フランス革命と英雄の肖像(3)
全国三部会への代表を選ぶ選挙人の選挙や、陳情書の作成に関わるうちに、世論は沸き立ち全国三部会への関心は多いに高まった。しかし封建制と特権階級に公然と闘いを挑むことに、民衆にはいまだ躊躇と怖れがあった。こうした状況のなかで、聖職者身分ながら第三身分から代表になったシエイエスは、全国三部会開催を前にして「第三身分とは何か?すべて。今日まで如何なるものであったか?零。何になろうとするのか?相当なものに。」を匿名で発表する。人間の行動は利害によって突き動かされるのは当然だが、利害の反転をもたらすような歴史の岐路では、理念が決定的な作用を及ぼすことがある。民衆にとって差し迫って必要なのは、いま自分たちが舐めている辛酸な状況が、どこに原因があり、どうすればこの困難から逃れることができるのか、その解決策を見い出してくれる啓示であった。この論文がきっかけとなり、人々は一つの思いを共有することができたのである。
エマニュエル・ジョゼフ・シエイエス(1748〜1836)は、南フランスのフレジェに生まれ、少年時代を故郷に過ごし、当地のイエズス会修道院の寄宿生となって勉学する。その後パリのサン・シュルピース神学校に入学し、ついでパリ大学を卒業した。そして二十七歳のときブルターニュ州に聖職者としての地位を与えられ、州議会に聖職者代表として議席も得た。さらに一七八七年にはオルレアン州議会の議員となる。二十分の一税の課徴をめぐって特権階級と第三身分との対立が激しくなると、彼は第三身分の陣営に立って活躍し、平等の負担を実現させたのである。ラヴォアジエも第三身分代表として、シエイエスとともに尽力している。
この政治的成功は、シエイエスをパリ高等法院に接近させた。しかし高等法院が王権への抵抗を示すものの、所詮は旧制度の傀儡にすぎないことが分かる。またパリのサロンに出入りするうちに、旧制度の支配が抜き差しならないほど根深いことが分かり、第三身分の要求を主張することの困難さを痛感した。シエイエスは特権階級の一掃なくして国家の再生が不可能であることを身をもって知ったのである。シエイエスにとってフランスの歴史は、特権階級による農民や民衆への搾取と、権利収奪の社会史であった。正義に則った法の下の平等などという概念の思い及ぶものではなかったのである。貴族階級の根拠となるものは、出生による優越性や、家名のもつ威信と、過去の功績に由来する名誉であって、農民から収奪する許し難い権利の纂奪者以外の何ものでもなかった。したがって第三身分の今日までの政治的地位は零ということになるのである。
国民の九八%を構成しながら、零である民衆の意志こそが政治的すべてである。社会的、政治的秩序の再構築を図るためには、上からの物乞いである特権階級は排除しなければならない。身分と特権による恣意の変遷に終止符を打ち、法の下の平等に定義されるフランス国民の地位は、普遍的な権利を持つ相当なものに体現されるはずである。民衆の一歩前へ踏み出すことのためらいを、シエイエスがその禁断の封印を解いたのであった。人々の内心に芽生えていた特権階級にたいする懐疑を代弁したこの論文に、民衆はみずからの正当性の拠り所を発見した。「第三身分とは何か」は民衆の意志の総和となり、それは共通で単一の意志そのものを表わすものとなるのである。
全国三部会の代表は、身分、団体、共同体をとおして選挙人によって選ばれるが、政治的に代表権を与えられた者たちではなかった。陳情書を正確に代弁する受任者であって、政治的意思を創造する者ではなく、個人的な自由な発言も自立性も禁止されていた。これが代表に課せられた命令的委任である。これでは共通で単一の意志を行使する国民主権をめざす主張と、命令的委任は両立しないことになる。したがって地位と身分にもとづいて組織された全国三部会は一つの部会に統一し、命令的委任も解消しなければならなかったのである。
代表者の自由な意志は、政治的な一般意志の積極的な表現であり、専制は個人または特殊な意志の行使である。「十人の個人意志が千人の個人意志を支配する」不条理を、更生しなければならない。民衆の声は、封建制に護られた貴族の特権と身分制の廃止を要求し、昂然と貴族たちへの非難と糾弾に向けられていく。抑圧のなかで声なき無辜の民として無視され虐げられてきた人々が、革命の表舞台に踊り出てくるのである。これが全国三部会開催までの状況であった。
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凪の状態に凝縮していたマグマは臨界点に達すると、そのエネルギーを爆発させ、切断する二つの和音が静寂を打ち破った。チェロが第一主題を奏でると、第一ヴァイオリンが呼応するように第一主題に接近するが、それは賛意を示すものなのか、反抗の意志表示なのか定かではない。第二ヴァイオリンとヴィオラはそれに反応せず、独自に単調なリズムを刻むだけである。先導するチェロに各声部は同調せず、各々の思惑を響かせる。オーボエ、クラリネット、フルート、ヴァイオリンと哀愁を帯びたモチーフを受け渡しながら一つに合流すると、曲は怒涛のほとばしりとなってフォルティッシモに爆発する。このフォルティッシモで奏でる第一主題に、ヴィオラ、コントラバス、木管楽器、金管楽器が同調するが、ヴァイオリンの二つの声部はあいかわらずそっぽを向いたままである。切断する二つの和音からはじけた音符が、第一主題にまとまろうとしながら、なかなかその傘下に従おうとしない。
一七八九年五月五日、全国三部会は旧来の典例に従って厳かに開会された。だが王権がいまだ支持されていたこの時期に、国王はわざわざ国民の離反を促すように、つぎからつぎへと優柔不断で不可解な行動を取り続ける。国王の関心は、民衆との距離をできるだけ遠くに固定することにあり、彼等を近づける気など思いもよらなかった。全国からヴェルサイユへ参集した三部会の代表者たちの謁見の際にも、特権身分と第三身分を差別する。議場への入場口も分けるなどあからさまな意趣を示すのである。国王の威厳は形となって、第三身分の代表たちを威圧したが、そこに暮らす国王自身の器量は、その威容を誇る宮殿と同様に、見かけのきらびやかさに過ぎなかった。
初めて見る豪壮なヴェルサイユ宮殿の威容に、第三身分の代表たちは足がすくみ気持ちは萎縮する。見知らぬ者どうしの「新参者」たちは、生活し慣れた環境から新しい環境に移されると、自分の安心する場所を見つけ出すまではお互いに相手を頼りにし、何かと寄り添いたがるものである。このような状況では、ほんの小さなきっかけがあれば、連帯の絆が結ばれる。ましてや全国三部会に参集した第三身分の新参者たちは、お互いに相手を知らないまでも代表としての使命を自覚しており、同志としての連帯感情が心裡的一体感を準備していたのである。全国三部会の召集は、国王や宮廷政府の安易に流れる思惑とはまったく逆に、彼等の団結を固めるために多大の効果があった。
第三身分代表は、六月一七日には三部会を一つにまとめ国民議会とすることを宣言していた。そして二〇日には廷臣たちの娯楽室であった球戯場に集まって、憲法を制定するまでは、この国民議会を解散しないことを誓い合っていたのである。このときの模様はダヴィッドによって、一枚の大作としてデッサンに描かれている。彼等は三部会合同の審議を求め、そのまま議場に留まり座り込みの戦術に出た。この知らせを受けた国王は、近衛兵に解散させるように命令を下した。しかしラ・ファイエットら自由主義貴族たちが剣を手にしてこれを遮ったため、国王は武力行使を断念した。国王は強制的に議会を解散させようと謀ったが、その実行をためらっているうちに、この二日後にはオルレアン公をはじめ四十七人の貴族代表が、国民議会に合流したのである。聖職者たちはすでに、第三身分との合流を採決していた。聖職者身分の構成は、司教など高位の職階から成る貴族たちよりも、下位の職階である司祭などから成る第三身分出身者が多数を占めていたのである。
一七八九年六月二三日、軍隊がヴェルサイユの路上にあふれ、議場が近衛兵に取り囲まれるなかを国王ルイ十六世は三部会に親臨する。膠着状態に陥っていた三つの部会の運営について、身分別の審議を行うこと、承認を得ない議決の無効であることを国王は声明した。しかしこれは国王の威厳を保つための形式的な抵抗に過ぎなかった。国王はもはや身分別審議は不可能という事実を認めざるを得なくなり、聖職者部会と貴族部会に国民議会への合流を勧告した。形式的には国王の裁可による体裁を整えたが、要はこうした事態を追認せざるを得なかったのである。五月五日に開会した「全国三部会」の命脈はここに尽き、新たな機関となり国王の手を離れていく。
ついで七月九日には国民議会を「憲法制定国民議会」と改称した。情勢はまさに旧体制の内部に改革を進めていくのか、それとも未来に向かって革新を目指すのか、フランスは革命の坩堝へと巻き込まれていく。事態は民衆の蜂起による「緊張」と、議会の言説が飛び交う「不統一」と、優柔で不決断な国王の「曖昧」な三重奏が、不協和音を奏でながら進んでいくのである。
最初に武力による示威行動に訴えたのは国王である。そうでなくともそれまでに虐げられてきた民衆は、支配者側が自分たちを叛徒としてしか見ていないことを敏感に感じ取っていた。彼等がどのような行動に出るかについて予見を持っていたのである。たしかに民衆を疑心暗鬼にさせる言動が国王や貴族側にあった。だが貴族たちがどのような陰謀をめぐらしているかという事実を確認したというよりも、陰謀の存在があるに違いないと確信して民衆は蜂起したのである。抵抗か屈服か、煽動と熱情は命の危険も顧みず、人々は支配者への土下座を拒否した。
このときパリは三部会代表を選んだ選挙人たちが中心となり、パリ六〇区から住民で構成される市民兵の動員を計画していた。パリの民衆は自発的に武器を取った。彼等は武器商に押し入って武器を確保したり、廢兵院から三万二〇〇〇挺の銃を集めた。ところが銃弾や火薬が不足しており、その調達のためにパリ市役所を囲み、バスチーユの要塞に目を付けたのである。この動きは計画的に練られたわけではなく偶発的に起こったとも、弁護士であるカミーユ・デムーラン(1760〜1794)の煽動がきっかけとなったとも云われるが、事実ははっきりしていない。
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曲はここで立て続けに切断する六つの和音打撃が鳴り響く(128小節〜131小節)。膠着した状態の打開を迫り、その緩慢な前進を督促するように事態は風雲急を告げる。
この第一楽章には、繰り返しを含めるとこの連続する六つの和音打撃が三回登場する。指揮者によってはリピート箇所を省く演奏が多い。しかしここは作曲者の指示に忠実に従った演奏とすべきだろう。この強奏する六つの和音打撃は、事態の進行を阻んだり障害を突破する駆動力となって、ドラマの転回点を演出する。この和音打撃は曲の流れを塞き止める危険を孕んでいるが、第一主題の持つスピードとエネルギーはこれを突破して、その推進力を緩めることはない。革命は制動を振り切り、人々の熱狂が後押ししてなお前進を続けるのである。この最初の六つの和音打撃は、既存のあらゆるものを打ち壊す破壊の槌音であった。
一七八九年七月一四日、民衆は専制政治の象徴であるバスチーユの牢獄を襲って占拠してしまったのである。まさかこの日が、有史に例をみない革命を引き出して歴史に刻まれる日になろうとは、誰も想像すらできなかったに違いない。議会は結果としてこうした民衆の蜂起に力を得て、第三身分を代表する知識人たちと自由主義貴族たちが手を結んで、主導権を握ったのである。パリは全国三部会の代表を選んだ選挙人たちによって掌握された。常設委員会が設けられバイイをあらたに市長に選び、ブルジョワ市民兵による「国民衛兵」を組織するとラ・ファイエットが司令官に任命された。この事態に慌てた国王は、和解のため渋々パリに赴く。市長バイイから国王は赤、白、青の三色の入った帽章を贈られる。この光景は、国王の権威が民衆に屈服したことを象徴するものであった。この帽章の三色がのちのフランス国旗となるのである。国王の屈服によって、事態は有力な貴族たちの亡命を促した。国王はまず貴族たちに見放されたのである。
この人望なき国王に最初に接近していったのが、ミラボーやラ・ファイエットであった。二人は絶対王政を改革し、立憲君主政へ移行することでは一致していた。両者には、議会と王権を仲介しながら、政権の中枢を担おうという野心があった。しかし二人は肌が合わなかった。一方は実利を計算し他方は名誉を夢見て、お互いをライバル視していたのである。
ミラボー(1749〜1791)はプロヴァンス地方の名門貴族に生まれたが、若い時から放埒な生活を送っている。軍隊を抜け出し借金を重ね、女性問題を起こし父と対立し、一時オランダに逃れたが警察に捕まり幽閉される。数度の投獄ののち雑文を売って急場をしのいでいたが、一七八八年になり宮廷政府が彼の筆力に眼を付け、おそらくみずからも売り込み、活路を見い出そうとする。華やかなラ・ファイエットとは違って、ミラボーは過去の放蕩に失うものは何もなかった。過去の代償を革命の混乱から取り戻そうと、議会や宮廷を暗躍し、国王側から莫大な資金を引き出して、過去を精算する抜け目のなさを身につけていた。彼の処世家としてのしたたかさは、後のダントンに共通するものがあった。
ミラボーは各地を放浪するうちに、身分制と旧体制を嫌うようになっていた。貴族社会からはじかれていたミラボーは、全国三部会の選挙では第三身分から当選している。国民議会では、その雄弁と世慣れた処世を巧みに発揮して、王政と議会を仲介する。シエイエスが革命の理論家とすれば、ミラボーはその実践者として、左右両派を巧みに操りながら実利を得ようとする。彼は、国王が反革命の側に立たないよう政治から引き離し、議会を穏健な立憲君主政へ導き、自分がその媒介役を努めることに活路を見い出す。そしてこの媒介は国王から金を引き出せるとの計算が働いていた。宮廷政府にたいして革命を弁護し、革命側の急進派を牽制しながら、民衆の蜂起を回避しようとする。しかしミラボーの目論見に反して、国王は彼の野望を金銭で買い上げたが、立憲君主政には支払わなかった。
外見にみるミラボーの辛辣な演説の攻撃性とは違い、その内裡は暴力革命を避け人民の蜂起を怖れていた。それがみずからの保身に繋がることを自覚していた。一時イギリスにも渡り漸進的な議会制に学ぶところが多かったミラボーは、王政のブルジョワ的改革を志向する点でバルナーヴ、ラ・ファイエット、シエイエス、バイイたちと一致していた。しかし「高貴な脱落者」には、誠実さと人民革命への情熱が欠けていた。金銭に執着し、権力指向があからさまなために、議会や宮廷の信頼は得られなかったのである。
時代の潮流を嗅ぎとり、封建的身分制の否定と、きたるべき資本主義社会の切り替えの中点として、ミラボーは時代を捉える嗅覚を具えていた。ところが国王逃亡事件の二ヶ月前の一七九一年四月に彼は急逝してしまう。高貴な脱落者である屈折したミラボーには、英雄が葬られるパンテオンに最初に棺を安置される栄誉が与えられた。しかし国王との密約による金に汚れた過去が暴かれたとき、彼はパンテオンから追放されたのである。
さてバスチーユ牢獄襲撃の一報は、瞬く間に地方へ伝えられた。地方都市でも三部会の選挙人たちが、常設委員会をつくり自治を掌握して、ブルジョワ民兵を組織した。王政による中央集権はこの時期には地方の自治体に取って替られており、フランスは連邦国家の様相を呈する。地方はその自治組織の思惑で自由に動き始めていたのである。
農民たちは代表を全国三部会に送り込むことはできなかったが、三部会への期待は大きかった。その全国三部会は立憲議会に役割を移したが、理念には大胆だったものの判断には躊躇を示した。農村では、要求の矛先は領主だけではなく、富農や財産の貴族といわれるブルジョアにも目を向けはじめ、階層間による闘争だったものが横断的に展開する様相を帯びてくる。また根拠のない噂が飛び交い、民衆を予期せぬ行動へ走らせ、恐怖が混乱に拍車をかけて事態は各地での騒擾へ広がっていった。領主の前に沈黙していた農民たちが各地で蜂起して、領主権の無効を訴えて彼等の館を襲い、封建的権利の根拠となる記録書類を焼いてしまう。こうした騒擾に対処するために、国民議会はとりあえず封建的権利の自発的放棄を貴族たちに要求した。
一七八九年八月四日、各地の蜂起で対応を迫られた議会は、封建的諸権利の廃止を決議する。夜の議会で予め示し合わせていた一部の議員たちの計略により、ノワイユ子爵は人身に関する封建的権利は無償廃棄とし、財産は有償撤廃とすることを提案する。これを支持する演説をしたのが、貴族最大の土地所有者の一人であるエギヨン公であった。虚栄と媚びを売りながら、いかに実利を確保するか、僧侶身分と貴族身分と平民との間では虚々実々の駆け引きが行なわれる。しかし肝心の農民の最大の負担となっている年貢の徴収については、二十年ないしは二十五年分の年貢を一括払いした場合に土地所有の資格が与えられるというもので、農民にとってはなはだ不満の残るものであった。
議会は国体の骨格と憲法制定に向けて、憲法委員会を設け審議に入っていた。体制を立憲君主制としながら、王権の権限をどこまで認めるか、そして議会との関係や議会の構成をどのようなものにするか、各々のグループが自案を主張するが、妥協点を見い出せずに議会は膠着していた。今後の国体の基本原理となる重要な課題に取り組んでいたが、民衆の欲する緊急問題のあいだには開きがあった。この時期、パリの民衆たちの最大の不満は、パンの値上がりと不足にあった。買い占め売り惜しみが横行していて、穀物の不作に加え、人為による操作が不足と高騰に拍車をかけていたのである。民衆はパンの最高価格の統制という現実の切実な要求を掲げて立ち上がった。民衆には法に則った秩序の回復だとか、手続きや節度や道徳といった手間のかかるやり方よりも、昂揚した感情に後押しされた行動のほうがずっと身近に感じられたのである。彼等に人倫や道徳が欠けていたわけではないが、そのような理性的な徳よりも、今を生きることの方が差し迫った緊急の問題だったのである。
一七八九年一〇月五日、一向に埒の開かない状況に業を煮やしたパリの民衆は、再び立ち上がった。バスチーユの占拠が男たちの闘いだったとすれば、今度は女房たちがパンを求めて、ヴェルサイユへ行進を始めたのである。そして翌六日に国王一家を従えてパリへ凱旋する。国王一家がヴェルサイユからチュイルリー宮殿に連れ出されたことは、この革命が民衆の手に移ったことを象徴するものであった。国王一家はこののちヴェルサイユへ帰還することはなかった。
国王はこのとき議会が決定した法令や人権宣言の裁可を拒否していた。その対応をめぐり議会では激論が闘われていた。ロベスピエールやバレールは、議会の決定が国王の権力の上位となるからには国王にこれを拒否する権限はない、したがって議会の決定は無条件で承認されるべきであると主張する。女房たちのヴェルサイユ行進に乗じてその間隙をつき、議会は議長ムーニエを宮殿に赴かせ国王の裁可を取りつける。しかし国王とともに議会のパリ移転にともない、ムーニエをはじめ王政を支持する議員が辞職し、貴族の第二次亡命が始まった。
だが国王は相変わらず国民や議会にたいして、面従腹背の態度を取り続けるのである。おそらく国王にしてみれば、国民に不誠実な対応をしているという意識など毛頭なかったに違いない。母の胎内に宿る頃から佞臣たちに傳かれ、阿諛迎合のなかに囲まれて育った国王は民心を知らず、驕慢の意味さえ理解できずに育ったのも自然の成り行きである。みずからの意志に恣意があっても、国王としての正義の行使であることに、何の疑いも持っていなかったであろう。衆愚の民が暴徒と化して、国王である自分に反抗しているという苛立ちのほうが強かったはずである。
さて議会は国家財政の立て直しに絡んで、フランス国教会の再編に及ぶ。オータンの司教タレイランは、教会の財産を国有財産とする提案を行う。これを売却し国庫に当てるというものである。タレイランが所属する聖職者身分からは当然反対の声が上がり、激しい論争の末、教会財産の国有化は採決され、これにともなう聖職者の待遇についても検討された。その結果、聖職者身分を国家公務員へ移行させ棒給制とし、一七九〇年七月一二日に聖職者民事基本法を可決した。これにより身分制の一つである聖職者身分は消滅し、公務員として国民、国王、法への忠誠を誓うことになり、これに従う宣誓僧侶とあくまでもローマ教皇庁への帰属を主張する宣誓忌避僧侶に分かれることになった。
このシャルル・モーリス・ド・タレイラン(1754〜1838)は、名門中の貴族に生まれている。彼の家系は八世紀のシャルルマーニュ大帝の末裔とも云われ、十五世紀末のシャルル八世、十六世紀のフランソワ一世の時代から、代々侍従や騎士として国王に仕えている。曾祖母や祖母や母は、ルイ十四世、ルイ十五世、ルイ十六世の各々の王妃の女官を務めてきた由緒正しい名門貴族である。彼は生まれつき片足が不自由だったために、長男でありながら家督は弟が継ぐことに決まっていた。成人すると僧職に就くことになる白皙の美男子だったという。彼は八歳から一五歳までソルボンヌのアルクール寄宿中学校で学び、卒業するとパリのサン・シュルピース神学校で五年間を過ごす。神学の学位を取得するため、ソルボンヌ大学にも籍を置いている。その後叔父の計らいで、ランスのサン=ドニ修道院長の職に就いたのが二一歳の時で、このときの年棒が一万八〇〇〇リーブルであった。
この職に就いた一七七五年から革命勃発までの一四年間、タレイランはパリの有力な貴族やその夫人たちのサロンで、文化人や政治家たちと親交を結ぶ。この間に彼はフランス僧職総代理に任命され、教会財産の管理を任され、一七八三年から一七八八年まで財務総監カロンヌの顧問として財政改革の策定にも携わっている。一七八八年にはオータンの司教に叙任されたが、全国三部会の開催にともない聖職者代表として革命の先頭に立って、国による義務教育化に関する法案を議会に提出している。そして教会財産の国有化を議会に提案するのである。一七九一年にタレイランは政略的な計算から、みずから職を投げ打ったかのように見せる。
その後オーストリアとプロイセンの連合軍との開戦に際して、タレイランはイギリスを牽制しその中立を取り付けるために、一七九二年に二度にわたって外交使節としてロンドンを訪れる。イギリスの中立宣言を引き出すことに成功するが、ルイ十六世がタンブル塔に幽閉されたため、ロンドンに足止めせざるを得なくなる。一七九四年三月、タレイランはイギリスからの退去命令で、アメリカに亡命する。帰国できたのは、革命の嵐が収まったのを見とどけた一七九六年九月であった。資産は底をつきパリに戻ったタレイランは、スタール夫人(1766〜1817)から、数度にわたって借入を重ねている。彼女は財務総監を務めたスイス人銀行家ネッケルの娘である。
この後タレイランは一七九七年七月には総裁政府の外相に就任すると、年棒一〇万五〇〇リーブルのほか、七〇〇〇リーブルの住居手当と、公邸や馬車の維持費の五五〇〇リーブルを合わせた一一万三〇〇〇リーブルの莫大な年棒を得て、一息も二息もつくことができたのである。この裏にはスタール夫人の画策と、総裁政府のバラスとの手打ちが絡んでいた。そしてフリュクティドール十八日のクーデタを経験すると、その年の一二月六日に初めてナポレオンと会見する。以降タレイランはナポレオンの外相、侍従長として、両者はともに激動の時代を歩むことになるのである。彼はミラボーの狡猾さやラ・ファイエットの貴族趣味と毛並みの良さを合わせ持ち、シエイエスの保身を加えた三者の資質を独り占めにした巨魁であった。
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