んだんだ劇場2007年7月号 vol.103
No9
未来への宣言、ハイリゲンシュタットの「遺書」(2)

 ベートーヴェンには、未来に仮託して現在を省察し、仮託した未来を実現させるために現在を転換させようとする思考が若い頃からあったことが分かる。それが彼にとっての動機付けであり励ましになっている。未踏の地を歩むベートーヴェンにとって、動機付けや励ましは他者の経験や助言から得られたり与えられるものではなく、みずからが課す以外になかったのである。そしてそれに向かって、ベートーヴェンはそのとおりに努力する。彼の仮託した未来は、仮託のまま終わるのではなく、彼の人生に向かう態度を描いたものであり、創作の上ではそのとおりに実現するのである。この遺書は後世の私たちから見れば、ベートーヴェンのその後の人生の予告であり、宣誓であったことが分かる。
 五体満足な人にとって、不確定だが必ず襲ってくる確実な死に、面と向かって思い詰めたりすることはほとんどない。決定的で衝撃的な出来事にぶつかって、初めて想いを馳せることはあっても、すぐに日々の些末な事々に取り紛れて、死は遠く意識の底に埋没してしまう。必ず遭遇するであろう死というものを一々意識して生きなければならないとしたら、人生、鬱陶しくて息が詰まってしまう。ところがベートーヴェンは、この死というものとずっと向かい合って生きていた。そしてこれからも死を意識しながら、生きていかなければならなかったのである。彼にとって、生きるということは芸術を達成することと同義であるとともに、必ず背後に忍び寄ってくる死との対決という切実な問題がついてまわっていたのである。
 難聴がいつ頃から始まったのか、自覚したのはいつの時期か、はっきりしたことは分かっていない。先に挙げたように一七九六、七年あたりからというのが研究者たちの見るところである。聴覚の異常をはっきり確信したのはその頃だとしても、自覚症状として意識しないまでも何か具合が変だと気が付き始めたのは、さらに以前だったのではないだろうか。一七九五年一二月にベートーヴェンは「勇気、からだがどんなに弱っていようとも精神で打ち克ってみせよう。二十五歳、それは男たるすべてがきまる年だ。悔いをのこしてはならぬ。」と書き記している。二十五歳は今日で言えば壮健で血気盛んな時期である。それを、からだがどんなに弱っていようとも、と言っている。たんなる仕事上の肉体的疲労を述べているのではなさそうである。弱っている状態がどの程度なのか、どこが弱っているのか憶測や仮定の域を出ないのであるが、絶えず襲ってくる耳鳴りの原因となる病根への怖れを感じ取っていたのではないだろうか。
 生きること、それは生きていることの実感である。生きていることの実感とは、人間関係のなかで育まれていく。人生は人間関係であり、人生の幸福は人間関係がうまくいっていることである。その人間関係には意思疎通がともなう。その大切な器官の一つである聴覚が機能しないということは、生活全体にぽっかりと空白感が生じる。それは単なる静寂ではなくて、活動の停止状態に等しい。他者と話をしたり、親しく交流したいという欲求は人一倍強いのに、他者から話しかけられはしないかとびくびくする。しかし「わたしは聾です。もっと大きな声で話して下さい、どなって下さい、とは言えたものではない」。身体機能の欠落にたいする偏見や差別は、今日以上に過酷なものだったに違いない。不覇独立で尊大とも思えるベートーヴェンであればなおさらのこと、軽蔑と差別を恐れる誇り高い感受性が潜んでいたのだ。
 コミニュケーションの欠如からくる挫折感の深さは、正常な聴覚を持つ人間には理解できないものに違いない。同情はいらない、理解してほしいと障害を抱える人たちは訴える。自分を見る視線に嘲笑や蔑視や戸惑いが感じられ、対人恐怖や人間不信に陥っていく。被害妄想なのだとみずからに言い聞かせても、人と交わることが苦痛になり、他者に気がねをしたり僻んだりしてしまう。みずからへの過敏な神経は、他者の心の動きを敏感に映し出す。そうしたことがまた自分で自分の心を苛んで、ますます自信を喪失し心は屈折していく。こうした心理は健康な人間でも持つものだが、その深刻さには雲泥の差があると思う。身体機能の欠落は、実際に発生した被害なのであって、根拠のない被害妄想なのではない。だが他者にはそんな心の屈折は分からない。
 知らない人と一緒のときのベートーヴェンが「控えめで、固くなって、高慢にも見えた」のは、そんな心の動揺が他者には分からないからである。小さな虚栄心は、成長すると傲慢に映る。人の話を聞く前から、独断的に振る舞っているように他者には見える。しまいには身勝手で自己顕示の強い、独善的な人間のようにみなされる。立ち居振る舞いは粗野になり声は大きくなるから、奇矯な行動をとっているように周囲には映る。コンプレックスを取り繕う言動が、他者の誤解を助長させる。人によってはベートーヴェンを敬遠するようになるのである。こうして疎外感がつのると外部に対して消極的になり、孤独と絶望感から死神を招き寄せてしまうのであった。ベートーヴェンは、聞こえる世界を知っていた。だからその世界が閉ざされてしまうことの不安と恐怖は、当事者でなければ分かり得ない大きな心理的な重圧を伴うものだったに違いないのである。
 鬱屈した心は、些細なことにも反応して多くの小さな敵を意識する。実際に彼の周りに、普通では何でもないと思われることから起こる諍いが生じていた。ベートーヴェンはその強靭な精神によって、耳の障害を乗り越え克服した偉大な芸術家と見るのは、この時点ではまだ早計だったのである。続いて一〇月一〇日付けの記述である。
 「│これにて汝に別れを告ぐ。│しかも悲しみもて│そうだ、あの懐かしい希望。│それを抱いてこの地に来たのに、少なくもいくらか良くなるだろうと。│今やまったく、それは諦めねばならぬ。秋の木の葉の落ち凋むが如く│わが望みも枯れ果てぬ。ほとんどこの地へ来た時のままに│われは去りゆく。│麗しき夏の日、われをよく鼓舞せし、│毅然たる勇気さえ、│今は消え失せぬ。おお、神の恩寵よ│純な歓びのひと日をわれに与えたまえ、真の歓び深きこだまのわが心を訪れざるや久し│おお、いつの日│おお、いつの日か、おお、神よ、│われは自然と人間の殿堂にて再びその歓びを感じうるや│決してか?│否│おお、それはあまりに苛酷だ。」(以上小松雄一郎訳「ベートーヴェンの手紙」岩波文庫)。
 誰に宛てて書かれたか不明なこの文章は、じつはベートーヴェンがみずからに独白したものではないだろうか。甦りを遂げた新生ベートーヴェンが、過去の自分に語りかけているような趣きがある。ここには一縷の望みを賭けながら未来への諦めがあり、それを背負って生きていこうとするわずかな希望と、大きな絶望が交錯している。あるいは六ヶ月を過ごしたこの地、ハイリゲンシュタットへの記念帳のつもりだったのかもしれない。あえて誰かに宛てて書いたものだとすれば、それは神に向かってのものだったのではないだろうか。一〇月六日付けの文章とは明らかに趣が違っている。この一〇月一〇日付けのものは、叙情詩のようでもあり、これだけを取り上げて遺書と解することは難しいが、弟たちに宛てて書いた一〇月六日付けのものは明らかに遺書と考えてよいと私は思っている。この遺書は未来に向かって綴ったのである。現にこの遺書は未来の私たちに届いている。
 さてベートーヴェンの耳の疾患について、「本当は聞こえていたベートーヴェンの耳」(江時久著NTT出版)の中で、難聴の原因となる病状について興味深い見解が示されている。
 人間が音を集めるしくみは二つあるという。空気を伝わる振動を耳の穴が集めた「気導音」というのが一つ、二つ目は身体骨から伝わる振動音を頭蓋を通って脳に届ける「骨導音」である。いずれもこうして集められた音は、内耳の蝸牛を通って脳に伝えられる。この蝸牛には何万という有毛細胞があり、音の刺激を仕分けして電気信号に変換すると、脳神経のケーブルを通って脳に送り出す。聴覚異常は脳、聴神経、内耳(蝸牛)、中耳のいずれに支障が生じても起こる。
 音は鼓膜を振動させて、その振動は耳小骨に伝わる。耳小骨はつち骨、きぬた骨、あぶみ骨の三つから成り、人体の骨のなかで最も小さな骨である。耳小骨には筋肉が付いていて、突発的な大音響から護るクッションの役割を果たしている。この耳小骨が音の振動を増幅させて、三つ目のあぶみ骨が内耳のリンパ液に振動を伝え、蝸牛のなかの前庭階、鼓室階を通って音は耳管に抜ける。蝸牛はかたつむりの殻のような渦巻きの形をしており、一階が鼓室階、中二階が蝸牛管、二階が前庭階という三層に分かれている。この三層の階はリンパ液で満たされていて、前庭階の外リンパ液から音の感覚装置である螺旋器に振動が伝わる。螺旋器の隙間には、外有毛細胞三列と内有毛細胞一列から成る不動毛と呼ばれる毛が伸びている。この有毛細胞が音の振動を電気信号に変換する。外有毛細胞は人間の聴覚の感度を一〇〇〇倍にも高める働きを持ち、この外有毛細胞が損傷しても難聴になるという。
 難聴には「感音難聴」と「伝音難聴」の二つがある。感音難聴は脳、聴神経、内耳(蝸牛)に原因があり、伝音難聴は中耳が原因で起こるのだという。空気伝導で鼓膜に反響した音の振動は、微かな弱い振動でも耳小骨の三つの骨の働きで増幅され、一番奥の「あぶみ骨」から内耳の窓に入って蝸牛を刺激する。ところが「あぶみ骨」が何らかの原因で固着してしまうと、集まった微弱な音の振動が内耳に届かなくなる。動きが鈍くなった「あぶみ骨」は内耳の窓を塞いでしまうために、まるで耳栓を詰めたような具合になり難聴を引き起こすのである。「あぶみ骨」固着には先天性のものと後天的な「耳硬化症」があるという。
 「耳硬化症」の症状は高い音は聞こえるが、低い音は聞き取れない。この疾患は進行性の病気で思春期に発症するという。もしベートーヴェンの耳の疾患がこの「耳硬化症」による伝音難聴とするなら、本人の自覚症状となって現われたのが一七九六年前後としても、病状はそれ以前に発症して進行していたと推測できるというのである。「本当は聞こえていたベートーヴェンの耳」ではもっと踏み込んで、ボン時代にすでにベートーヴェンはこのことに気付いていて隠し続けてきたとしている。
 ベートーヴェンの生家の所有者で、当人もこの屋敷で暮らしていたゴットフリート・フィッシャーが手記を残している。娘のツェチリア・フィッシャーがある日、中庭を横切ろうとして、窓に頬杖をついているベートーヴェンを見かけて声をかけた。返事がなかったので、あとでツェチリアは彼に詰問したのであろう。それに応えたベートーヴェンの返事にさらに「返事がないということも返事だというのはどんな意味?」とツェチリアが訊ねると、「ああ、ごめんなさい。僕はあのときとても美しく、しかも深い思いにひたっていたので、邪魔されたくなかったんだよ。」とベートーヴェンは応えたという。牽強付会になるがこれを耳の疾患と重ねてみると、いかにもありそうな逸話である。
 ベートーヴェンは幼くして、過酷で集中的なピアノの練習に取り組んでいた。それが聴覚のいずれの器官を損傷しても不思議ではないほどに、その練習は苛烈を極めていたのだ。のちに聴覚を失ったベートーヴェンが、指使いを見ただけで間違いを指摘できたという逸話が残されているのも、あながち誇張ではないと思われる。鍵盤を酷使したことが、聴覚を損傷する原因を作っていたことは十分に考えられる。音への過度の集中が、耳の器官に何らかの負担を強いることになったのであろうか。本人はそれに気付かないまま、脳内に音楽的ネットワークやシステムを獲得したことと引き替えに、人並みすぐれた聴覚を失うことになったと推定できなくもない。
 作品一三ピアノソナタ第八番「悲愴」はこうした試練を覚悟した始まりであり、少なくともこの遺書までの五年間にわたって耳の障害との直接の闘いは続いていたのである。発症したのがヴェーゲラーとアメンダに告白した一七九六〜七年と推定するよりも、この症状をのっぴきならない重大事と受け止めざるを得なかったのがこの時期と考えてよいのではないだろうか。悲愴ソナタはこの直後の一七九七〜八年に作られている。この耳の障碍はみずからの意志で引き受けた運命ではない。何の因果か降って湧いたように苛酷な試練をベートーヴェンに与えたのであった。このときから彼にとって芸術は、必死の形相で切り開いていかなければならない人生の唯一の目的となったのである。このハイリゲンシュタットでみずからの運命とともに、耳の障碍を積極的に引き受け直そうと更めて決意したベートーヴェンであった。
 さて、時間というものをふつうには過ぎ去るもの、それも瞬く間に過ぎ去っていく時計に刻む時間として私たちは捉えている。現在の一瞬がすべてで、未来を先取りした時間を持つことはできないし、過ぎ去った時間を取り戻すこともできない。時は時計の針が刻々と刻むように消えていく。過ぎ去った時間は思い出として記憶に残るだけで、再び私たちは同じ過去を歩むことはできない。こうありたいと願う未来を想定しても、時間が確実にその想定どおりに進んでくれる保証はない。むしろ未来は不確実で、いつでも期待を裏切る。過去の時間は確かにあった。記憶としてあるいは具象化され形として残り、未来へ継承できるものもある。だが未来は希望であり、どのような夢を描くことも自由であるが不確実である。将来の時間は私たちを不確実な可能性へ導くだけである。
 私たちがごく普通に過ごしている時間は、一年を一二ヶ月に区切り一週間を七日に分け一日を二四時間で刻むような単位が当然のことのように考えている。だれにも平等に与えられているのが、このような生活時間だと受け止めて怪しむことはない。しかし私たちには、時計が刻む時間のほかに、個人のもつ固有の全き自由である本来的な時間というものがあるのではないか。過去を省察し、現在を生き、未来に思いを馳せ、時計仕掛けの時間を超えてみずからの一生を捉える時空というものが各人にはある。だが私たちはそういうものをいちいち意識して毎日を過ごしているわけではない。ところがベートーヴェンはそれをまともに洞察していたのかも知れないのである。
 さてそれではモーツァルトにとって、三十五年という生涯はどのような時間だったのだろう。生得の才能の枯渇に向かって、創造のあらん限りをそれと感じさせないように、あたかも容易にしてのけたのがモーツァルトである。市井の人々と同じように彼も苛酷な人生の洗礼を受けているのに、それが創作活動の障碍とはならなかった。天与の才から滑り落ちることなく駆け続け、その途上で才能の枯渇を待たずに、時間の終焉が先にやってきた稀代の音楽家である。モーツァルトにとって時間は、みずから動かし使うものだったと云えないだろうか。
 時計仕掛けで回る万人に分かる客観的に経過する時間とは違う。彼のまえに仕え侍ながら、使われるのを待っているような時間である。彼が動けば時間も回り、彼が活動を止めると時間も停止するというように、あたかも時間が彼の掌中にあって、その一挙手一投足に機敏に反応しているかのようである。囲碁や将棋の持ち時間のようなものだ。いわば才能が盤上に余すところなく展開する前に時間切れになったようなものである。モーツァルトは「時は創造なり」とばかりに湯水のごとく惜しげもなく持ち時間を使い果たすのである。
 もっと小出しに使えば、モーツァルトは定命を先に伸すことができたかもしれない。しかしその使い方が無計画で衝動的であろうと、モーツァルトの使った時間は彼の意思のままに燃焼した。一秒たりともその時間を残さずに、みずからの六百数十曲の作品を生み出すために注ぎ、なお時間は足りなかったのである。彼の創作意欲と才能は、彼の持ち時間を上回ってまだ残っていた。モーツァルトの時間はその才能に追い付けなかったのである。
 バッハの場合は神の前でその時間は静止している。停止しているのではない。静止状態を保てる力が、動的な力と拮抗しているのである。太陽と地球の関係がそうであるように、動いていながら太陽は朝には東から昇り、夕方には西に沈む法則を繰り返している。地球から眺めてそのように映る。その地球も自転と公転を繰り返し、一見すると静止しているように見えるが、太陽に対して常に動的に対峙しながらお互いに運動を続けているのである。当時のバッハには日常に神が身近に居ることは、太陽が毎日東から上り西に沈むように自明のことであった。みずからの内なる神を真正面から受け止めることのできる強靭な精神を、バッハは何なく生活に受け入れることができたのである。
 バッハは、一族の音楽家たちが教会に従事しながら、その音楽を継承、発展させてきた遺産を受け継いでいた。職匠的な音楽技法に磨きをかけ、先人たちの業績の上にさらにみずからの地歩を固めている。ベートーヴェンのように人間性の解放を求めて、内なる衝動を爆発させ、現実の不条理に抗う態度とは初めから創造の立脚点が違っていた。教会を仕事と生活の拠り所としながら、カントールを職業として励行し、生活の糧を生み出す手段とすることに、バッハは何のてらいもなかった。その一部である作曲という仕事にたいして、内面の発露や感情を露にする姿勢や態度は、彼の作品には感じられない。いわば職匠の仕事の成果が、何のてらいもなく作品に素直に反映しているように聴こえる。清透で精神の緊張が漲っていながら、重圧な感じはなく、むしろ精神の適度な緊張が、聴く者の心を神の前に解放しているように聴こえてくるのである。
 一つの技法や様式を掘り下げ追求していくことによって、周辺の猥雑物がきれいに洗い落とされて、技法としての真髄をバッハ一族が代々受け継ぎ磨いてきた。純粋なものを作り上げようとして純度の高い物質を足し算していくやり方ではなく、多くの対象物をどんどん蒸留していった結果、出来上がったものがバッハの音楽なのである。ベートーヴェンのように、力づくで鍛練しなければ取り出せないという個体が対象なのではない。液体から気体を取り出すような、いわば科学者の合理性の追求によってもたらされた技法とでもいうようなものが、バッハによって抽出されたのである。その音楽は神への献歌として書かれていながら、柔軟で流動性に富んでいる。私たちは宗教の垣根を超えて、その芳しい香りに静かに酔うのである。


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