んだんだ劇場2007年4月号 vol.100
No6
近代の道しるべ

 ベートーヴェンの九曲の交響曲の誕生にむけて、いままさにその最初の音が、宙空に放たれた(譜例1)。後世に受け継がれる九曲の交響曲誕生の最初の音としては劇的でも何でもなく、ごく慎ましい控え目な開始である。簡潔で何の変哲もなく、平凡のうちに始まる。だがまるで真新しい五線紙に初めてインクを置いたような、快い緊張感が走る。そして五小節目のフォルティッシモで、宙空に一斉に解き放たれた音符は、まことに解放感にあふれていて、爽やかで清々しい朝の気分に誘う。こうして遮るものが何もない広野へ勇躍して飛び出す様は、いよいよ大空に向かって奔放にはばたく幼鳥の巣立ちを想起させる。飛び立った幼鳥は伸び伸びとその翼を広げ、大空を滑空する。眼下に広がる光景は、未来へ向かって心踊らせる未踏の大地である。そしてついにみずからの交響曲の扉を開いた気概が、この作品に若やいだ気分をもたらしているのである。それはまさに未来への照射であり、未知の世界に踏み出す希望と爽やかな緊張の第一歩であった。
 序奏部の一二小節のあとに提示される第一主題(譜例2)は、彼の特徴である急き立てるようなリズムの鼓動がさっそく顔を出す。解説書ではこの主題がモーツァルトの交響曲第四一番「ジュピター」第一楽章の主題と類似しているという。しかし私たちは楽節の最小単位の一つを探し出してきて、ベートーヴェンの中にあるモーツァルトやハイドンを探すのが目的ではない。彼等にあるものがなぜベートーヴェンになってしまったのかという驚きなのである。
 ベートーヴェンにとってこの交響曲第一番ハ長調は、まさに彼の交響曲の処女作である。高齢ながら矍鑠として指揮活動を続けていた朝比奈隆氏(1908〜2001)は、この第一番を獅子の爪に例えて述べていた。確かに作品の中には、その一端をみれば容易ならざる全貌を窺い知ることのできる作品というものがある。ベートーヴェンは、先人の様式や作品を剽窃してハイドンやモーツァルトを作ったのとは明らかに違う。この作品からハイドンやモーツァルトは聴こえない。すでにこの作品でもそのリズムは、心の軽やかさよりも身体的な律動が力強く牽引する。そのハーモニーは透き通るような絹擦れとは違い、その木目はずっと粗い感触である。メロディの美しさはリズムとダイナミズムの激情の陰に隠れてしまうことがある。要するに洗練された様式美や、繊細で華麗な肌合いを目指す音楽ではないことが分かる。
 しかしその一方でこの作品には、ハイドンやモーツァルトが到達した交響曲の影響から脱していないという指摘がある。それなら画家は先人の作品を写し取り、画法や作風や構図を盗むことで技量を研いている。技量を模倣に終わらせるのは画家の才能である。基礎的な技量なくして模写も模倣も叶わないだろう。表現手段として作風や技法や構成を先輩たちの先例に借りながら、表現したものが貸し手の画法を感じさせるとすれば、借り手の表現するものが、今だ貸し手の創造を越えていないからである。それは剽窃でも模倣でもなく、作者の力量を表わしたものでなければならない。
 ハイドンが作った後期の交響曲は、彼自身の円熟期に向かう時期と重なり合う。ハイドンに到達点であったものは、ベートーヴェンには出発点となったが、その作曲作法までも継承したのではなかった。何よりも音楽を創造する姿勢に違いがあった。この姿勢の違いがハイドンやモーツァルトの模倣を超えて、ベートーヴェン独特の創造を生み出したのである。それがどのようなものであるかということを、彼の九曲の交響曲が語っているのであって、古典派の括りから隔絶したところに出発したのが彼の交響曲であった。
 ベートーヴェンの九つの交響曲のうち序奏部を持っているのは、この作品を含め作品三六第二番、作品六〇第四番、作品九二第七番の四曲である。ベートーヴェンの序奏部は、楽曲の主要部から独立した前置きではない。序奏部が主要部を手繰り寄せるというように、また主要部に至る道筋を序奏部が導くというような機能を果たしている。この作品でも序奏部が、演奏の準備運動とか前置きというような形式上の約束事に終わらず、曲の冒頭から緊張感を高め、聴衆の関心を引き付ける効果を生んでいる。そしてこれから展開する作品の前途を暗示する役割も担っている。書法上の常套手段を、ハイドンやモーツァルトから踏襲しているのだが、序奏部と主要部が必然的な繋がりを持っていることをはっきりと示している。それはあとに続く主要部と対照を成しているので、緊張から開放(弛緩)へと進むベートーヴェンのドミナント効果が発揮される。主要主題に突入した時の印象が、聴き手をより一層開放的な世界へいざなうのである。何よりも情念が導き出す止むに止まれぬ衝動が昂揚しながら、身体に満ち溢れる生命の躍動感を表わしている。ベートーヴェンに共通する語法は、この作品でもすでに顕われているのである。
 この交響曲第一番を書き上げた直後の、一八〇一年頃の作と伝えられているベートーヴェンの肖像画がある。ガンドルフ・シュタインハウザーが描いた彼の素描を、ヨハン・ナイドルが模写して彫版にしたというものである。斜め右側から上半身を写した肖像で、言い伝えられているようながっしりした体躯とは全く違い、精悍な雰囲気がその肖像画から伝わってくる。これは画家の脚色が手伝っているかもしれないが、身なりは洗練されていてお洒落である。後年の彼が服装に構わず、うらびれた姿を晒していたと伝えられているが、この肖像画からは想像できない。この肖像画は当初ヨハン・カッピ社から発行されたという。さらにこれを模写したものがライプツィヒのビューロー・ド・ムジクから発売されていたというから、新進気鋭の若手音楽家として、その人気はすでに広範に知れわたっていたことを裏付けている。この作品二一の曲趣を裏書きしたような印象がこの肖像画にも感じられるとともに、この交響曲第一番自体が当時のベートーヴェンの自画像に重なるのである。
 第一楽章冒頭、周囲の様子を窺いながら、住処の扉をおずおずと半開きに開けるようにして曲は静かに開始する。この扉は控えめで遠慮勝ちである。一瞬未知の世界を注視するように、外部に向かって神経が一点に集中する。しかし遮るものが何もないと分かるや一気に扉を開け放つと、目映いばかりの白光が一斉に降り注ぐ。一瞬眼が眩み、辺りが真っ白になる。眼が慣れてくると、遥か彼方まで延びている一筋の道が現われる。この道は通りすぎて来た昨日の道ではない。未来の栄光に繋がる道である。だが果たしてこの道を順調に歩んでいくことができるかどうか、その確証はまったくない。けれども彼の内面に漲る颯爽とした気概は、この小さな扉から始まったのである。それはまるでこの門出を祝福しているかのように、雄大なパノラマが視界に開けていたのである。
 三十歳のベートーヴェンは、この眩いばかりの光彩を、心ゆくまで楽しんでいる。音に色彩があるわけはないが、モーツァルトから射し込むステンドグラスの繊細なモザイク模様とは違うものである。絵画的にいえば先人たちの色よりはずっと開放的で、明るい色彩を持っていながら濃淡が鮮やかで、色調の明暗がはっきりしている。その線描は骨太で逞しいにもかかわらず、筆触には細心の配慮が払われており、一本一本の線は思い付きで描かれたものではなく、各々に意味が込められている。一言で要約すればじつにコントラストが鮮やかなのである。そのためにベートーヴェンの音楽は、そのダイナミズムに意志や感情の起伏が籠められており、そこには措定された概念が含んでいるように聴こえてくるのである。
 繊細で華麗な旋律が情緒に快いという点はモーツァルトのものであり、端正で簡潔な造形性ということではハイドンである。ベートーヴェンとハイドンとの間には、ほぼ四〇年という時代のひらきがあり、両者が作曲活動に重なる二〇年の歳月をともに過ごしたとは云え、音楽に内在する質的な性格は隔絶した内容を含んでいる。ハイドンは一〇〇曲を超える交響曲作品を生み出したが、彼の同時代の作曲家たちもそれに劣らず膨大な数の作品を作っているという。一万六〇〇〇曲を超えるとも言われる交響曲作品のなかで、今日好んで耳にできるのは一%にも満たないかもしれない。現在の私たちの耳に耐えうる作品ということになると、数はさらに限定されるだろう。継承してきた技法が鍛えられ、磨き上げられて成熟した様式は、ベートーヴェンのロゴスの黒子となるのである。
 ベートーヴェンは技法上の革新を目指したというよりは、伝統のなかに持っている真髄を伝統主義の因習から守り解放しながら、自分の創造に生かしたという意味で、革新的にならざるを得なかった。ベートーヴェンの生きた時代には、芸術活動の領域が貴族社会や教会組織の枠組みのなかで実現できたハイドンの時代とは状況が変わっていた。ハイドンの時代には音楽に概念を持ち込むという発想は、かえって音楽の享受の妨げとなるものであった。時代的にはハイドンとベートーヴェンの狭間に生きたモーツァルトの場合が、その時代の趨勢をまともに受けていたといってよい。モーツァルトの時代までの音楽家の処遇は、使用人の域を出なかった。宮廷や教会の創設した楽団で職人的な音楽家となるか、収入の不安定な自立した道を選ぶか、身体の健康にものをいわせ時間を費やされるピアノ教師からチャンスを掴むか、その選択肢は限られていた。モーツァルトがその打開を図ろうとしたのである。
 ザルツブルクの大司教コロレイド神父との確執で、モーツァルトがザルツブルクを飛び出したのも、幼い頃から称賛を浴びてきたモーツァルトの音楽的矜持が、隷属的な職人音楽家を潔しとしなかったからである。しかし服従を受け入れ難いものとしても、がまんすれば衣服が与えられ賃金が支給され、まがりなりにも食うに困らない生活は保証されていた。自立しても出版にいたる取引上の交渉や雑事に追われ、版権などというものが意識になかったこの時代で収入を確保していくことは、余程の困難をともなう。収入を得るために事前に聴衆を募る予約演奏会も多額の経費がかかり、なによりも不特定多数の聴衆を獲得することが至難であった。音楽自体が個人のものであり、限られた組織に従属するものだったのである。
 モーツァルトは各地を演奏旅行するヴィルトゥオーソの一人として、作曲家と演奏家の職業分化の先達を担った音楽家の一人であった。芸術へのステータスや、天才崇拝という他者性によるパトロネージの意識が興る狭間に生きたのがモーツァルトで、その先鞭を付けた音楽家の一人である。組織されない不特定多数の聴衆が器楽音楽の後援者として生まれてくるのは、ベートーヴェンの後半の人生に漸く実現されるのである。ナポレオン戦争による貴族の衰退と、中産階級の台頭という社会的背景が、大衆的聴衆を生み出していくのである。
 モーツァルトはハイドンの半分には満たないとはいえ、その後の作曲家たちから見れば相当な数の交響曲作品を残している。モーツァルトは交響曲にさりげない独白を取り入れている。彼の器楽曲に共通する特徴である。彼は意識的にこれを手法のなかに取り入れたわけではないのに、日常のなんでもない心の機微をその作品につぶやいた。生活のなかに見え隠れする喜怒哀楽の襞を、無意識のうちに表わすことのできた天才作曲家である。
 この二人に較べればベートーヴェンはわずかに九曲である。しかも様式からしても新しい様式を発明したわけではなく、先人たちの創意を受け継いでなお九曲という寡作に止まった。数の上で交響曲の興隆にブレーキをかけたという意味では、ベートーヴェンの影響が遥かに大きいのである。数では先輩たちに叶わなかったが、それでもベートーヴェンは音楽史にその名をとどめる交響曲作家である。量産による消費から、質への転換をもたらしたのがベートーヴェンであった。ハイドンは同じ交響曲を数十曲書いて、ソナタ形式という一つの様式を完成の域に練り上げた。モーツァルトはそれに繊細で華麗な装飾を施しながら、心の機微を潜ませて円熟の極に到達した。ベートーヴェンは内面の世界を様式に表わし、違う交響曲を九曲書いた。そしてこれを未来の聴衆の心に照射したのである。
 盛期古典様式の持つ論理的な形式を受け入れ、ソナタ形式という形式をもって統一性を図りながら、ベートーヴェンは内面から溢れ出す止むに止まれぬ情動を作品に表わした。音楽家がみずからの内的衝動を作品に写し取ったという点で、つぎのロマン派に扉を開いたばかりではなく、人間の一生のうちに目覚める強烈な個の存在を、普遍的な形で音楽に呈示したのである。ベートーヴェンの音楽が時代や状況を超えて、こうした作者の内面的な省察を作品に持ち込もうとしている点で、この交響曲に早くもその兆しが聴き取れるのである。
 芸術作品を鑑賞する場合に、作者の個人的な問題や伝記的な知識がなくとも、作品自体が作者の手を離れて自立的な存在として現れる。したがって作品に虚心に向かい合えば、おのずから作品の感動は生まれてくるという考え方がある。生まれた作品はおのずから伝播しながら、人々の評価に耐えたものが後世まで受け継がれて名作として残るのである。だがベートーヴェンの音楽をそこに止めていたのでは、彼の音楽を半分も享受していないことになる。ベートーヴェンは人生に向かう態度や理念や、その根底をなす情念の世界を妥協せずに追及した音楽家である。内面の問題が音楽上のモチーフとして立ち現われるまで、彼は辛抱強く作品と向かい合った作曲家なのである。
 この作品には、日向を目指す明朗さが具わっている。そうした趣が先に述べたような第一楽章の気分につながるのである。矜持とはもしかすると、根拠のない精神のときめきである。それを確たるものにするために自分でなければ為し得ないもの、自分だけに存在するものを探し求めて飛翔する。達成されなければそれは空想に終わるかもしれない。しかしこうした昂る精神は野心を覚醒させ、野心は意欲や努力を導き出す力を引き出すものである。
 いわば未来へ馳せる希望を孕んだ眼差しが、この作品に現われている。眩いばかりの陽の光が辺り一面をまっ白に蔽うさまは、これから描くことになる創造のカンヴァスに、何の色づけもどんな構図の指定もなく、描く本人の意思に委ねられている。すべてのものが開放されて提供されるのである。ベートーヴェンはそんなカンヴァスに、自分の色を染めていく。それが聴く者に若々しい気分を感じさせるのであって、けっして若書きの反映で出来上がった作品ではない。この作品は九つの峰の一角をなしており、その頂に立つと、連なる峰々の雄大なパノラマを眺めているような位置に私たちを立たせてくれる。すでに私たちは続く八曲の名峰を知っている。まさにその展望をこの交響曲第一番のルートから登って眺めることができる。また他の峰に立って、この作品を対照させながら立体的に観照することもできるのである。
 この交響曲が聴く者に溌剌として清々しい印象を与えるのは、ベートーヴェンの心の裡に湧き上がる崇高なものへのあこがれと、その実現を目指して生きようとする人生にたいする真摯な態度が聴こえてくるからである。一八〇一年六月二九日付けのヴェーゲラーに宛てた手紙で、初めて耳の不調を訴えるのだが、その前半でベートーヴェンは次のように述べている。
 「・・・・・・僕がこの世の光を浴びた麗しい地、わが故郷は、あなた方とお別れした時のままの姿で、美しくはっきりと眼前に浮かんでくる。まあ言えば、皆さんにお目にかかれ、わが父なるラインに挨拶をすることができたら、その時が僕の生涯で一番幸福な時の一つだと思うだろう。それはいつのことか、今まだはっきり言えない。今約束できることは、今度お目にかかる時には、僕が本当に立派な人間になっていよう、ということだけだ。芸術家としてもっと偉大になっているということだけでなく、もっと良い、ずっと完成した人間としてお目にかかりたいと思う。その時はわが祖国の状態ももっと良くなっているだろうから、僕はわが芸術を、貧しい人々の福祉のためにのみ捧げよう。・・・・・・」(「ベートーヴェンの手紙」上・下 小松雄一郎 編訳 岩波文庫 )


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