んだんだ劇場2007年6月号 vol.102
No8
未来への宣言、ハイリゲンシュタットの「遺書」

 この作品三六交響曲第二番ニ長調は、ハイリゲンシュタットの「遺書」と重なる時期に書かれている。けれどもこの作品には遺書の影を微塵も感じさせない。もし遺書の兆候や影を聴き取りたいならば、作品三七ピアノ協奏曲第三番ハ短調の方である。第一楽章冒頭の陰鬱な気分は、シューベルトの交響曲第八番「未完成」第一楽章の冒頭、地の底から復活してくる亡霊の不気味さに通じるものがある。この協奏曲には、絶望の淵に立ったベートーヴェンが、いまにも泣き叫び喚きたい衝動を抑えて、どうにか威厳を保っている姿が浮かんでくるのである。
 作品二七の二、ピアノソナタ第一四番ハ短調「月光」の愛称で親しまれているこの作品も、揺れ動く情念のほとばしりが感じられる。第一楽章の幻想的な内面の彷徨とは対照的に、その第三楽章は愛称に親しまれるイメージを覆えして、激しい情熱を鍵盤に叩き込んでいる。何か納得できないものが渦巻いていて、心の引っかかりを払拭できない魂の横溢が伝わってくる。もう一つ作品三一の二、ピアノソナタ第一七番ニ短調「テンペスト」も、叙情的な気分のなかに深い憂愁を湛えており、前進を妨げている障碍を突破できずにいるベートーヴェンの感情が錯綜している。
 この二筋の作品を過去に遡っていくと、結局「悲愴」ソナタにたどり着く。そして未来に糸を手繰っていくと、作品五七ピアノソナタ第二三番ヘ短調「アパッショナータ」や、作品六七交響曲第五番まで繋がっていることが分かる。ベートーヴェンの作品は、人間の理性や感情と、身体の不即不離な関係から生まれてくる。一人の芸術家が辿る創造の変遷は、様々な状況を通じて変化していく人間そのものの存りようを映し出すものである。もし遺書の前触れやその影響を探すとすれば、こうした作品に認められるのである。
 ベートーヴェンがハイリゲンシュタットで書いた遺書を、カタルシスのために書いたとか、彼の内面の格闘がその終結を宣言したのだとする見方がある。耳の障害や、それにともなう精神的な苦悩が、死を決意させるに至って書いたのではなく、そうしたものを克服した後の甦りの宣言であるという解釈である。だがベートーヴェンはこの遺書を、まさしくみずからの死後にまで残していたのである。晩年にいたってその所在も忘れ、処分しないまま残されたとしても、書き記してから足掛け二五年にわたって、彼の身辺にあったのである。
 彼の住居を訪れた人たちの報告によると、部屋は草稿の山やら、食べかけの食器などが散らかっており、床にはワインの空瓶が転がっていたり、男やもめの雑然としたなかで暮らしていたことが分かる。仮にどこかに紛れていて出て来たのであれば、その時点でこの遺書を処分することもできたはずである。引っ越し魔だったベートーヴェンが、処分を忘れて彼の手元に長期にわたって放置されていたとは考えにくい。書き記した当初からそのような気持ちがあったかどうかは確かめようはないが、この時期の心の軌跡を物証として留めておこうとするベートーヴェンの意志が働いていたのではないだろうか。そして遺書としての実質的効力も、彼の考慮にはあったと私は考えている。
 私にはこの遺書が一過性のものだったとは思えないのである。作品五九の三、弦楽四重奏曲第九番第四楽章のスケッチ帳につぎのように書かれているという。「おまえがここで社会の渦巻のなかに突進するように、できうるかぎりあらゆる社会的な障害に屈せず歌劇を書くようにせよ。おまえのつんぼについてはもはやなんの秘密もあるまい。芸術についてもまた」。悲愴ソナタから九年の歳月を経たこの時点でも、ベートーヴェンの耳の障害は進んでおり、心の後遺症はまだ続いていたのである。
 一つの出来事によって決定的瞬間に立たされたときに、私たちはあまりの精神的動揺に錯乱して自殺を考えたりすることがある。死というものが避けられない現実として受け入れざるを得ないことになった場合に、日頃突き詰めて考えたこともない自分の人生の意味が、根底から問われることになる。昨日と今日の脈絡が突然切断されて、連続してきたこれまでの世界が、一遍にその様相を変えてしまう。しかし決定的瞬間というものは突発的な出来事だけではなく、そうした結果を生む因果が静かに潜行していて、結果に至るエネルギーが少しずつ蓄積され、何かをきっかけにして衝動的に爆発を起こす場合の方が多いのではないだろうか。
 ベートーヴェンには聴覚という器官が、人より優れて鋭敏なことの自負があった。そのかけがいのない感覚器官が破綻したのである。彼は過分なことを要求していたのではない。正常な聴覚に回復することを願っていただけである。しかしこの願いは、代償によって補償されるわけにはいかない唯一絶対の要求であった。失ってしまえば取り返しがきかないものである。私たちは一回限りの突発的な試練になら何とか耐えられるが、長期にわたる心配や不安が未来にまで続くことには耐え難い。心理的にも過度の負担がかかって神経を消耗させていく。
 こうしたことが心理的動機となって、あるとき日常の生活ではほとんど忘れていた、自分とは何だろうというような意識が、表面に躍り出てくるのである。それは自分が存在しているということへの、根源的な問いかけでもあった。私たちはベートーヴェンが歩んで来たハイリゲンシュタットまでの道のりを振り返ってみたとき、作品の上では作品一三ピアノソナタ第八番ハ短調「悲愴」が、その決定的瞬間を表わしたものだったとあらためて分かる。この作品は、まさに彼の蓄積された苦悩の突発的な爆発であって、その脈絡はこの遺書の時点でも彼の心の深くに潜行していたのである。この悲愴ソナタは、危機の終りの始まりではなく、自覚した不安の未来への始まりであった。
 音楽家にとって、何よりも大切な器官である聴覚が失われるかも知れないという不安に、最初は衝撃が走り気が動転したことだろうと思う。起こった事実を否定しても状況は好転せず、心は混乱したに違いない。しかしまったく聞こえなくなったわけではない。いずれ回復するかもしれないという望みと、緩慢だか徐々に襲ってくる不安に苛まれながら、未来への絶望が彼の心を支配するようになっていったのではないだろうか。こうした期間が過ぎると、この事実を何とか受け入れようと自分に言い聞かせる気持ちになり、克服への努力を始める。だが常に離れることのない自覚症状は、心のうちに不安を募らせる。解決への道が順調に運ばず快癒の見通しのない絶望感と、現実を逃れた楽観的な希望が錯綜して、彼の心を乱すのである。
 しかしまたみずからの気持ちを宥めながら、鎮静への努力に向かう。挫折と希望の間を葛藤が行ったり来たりしながら、ようやく諦めと落ち着きを取り戻していくのである。けれども失ったものへの限りない未練の思いはことのほか深い。一縷の希望でも見い出せない限り、心の安寧は得られない。この障碍が、将来の人生を決定的に拘束し、可能性の芽を摘んでしまうことになるかもしれないという恐怖は、ベートーヴェンの心に覆い被さり、死をも想起させる不気味な暗雲であった。この時期のベートーヴェンは、こうした不安との孤独な闘いに挑んでいたのである。
 ベートーヴェンにとってこの耳の異常は、死に直結していた。というのも彼の母は七人の子を生むが第一子は誕生まもなく亡くなり、つぎの第二子がベートーヴェンでそのあとがカスパル・アントン・カール、第四子がニコラウス・ヨハンで、この三人が成人する。このあとに生まれた二人の妹と一人の弟はいずれも生後ほどなく死亡している。そして悲しいことに、母の死にも立ち合っていたのである。そして父のヨハンもベートーヴェンがヴィーンの生活を始めて間もなくの一七九二年一二月に亡くなる。このようにベートーヴェンは、死というものを理解できるようになった年齢に達した頃から、五人の家族の死を見送っている。この時代では多産多死はめずらしいことではなかったが、家族の死という洗礼を少年期にして経験することは、人格を形成していく上に暗い影を落とした。そこにきて耳の異常を感じるようになっていたベートーヴェンには、死というものは家庭の団欒を奪うきわめて身近な問題だったのである。
 蘇生し立ち直るためには、失ったものへのこだわりを捨てて、新しい価値を見つける努力をしなければならない。そうみずからを励ましても、簡単に意欲が湧くものではなく、行動に移せるものでもない。人と会うのが億劫になりふさぎ込んでしまい、みずからの裡に人間不信をまねく。喪失したものの大きさが、全人格の否定というところまで自分を追い込んでしまう。そのように考えないことだと言い聞かせても、当人には何の救いにも慰めにもならない。ベートーヴェンは友人であるカール・アメンダ(1771〜1838)とヴェーゲラーには打ち明けたものの、内面的な弱みを他者に打ち明けることができなかったことは、遺書に述べているとおりである。
 こうした状況に置かれたときに、私たちは果たして本当に立ち直っていけるものだろうか。この場合立ち直るということは、これまでの人生を諦めて事態を受け入れることである。しかしそのあとはどうするのか、それはまさしくひとりの人間の革命に違いなかった。「悲愴」ソナタはベートーヴェンの心の奥深くで、ずっと鳴り続けていたのである。耳の疾病がベートーヴェンにとってこの時期の最大の懸案であって、どんなに絶望の淵を彼が歩んでいたのかを、この「遺書」が明らかにしている。今日の私たちはベートーヴェンがどのような人生を歩み、なにを成し遂げたかを知っている。だからこそこうした苦悩を克服した結果だけに目がいってしまい、だからベートーヴェンは偉大であると思ってしまう。しかしこの時点では、ベートーヴェンは何の勝算も打開の道も見い出してはいなかった。彼の人生に直面した障碍が、途方もない不気味な力として立ちはだかっていたのである。
 静閑なハイリゲンシュタットでの日々は、これまでたえず彼の心を離れなかった耳の障害と、この先の行く末を考えるには充分な時間であった。ここでの約六ヶ月間に為すべき創作を仕上げたとき、ベートーヴェンの心に何か大きな変化が生じていたのではないだろうか。ヴィーンでの喧騒な毎日から離れ、静かな田園にその身を置いて、みずからの来し方行く末を振り返ってみたときに、言い知れぬ心の空洞にぶつかったのではないだろうか。今日まではどうにかしてやってこれた自分の人生だが、この先に何が待ち受けているのだろう。どのような人生を歩んでいけばよいのだろう。ベートーヴェンはいまハイリゲンシュタットの丘に上り、彼の前に立ちはだかっている死神と対峙しながら、これまでの人生の最大の岐路に立っていた。│「遺書」を眺めてみよう。
「おお!おまえたち、おまえたちは僕を意地悪で、強情っぱりで、人間嫌い扱いにし、またそう公言してきたが、それは僕に対しどんなに不当な扱いであったことか。僕がなぜそんな人間に見えるかという隠れた原因をおまえたちは知らぬのだ。幼い時から僕の心も思いも人には優しく、好意に溢れる感情で、立派なことをしたいと常に志してきた。だが考えてもみよ、六年このかた不治の病に冒され、愚かな医者どものためいっそう病を募らせ、来る年も来る年も良くなるとの希望に欺かれ、ついには慢性的な患いになると覚悟せざるを得なくなった(良くなるにしてもおそらく数年を要し、あるいは全く駄目かもしれぬ)。燃ゆるような、快活な気性に生まれつき、人と交わる喜びを楽しむほうでいながら、若い身で自ら隠遁し、孤独の生活を送らねばならなかったのだ。また時としては、総てに超絶せんとしたが、おお、耳が悪いという暗澹たる現実が、二倍にもなって無惨にはね返ってきた。だが、わたしは聾です。もっと大きな声で話して下さい、どなって下さい、とは言えたものではない。ああ、僕にとっては、ほかの人々に比べてより優れて、完全であるべき一つの感官、かつては申し分のない完璧さであった感官、それこそは、僕と同じ専門の仕事に従っている、僅か少数の人だけが現在享有しており、あるいはかつて享有していた人があったというほど完璧であったその感官の衰えを、人に自ら知らせるなど、どうしてできようか。おお、僕にはそれはできない。だから、僕が喜んでおまえたちの仲間に入るべき時にも、僕が避けているのを見ても赦してくれ。そうした時には誤解されているのに違いないので、僕の禍は二倍になって僕を悲しませるのだ。僕には友と寛ぎ、精妙な談話を楽しみ、感情を吐露し合うことはできないのだ。ただどうにもやむを得ない必要に迫られた時に人なかに出るだけで、流刑囚のように全く孤独に生活しなければならぬのだ。なにか人々の集まりに近づく時には、わが不具の身を人に覚られるような危険に身をさらすことになりはしないかと、非常な不安に襲われる。この半年田舎で暮らしたのもこうしたわけで、できるだけ聴官をいたわれとの賢明な医師の薦めは、僕の今の気持にも合っていた。それでも、幾度か人と交わりたい衝動に駆られ、誘惑に敗けてしまうこともあった。しかし僕の側に立っている誰かに遠くから響いてくる横笛の音が聞こえているのに、僕には何も聞こえなかった時、また、誰かが牧人の歌っているのを聞いているのに、それも僕に聞こえなかった時、それは何たる屈辱だったろう。たびたびのこうしたことで、僕はほとんど絶望し、もう少しのことで自殺するところだった。ただ彼女が、芸術が、僕をひきとめてくれた。ああ、僕には自分に課せられていると感ぜられる創造を、全部やり遂げずにこの世を去ることはできないと考えた。だからこそこの惨めな生命を、実に惨めな、何か急激な変化でもあれば、もっと良い状態から、最悪に変わるこの感じやすい体で、持ちこたえてきたのだ」
 ここまでが前半部分である。本来の自分の性格がなぜ偏屈で人間嫌いというように誤解されてきたか、その原因が聴覚の障害にあることを告白している。死を覚悟してベートーヴェンはやっと自分の秘密をさらけ出すことができたのである。そして芸術が自殺を思い止めさせ、死への囚われから解放し、その誘惑から脱したことを述べている。耳の障害のために創造を諦めていいのか、とみずからに反問したときに、ベートーヴェンは死と引き替えに、音楽の創造を棒に振るわけにはいかなかった。芸術に為すべきことがまだ残っていたことは、以降に傑作の数々を創造したことで証明される。
 またこれを境にして、以降の彼の作品が大きく転回していることでも判るのである。瀬戸際に立たされて何を取るか、そのために何を諦めるかと迫られて、ベートーヴェンは音楽を選び、耳の障碍を受け入れた。芸術の達成をもとめる執着が生を甦らせたのである。後半部分では死を受け入れ、毅然とした覚悟を述べていることがそれを裏付けている。
「『忍従せよ』と人は言う。僕も今やそれをわが導き手に選ばなければならない。僕は耐え忍ぶ力を持っている。願わくは、この決心を、無慈悲な運命の女神が生命の糸を断ち切ろうとするまで、持ちこたえさせたまえ。今よりは良くなることがあるやも知れず、またその反対かもしれぬ。覚悟はできている。はやくも二十八歳で悟った人間になれと強いられる、これはたやすいことではない。ほかの誰より芸術家には難しいことだ。神よ!汝わが心のうちをみそなわしたもう。わが衷心に、人間愛と善行をなさんとの希求の宿るを識りたもう。おお、おまえたちよ、おまえたちは他日これを読めば、僕を遇するにいかばかり不当であったかに思い至るであろう。しかして、不幸な者よ、汝らは、尊敬すべき芸術家と人間の列に加えられんとして、自然のあらゆる障害と闘い、なおもそのなし得る総てをなした、自己と同じ一人の人間をここに見出して自らを慰めよ。おまえたち、わが弟カルルと***よ、僕の死後直ちに、シュミット教授がなお御健在ならば、僕がお願いしていたからと言って病歴を書いてもらい、ここに書いたものにそれを付けてくれよ。そうすれば、死後には少なくとも世の人々と僕はできるだけ和解できるだろう。また僕はおまえたち二人を、僅かな財産(財産といえるほどのものではないが)の相続人とここに宣言する。公平に分け、仲よく互いに助け合ってくれ。おまえたちが僕に逆らったことは、おまえたちも判っている通り、ずっと前に赦している。弟カルルよ、おまえには、日頃おまえが示してくれた親切に感謝する。僕の望むことは、おまえたちが僕よりももっと幸福な、煩いのない生涯を送ることだ。おまえたちの子供には徳を教えよ。徳のみが幸福を齎すことができるのだ。決して金ではない。自分の経験からこう言うのだ。逆境の中にあって僕を励ましたもの、それは徳であった。僕が自殺によって生涯を終わらなかったことは、わが芸術とならんでこの徳のお陰だ。ではさようなら、愛し合ってくれ。すべての友に感謝する。わけてもリヒノヴスキー侯爵とシュミット教授に、L(リヒノヴスキー)侯爵より頂いた楽器類だが、これはおまえたちのうちどちらかが持っていてくれ、だがそのために相争うことがあってはならぬ。しかし、何か為になることに役立つことがあれば、すぐに売ってもよろしい。墓の下にいても、なおおまえたちの役に立つことがあるならば、わが喜びはこれに勝るものはない。そうなることならば喜んで急ぎ死に向かおう。死が、わが芸術的全才能をくり広げる機会に恵まれないうちに来るようなことがあれば、たとえわが運命がいかに苛酷なものであろうとも、死はなお早く来すぎた憾みがあろう。僕は死の来たるや遅きを願う。よしや死が来たとても、僕は満足する。死は果てしなき苦悩より僕を救い出してくれるのではないだろうか。来たれ、汝の欲する時に。僕は敢然と汝を迎えよう。さようなら、死後すっかり僕を忘れるようなことのないように。生前僕はおまえたちが幸福になるようにしばしばあれこれと考えたのだ。幸福でいてくれ」
 この後半では、いつ訪れるかわからない未来の死を迎えるベートーヴェンの覚悟と、その受容が記されている。生への甦りを遂げたベートーヴェンは、しかし死そのものから解放されたわけではなかった。耳の障害がどのような形で死につながっていくのか、その影は絶えず彼の意識を脅かしていたのである。この先のいつの時期にやってくるかわからない不確定な死、しかし確実に襲ってくる死を受け入れて、ベートーヴェンは将来に向かってこの遺書を残したのである。自殺によって生涯を終わらなかったが、いずれ訪れるであろう死にたいして、明らかにその覚悟を読み取ることができる。
 ベートーヴェンは、自殺を思い止めさせたものとして二つ挙げている。前半で、死を乗り越えることができたのは、「ただ彼女が、芸術が、僕をひきとめて」くれた。そして後半で「逆境の中にあって僕を励ましたもの、それは徳であった。僕が自殺によって生涯を終わらなかったことは、わが芸術とならんでこの徳のお陰だ」と述べている。自殺という形の死を引き止めたのは芸術であり、こののち自殺によって死を迎えることがなかったとすれば、それは徳のお陰であるとベートーヴェンは未来に宣言したのである。


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