き、砲弾が城壁内に届かないよう最終的には幅四五〇メートルの人工の斜堤の丘が市街を取り囲むように出来上がった。こうした防御線のための築造が百数十年にわたって断続的に行われたのである。
 その甲斐があって宰相ムスターファ率いる一六八三年のトルコ軍の侵攻では、ヴィーンは要塞都市として敵の猛攻によく耐え、最後は三〇万とも云われるトルコ軍を狭撃する形で打ち破ることができたのである。その後オスマントルコの衰退とともに、東の脅威が弱まるにつれて斜堤の丘はその役目を終え、手狭になった市街を避けて王室の宮殿や貴族の邸宅が次々に建設されることになる。城外は優美な庭園を含む宮廷都市に変貌した。十八世紀の二〇年代から世紀半ばにかけてヴィーン郊外は建築ラッシュとなる。シェーンブルン宮殿やトルコ戦に功績のあったオイゲン公のベルヴェデーレ宮殿をはじめ、ベートーヴェンの後援者となるリヒノフスキー、ロブコヴィッツ、キンスキー、ラズモフスキーの各邸宅が築造されたのもこの頃のことである。
 ヨーゼフ二世のために建てたシェーンブルン宮殿は、劇場を併設し女帝マリア・テレージアの子供たちも上演の折には配役となって演技したと伝えられている。この宮殿は各国の閣僚や大使をはじめ、その家臣や下僕や兵士など数千人もの人々を収容することができた。また富裕な商人たちも狭隘な旧市街を逃れて郊外へ進出する。新たにヴィーン進出を目指す野心家たちもこぞってこの地に根拠を求めた。建ち並ぶ宮殿や邸宅には、逸楽を求める豪華絢爛な室内装飾が施され、絵画、彫刻が天井や壁や柱を彩っている。今日から見れば、過剰な装飾に映るほどの贅を競い合っていたのである。富の偏在がいかに絢爛な贅を尽くすことができるかを物語っていた。
 こうした経済効果によって人々が集まり情報が交換され、それが相乗して数十の様々な人種の混淆がヴィーンを自由都市に変える。民族の違いが反発し合うよりは調和と融合に作用して、ヴィーン気質というものが醸成されていくのである。それは多様な文化や価値観を持つコスモポリタン的な都会となり、ヴィーンはロココとバロックの新旧の景観が活況を呈し、要塞都市から政治、経済、文化芸術の中核都市として西のパリと並びヨーロッパ内陸部の一大拠点となっていた。ベートーヴェンは高揚がいまだ醒めやらぬ爛熟期の余韻を追うようにしてヴィーンに登場するのである。
 女帝マリア・テレージアの死後、啓蒙君主を自認するヨーゼフ二世は上からの改革を急ぐ。「寛容こそ、人々をその住地に定着させ、各々の職分において多くのことを達成せしめるために必要な条件である。宗教的迫害行為に赴き易い教条主義や不寛容主義は、国家をしてその住民を根絶させ、貧困ならしめ、かつ無秩序の状態を現出せしめるにいたるであろう。」という彼の考えの許に、拙速に改革を断行する。
 身分を土地や領主に縛りつける体僕制の廃止や、非カトリック教徒に信仰の自由を認める。法的にもその保証を与えるとともに、彼等への政治的社会的な差別を撤廃させる。さらに修道院が独身者をはびこらせ、有能な人材が社会に還元されず、その広大な所有地を独占しているとして、四〇〇以上の修道院が廃止された。また中央政府による強力で近代的な行政管理機構をめざしたため、領内諸民族の伝統や慣習や地域主義を無視し、地方の個別的要求に配慮のいとまを与えず官僚主義の徹底を図る。こうした政策を実施するために行政ドイツ語の育成や、秩序や風紀や治安を推進する領邦警察庁を組織した。これが後に各国の警察制度の範となる。
 このほか義務教育制を施行し行政と司法を分離して、死刑の原則的廃止や拷問を禁止するなど、啓蒙君主としての開明ぶりを遺憾なく発揮した。だが支配層や、その恩恵に浴するはずの国民のどちらにも、これらの改革は概して不評であった。専制君主による人民のための人民を排除した、原理的画一主義による弊害の方が、恩恵よりも大きかったのである。地域や諸民族の実情を考慮しない君主の独断専行は、条例や規則が威圧的に行われたために、行政内部の混乱を招いた。一歩を歩む前に二歩を歩むと揶揄されたように、拙速な勅令による大量の施行は朝令暮改の弊を生んだ。性急で激烈で直情的なヨーゼフ二世の性格も絡んでいると云われる。その実現を中央集権的な官僚支配による、啓蒙絶対君主的性向によって図ろうとしたのである。
 改革は君主の意思とは反対に、国民には行き届かず、一七九〇年にヨーゼフ二世は失意のうちにこころざし半ばで病に倒れる。ヨーゼフ二世はルイ十六世のフランスとは逆に、斬新な改革に取り組むが、上からの改革はかえって国民を混乱に陥れた。今日の日本でも見られる政治家と官僚の軋みや、利権が絡んだ思惑のために、その恩恵が国民に行き渡る手前で滞っていたのである。ヨーゼフ二世の跡を継いだレオポルト二世は、即位後二年足らずして兄を追うように逝去してしまう。君主による上からの開明的な改革はここで終りを告げると、レオポルト二世の息子フランツ二世の反動へ逆戻りする。ベートーヴェンの庇護者であり、弟子であったルドルフ大公は、フランツ二世の末弟である。この縁があってベートーヴェンは、ヴィーンでの命脈を維持できたのである。
 ベートーヴェンにとってヴィーンへは二回目の旅立ちである。一回目はモーツァルトに教えを乞うため一七八七年四月に向かうが、滞在間もなくして母マリア・マグダレーナ重篤の知らせを受け、六月にはボンに戻っている。だが看病の甲斐もなく七月一七日に母を失ってしまう。それから五年後、ベートーヴェンは再び故郷ボンをあとにした。故郷への帰還を望みながら、ベートーヴェンはこの後ついになつかしいラインの川面に立つことはなかった。激動の世紀末と反動の新世紀の只中に、ベートーヴェンが見るものは何か。それは作品のなかにどのように反映されていくのであろうか。若きベートーヴェンは、いま道のない荒野にその第一歩を踏み出した。ヴィーンでの生活は、ベートーヴェンみずからの才覚によって切り開く人生となる。
 「親愛なるベートーヴェン君、久しい間の君の望みがかなって、今やヴィーンに旅だとうとしている。モーツァルトの守り神はその秘蔵の子を失って、今も悲しみ、そして泣いている。ただ無尽蔵のハイドンを頼りにし、かれを通してだれかを見付けようとしているのだ。君よ、たゆみない励みをもって、ハイドンの手からモーツァルトの魂を授かるよう。」・ボンにて 一七九二年一〇月二九日君の忠実なる友ヴァルトシュタイン・。
 ベートーヴェンのヴィーンへの旅立ちは、まさにこのヴァルトシュタイン伯爵が寄せた記念帳からの出発であった。それはハイドンの手を離れ、モーツァルトの魂を突き抜け、みずからの魂の漂白と、音楽への飽くなき創造の旅でもあった。「自分とは何か?・すべて。今日まで何であったか?・零。何になろうとするか?・ベートーヴェンに」。まさしくベートーヴェンは、みずからの人生を創造に綴った芸術家であった。一七九二年一一月初旬、ベートーヴェンは大望の志を胸にヴィーンへ旅立ったのである。


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