フランス革命と英雄の肖像(2)
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爆発する二つの切断音で始まるこの曲に孕む、凪んだ静寂の中に胚胎する緊迫した状況は、十八世紀後半、隣国フランスで準備された革命の胎動であった。
貴族たちは、ルイ十四世時代に形骸化された社会的身分の復権を目論むとともに、国王による名誉と富と権力の分配に不満を抱いていた。それは貴族の抑圧に苦しむ第三身分である平民の不満でもあった。絶対王政下、当時のフランス社会は特権が貴族と教会に集まり、権力と富が国王や宮廷貴族に握られていたのである。その一方で富裕なブルジョワたちは、官職売買によって貴族身分を取得し、従来の貴族社会を脅かすような存在になっていた。ブルジョワたちは産業資本を着々と蓄え、財産の貴族と揶揄されるようになり、フランス経済を掌握していたのである。
イギリスのような産業革命による工業生産システムが進んでいなかったとはいえ、フランスの貿易額は一七一〇年代に二億ルーブルだったものが、一七八〇年代には一〇億ルーブルに達していた。植民地から調達される物産の交流が盛んになり、貿易の発展とともに農工業生産がフランスでも急速に広がっていたのである。たんなる買い占め問屋だった商人たちは、しだいに経済力をつけながら、資金、原材料の前貸しや生産用具を貸し付けて、産業資本家に転化していった。問屋制による大商人の興隆とともに、彼等は農村地帯を地盤にして低賃金労働者を雇い、農村家内工業を形成していくのである。ランドックの毛織物、ブルターニュの綿織物、リヨンの絹織物をはじめガラス、金属、陶器、製紙などのマニュファクチュアも、農村の家内工業生産によって発展しながら規模が拡大していった。また資本主義的な資本の蓄積は、巨額な生産設備を必要とした冶金工業や、木炭精練に替ったコークス精練や炭鉱業にその輪郭を現わすようになった。
都市には従来からの伝統的な同業組合を形成する手工業者がいて印刷、小間物、毛織物、食料品、細工物、大工などの仕事に従事していた。しかし農村の家内工業の発展にともなって、都市の手工業者はその独占をしだいに弱めながら大商人の下に隷属するようになり、独立性を失い賃金労働者が生まれてくる。問屋制生産の発展は、絶対王政下の産業規制政策と衝突が避けられない状況を生み出し、産業資本家に転化していった大商人たちは、規制緩和や制度の撤廃を要求するようになる。
一方農村は、小農民経営が長く続いた結果として、土地は農民に帰属するという考え方が生まれて、領主や貴族たちはその身分や特権のゆえに、農民に寄生している存在であることが明らかになってくる。フランスはドイツ圏とは異なり、土地の売買は自由に行なわれていたので、直接農業に従事するのではなく、平民ながら封建的搾取を小作人に転嫁する都市型不在地主が現われる。自小作農民、零細農民、日雇農民というあらたな形態が生まれて、富農、中農、貧農という経済的序列を作りながら、農民は階級内で分化していく。このような経過を辿りながら農地を請け負う大借地農民と、農業労働者という資本主義的な関係が農村社会にも組み込まれていくのである。
対外的にはブルボン王朝はハプスブルク王朝やイギリス、そして台頭してきたプロイセンなどの国々と事あるごとに反目し合い、互いに内政干渉を繰り返していた。ブルジョワの台頭と資本主義経済が萌芽しつつあるこうした時期に、フランスは仏英通商条約を結ぶ。関税を引き下げて貿易を自由化し、両国の利益を図ろうという目論見であった。しかしイギリスからの安価な工業製品がフランス市場に溢れると、この条約は国民に利益をもたらさないどころか国内産業を圧迫するものであった。そのうえ商工業者たちには国内関税を課して、重層的に彼等を圧迫していたのである。政府が商人たちの攻勢にやむなく穀物取り引きの自由化を認めると、投機を目的とする買い占め売り惜しみによる物価高騰を招き、食糧暴動が頻発するようになる。政治上で機能不全に陥っている封建制と、ブルジョワの経済至上主義的な進出が弊害と混乱を招き、浮浪者や都市貧民を生み出していた。こうした状況が農民や都市下層民の不満を、革命的エネルギーにまで高めていたのである。
シエイエスの眼から見れば、国王は宮廷貴族政治の傀儡であった。「君臨するものは廷臣であって、君主ではない。大臣職の存廃も任免も、又種々の地位その他の創始とその分配も、すべて廷臣の行う」ところである(「第三階級とは何か」大岩誠 訳 岩波文庫)。廷臣こそ貴族政治の中核を成して、その人脈をつうじてあらゆるものに手を伸ばし、専制的な官僚体制を敷いてきたのである。
長期にわたる官僚支配の専制は、旧体制を踏襲するばかりで倦怠と停滞が生じていた。国王を取り巻く宮廷人の恣意的な専断が罷りとおっていたのである。伝統と形式にこだわるばかりで統治を怠ったブルボン王朝の歴代のツケが、官僚や宮廷政治に集中していた。また貴族たちは、国政の主導権を握ろうとする政治的野心は働いていたものの、民衆を救うことには無関心であった。民衆の目からみれば、貴族たちも国家権力の中枢に居座る支配者に変わりはない。貴族たちは民衆に寄生する障碍物であって、彼等を救う者ではなかった。
民衆には、貴族身分どうしのあいだに起こった確執への関心よりも、目の前の一握りのパンの確保が重大な関心事であった。だが父とも仰ぐ国王という存在は、そんなささやかだが切実な要求に応えないのである。獰猛な欲望や腐敗や堕落を取り締まるのは、貴族の長である国王の務めである。普遍的な意志として王権が公正に機能していないというのが人々の不満であった。それ故に国王の正義の行使と、その公正に寄せる期待が大きかったのである。貴族や官吏の横暴は、国王の公正な権力の行使によって糾されるものと民衆は期待していた。
第三身分には道路整備のための夫役や、当局の要求によって無償で軍隊を宿泊させなければならなかった。そのうえ平民には勤労所得と不動産収入にたいしてタイユ税が課せられる。さらに二二の等級に分けられ、すべてのフランス国民に課せられるはずの人頭税も、僧族が二四〇〇万リーブルを支払うことで免除され、貴族は課税を免れている。結局その負担は平民のものとなる。貴族身分や聖職者身分には、減税や免税による特権が与えられていた。莫大な財産の所有者であるにもかかわらず、少額納税者であった。そのうえ宮廷貴族たちは、国家財政から様々な口実を設けて巨額の資金を引き出していた。いわば宮廷貴族たちは国民の税金を放蕩し尽くし、国庫を空にしていたのである。専制君主体制の手厚い恩恵を受けている特権身分の貴族たちが、体制内部を蝕んでいた。
また間接税の取り立ては徴税請負人組合が請け負い、国は賃貸借契約によって一定の額をまとめて受け取り、徴税請負人組合が国を代行してこれを納税者から徴収する仕組みになっていた。余剰に取り立てた分は当然徴税請負人の懐を潤すことになるので、取り立ては苛烈をきわめた。この制度は国には収入の逸失となり、納税者には深い遺恨を残した。当時を代表する化学者で、アカデミー会員にも選ばれていたラヴォアジエ(1743〜1794)は、徴税請負人組合の役員をしており、この仕事で大きな収入を得ると、自宅を研究室に改造し設備を整え研究に没頭する。燃焼とは酸化であることを発見し、近代科学の基礎となる「質量保存の法則」を打ち立てた。しかし彼は民衆から恨まれていたため、断頭台へ送られたのである。
宮廷に出仕するノブレス・プレザンテと呼ばれる約一四〇〇家、四〇〇〇名に上る登録された貴族たちは、宮廷の蜜に群がり貪り取った。彼等はヴェルサイユに暮らし、国王の莫大な資金と国民の税金に庇護されながら、虚栄と媚びに明け暮れていた。軍の高級将校や行政の高級官僚のポストを独占し、教会や裁判所の上級職に就き、地方の総督や長官に収まり国王の代理官として過剰に厚遇されていたのである。一兵士の年棒が一〇〇リーブルのときに元帥は一〇万リーブルという法外な報酬を得ている。また革命期からナポレオンの帝政期を生き延び、立憲王政にいたる長期にわたって、隠然たる影響を及ぼしたオータンの司教タレイランは、一七九一年にみずから司教と修道院長を辞任したとき、五万二〇〇〇リーブル(一〇億四〇〇〇万円)の年収を得ていた。
だが地方の貴族たちはヴェルサイユとは雲泥の違いがあった。農村に暮らす田舎貴族は貴族貧民として宮廷貴族から揶揄され、生活の維持は農民に課せられた封建地代に頼りながら、物価の上昇が彼等の困窮を加速させていた。貴族は手仕事をすることや、自分の土地でも一定面積以上の土地を耕作することが禁止されていて、これを破った場合は貴族身分が剥奪されることになっていた。彼等は贅を尽くす宮廷貴族を憎悪し、富に執着するブルジョワを嫉視するようになっていたのである。
革命前夜の頃になると、貴族社会は宮廷貴族を含め没落の坂を転がり始めていた。彼等は格式と体面に汲々としながら、一方では特権を維持するために、なりふり構わずその権利の行使に躍起になる。領主の農民に対する搾取は、農地ばかりか領地にも包括的に行使していた。地代や賦役を課し水車、パン焼カマド、粉挽機、ぶどうの圧搾機の使用などにも課徴する。またワイン醸造の独占権、狩猟権、漁撈権、商業運送の許可権、通行税、市場税、裁判権などあらゆるものが搾取や支配の対象として網羅されていたのである。さらに村落の共有地を三分割令によって、貴族がその三分の一を自分の所有にしたり、土地台帳を無視して年貢を取り立てる。領主は封建制秩序を権利として要求し、彼等に帰されるはずの義務は、第三身分からの搾取で賄われていた。人々が正義の行使を裁判に訴えても、裁判権は領主にあり、わざわざ訴えて不当な判決を勝ち取る不条理だったのである。
のちの全国三部会開催に向けて寄せられた第三身分層の陳情書では、自分たちの身近な問題として、農作物を荒す狩猟場、野兎生育場、鳩小屋の規制や農奴制の残存物の廃止を求めている。また教会に納める十分の一税の撤廃や、完全な市民的平等を要求したのである。さらに政府や官吏の浪費、官職の売買や世襲の禁止、国庫の濫用、間接税の割り当てや徴収の弊害などを訴え、土地台帳にもとづかぬ直接税の恣意的な割り当ての是正、州によって異なる度量衡の統一、国内関税の撤廃などを求めていた。特権階級と第三身分のあいだには、こうした様々な社会的、経済的な亀裂が生じていた。だが貴族たちはこの不公正や不平等から生じた矛盾を、社会全体の視点から改革しようというつもりはなかった。むしろ彼等が置かれた自分たちの都合による政治的、経済的な利害の立場から、地租改定を突破口にして王権に一撃を加えようと反抗に立ち上がっただけである。
絶対君主政体の正義とは、身分と特権からなる封建社会のなかで行使される国王の公正な意思である。各人に割り当てる義務が国王の正義であり、この正義は理性と助言によって専断から守られているというものである。アンシャン・レジームという枠組みの中で、合法的な正規の形態や制度に則って機能する政府という概念と、国王やその代理人である宮廷政府や行政官吏の恣意による現実の政府との間には、長期の専制による乖離が生じていた。財政が破綻し王権の権威が緩み、時代の思潮が人々に近代的自我を目覚めさせようとしていたのである。
ジロンド派のサロンを主催することになるロラン夫人(1754〜1793)が、幼い頃母に連れられて貴族の館を訪れた際に、食卓を区別されたことが革命への参画に繋がったと云われている。両者の人間関係に尊厳などという意識の入り込む余地などなかったのである。高貴な身分にたいする賤しい身分などといういわれのない差別は、人間の尊厳を傷つけるだけでは終わらず、遺恨となって成長していくのである。
政府は借用書となる「公債」を発行し、大商人、銀行家、大工業主をはじめ中小業者にまで貨幣を借り上げる。しかし「公債」はまったく信用性がないので、市場に流通せず額面どおりに換金できなかった。実質の増税であり御用金にほかならない。ブルジョワたちは政府の債務放棄を怖れていた。過去、政府は破産を政策として取り上げていたことを彼等は知っていた。国家が破産し借金を踏み倒していたのである。また「終身年金制度」によって契約金を納めさせ、一時的に国庫に巨額の資金を集めることができたが、そのつけが回って、公債元本や利子の支払や年金の基金が、財政支出の大きな負担となっていた。間接税は「徴税請負組合」に売り渡されていて、集められた利益の一部は彼等の保護者である有力な貴族に献金されていた。このように集められた租税は特権階級のあいだで費消され、第三身分への還流は微々たるものであった。「構造改革なくして財政再建なし」とは当時のフランスの日本版だったのである。
ブルジョワは租税の大部分を負担し、その金で特権階級を養っているにもかかわらず、政治については今日まで何の権利も持たず、特権階級のような租税の減免もなく、支払人という一方的な地位に甘んじていた。ブルジョワは納税の義務の範囲で権利を行使しようと主張したに過ぎない。だが特権階級は既得権の喪失を怖れ、そしてブルジョワたちは政府の借金踏み倒しを警戒する。民衆はパンの価格統制とその確保を要求し、農民たちは封建領主の搾取に喘いでいた。しかし国王ルイ十六世は、趣味の狩猟と錠前作りに没頭し、事態を的確に判断できる統治者としての危機意識が薄かった。執行の責任を宮廷政府や取り巻き連中に包括委任をして、みずからはブルボン王家のために権限を譲らず、国民のために政権を主体的に機能させようという当事者能力は、国王にも宮廷政府にも欠けていた。こうしたアンシャン・レジームの様々なツケがそのまま全国三部会に持ち込まれ、貸借を問われることになるのである。
このフランス革命の胎動は、一七八七年に生じた貴族たちの王政にたいする抵抗から始まった。支配層内部での深刻な政治的危機が表面化したのである。絶対王政は王朝の奢侈に加えて、アメリカ独立戦争への関与により、その膨大な出費は財政を破綻させていた。この莫大な借金を埋め合わせるために、特権階級に免除されていた地租を、貴族や僧侶を問わずあらゆる土地所有者に課すというものである。この提議に端を発し、貴族が反抗に及んだのである。
財務総監カロンヌは、この法令について親王、大貴族、大司教、高等法院司法官などから成る「名士会」を召集して、ここでの諮問を楯に高等法院に登録を迫ろうとした。しかし名士会はカロンヌの提案を認めず、逆に貴族たちの圧力に押されて国王ルイ十六世はカロンヌを辞職させ、これに代わりブリエンヌを任命した。ブリエンヌはカロンヌの提案に猛反対した人物である。だがブリエンヌもまた、地租の要求を再び提起するより方法がなかった。名士会は再びこれを拒否して、歴史に埋もれていた全国三部会という古証文を差し出すのである。この三部会というのは、聖職者、貴族、平民の三身分からなる代表がヴェルサイユに集まり、国王の諮問に応えるという制度である。
これに追い討ちをかけるように、国王の前に頑として立ちはだかったのが高等法院である。高等法院はパリ高等法院を含め国内の一三の管区に分けられ設置されていた。この高等法院をはじめ下級裁判所の司法官は、ルイ十四世時代から盛んになった売買によってその官職を入手できるようになっていた。富裕なブルジョワがこれを購入した。官職売買は十六世紀に入り、国庫収入の必要から国王が売り渡すようになったものが慣習化したものである。これが既成の事実となって、売買価格の六〇分の一に相当する金額を払えば官職保有者はこれを相続者に譲ることができるようになると、官職の世襲が行われるようになった。富裕なブルジョワが法服貴族として貴族身分を取得する道が開かれていたのである。
こうした売買による司法官は、訴訟の賄賂を強要して売買費用の元金を取り返すのである。裁判の公正や無償性など期待できるものではなかった。また司法官はその売買を保証されることによって罷免されることがなかったから、司法界は党派的な利益団体として独立性を帯び、政治的性格を有することになったのである。パリ高等法院は終審法廷として上級裁判所の役割を持っていた。国王や政府が提議した法律を登録する機関で、ここに登録することによって初めて法律として有効になる。法律を登録するという権限は、それを拒否することができる対抗権を備えていた。さらに国王にたいして、重要な政治案件を提言する建言書を提出することができた。この高等法院はルイ十五世時代に一旦廃止されていたものを、ルイ十六世になって復活させたのである。パリ高等法院は、地租改定の登録を留保する。
自分たちがそうであったにもかかわらず、偏狭な高等法院の党派的独善性に業を煮やした宮廷政府は、ラモワニョンによる司法改革に乗り出す。上級と下級に管轄されていた裁判所が廃止され、高等法院の権限を四五の大代官裁判所に移し、国王の詔書を登記する全員法廷が高等法院に取って替るというものである。政治的特権を奪われることを恐れた法服貴族たちは、ラモワニョンの改革に反対して、宮廷に反目する上流貴族や富裕なブルジョワを巻き込み、各地の高等法院や法曹界と手を組み、抵抗組織を煽動した。また聖職者部会は、全員法廷の制度に反対の立場を表明する。
各地で反対の暴動が起こったが、そのなかでドーフィネ州で起きた反乱は、その後のフランス革命の予行演習とも言えるものであった。州の高等法院は、州都グルノーブルの民衆とともに一七八八年六月七日に蜂起し、鎮圧にやって来た国王の軍隊に、屋根から瓦を投げつけ撃退したのである。これがドーフィネ州で起きた「屋根瓦の日」といわれる事件である。ドーフィネ州では貴族とブルジョワが主導して、産業資本家で大工業主ペリエの城館ヴィジルで、州三部会を開催した。これを先導したのが弁護士であったムーニエ(1758〜1806)とバルナーヴ(1761〜1793)である。この集会で州三部会は第三身分が二倍の代表を選出することを認め、議決は階層別ではなく個人の一票によって採決されることを決議した。ドーフィネ州三部会のこうした動きは他の州にも伝えられ、全国に大反響を呼んだのである。
当時のフランスは、君臨する王権が国内をすべて掌握していたわけではない。エタと呼ばれる地方議会の管轄するフランスと、王の官吏である知事の管轄するフランスの二つが併立していた。また勤勉と知性によって上昇するブルジョワと、閑暇に享楽し頽廃を貪る貴族に分かれ、義務を最小限に押さえ権利を最大限に貪る特権身分と、その特権身分を支える権利なき第三身分の二つのフランスに分かれていたのである。
こうした状況のなかで国王ルイ十六世や宮廷政府は、貴族たちや高等法院の圧力により、全国三部会の召集を布告せざるを得なくなる。全国三部会の代表を選出するために一七八九年一月二四日の選挙規則で、宮廷政府は国民に虚栄と媚びを示す。「国王は、国王に服従する諸州に全国三部会への召集状を送ることによって、臣下の者すべてがこの盛大で厳粛な集会を構成すべき代議員の選出に参加することを望まれた。陛下は王国のすみずみから名もない住民がそれぞれ自分の願いや要求を陛下のもとまで届けることを望まれた。」
この布告が国民の熱狂を引き起こした。第三身分には国王に圧力をかけ、全国三部会を開催する法的な根拠を持っていなかった。したがって国王がみずから呼びかけたというように受け止めた民衆には、全国三部会の召集は大きな期待となって歓迎されたのであった。国王みずから全国三部会を召集したということは、自分たちの様々な不満や要求を取り上げて貰える絶好の機会と映ったのである。民衆は神授された王権が、正義の行使をもって封建的抑圧から解放してくれるものと期待した。
民衆の攻撃の矛先は、直接自分たちの利害に関わる領主や貴族や教会の特権と、権限を楯に威張っている阿漕な行政官吏に向けられた。民衆は王妃マリー・アントワネットの不行跡には無視で応え、「国王万歳」を叫び、神の代理人である国王への敬愛を忘れてはいなかったのである。民衆は法律の発議権や裁可権をはじめ、条約締結、和戦の決定、大臣の任命などの執行権を、国王に委ねることに反対していたわけではなかった。彼等には、政治の中枢にあって国民の生活を左右する重要な機関や権限に、意識の及ぶものではなかった。その視点は現実に自分たちを苦しめている具体的な事柄に向けられた。政府の急務の課題は、王権の杜撰さが国民の目に曝される前に、その綻びを取り繕っておくことにあったが、長い年月に溜まった埃を小手先で払拭できるはずもなかったのである。
国王とその宮廷政府は、貴族たちに押されて全国三部会という舞台を設らえたが、これが革命劇の大舞台となろうとは、当事者たちの誰も予想だにしなかったに違いない。この舞台は一六一四年以来、一七五年間に亘って閉幕されていた歴史的遺物を甦らせたのである。旧弊なものをもって、旧弊なものを否定する皮肉となるのである。第三身分層にとって、各地で改革のために活動していた人々が一同に顔を合わせ、交流する場を与えられたことは、理念に燃え意義と任務を確かめ合う初期の団結にとって絶好の機会となったのである。第三身分の代表たちは、特権階級による一方的な上演を拒んだ。特権階級の主役による、示し合わせた茶番劇を観劇する気などさらさらなかった。自分たちに直接降り掛かる利害が関係しており、観客などに収まってはいられなかったのである。第三身分の立場にしてみれば、忘れ去られていた「中世の恍惚」であり、伝統的形式を重んずる虚飾の台座の上に、未来の秩序を構築するという馬鹿げた作業になる。彼等は鎖に繋がれた牢獄のなかに、自由と平等を築く阿呆らしさを見抜いていた。
開催の審判たるパリ高等法院は先の一七八八年九月二五日、全国三部会を「一六一四年に行われた形式に則って、規則どおりに召集され、構成される」ことを宣言していた。この宣言は、第一身分の聖職者と第二身分の貴族、そして第三身分の平民の三つの部会による審議に、政府や国王の専横的な介入がないように牽制したつもりであった。貴族たちはこの宣言に便乗した。高等法院の宣言は、アンシャン・レジームの維持と特権身分の擁護に止まる。封建制の専横を抑制するどころか、相変わらず身分制を認めている。この場合、敵の敵は味方という図式は成り立たなかった。高等法院の振る舞いは結局、平等なフランス国民という概念を分断するものであったから、逆に第三身分の団結を強める結果となった。
国王や貴族の富や特権と、特権にともなう自由の偏在は、第三身分の平民たちが当然有する権利であった。しかし特権階級はそれを纂奪していた。失いたくなければ支配階級が団結して、民衆に断固たる防衛網を敷いておかなければならなかった。しかし彼等は内部で分裂していた。有力な貴族たちが国王から離反すると、国王を補佐する有能な人材は彼の周辺から消えていた。絶対王政は開明的な貴族の政治参加を拒んでおきながら、それに代わる政治的基盤の確保を怠っていたのである。旧弊な貴族たちは、国民のなかに自分たちの地位を強化し維持することだけに向かった。
この間隙を捉えて第三身分は立ち上がったのである。こうした状況のなかで政治的言論の主導的役割を担うことになったのが、ブルジョワ層やその知識人たちであった。ブルジョワというのはもともと町人を意味していたが、第三身分のうちの富裕な商工業者や金融業者、弁護士や医者や文筆家などの専門的職業や知識人を指して呼ぶようになる。
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