んだんだ劇場2007年2月号 vol.98
遠田耕平

No67  カンボジア語で一席

おかげさん
 新年の秋田には雪がなかった。町中がパニックに陥っていた去年の豪雪がまるで嘘のようだ。雪のない道路を歩くお年寄りの顔がこころなしか明るい。熱帯でイメージを描きながら一年に一度だけのスキーに挑む僕の心は少々しぼんだが仕方ない。雪国で暮らす人たちにとってはやっぱり雪は冬の自然の辛い置き土産だ。雪かきも雪下ろし、年をとればとるほどきつくなる。雪の少ない冬は厳しい自然がたまにくれる贈り物。雪のない冬を楽しむのも雪国の住人の特権である。
 白い息の出るトイレにしゃがんで、ふと前を見ると、まるで僕に声を掛けるかのように「おかげさん」という相田みつおさんの見事な書が掛かっていた。年末から年始にかけて家族の事で少しばたばたしていたので、その書を見てハッとした。つくづく「そうだなー。」と感じる。どんなに一見うまくいっているような家族でも無事ということはない。必ず何かが起こっている。それが当たり前だ。それでも何とかやり過ごしていく。ほんとうに「おかげさん」である。その字を見ながら、家族を見守ってくれている死んだ人たちの魂をとても身近に思った。
 カンボジアへの帰路、女房の実家の栃木に寄ると、「蝋梅(ろうばい)」が庭に咲いていた。字の如く黄色い蝋をうっすらとかけたような光沢を持ち、固い蕾からふわりと開いたような花が枝にたくさん並んで咲いている。蝋梅は中国の原産だというが、その香りは僕には熱帯の花のように芳しく感じた。今年は暖冬のせいで例年より早くたくさん咲いていると女房の父が、ポキッとその枝を折って、僕に渡しながら教えてくれた。
 プノンペンに戻ると、驚くほど涼しい。乾季の中で一番涼しくなる時期ではあるが、川から吹く風が寒いくらいである。もちろん川沿いにあるプールの水温も下がっていて、6月の泳ぎ始めの頃の秋田の水温を思い出した。去年の今頃はポリオ(小児麻痺)の患者が8年ぶりにカンボジアで見つかって、その対策に大わらわであった。今年は2月と3月に予定されている全国の麻疹ワクチンキャンペーンをひかえて、またもやその準備にばたばたしている。

ム、ム、マ、マ、マムマ…言葉の始まり
 カンボジア語を教えてくれているセタ先生が、休暇明けにもかかわらず、すでに疲れた様子の僕を見て、同情の視線を投げかける。先生に優しく質問された単純なカンボジア語がうまく口から出ず、「ム、ム、マ、マ…。」と口ごもっていると、セタ先生が
「どんな動物も生まれたときの始めの言葉はMから始まりますね。」と、からかわれているなと思ったが、意外にも真面目な顔で話される。
「ヤギは生まれた瞬間になんと鳴きますか。そう、"メェー"ですね。では、ウシの赤ちゃんはどうですか。そう、"モォー"でしょ。」
「人の赤ちゃんも生まれて最初に発する音はム、ム、マ、マ…でしょ。」…やっぱり、からかわれている。
「そして最初に赤ちゃんが覚える言葉はなんですか?そう、ママ、お母さん、その言葉は世界中ほとんどがやっぱりMから始まります。」
確かにカンボジア語ではマダイとかマエとかいう。ベトナム語ではメーやマー。英語ではマザー、フランス語ではメア、スペイン語ではマドレ、中国でもマー、ヒンズーではマーター、ポルトガル語ではマエン、…。本当にみんなMで始まる。うーん、凄い。
「でも、日本語では"おかあさん"だから、少し違いますね。変ですね。」という。なるほど違う。ただ、日本の赤ちゃんも始めの言葉はマム、マム、、、、いや、マムマ、マムマ、そう、「おまんま、お飯」だ。僕も自分の子供が始めて何か言葉らしいものを発したとき、「まんま」と聞こえた。口をパクパクさせるものだから、お腹が空いているのだと思って、何度もその口にスプーンをもっていったのを思い出した。これは、赤ちゃんの初めの発語を大人がどう理解するかだけの問題だ。「ママ」と呼んだと誤解したのか、「まんま」でご飯を要求したと誤解したのか。でも"まんま"は、子供の気持ちを分かろうとするいかにも日本らしい誤解だと感じて、僕は気に入った。
「それに死ぬ時の最後の言葉もやっぱりMから始まるムゥー、とかマァーとか、メェーとか言って終わるんですよ。私の93歳のおじいさんも"マァー、お母さん"と最後に漏らして死にましたよ。」ここまで来ると、真偽のほどはさらに怪しいなと思えてくる。
 調子に乗ったのか、セタ先生、ついでに「国のことを母国、国の言語を母国語、英語でもそういいますね。最大の尊敬と言う意味で母を使う一方、最大の侮辱語としても、母を性的に汚すように使う国が多いです。英語ではmotherfuckerなんて言うし、ベトナム語でもドゥメーなんていう。でもカンボジア語や日本語にはそういうものはありませんね。」確かに母親を侮辱に使った日本語はない。そんな優しい文化的感覚がカンボジアと日本に親近感を持たせるのだろうか。それにしても僕の3年近く習っているカンボジア語は赤ちゃんの発語程度らしいということを、セタ先生は婉曲的に諭されていたのか…。

カンボジア語と英語の落とし穴
 僕はカンボジア語の覚えが本当に悪い。いや、あまねく他言語に対する覚えが悪いのである。カンボジア語に限らず、英語もフランス語もドイツ語も、さらにベトナム語もヒンズー語もチャレンジして本当ものになっているものは皆無である。それでも過去に英語とベトナム語だけは何とかかろうじて意志を通じさせる程度の事はできるようになった。言いたいことが山のようにあるもので、必要に駆られた時だけは仕方がないので必死で必要な言葉だけを、まるで色紙を切り貼りするように覚えるのである。言語の才能と言うものは確かにあるのだろうが、多くの人は必要に駆られて初めて他言語に上達するように見える。
 英語は仕事柄必要に駆られて仕方なく使っている。それなのに英語を母国語としている連中は、世界中の人が英語を理解し、少しは話せるはずだと大きく誤解している人が多い。だから、ミーティングでそんな連中が聞き取りにくい英語で勝手にまくし立て、大袈裟なジェスチャーをしているのを見ると、僕の耳は自動的に塞がる。その理由は、「ああ、この人たちは英語を母国語としない他の多くの人たちに本当は真面目に伝えたくないのだな。」と僕の心の基準が判断するからである。そんな時は僕も下手な英語で言いたい事だけを言って終わる。
 まあ、一般に国際社会なんてかっこよく表現される場は、そもそも人間性の悪い連中が集まっていると仮定して、話し合いの結果は全く僕の言ったような勝手な主張だけで終わるのである。ただ、もしその場に稀に相手に伝えたい思いをちゃんと持って、相手に伝わったかを思いやる気持ちが働く人がいるとすると、そんな時だけはたぶん会議の雰囲気が変わるのである。
 そんなわけで、初対面のカンボジア人に「あなたは英語が話せますか?」なんて聞いてくる英語を母国語とする連中を見ると「バカじゃなかろうか。」と思う。「あなたは日本語が話せますか?」なんて、初対面のカンボジア人に対して尋ねる日本人はまずいないだろう。まず話せないだろうとはじめから理解しているからである。最初に「私はカンボジア語がうまく話せなくてすみません。」と、カンボジア語で言えたらいいなと思う。それから、カンボジア語を覚えなくてはならないという必要性を感じる。その意味では現在の世界でやや共通語的に使われている英語を母国語かそれに近い形で使っている人たちは他言語の存在感や必要性を感じることがはじめから少ない。その事は相手を理解する上で随分と損で可哀相だなと思うのだが、本人達はわかっていないようだ。
 実はこの英語の国際言語化の悪影響を僕も受けている。ベトナムでは僕が働き始めた15年前は、英語はほとんど役に立たなかった。それでベトナム語の辞書を片手に、現地のスタッフに助けられながら必死で話すためのベトナム語を覚えたのである。しかし、その後働いた、インドでも、バングラディシュでも、ネパールでも、政府の医者達はほとんどが英語で教育を受けていて、まずは彼らと英語でやり取りする事から始めなくてはならなかった。さらに英語の語彙はエリート連中の彼らのほうが僕より上なので焦った。結局、村の保健師さんたちと話したいと思って始めたヒンズー語もベンガル語のレッスンは全くものにならずに終わってしまったのである。
 カンボジアは旧宗主国がフランスだし、英語の影響はそれほどないだろうと思ってきたのだが、来てみて驚いた。ベトナムの占領が終わって以降、国連が来て、海外の支援が入り、それからは収入のいい仕事は全て英語の話せる人だけという社会となった。限られたカンボジアの人材は必死で英語を勉強し、英語がしゃべれないと職がないといわれる。今や、英語塾は大繁盛である。もし日本でこんな姿を見たら少し悲しくなりそうである。外国語よりも仕事そのものに力を注いで欲しいと思うからだろう。でも、英語が話せればとにかく生き残れるチャンスがあるのである。
 そこで現地の保健省の人たちと仕事をしてみると、英語でかなり通じる。すると、自分のたどたどしいカンボジア語を使うより、英語でのほうが余程仕事の進み具合がいいことになる。さらに、早く仕事を進めるためにますますカンボジア語を使う機会は減り、ますます英語だけで話すようになるのである。
 それでも、僕の英語はある程度彼らに歓迎された。その理由は、はっきりと聞き取り易く、よく分かるという事らしい。僕は彼らが分かるまでこの不得意な英語を話し、彼らがしっかり分かってくれたと分かるまで確認する。僕の来る前に働いていた英語を母国語とする連中はそれをしなかったらしい。
 そんな訳で、僕のカンボジア語を話さないといけないという動機と必要性はどうも薄まってしまい、もう3年半が過ぎた。偉大な家庭教師であるセタ先生には誠に申し訳ないのである。

下手くそ真打登場
 ところがそんな僕に小さな転機がここ1,2週間でやってきた。麻疹の全国ワクチンキャンペーンのための準備が始まり、プノンペン市内や近郊の郡で開かれる集会に連日のよう出席する事になった。この会合には各郡の村長や町長たちを招き、県や郡の衛生部の責任者、保健所の責任者らが彼らの意見を聞きながら実施計画を練る。そこでどうしても仕事のやり方をカンボジア語で僕の口から話さなくてはならなくなった。
 それは、今回の麻疹ワクチンキャンペーンが、保健所単位での活動ではなく、10以上の保健所を束ねる郡単位の活動になった。20〜30のワクチン接種チームを総動員し、1日毎にいくつかの村や町を全チームで移動しながら5歳未満の子供を対象にしたワクチン接種をして、約2週間で、郡全域の接種を完了するというものである。この計画は大量のチームを、限定した地域に一気に導入して、くまなく接種を行うという点で優れている。例えてみると、軍事作戦で、藪に潜んでいるゲリラとの戦う時に使う掃討作戦というやり方に似ている。ただこれを成功させるためには、地図を使った正確な土地の把握、各チームが受け持つ場所の確認、それを監督するリーダーの正しい指示と指導など緻密な計画と準備が必要となる。もしそれがないと、それはただ、土地勘のない兵隊を目くらめっぽうにジャングルに投入して結局は犬死させることに似ている。果たしてカンボジアの政府はこれが出来るのであろうか?そう思ったら僕は脂汗が出てきた。
 実はこの準備と監督指導が如何に大変かを僕はインドやバングラディシュの体験から身をもって知っていた。保健省の担当官がこれを決定するはじめの段階で僕はこの計画の難しさを彼らには何度も話した。それでもそのやり方を保健省としてやりたいというので賛成したのである。ところが僕が休暇の間に作成し、全国に配った計画書を見てみると、肝心な計画の要点はほとんど明記されていなかった。また脂汗が出てきた。僕の伝達の力も実はこの程度で、まったく大したことはないということになりそうだ。
 そこで、こうなったら僕もゲリラ作戦と決めた。自分の出来る限り、郡の会合に出て、自分の言葉でこの計画の難しさと要点を話そうと決心した。そこで、また親愛なるセタ先生の登場である。セタ先生に僕が使いたい言葉のキーワードをカンボジア語で20語ほど教えてもらった。チーム、監督、地図、計画、責任、境界、特別、…等等。あとはキーワードを散りばめ、保健省の仲間の助けも借りながら怪しいクメール語を駆使して話すのである。
 さて当日、さすがに30人余りいる厳しい顔の村長さんや保健師たちの前に出ると緊張する。でも、ダメもとである。「クニョム(僕)はクメール語を話せません。ソントー(ごめんなさい)。」とまずカンボジア語で謝っておいて、下手くそなカンボジア語でさらに続ける。冷や汗である。「お、この日本人、カンボジア語を下手くそなりに話しているな。」と村のおじさんやおばさん達の目が少しだけ輝く。少しほっとする。ホワイトボードに図を描きながら、全体で働く日数と地域はどのくらい、一日に働く監督官が何人、その下で働くチームがいくつ、その境界はどこからどこまで、…と。
 僕のカンボジア語は、「ニッチア(これと)、これと、これはとてもソムカーン(大事)ですね。でもこれが、特にソムカーン(大事)です。」「僕はソムヌア(質問)があるんですけど、バーサンチア(もし)こうやったとしたらルオー(良い)ですか?コッホ(悪い)ですか?」「もしこうしたらピーバック(困ります)ね。どうですか?ヨルテー(わかります?)」という具合。まるで幼稚園の園児の発表のようである。
「スコールチュバット(ちゃんと分かりましたか)?」と心配な僕は話の間に何度も聞いてみる。その都度、おじさんもおばさんもニヤニヤしながらうなずく。どうやらある程度はわかってくれているらしい。少なくとも、「この外国人はおもろいやっちゃな。なるほどな。」というところだろうか。話の合間に保健省の同僚にもっと詳しい説明をつけ加えてもらう。僕一人のカンボジア語ではどうにもならないからこれは実に有難い。でも、少なくとも僕の下手くそなカンボジア語の話しで、おじさんやおばさん達の集中力が高まったことは確かのようだ。最後に「下手なカンボジア語で本当にソントー(ごめんなさい)。でも、トヴカールオー(いい仕事)が出来るように頑張りましょうね。」と言って締めくくると、自然に拍手が起こった。「やったー!」である。僕のパフォーマンスが久しぶりに受けた。女房から下ねたが多いと非難される僕の冗談であるが、下ねたも言えない程度の言語力であるから救われた。
 ベトナムで仕事をしていた頃、よく僕の下手なベトナム語の発音で保健師や地元のおっちゃんたちが笑ってくれた事を思い出した。笑いが取れるのはやはり最高の気分である。「うーん、大事なのはやっぱり笑いだ。」と実感。やっぱり現地の言葉を下手でも話すのは大事だなと改めて実感したのである。
 もう一つ不思議な現象があった。それは衛生部の連中の態度だ。いつもはカンボジア語に通訳してもらう僕の話を話半分にしか聞いていない彼らが、「トーダのカンボジア語は少し上達したな。」と実に得意げに、上から見下ろして言うのである。僕はお褒めに預かり有難うございましたとばかり頭を下げる。とたんに、いつもは肩を叩かれてばかりいて不満顔の彼らが、満面の笑みをたたえて僕の肩を叩きながら「頑張れよ。」と声を掛けるのである。ウーン、参った。
 今のところ5つの集会をまわったが、20分ほどの話の受けはよく、気をよくした県の衛生部の人が落語の高座のように僕の時間を用意してくれる。真打登場とばかり、頭を掻き掻き僕は皆の前に登場するのである。今のところ、村のおじさんもおばさんも実に優しい目で見守ってくれている。有難いかな、これはまさに「おかげさん」である。かくして僕の下手くそカンボジア語興行の旅はしばらく続きそうなのである。

先月号でお約束していた「新生児破傷風」のお話はまた後日にお話します。どうかご容赦を。


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