んだんだ劇場2007年5月号 vol.101
遠田耕平

No70  癒しのカンボジア

カンボジアのお正月とヒンズー教
 今年は本当に雨が降らない。例年のことではあるが、カンボジアの正月(クメール正月)が近づくに連れて、暑さはピークになる。プールの水もぬるい温泉のようになって、軽く泳いでいるつもりなのに暑さのせいで体がだるく重く沈んでいく。暑さをこうも感じるのは年のせいかもしれないのだが、やっぱり暑い。多くのカンボジア在住の外国人同様、過去3回の正月は短い休暇を取って、ベトナムやラオスに逃げていたのであるが、今年は出遅れた。こうなったら何もしないでだらだらと人の居なくなったプノンペンで正月を過ごしてやろうと決めたのである。
 カンボジアのお正月は4月8日の日本で言ういわゆる「花祭り(潅仏会かんぶつえ)」とほぼ同じ日ごろだからお釈迦様の誕生日なんだろうと勝手に思っていたのだが、花祭りは仏教が日本に伝わった時に定着した日本の儀式で、どうやらカンボジアの正月とは無縁らしい。先月号に嘘を書いてしまった。
 こっちではお釈迦様の誕生日は5月1日となっているようでカンボジアのお正月とは関係がない。学識高いあのカンボジア語のセタ先生がにやりと笑って、はっきり違うという。セタ先生によると、陰暦の1月1日は太陽暦の11−12月頃になり、農繁期とぶつかる。そこで12世紀のアンコールトムの建築で有名なジャヤバルマン7世の治世時に5ヶ月ずらしたせいで太陽暦の4月頃になったというのである。本当らしく聞こえるが、真偽のほどは確かめていない。
 プノンペンの街のあちらこちらに「豚に乗った天女」の絵が掲げられているので、カンボジアの天女(アプサラ)にしてはなんとも滑稽だ。笑ってしまいますねと、セタ先生に言ったら、またにやりとして、「これこそ大事な話なのです。」という。どうやらヒンズー教の神話からきているらしい。え、仏教国なのに?以前にもお話したかもしれないが、アンコールワット寺院がヒンズーの寺院であるように、カンボジアはもともと長い年月ヒンズー教の国だったのである。その後仏教が入り、12世紀になってアンコールトムの仏教寺院を建築するのである。
 話はこうである。ヒンズーの3大神の一つブラフマーが、人間界で知恵があって大衆から人気のある子供が現れて人心を乱していると聞く。(どうやらこれがお釈迦様らしい。)そこで知恵比べをすることにして、負けた者が、自ら頭を切り落とす事にした。ブラフマーは見事に賭けに負け、約束どおり前後左右にある自分の四面顔の頭を自ら切り落とした。ブラフマーには7人の娘が居て、ブラフマーの遺言で毎年新年になると娘の一人が雲の上から下りてきて人間界を守ってあげるのだそうだ。カンボジアの人々はこれを祝う。これこそ仏教がヒンズー教に敬意を表している証拠だとセタ先生はおっしゃられる。
 今年は4月14日の12時48分に、ブラフマーの娘が今年の十二支にちなんで豚に乗って雲の上から下りてくるのである。(日本ではイノシシであるが、アジアでは豚が普通である。)降りてくる時間まで正確に知らされているから凄い。除夜の鐘のようなものなのかもしれない。するとみんなで「チューンポー、チョールチュナム、トメイ(新年おめでとう)」を連発するのである。
 「ふーーん」と思っていたら、突然インドで一緒に働いた友人のカウシック先生から「新年おめでとう」という電子メールが飛び込んできた。これには驚いた。彼はベンガルの出身(カルカッタ、現在のコルカタ)で、インドの中でも独特な文化を持っているが、それでも生粋のヒンズー教徒だ。冗談だろうと訊くと、4月15日がヒンズーの正月だという。またまた分からなくなった。僕は3年ほどインドに住んでいたが、インド人がこの日をお祝いしているのを見たことがない。
 手元にあったヒンズーの暦を開けてみてまた驚いた。チャイトラ月(太陽暦の3−4月)の第一日が「グディーパドゥワー」と言うヒンズー歴の新年だと書いてある。まさに4月の中ごろである。やっぱり本当なんだ。それにしても、わからない。インド人は誰もヒンズーの新年をとりわけ祝う事はしないし、仏教の大事な新年だとは毛頭考えていない。カウシックに聞くと、「ヒンズー教ではブッダもヴィシュヌの化身なんだから、そんな話もありだろう。」という。本当かな?
 ヒンズー教の3大神は宇宙の創造を司るブラフマー、宇宙の維持を司るヴィシュヌと宇宙の破壊を司るシヴァという事になっている。特に慈悲深いことで多くの信者を集めるビシュヌ神はラーマ、クリシュナ、ブッダなどの10の化身なって、世界が危機に瀕すると救済に来るという。確かにヒンズー教ではお釈迦様はヴィシュヌの化身に過ぎないようだ。
 ふと、キリスト教とイスラム教の関係を考えた。キリスト教もイスラム教も同じ旧約聖書を原典として、同じ地域に発祥し、同じように救世主を待望し、その後は独自の思想を展開した。それと似て、ヒンズー教も仏教も同じ地域に始まり、原始ヒンズー教の土壌に仏教が育ち、様々に形を変えて広がった点ではどこか似ているようにも感じる。ただ、キリスト教とイスラム教が厳しい環境の中で対立する思想として育っていったのに対して、ヒンズー教と仏教は、比較的対立関係が少なく、様々に融合し、共通の部分を持って発展していった点で随分と違うように見える。僕はこれをとてもアジア的だと感じるのだが、
どうだろう?
 4月のこの日を新年として祝う国は保守的な上座部(小乗)仏教の流れを汲むミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスなど東南アジアの仏教国である。これらの国の中に今もヒンズーの色濃い流れがあることだけはどうやら確からしい。それにしてもカンボジアの新年とヒンズーの新年の日時が極めて類似している理由は素人の僕には未だに判然としないままである。

カンボジアの孤児院
 寝て過ごそうと思っていた正月であるが、顔見知りのシニアボランティアの方が、プノンペン近郊の孤児院で働いているというので、少しだけ見せてもらう事にした。正月に手ぶらと言うのもかっこ悪いので、お手伝いのリエップさんに頼んで、パンやキャンディーをいっぱい買ってきてもらって持っていったが、それでもどうも、ばつが悪い。ただ見せてもらうというはどうも気が引けるものである。ただ、行ってしまったからどうにももうしょうがない。僕は勿論大金を寄付できるような慈善家でもないし、さりとて労働で何かをしてあげられるわけでもない。何も出来ず、何もしていないのである。
 ただ、僕の家の前に居たストリートの子供達、道でたまにすれ違うその子供たち、施設に収用されている子供たちも、されていない子供たちもなぜか気になるのである。その気になるという厄介な気持ちに押されて足を運んだ。気になるだけなんだから始末が悪い。でも気持ちが動くから仕方がない。
 この孤児院には3−4歳から20歳くらいまでの男女が120人余り一緒に生活をしている。院長はサカダさんという眉間に皺を寄せる小太りの50半ばのカンボジアの女性で、私財を投じて、10年ほど前から子供達の面倒を見ているという。資金は香港のキリスト教系の宗教団体から援助を受けていているということで、サカダさんもその宗教団体の一員らしい。
 院長が個人的にその団体とどのように関わっているかは知らないが、120人の子供達を食べさせていかないとなれば、宗教団体であろうが、なんであろうが、資金源を探すだろうということは実感できる。宗教団体がどのように子供達と関わっているかはよく見えないが、ここのいいところは子供達が明るく、施設そのものが開放的であることである。郊外の田舎にあるということもあるが、回りも子供達ものんびりしている。
 畑がいくつも敷地内にあり、野菜を自給自足している。豚も飼育している。40人ほどのスタッフがその世話もしている。スタッフには近所の農家のおじさんもおばさんも混じっているらしいが、中にはこの施設に10年前からいて、高校を卒業し、そのままここに居着いた若者が半分くらいいる。働き先がないのである。その若者達が優しく子供達の面倒を見るさまはとても微笑ましい。でも、この若者たちの将来はどうなるのかなと思うとまた見えなくなる。施設の子供達は普段は近所の小学校と中、高等学校に通っている。
 それにしても福祉省に登録されているのに、政府からは一銭も資金援助がないというのも不思議だ。ポルポトの悲劇から四半世紀が経った今でも福祉には国からの援助の手は全くなく、外国の援助にただ任せている。政府高官たちは高級車に乗り、土地の投機に血なまこになっている。何かおかしいね。
 そのスタッフのお兄さんお姉さん達が、僕のもっていったパンとお菓子を上手に分けて配ってくれた。手馴れたものだ。炎天下では、子供達が男女混じって輪を作り、お正月の遊びを始めた。男女が手をつなぐ遊びはカンボジアではお正月の時くらいである。時折大きな歓声が起こり、年長の子供から小さな子供まで輪になって上手に遊んでいる。さすがに遊び慣れている。
 炊事場では豚を一頭潰して、正月のお昼のご馳走の準備をしている。遊び飽きた頃に待ちに待ったお昼の鐘が鳴る。みんな手を洗い、両手を合わせて、クメールの挨拶をして、7−8人ごとに小さな丸テ−ブルを囲んで木の椅子に座る。年長の子供と小さな子供が上手に混じって座り、年上の子供が下の子供達に野菜やお肉やご飯を上手に配る。大きなプラスチックのスプーンが上手に使えない小さな子供たちは食べるのに苦労している。スタッフがそれを時折助けてやる。
 セーラーさんはこの施設の出身で、今はサカダ院長の右腕になっているという青年だ。彼が、いろいろと子供達の事情を教えてくれた。両親がAIDSで亡くなり孤児なった兄弟や姉妹、両親が死に、姉が工場で働きながら弟達の面倒を見てきたがどうにも面倒見切れなくなって紹介されたという弟たち、母親が父親を殺して投獄されて、残された姉妹、父親が姉をレイプし投獄されて、残された弟たち。道路に置き去りにされて警察に保護された男の子……。
 子供達の悲しい過去はまるで底なしの沼のようだ。HIVの検査をして陽性の子供は別の施設に送るという。保護の要請のあった子供達も、本当に面倒を見る親族がいないかを良く調べた上で入所を決めるという。
 子供達の世話をよくしていた優しい顔のお兄さんスタッフが、遅れた昼食を取りながら所長と子供達と一緒に街のレストランに食べに行った時の話を笑いながら話している。よく聞くと、そのレストランで、つい食べ終わったお皿を自分で立って片付けてしまい、店の人から笑われて本当に恥ずかしかったという。食べ終わったテーブルのお皿を片付けるという施設の癖が出てしまったのだ。だから外に食べに行く時は「ここでは自分で片付けなくていいんだ。」と、何度も自分に言い聞かせるので、かえって疲れると、笑いながら話す。僕も一緒に大笑いした。笑いながら涙が流れて困った。
 何で涙が出るんだろう。それは多分、心の中で他人事だとは思っていないからだ。自分はたまたま彼らのような厳しい境遇にいないけど、それは本当にたまたまのことなんだと感じている。あの子は僕だったかもしれないし、彼らも僕だったかもしれない。彼らは一人として自らその境遇を選んだわけではなく、たまたまそうなった。僕もたまたまここにいるだけなんだ。そう思うと彼らの存在は自然に他人事ではなくなる。「たまたま」は本当に不思議なのである。僕ら人間の境遇の違いは本当に「たまたま」でしかないのである。
 大工の腕でもあったら古くなった貧相な子供達の宿舎をもう少しまともに直せるだろうな思うが、僕は本当に子供達の役に立たない。でもこの夏に保健省が少しだけいい事をする。全国の孤児院の子供たちを対象に特別な予防接種を行う予定だ。孤児たちのほとんどが様々な理由で一歳以下の定期予防接種を受けていない。そこで特別措置を取って、全ての孤児に予防接種の機会をあげようという計画だ。2年がかりでやっと実現しそうだ。

身体障害医師、田舎に行く
 先々週号に、僕の後輩の研修医で、往診中に車を追突され、頚椎を損傷し、手術をした女医さんの話を覚えている読者もいるかもしれない。手術後、左の手足に麻痺が残った。それでも何とか病院に復帰を図ったが、病院の管理部は「普通に動けない医者は要らないから辞めてくれ。」と言ったらしい。ショックで食べられず、眠れなくなった。その彼女から「もうカンボジアに行くしか治す方法がなくなった。」と泣く泣く連絡が来た。本当にカンボジアで治るのかな?フラフラしながらやってきた彼女は毎日マンゴとカンボジアのお米を食べて、少しずつ元気になっていった。大量に飲んでいた睡眠薬も飲まずに眠れるようになった。このクソ暑いカンボジアのどこがいいのか分からないが、いつもの彼女の穏やかな表情が戻ってきた。
 「それならいっその事、田舎で暮らしてみたらどうだ。カンボジアの人の家で一緒に生活したらいいぞ。」と無責任にも友達に頼んで、プノンペンから車で4時間かかるメコンの向こう側の小さな町でホームステイさせてもらう事になった。ここに載せるのは、食べて、寝て、カンボジアの優しい田舎の人に支えられて、日に日に元気になっていった彼女の小さな日記です。彼女は今またしっかり自分の足で歩いています。病院のためでなく、自分と彼女が大好きな子供達のために。本当にカンボジアが彼女を治してしまいました。「クソ暑いカンボジア有難う!」
3月27日 Svay Riengより
プノンペンから車で3時間程、ベトナム国境付近のスヴァイリエンへ来ています。マンゴーの林という名前の州です。しばらく、いなかで暮らしてみようと思います。ここで活動しているNGOのスタッフで私と同い年のクンティアさんの家へ泊めてもらうことになりました。クンティアさんはお母さんと、ラビさんというお手伝いさんと3人暮らし。日中、彼女が仕事に行っている間はお母さんとラビさんと過ごします。なんにもすることのない、完全なクメール語の世界です。

3月28日 寝て、起きて、食べて・・・
暑い、です。日の出とともに起きて、山盛りごはんをまじめに食べ、こつこつ水浴びして、ちゃんとお昼寝もして、また食べて、日が暮れたら軒先で夕涼みして、蚊帳で寝る、のくり返しです。時々お母さんとラビさんと顔を見合わせては、「クダウナッ(暑いね)」と力なく笑い合います。少し体を動かすだけでどっと汗がにじんでくるので、自分に何匹はえが止まっていても、だんだん払う気がなくなってきました。じっとり汗ばんだ足の甲からありんこが次から次へと這い上がってくるのを眺めながら、そのうち、頭がくらくらして、手足の筋肉が痛くなってきます。するとその頃合を見計らったかのように、お母さんが水浴びしてきなさいと言います。私はゆっくり立ち上がって水浴びに向かい、そうこうしているうちに次のごはんの時間がやってきて・・・。そんな日々です。それだけです。それでも、暑い一日を無事のりきって、風がふいて日が暮れると、なんだかよかったな、と思えたりもします。

3月29日 水のはなし
この家では、雨水を貯めて使っているそうです。家の一番奥にある大きな水槽に数十センチ貯まっている水を(実際にはほぼお湯なのですが)パイプでトイレや台所に引いています。バケツで直接汲むこともあります。ラビさんが食器を洗ったりお洗濯をする時の、水の使い方は見事です。食器はきれいなものから洗う。少し汚れたお皿をすすぐのに、きれいなお皿を洗った水を使う。洗面器1杯分の水を、捨てずに3〜4回使います。全部のお皿が「均等なきれいさ」になったところで、新しい水でまとめてすすぎをして、さらにそのみずで床を流す。少しも無駄がありません。洗濯もそう。水をはったたらいに洗剤を溶かしたら、まずはシャツやタオルなどの比較的きれいなものを洗い、水が真っ黒になるころに泥のついたズボンを洗って、またきれいな順にすすぐ。最後に洗濯ブラシで自分の足をすみずみまで磨いて、すすぎに使った水で足と床を同時に流す。何より何がきれいかという感覚が、私にも少し芽生えてきたような気がします。

3月30日 おばちゃんたち
日中、知らないおばちゃんが絶え間なくやってきます。5〜6人集まると、そのおしゃべりはものすごい盛り上がり様。とにかくみな笑い続けます。そして、そこにいる私にも容赦なく話しをふってきます。もちろん、話の内容はわかるはずもありません。そんな時には、ここぞというタイミングで「チャー(Yes)」か、「バーン(O.K.)」か、「オッパニャハー(No problem)」です。それが話の流れにあっていると、おばちゃんたちは「おー、この娘わかってるよ」といって笑い、まったくはずれているとそれはそれで「わかってないねえ」とさらに笑うのでした。なにがおかしいのかもよくわからないまま、気がつくと一緒になってお腹の底から笑っているひとときです。

3月31日 不思議なこと
ごみばこが、ありません。ごみをどうしているのか見ていたら、家の軒先に捨てています。なんでも。家の前のごみはその後どうなるのでしょうか。ある朝、7時頃には、そこには何もありませんでした。別な朝、6時前にラビさんが、ごみを袋につめて軒先をきれいに掃き、袋を道路の手前に置くのを目撃しました。ちょっと目を離したすきにその袋はすでにどこかへ消えていました。そのうち、行き先をつきとめたいと思っています。
冷蔵庫が、ありません。かわりに不思議な戸棚があります。薄暗い台所にあるその食器棚には、ガラスの引き戸がついていて、その中に、なんでもしまいます。使い切らなかった生肉、食べ残したおかず、洗ったお皿。たしかにはえや蟻は、その中にはいないようです。それにしても・・・炎天下の市場で時には変色しかかった肉を、買ったあとも袋に入れてぶらさげたまま井戸端会議をしたりして、帰って塩とにんにくでもんだあと魔法の戸棚にしまってしまう。昨日の朝のおかずもその棚からだしてまた食べる。誰もおなかを壊さないのはなぜなのでしょう。少なくとも今のところ、ですが。

4月1日 仙草ゼリーと少年
いつものコーヒー屋さんでコーヒーを飲みながら、斜向かいの仙草ゼリー屋さんの様子を眺めていました。大きなボールにたっぷりの黒いゼリー。ゼリーも黒いけれど、覆いかぶさるようにとまっているはえの群集もまた黒い。そこへ少年がやってきました。腰の曲がったゼリー屋のおばあさんが少年からお金を受け取り、おわんにゼリーをよそっています。さらに、何かを渡しました。見るとそれは木の棒の先に黒いごみ袋を結びつけたはえ払い。自分ではえをよけながら、食べなさいということのようです。少年は、黙って片手にゼリーのおわん、もう一方にはえ払いをもって、ゼリーをすすりはじめました。大人びた顔の、6〜7歳の少年でした。

4月12日 ワットラーくんの散髪
プサー(市場)からの帰り道、おむかいのワットラーくんとそのお母さんに会いました。バイクに乗ってどこかへむかっているようす。二人ともおめかししています。どこ行くの?と聞くと、「〜〜パゴダ〜〜〜」という答え。パゴダ(お寺)へ行くわけではないようですが行き先はよくわかりません。とにかくいってらっしゃい!と手を振ろうとした時、お母さんが「いいから乗って乗って。」と。そうして3人乗りで向かった先は、床屋さんでした。パゴダへお参りに行くため、散髪にきたようです。あっさりした茅葺き屋根の下に背の高い椅子と大きな鏡。おでこの禿げ上がった床屋のおじさんが忙しくはさみを動かしています。同じ目的の村人たちがやってくるのでしょう。混んでいます。順番がくると、ワットラーくんは嫌がることもなくその高い椅子によじのぼってひじかけをしっかり握り、きっと口を結んで鏡の中の自分の姿を見つめていました。お母さんと私は炎天下でサトウキビジュースを飲みつつ、お腹すいたねなどといいながら散髪が終わるのを待ってまた3人乗りで家へ帰りました。

4月13日 屋台の晩ごはん
ラビさんが実家へ帰っているので、屋台で晩ご飯を食べました。クンティアさんがてきぱきと注文し運ばれてきたものを、日中の暑さで疲れきった私は無抵抗に食べるのみ。ほとんど何も見えない暗がりの中、それが肉なのか、魚なのか、爬虫類なのか昆虫なのかもわらないまま、食べます。味は悪くないけれど、なんだかはじめての歯ごたえのものもありました。見えていたら食べないようなものだったのかもしれません。川沿いの広場に並んだプラスチックの椅子とテーブルでぽたぽたと汗をかきながらその何かを食べ終えて顔を上げると、川から吹いてくる生ぬるい夜風が頬にあたりました。
4月14日 眠れぬ夜
びっしょり汗をかいて、夜中に目が覚めました。体が熱く、頭がもうろうとしています。とにかく水で冷やそう、と蚊帳をでました。トイレにある瓶の水で水浴びするためには、20メートル程、真っ暗な台所を進まなければなりません。暗闇の中を何かが駆け回る足音がします。踏んだり、噛まれたりしたら嫌だなとさらに汗をかきながらそろそろと足を進め、おそるおそる電気のスイッチを押すと・・・でっぷり太った30cmほどのねずみが2匹、あしもとを駆け抜けていきました。水浴びして、電気を消してまたそろそろと蚊帳に戻ると、今度は耳元でぶーんと蚊の飛ぶ音。眠れぬ夜は続きます。

4月15日 お正月
正装(きつくて、暑い)して、四段重ねの重箱に詰めたごちそうを持って、パゴダへ行きました。各家庭から、ごちそうとお供え物を献上した後、お線香のもくもくの煙の中、村人みんなでうんざりしながら長い長いお経を聞きました。子どもたちはお堂を出たり入ったりせわしなく駆け回り、大人たちは、遠くに知り合いを見つけては目を合わせてきゃっきゃら笑ったり、携帯電話で話しはじめたり。それでもきらびやかに飾り付けられたその空間にどことなく神聖な雰囲気がないわけではなく、うずまく熱気といろんな食べ物の混ざった匂いの中で、気付くとすーっと涙が頬を伝っていました。そして、自分を支えてくれている人たちの顔がじゅんぐり頭に浮かんできました。献上したごちそうは若いお坊さんたちが一口ずつ味見したあと、家へ持ち帰って食べます。一番上の段は、ランブータンでした。

4月16日 再びパゴダへ
朝起きると、テレビの前のお供えの果物が何者かに食い荒され、半分程に減っています。クンティアさんが涼しい顔で床に散らばった皮や食べかけのバナナを掃き、残った果物を盛り直しました。今日もパゴダへ行くそうです。お正月に帰ってきていた霊を見送るのだと言っていました。あの服はもう二度と着たくない、と思った私は彼女に、おそるおそる「ふだん着のまま行ってもいい?」と聞いてみました。が、間髪入れずに帰ってきた答えは「ノー」。しぶしぶまた正装して、ごちそうを持って、もうもうと立ち込める土煙に目を細めながら、乾いた赤土の道をパゴダへ向かいました。


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