遠田耕平
乾季のカンボジアは日に日に暑くなっている。メコンの川沿いにあるプールの水温もどんどん上がっている。メコン川の水位は今が一年で一番低い。川の中州が立派な陸地になって緑色の草が青々と茂っている。そこにメコンの小魚を捕る季節労働者たちがちゃっかり掘っ立て小屋を立てている。いつもの乾季のメコン川の風景である。 ぎっくり腰のおバカさん 暑さとは関係ないが、突然ぎっくり腰が再発した。ぎっくり腰はいつも突然である。なんと一ヶ月のうちに3回も繰り返した。初めは我が家の犬のウンチを片付けようと腰をかがめた瞬間。左の背中の腰の辺りがバリッと鳴った。こうなるともう動かない。少し動こうとするだけで、背中からビリビリと電気が走る。 ぎっくり腰は、僕の理解では、筋肉と筋膜の剥離である。筋膜は筋肉の束を包んでいる薄い皮のようなものであるが、筋肉が突然に強く収縮した瞬間に筋肉からこの薄皮から剥がれる。とにかく痛い。これは誰にでも起こるものではなさそうだ。歩く、立つ、座る、かがむ、持ち上げる等々、日常的な動きの中で一番動いている筋肉が背中の腰の辺りである。その時にもともと筋肉の左右のバランスが悪い人や、極端に無理な荷重をかける動作をした人に起こり易い。 椎間板ヘルニアと混乱する人がいるが、これは違う。椎間板ヘルニアは、脊椎の軟骨が飛び出して、脊髄神経を圧迫し、しびれたり、運動麻痺を起こす脊髄神経症状を伴う。ぎっくり腰には足先がしびれるような神経症状は全く伴わない。 筋肉の薄皮の剥がれであるから、そこには当然、急性の炎症が起こる。その上、表在の痛覚がいっぱいあるところなのでとにかく痛い。それをマッサージしたり、揉んだりしたりする人がいるが、感心しない。冷やしてとにかく安静にして、動かさない事が肝要である。痛みの激しい時は、それだけで筋肉が強く収縮してしまうから鎮痛剤を使うのもいい。 針をやる人がいるが、これは痛覚を麻痺させる効果があるらしいし、筋肉の収縮を和らげる働きがあるらしいからいいのだろう。でも、よく分からない。僕自身、一度だけ針治療を受けた事がある。その針師は、スポーツ選手に人気があるということで紹介された。「どうしてぎっくり腰になるのですか。」と訊くと、面倒くさそうに「筋肉の慢性炎症だ。」と、無愛想な返事が返ってきた。揉まないで欲しいのに揉みはじめ、気が付いたら消毒もしていない針を何本も腰に立てられていた。それから針には行かない事にしている。 とにかく、一度ぎっくり腰になると厄介である。どんな動きに際しても背中の腰の辺りの筋肉がよく収縮するということが分かる。起き上がる時も、立ち上がるときも、歩く時も、トイレをする時もである。特に小用を足す時がやっかいだ。おしっこを止めようとするその瞬間に背中の筋肉が縮む。最後にいつものやりなれた微妙な腰の動作をして、パンツに収めようとするその瞬間に激しく縮むのである。どちらも、、、。 治る時は簡単である。しつこいようだが、ぎっくり腰は筋肉の薄皮の剥がれであるから、薄皮と筋肉が元通りにぴったりとくっつくまで絶対に安静にしていればいいのである。その後はどんどんと楽になり回復する。ところが問題は再発である。2週間位して完全に治ったと思い込み、また激しく運動して、再発させるおバカさんがいる。僕だ。日本に出張した際に息子とボーリングをして再発。薬屋に飛び込んで腰を締めるゴムバンドを買って、身体を引きずりながら飛行機に乗った。腰を締めるゴムバンドが意外にもいいとわかった。腰の筋肉の余計な動きを制限し、痛みで勝手に縮んでしまう筋肉を抑え込んでくれる。 プノンペンに帰って、安静に努めるも、泳ぎたいという誘惑には勝てず、少し泳いでみる。意外にも早く回復しているようで痛みがない。神田のミズノで2007年モデルの新しい水着も買ってきたし、ついかっこよく泳ぎたくなって、バタフライをした瞬間だった。三度目のぎっくり腰。こういう人を本当におバカさんと言う。 水中ではゴムバンドも締められず、普段から僕には諦め顔の女房もさすがに今回は「いい加減にしなさい。」と苦言を垂れ、大おバカさんは今おとなしくしている。 中華正月 ここ数日、中央市場の周りの渋滞がひどい。30分も車が動かず、保健省のミーティングに何度も遅れてしまった。マニラやバンコクから来るとプノンペンはホッとするほどまだ車の数が少なく、渋滞も少ない。ところが、長くここに居ると、車のここ数年の急増に驚く。あの静かだったプノンペンももうすぐなくなる。そのプノンペンでも30分以上の渋滞は珍しい。訊くと中華正月(旧正月)の準備だという。それは中国人でカンボジア人とは関係ないだろうと思っていたが、どうやらおおありらしい。 中国系企業のカンボジア進出はここ数年凄い勢いだ。中国の安い繊維産業は近年カンボジアの安い労働力に支えられているという人がいるくらいだ。その上、中国人とカンボジア人の血の混じり合いは確実に進んでいる。いまや、カンボジアの家族には必ず一人や二人中国系の親戚がいて,誰かがどこかで混じっている。保健省のスタッフを見ても中華正月に休む人たちがいっぱいいる。みんな家族の中で小さな中華正月を祝うらしい。 それにしてもカンボジアのお正月は4月の中旬、日本の仏教で言う所の花祭り、お釈迦様の生まれた日と決まっている。小乗仏教の国では、タイもミャンマーも皆同じである。カンボジアの西洋かぶれは日本の如くで、最近は汗をかきながらでも、クリスマスにサンタさんの赤い服を来て「メリークリスマス、ハッピーニューイヤー。」と連呼するし、中華正月もクメール正月もやっぱりハッピーニューイヤーで、3つもお正月を祝ってしまうのである。 麻疹キャンペーン始まる 中華正月明けから全国の5歳未満の200万人の子供を対象にした麻疹ワクチンキャンペーンが始まった。保健大臣、プノンペン市の副知事、WHOとUNICEFの代表、日本大使館から来賓を招いて、開会式が盛大に行われた。このキャンペーンには全国約4000の保健師が2000の接種チームを組織し、800の監督官とともに2万の村で家々を歩いて、接種活動をする。さらに接種チームは2万人の地元の人の協力を得、郡ごとに2週間以内に接種を完了して、1ヵ月半、雨期の始まる前までに全国の接種を終了するのである。 さらにこのキャンペーンでは、栄養改善と学校保健の部門と協力して、ビタミンAと虫下しの薬(メベンダゾール)を経口で同時に投与する。さらに貧困世帯を中心に5歳未満の人口10%には経口ポリオワクチンも投与する。
日本では麻疹の認識が甘く、ワクチンのなかった頃は近所で麻疹の子供が出ると、祖父母が「麻疹の出た家に遊びに行って麻疹を貰っておいで。」と言ったのを今も覚えている。それは多分、ワクチンがない時代、子供の時に早く罹ったほうが症状が軽いと考えられていたからだろう。それはある意味では正しいのだろう。ところが今は効果が90%以上もあるワクチンがちゃんとある。日本ではこの認識が甘いために毎年今も麻疹による重症の肺炎や脳炎による死亡が数件あるという。ワクチンさえ受けていれば多くは防げるのである。 麻疹のウイルスは、子供から子供に伝染するスピードが早いため、ワクチンをいくら接種してもワクチン漏れの子供を中心にウイルスの伝染は広がり、毎年起こるウイルスの流行それ自体は無くならないだろうと信じられていた。ところがアメリカ合衆国は定期接種を2回に増やし、さらに小学校に入る時に接種を受けない子供は入学できないという法律を作って、接種率を徹底的に上げることで伝染を抑えた。 さらに中南米では1990年代の終わりから麻疹ワクチンの定期接種に加えて、15歳未満の人口を対象にしたキャンペーンを実施し、接種漏れや接種によっても十分免疫のつかなかった子供達全ての免疫力を底上げした。 それによって、麻疹の伝染は急速に減少し、2000年までにアメリカ大陸全土から麻疹の伝染をほぼ絶ったのである。麻疹の伝染をいったん絶った後は、定期予防接種のワクチンの2回接種を徹底して伝染の押さえ込みを現在も維持している。 日本政府も去年やっと定期予防接種に麻疹の2回接種を入れることを認可した。ところがまだ5000人は患者がいるだろうと推定されている。その主な理由は幼児期の接種漏れや接種しても十分免疫のつかなかった子供たちが学齢児童にいっぱいいて麻疹ウイルスの伝染を絶てないのである。日本政府にはマスコミのワクチン批判や大衆のワクチンに対する理解の低さなどからアメリカ合衆国のように入学時にワクチン接種を厳しくチェックする法的強制力が行使できないし、ましてや大きなワクチンキャンペーンを実施できない悩みがある。カンボジアのお隣のタイ政府の事情も日本とよく似ている。 さてカンボジアに話を戻そう。カンボジアでは6,7年前までは毎年一万人以上の患者が報告され、1000人以上が死亡していたと推定されている。ところが2001年から15歳未満を対象にしたワクチン接種を全国で実施した結果、麻疹の発生が著しく減少。さらに定期予防接種の麻疹ワクチン接種も強化した結果、2006年には500人の疑いの患者が報告され、60%で血清の診断をしたが、一例も麻疹の確定例はなくなった。
投じられる資金は実施の費用だけで1億円余り。国連基金を通じてWHOとユニセフに分配され、カンボジア政府に投じられる。さらにこの基金とは別にキャンペーンに使う麻疹ワクチン4千万円相当は全て日本政府からの無償資金援助である。つまりは日本の皆さんの税金である。歳出の半分以上を海外の支援に頼っている政府であるが、何とかガソリン代くらいは出してくれそうだ。1億円と言うと有り余るほどのお金に聞こえるが、保健師たちは日当の5ドルで炎天下を連日働き続けてくれるのである。 あなたは地図が読めますか? 今回の接種は、郡ごとに20−30の接種チームを組織して、郡の端から端までを一斉に接種をしていくいわゆる掃討作戦である。これを実施するには土地勘のない多くのチームを無駄なく動かす監督官の強いリーダーシップと視覚的にはっきりとどこの家までをカバーするかが分かる地図が必須となる。 ただ、「カンボジア人は本当に地図を読めて、描けて、使えるのだろうか?」この疑問はずっと僕を悩ませてきた。ベトナムに始まって、インド、バングラ、ネパール、いずれでも、地図を使ってきめの細かい接種活動をしたことがあるが、現地の人達自身が本当にいいと思って地図を使ったのかは正直に言うと疑問なのである。「言われたからただ用意したので、実際にはなくても同じさ。ちゃんと頭の中に全部入っているんだ。」という人がいる。「日本人だって、地図を読めない人がいるんだから、カンボジア人じゃ無理もないだろう。」という人もいる。 僕の意図する地図は観光で使うような洒落た地図を言っているのではない。監督官同士の境界、接種チーム同士の境界さえわかればいいので、いわば部屋の広さと境界を明確に描いてある自分の家の見取り図のようなものである。自分が責任を持って全ての子供に接種する場所はこの通りからこの通りまで、この角の家からこの角の家まで、という具合に境界が判りさえすればいい。僕は、長年この国の人たちを見てきて、あっという間にお金の計算をしてしまうこの人たちの頭脳で境界の線引きする地図を描けない訳がないと思う。大事な事は何故地図が自分達に必要かという理解である。 接種所の前を通り過ぎる子供をただ捕まえて接種するだけでなく、与えられた地域のすべての家のすべての子供達に接種をしてあげたい、しなくてはならないと思うことが、まず一番に大切である。すると、自分の足で歩かないとならない。すると、どうしてもどこからどこまでが自分に割り当てられた地域で、どこが境界なのかを知る必要がある。そこを歩くための道案内が必要になる。そうすると地図が便利だということになる筈なのだが…。本当にみんながそう思って地図を使ってくれるのか、まだ答えがない。
国境の村の一夜 今、僕はタイとカンボジアの国境のマライという小さな村にいる。ここでの接種活動を見ていたら町に帰れなくなったので、今晩はここで泊まることにした。ここの接種チームはよくやっている。郡の責任者のワットさんがとてもしっかりした人で、5人の監督官が毎日働く地域の地図をきちんと用意している。この地域はタイ国境に沿って激しい人の移動があるだけでなく、いまだに地雷原が残っていて、そこに家が点在するから注意が要る。さらに原野を開墾した荒地に家が点在する僻地もある。 ワットさんは20の接種チームと5人の監督官を束ねて一つの家も見落としのないように配置をし、移動させ、荒地には車を走らせる。その上、50人の接種チームの宿の世話から、食事の世話まで気を使う。まったく、頭が下がる。カンボジアは全く捨てたもんじゃない。接種チームには宿代は出ないので、保健所に泊まったり、お寺や民家に泊めてもらったりしている。自宅から通っているくせに、文句ばかり言うプノンペンの保健師たちには爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいところである。 今晩の僕の宿は村に一軒あるゲストハウス風の家の一室になった。壁はまだ新しい。壁の上のほう横一列に穴あきレンガ並んで埋め込まれている。これは南国の家屋独特の通気孔である。そこに掛かっているクモの巣が、外から入ってくる風でユラユラと揺れている。蚊帳を持って来ればよかったが、まさか村で泊まるとは思わなかったので仕方ない。蚊の出入りは自由ではあるが、意外にも蚊は少ない。ブンブンと油の切れた音のする小さな扇風機がある。電気はタイからくるので蛍光灯がつく。座ると沈んでいく古いベッドが一つ。 蛇口をひねっても水が出ない。代わりに水瓶が置いてある。この辺は乾季には本当に水がないので苦労すると、接種で出会った家族が言っていたことを思い出した。土地は乾いて、砂埃が舞っている。どこの集落も井戸を掘り、何とか水を確保している。久しぶりに水瓶から水を汲んで体の汗を流した。小さなプラスチック製の手尺で、水を無駄にしないように、ちょろちょろと体に水がつたう感じで、少しずつ大事に大事に水をかけては体の石鹸を落とす。井戸水は思ったより冷たくて気持ちがいい。水の大事さがしみじみ分かる。夜は日中の暑さとは変わって、涼しい空気が漂う。夜は眠れそうだ。 夕飯は民家の軒先で、作ってもらったものをみんなで食べた。炭火で炊いた白いご飯がおいしい。鍋底のこびり付いたおこげをお菓子のように楽しんで食べる。七輪であぶったお餅のように香ばしい。しょっぱい魚の干物とスイカが出た。これを一緒に食べるのがこちらの人の食べ方だという。確かにおいしい。夜空の下で食べる夕餉、平和なひと時である。明日もがんばりましょう。 |