フランス革命と英雄の肖像(4)
タレイランはアンシャン・レジームの宮廷政府と関わり、革命を経験し総裁政府にも外相として携わっている。執政政府を経てナポレオン帝政の主要な政治家の位置を占め、ブルボン復古王朝を経験して、ついに立憲君主政の樹立を見届ける。彼は政局の迷路を見事に泳ぎ抜いた稀代の政略家であった。ヴィーン会議では敗戦国の外相として各国と交渉しながら、その巧みな外交術によって、フランスの不利益を最小限に止める手腕も発揮している。みずからの利害に計算高かったのか、世界を洞察する怜悧な史観を具えていたのか、四十数年に及ぶその政治的経歴は偶然にして成り立つものではない。彼は各国の事情に知悉し、他者の心裡を読み取り、八方に張り巡らされた人脈と情報を駆使する。その中枢として隠然たる影響力を発揮して生き延び続けた才覚は、激動の時代にあってまさしく政治的天才の資質を見事なまでに発揮している。だが後世の評価は、外交術を如何なく発揮したその手腕の裏側で、莫大な賄賂を創出したこの政治家の天網恢恢な所業は、大策謀家のイメージを払拭できないままである。
さて国王は聖職者民事基本法の裁可には難色を示し、同意ののちもこれを後悔している。過去にローマ教皇庁との間で、フランスの教会の独立と自由を守るという大義名分で紛争を重ねた挙句、国王は司教の任命権ほか教会にともなう諸権利を握っていた。これを手放すことは神授された王権という仮面を国王みずから剥ぎ取ることになる。この大義を保つためには、聖職者民事基本法をローマ教皇が承認するという名分が必要であった。そこでローマ教皇ピオ六世の祝聖を取り付けようとしたが、人権宣言を神に背くものとして非難していた教皇が、聖職者民事基本法に同意を与えるはずがなかった。宣誓忌避僧侶たちはこれに意を強くし、政治上の亀裂として反革命の火種を残したのである。これが後にヴァンデの反乱を引き起こす大きな原因となる。
一七九〇年に入るとそれまでの州を八三の県に画定し、郡、市町村というように行政単位に区分された。その中枢部をブルジョワが掌握した。教会組織はこの行政区画に基づいて、一県一司教区とし司教と司祭は選挙によって選出されることになった。また司法組織も行政改革と同様の趣旨に基づいて改編され、旧制の裁判管轄は廃止となり官職の売買は消滅した。そしてここでもブルジョワを中心とする組織が形成され、彼等の勢力が拡大することになった。それまでの専制的な中央集権は、大規模な地方分権に取って替られたのである。
行政権は国王に属するが、国王の決定は内閣の大臣たちの署名を必要とした。その内閣は議会に従属し、議会には大臣を弾劾できる権限が与えられた。議会は行政府を監視し、外交政策を監督する。財政の権限も議会が掌握することになり、議会の召集も議会みずから行うことができるように定め、国王から独立した。国王の許に跪いていた権力は、国王から去ったのである。貴族制度は廃止され、宮廷には二五〇〇万リーブルの王室費と王妃には四〇〇万リーブルの寡婦資産が与えられることになった。憲法に従い実質的な権限は議会が掌握することになる。そして七月一四日には反革命派にたいして誇示するかのように、革命一周年を祝う「全国連盟祭」が華やかに挙行されたのである。
一七九〇年は国王の権限が一枚づつ剥ぎ取られ、骨抜きにされていった年であった。手足をもぎ取られたルイ十六世は飾りものの国王となるが、以後敢然として曖昧な国王から革命に立ち塞がる頑なな国王に豹変するのである。
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ここで曲は再び六つの和音打撃によって切断される(前掲リピート)。最初の和音打撃によって革命の前進を促された議会は、事態の収拾を図りながら、解決の出口が近づいてきたかに見えたが、事態は思わぬ方向に転回する。立憲君主政体の樹立は一歩後退し、仕切り直しを余儀なくされることになる。
一七九一年六月二〇日の真夜中に、国王一家が逃亡を企てたが、パリ東方二〇〇キロのヴァレンヌの町で捕えられるという事件が起こったのである。奇しくもこの日は、第三身分が二年前に「球戯場の誓い」を立てた同じ日に当たる。議会にたいして聖職者民事基本法を含む法案を承認しておきながら、ルイ十六世はその裏で各国の君主にはその無効であることの声明を流していた。そしていよいよ本心を行動で明らかにしたのである。それは革命を拒否する意志表示であった。
国王逃亡事件のあと、断固として共和政体を主張して行動したのは、数学者として名を成していたコンドルセ(1743〜1794)である。「王の不在は、その現存にまさる。」として「一人の男を一種の神様にしてしまう不道徳な迷信」をあてにするような時代ではないと集会で演説した。コンドルセはフランス北東部のリブモンの小貴族の家に生まれ、十五歳でパリのコレージュ・ド・ナヴァールで数学と物理を学んでいる。幼少の頃は当地のキリスト教の神学校に入学した。ここでのラテン語や神学の詰め込み教育、道徳の押し付けや体罰などに反感を抱き、このことが後年の公教育への関心につながる。さらにパリ大学で学び一七六五年に発表した「積分計算について」が、ダランベールに注目され「科学アカデミー史」に収録される。
ダランベールの推薦によって、コンドルセは二十六歳で科学アカデミーの会員となり、一七八二年にはアカデミー・フランセーズの会員に選出されている。一七七四年に改革派テュルゴーが財務総監に任命されると、その側近として迎えられ、コンドルセは貨幣監督官に就任する。合わせて度量衡一元化にも取り組んだ。政府内での仕事をつうじ、また四十三歳でソフィーを妻として迎えたことで、住まいである貨幣局の一室をサロンとして開放する。アダム・スミス、ジェファーソン、フランクリン、トーマス・ペインなどをはじめ、内外の政治家、知識人たちと親交を深め、彼は名声を高めた。
コンドルセは全国三部会の代表選挙に、第三身分から立候補することを望んだがこれを果たせず、貴族身分から立ったものの落選し、国民議会では活躍の場は与えられなかった。そのため彼は活動の場を、パリ市コミューンに移す。七月一四日バスチーユの要塞襲撃のあと、コミューン議会の改選で市会議員に当選したコンドルセは革命に参画する。そこで彼が感じたものは革命とは理性の勝利ではなく、熱狂や情念が圧倒的な力を持つプロセスだということであった。熱狂が人間の破壊衝動を誘発する危険を感じ取っていたのである。また彼は自身について、熱弁を奮い人々に感動を与え行動を促す才能に欠けているということに気付いた。そうした才能にかけてはミラボーやダントン、バルナーブたちであり、健筆を奮うマラーであり、民衆を煽動するロベスピエールであった。ミラボーやダントンの能力を評価しながら、興奮や熱狂のあまり民衆のあいだに争乱や無秩序が拡がることに、不安や疑問を抱くようになっていた。
一七九〇年の夏に貨幣監督官の職を解かれ、パリ市の議員も辞職し、残ったのは科学アカデミーの終身書記の仕事だけになるが、彼はアメリカ独立宣言の起草者トーマス・ペインらと協力して、「共和派」と題する新聞を発行しながら、共和主義の啓発を行っている。不換紙幣アシニャの発行に反対していたコンドルセであったが、インフレもやむなしとしてその発行を促すミラボーの推薦で、国庫を管理する六人のひとりとして委員に任命されるが、このことは彼自身の信条や反王政の人々とは両立せず、周囲の疑惑を招くことになる。立法議会と国民公会で議員に当選したコンドルセは、民衆蜂起によってジロンド派議員二九名に逮捕令が出されると、彼はこれに抗議し署名したため、自身にも逮捕令が出る。逃亡生活に入ったコンドルセは「人間精神進歩史」の執筆を続ける。死を覚悟しながら、みずからの存在をペンに賭けたが、潜伏中に逮捕され獄中で自殺を遂げたのである。
このヴァレンヌ逃亡事件で、国王は完全に民衆の信頼をも失うことになった。このとき国王が議会と妥協を図り権限を委譲し、立憲君主政に移行して国民擁護の姿勢を明確に示すことができたならば、事態の展開は違ったものになっていた。しかし国王の逃亡は、国民とは反対の革命を選んだのである。この行動は、国王が政権を放棄したと国民には映った。そのうえ実権どころかその権威まで手放してしまったことになる。人心は国王を離れた。国王の情勢を見ない行動は、そのままブルボン王朝の崩壊を加速させることになった。しかし寛大にも、議会はヴァレンヌ逃亡事件の後始末に国王の体面を整え、その免責を決定したうえに国王の権限を制限付きながら、その拒否権を認める決定をする。議会のこうした動きに、パリの民衆は承知しなかった。王政の廃止と共和政への移行を要求して、コルドリエクラブを中心に民衆は立ち上がった。
一七九一年七月一七日、パリの民衆はシャン・ド・マルス広場に集まり、共和政樹立の請願のために署名活動を行ったのである。この群衆を散会させるため、市長バイイと国民衛兵司令官ラ・ファイエットはこの集会の解散を命じたうえ、国民衛兵が民衆に向かって発砲するという事件が起きた。これを機に弾圧は強まり、共和主義的な新聞は発行停止となり、これを標榜するクラブやサロンは閉鎖される。議会は革命の収束に動いたのである。
ラ・ファイエット(1757〜1834)は莫大な遺産を相続して、自費でアメリカ独立戦争に参戦している。ジョージ・ワシントンとともに名声を獲得するとフランスに凱旋し、自由主義思想を掲げる名門の帯剣貴族として颯爽と登場した。この開明派の貴族は、立憲君主政による穏健な改革を目指し、王政の中心的な役割を担おうと野心に燃えていた。他の自由主義貴族たちとともに第三身分の知識人たちと手を組み、脆弱となった絶対君主に代わり、君主制の立憲化を主張してみずから傀儡を引き受け、その先頭に立ったのである。
彼は、革命勢力の掌握を図るとともに、国王にたいしては宮中監督官を自認する。国王はラ・ファイエットへの配慮から、彼の息のかかった三名を内閣に加える。彼は政権の中枢でもその地位を確保したかに見えた。議会と宮廷の要として民衆の人気を背景に、一時の栄誉を誇ったのである。しかしラ・ファイエットは、シャン・ド・マルスの発砲事件によって民衆の反感を招き、急速に人気を失っていく。彼はバルナーブ一派とフイヤン派を結成して命脈を保ち、革命を終息させようとするが、一七九二年八月一〇日の王権停止後、オーストリアとの戦線に臨みながら部下の信頼を失い、敵のオーストリア軍に逃げ込み、オルミュッツの囚人となり沈黙する。
帰国したのはナポレオン時代になってからである。立憲君主政体の実現をめざし、その野望を達成するのは、一八三〇年の革命でルイ・フィリップの立憲王政が成立するまで待たなければならなかった。王権と議会には媚態と虚栄で取り入り、民衆には開明的な自由主義者を装い、その栄誉に与ろうと名声を夢みたラ・ファイエットは、国王とともに失脚した。名誉を求める自由主義者はデモクラシーの先達者には成り得なかった。国王を利用しながら己の名声を得ようとする点で、ミラボーと変わるところはなかったのである。
革命は議会によって制限される君主政、貴族から切り離された国王、制限選挙の改定という大筋の流れで、その前進に終止符が打たれたかに見えた。しかし革命の指導者たちは、新しい原理にもとづいた政権樹立を試みながら、国王を自分たちの陣営に抱き込むことになお利用価値があるとみた勢力は、合従連衡を繰り返し大局を見失った。また国王による執行権と議会の立法権のあいだでその主導権を争い、権謀術数と離合集散が政局を一層混迷させていくのである。
この立憲議会では、旧体制に埋没していた絶対君主政体を法の下に救い出し、立憲君主政体に一新して、権利の平等に支えられた国民国家を目指していたかに見えた。しかし実体はブルジョワと自由主義貴族によるブルジョワ国家の建設であった。この間、バスチーユ牢獄の襲撃とヴェルサイユ行進という民衆の二つの蜂起を生み出し、議会はこれに助けられ転換の契機となっている。だが民衆はシャン・ド・マルスの虐殺という議会側からの弾圧も経験した。自分たちの窮状を救済するものと期待し信じていた民衆は、議会の動向もまた国王と同じく頼みにならないと考えるようになる。
ブルジョワ国家の建設に懸念を抱く一派は、民衆の微妙な心理を巧みに煽動しながら、議会に圧力を加えていく。こうして革命は、民衆の存在を抜きにして事態の収拾を図ることがますます困難になっていくのである。また国王のヴァレンヌ逃亡は、革命の統一を打ち砕き、立憲君主政への移行に暗雲を投げかけた。こうした状況のなかで九一年憲法は成立したのである。立憲議会は球戯場で誓った当初の目的を達成すると、議会の解散を決定する。ロベスピエールの提議により、つぎの議会には立憲議会の議員だった者は立候補できないことを採択した。民衆と国王という二つの起爆剤を引き継いで、つぎの立法議会はスタートするのである。
一七九一年一〇月一日、代わった「立法議会」は新たな議員七四五名で構成された。選出された議員の顔ぶれは一新されていた。守旧派や特権階級の貴族たちは排除され、議員の構成はより民衆の立場に接近したかのように見える。左派であるジャコバン派のうち、ジロンド県選出の弁護士ヴェルニヨ(1753〜1793)や、パリ選出のブリッソー(1754〜1793)に引き連れられた一派は、ジロンド派の母体となる。この二人の指導者は自由主義と資本主義的傾向を持つブルジョワ層の出身で、百科全書派やヴォルテールの思想を受け継いでいた。
議員は総入れ替えとなったが、国王はあいかわらず舞台裏で近隣諸国の君主たちに裏工作を進める。そしてオーストリア皇帝とプロイセン国王から、共同声明となるピルニッツ宣言を引き出すのである。必要とあらば宣戦して兵を繰り出すことも辞さないという脅しは、亡命貴族たちを勇気づけ、その策謀もあってフランス国内に流布された。ジロンド派はこの機を利用して、国内の混乱を国外へ逸らせるために、積極的な好戦論を展開する。一方国王は、敗戦に追い込むことによって議会に打撃を与え、反革命派と繋がる外国勢力を後ろ楯に、王権の失地回復を図ろうとしていた。ジロンド派の戦術と、国王の目論見はまったく正反対なものであったが、戦争に事態の突破口を求めたことでは一致した。議会が好戦論に傾斜していくなかで、議会の外からロベスピエールは昂然と戦争の無益を訴えた。そしてジャコバン・クラブはこれを支持した。
一七九二年四月二〇日、国王の提議により議会は、プロイセン、オーストリアにたいしての宣戦を採択したのである。開戦の結果は国王の目論見どおりに敗戦を招いた。フランス軍を指揮したのは貴族たちで、もともと革命のために本気で戦う意志はなかった。かえって王室と気脈をつうじて、敗戦による革命の転覆を期待していたのである。フイヤン内閣が成立して野党に立ったジロンド派は、国王にたいする反撃に転じる。ヴェルニヨとブリッソーは、国王の権利剥奪を示唆する演説を行った。議会は「祖国は危機にあり」という非常事態宣言を可決してしまう。議会の圧力に抗し切れなかったフイヤン内閣は辞職した。ジロンド派は再び政権奪取のチャンスとみて、共和主義者を攻撃して今度は国王を擁護する立場へと反転し、国王への接近を図るとともに、フイヤン派やジャコバン・クラブの追い落としを画策した。
これにたいしてロベスピエールは、バスチーユ陥落を記念する連盟祭に集まっていた全国の連盟兵へ、憲法の維持と法の忠実な実施を訴えて、連盟兵による請願を議会に提出させた。この連盟兵は地方で組織したブルジョワ民兵であった。パリ市のコミューンが地方の市町村の協力を得て、七月一四日の全国連盟祭に召集していたのである。また改編されたパリの四十八の地区のうち四十七地区が王権の廃止に賛成して、あらたな行政機関の設置を要求した。さらにこの混乱と膠着状態は立法権である議会にも責任があるとして、ロベスピエールは、普通選挙によるあらたな憲法制定議会を選出するよう訴えたのである。
一七九二年八月九日夜、連盟兵による革命軍は蜂起してチュイルリー宮殿に向かう。議会が王権の取り扱いになお逡巡しながら、民衆の要求に対応できなかったため、業を煮やして立ち上がったのである。国王の行政府チュイルリー宮殿の警備に当たっていた国民衛兵は、守備を放棄した。同士撃ちを避けたのである。国王は議会に避難する。交戦したのは宮殿に残ったスイス人傭兵たちであった。議会は、チュイルリー宮殿を革命軍が制圧したのを見届けると、翌一〇日に王権の権利停止を決定した。貴族に見放され国民からも見捨てられていた国王は、ついに議会からも斥けられたのである。
この事件によって事実上絶対君主政体は崩壊した。国王の頑迷な態度が、ここに至って墓穴を掘る結果となった。これまで議会内での主導権争いに国王を担ぎだし、国王もまた議会を牽制しながら、事態の先送りに活路を見い出そうとしていた双方の関係が、ここで完全に断ち切られたのである。国王が主催した革命の舞台は、ブルジョワと民衆が主役の座に踊り出ることになった。そしてオーナーである国王を、立憲君主という脇役に付けようとしたが、国王はこれを拒否した。国王は舞台から退場を余儀なくされ、ここに国王による革命劇は一旦幕を閉じたのであった。そして引き続き自主管理による企画上演を催すことになったが、革命はオーナーの手を離れると、その政体の根拠を新たに構築することができずに迷走する。
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再三、曲は強奏する六つの切断音を叩く(531小節〜534小節)。
事態は急展開を見せた。八月一〇日前後の状況は、王政が民衆の武装蜂起によって転覆され、革命がチュイルリーの議会からパリの街頭に移ったことの宣言であった。この大きな転換にいちはやく反応したモンターニュ派は、民衆や農民の要求に応え、社会的デモクラシーの実現をめざす徹底的革命路線へと転ずる。これにたいしジロンド派は、ブルジョワの利害に固執し、民衆の蜂起を阻止して事態の進行を抑えようとした。
この六つの連続する切断音は、旧体制が葬り去られ、絶対王政の終わりを告げるとともに、共和政へ道を開くあらたな闘争の始まりであった。自由主義貴族とブルジョワの同盟による従来の妥協的革命路線から、民衆や農民たちとの同盟による徹底的革命路線への切り替えの合図だったのである。それは民衆の参画する社会革命を追認する号砲であった。民衆は封建制の徹底的打破を求めるとともに、反ブルジョワの立場に立っていた。貴族側と、農民を中心にした民衆は対立する関係にあり、ブルジョワ層はこの二つの階層とどのような同盟を結ぶかについて、自由主義貴族と同盟する妥協的改革路線と、民衆・農民側と手を結ぶ徹底的革命路線という二つの路線をめぐって、内部では当初から考え方の違いを抱えていたが、ここに至ってその姿を鮮明に現わしたのである。
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