んだんだ劇場2007年9月号 vol.105
遠田耕平

No74 夏休み三題

僕のチャリンコ
 僕の秋田の家には愛用の古いチャリンコがある。チャリンコといってもママチャリではなく、一応マウンテンバイクである。このバイクは十数年前にベトナムから日本に戻った時に友人の自転車屋で買って、3人の子供たちと秋田市から田沢湖までの往復160km以上を一緒に走った思い出がある。当時小学生だった子供たちが、夏休みの課題を何かしないとダメだという。日本の小学校の課題に不慣れな子供たちを見かねて、自転車の挑戦で一気に3人分を片付けようとたくらんだのである。思えば、高学年とはいっても、小学生の子供たちにはなんとも無謀な計画だったのかもしれない。でも当時ベトナム帰りのわが家族には日本の舗装道路は夢のようにきれいで、自転車さえあればどこまでも走っていけそうに親子ともども錯覚したのである。
 バカな親子であったが、結果は田沢湖で一泊し、女房に車で伴走してもらって、何とか全員完走した。あれから十数年経った今、夏と冬に日本に帰るたびに僕は秋田から田沢湖までチャリンコではなく、車で走っている。ところで最近は広域農道という素晴らしい道ができて、車の多い国道を離れ、田園の中の森や川を真直ぐに突き抜けて走っている。もともとは読んで字の如く、農家のための道路整備であるが、一般人も使える。車で走りながら、今度の夏はここを自転車で走ってやろうと、何の理由もなくこの一年間カンボジアで考えていた。
 秋田に帰り、早速チャリンコの錆を取り、チェーンに油をさして、少しひびの入った太いマウンテンバイクのタイヤに一杯の空気を入れて準備をした。翌朝6時、一人起きて、着替えとパン、チョコレート、飴、スポーツドリンクを一杯リュックに詰めて背負い、バイクにまたがって颯爽と田沢湖に向かって家を出発した。リュックが意外に重い。天気予報では曇りだったのであるが、すぐに小雨が振り出した。体が濡れていく。漕ぐと汗をかくので寒さはそれほど気にならないが、着ているものが水を吸って重い。リュックも濡れてさらに重くなる。雨具を忘れたと気がついたが遅い。上りの坂道がやたらと目の前に現れる。やっとひとつを上り切っても、下るとすぐにまた上り。こんなに起伏が激しかったとは車を運転している時は少しも気がつかなかった。雨脚がさらに強くなる。大型トラックが時折後ろから迫っては追い越していく。追い越されるたびにタイヤの水しぶきが飛んでくる。どうせビショビショだからいいのであるが、景色どころじゃない。ただひたすらペダルを踏んでいる。田んぼや森の匂いは雨のせいでなんだか水臭いし、雨宿りしている鳥の声は雨に煙る林の向こうだ。どうも想像していた田園を颯爽と走る姿とは違うが、仕方がない。
 3時間かけて60kmを走り、やっと角館に着いた。その頃には雨も止み、武家屋敷の通りには東北の夏祭りを見るついでに角館に寄った観光客が三々五々歩いている。友人の経営しているレストランで一休み。ここから田沢湖までは上りが20km以上続く。田沢湖高原で一泊するつもりだったが、着替えは濡れているし、翌日の帰りの距離を考えると不安になった。まだ足は痛くないし、今が引き際かなと判断し、今回は秋田に戻ることにした。僕も大人になったものである。
 昼食をご馳走になり、元気を取り戻して秋田を目指し再び自転車で走り始めた。ところが向かい風でどうもペースが上がらない。帰りは緩い下りが多いと思っていたのは大間違い。山を突き抜けて走る広域農道は再び容赦のない上り下りの連続。長い上りを立ち漕ぎで何とか登りきろうとしたその時だった。右の太ももが痙攣し出したので自転車を降りたその瞬間、太ももがつった。しかも、両脚の太ももがつったのである。自転車のハンドルを持ったまま道路脇の雑草の中にひっくり返った。民家もないし、時たま通る車も、(変な自転車野郎が、ひっくり返って休んでいるわ、迷惑ね。)と言うように通り過ぎていく。しばらく空を見ながら引きつる筋肉の痛みが和らぐのを待った。何とか立ち上がって、それからは上りを足を引きずりながら自転車を引っぱって上がり、坂の下りだけは自転車にまたがって走った。そんなことを繰り返して、秋田市に着いたのは角館の出発から4時間も過ぎた夕暮れ。
 自転車と足を引きずってやっと家に着くと、「田沢湖で泊りじゃなかったの?」と女房も息子もキョトンとした顔をしている。僕は「予定を変更したんだ。」と返事をしたものの、実は両脚の太ももがつったというショックにかなり打ちひしがれている。横には泥だらけのチャリンコ。田園の中でこのボロ自転車を横に、パチリとこの夏最高の写真を撮る予定だったが、一枚の写真も撮れなかった。でもこいつは知っているんだよなと思う。こいつだけがあの道を走った僕を知っているんだなと思ったら、古いボロ自転車がなんだか無性にいとおしいくなった。やっぱり自転車はいい。

検査はほんとうに大変
 太ももがつったからというわけではないが、大学病院で働く同級生に頼んで検診をやった。実はマニラに居る長年の同僚が最近、直腸癌で緊急手術をした。本人は外科の専門医までやった男だが、自分の下血をずっと痔だと思っていたというから、医者の自覚なんてそんなものなのかもしれない。50を過ぎて医者の不養生が少し心配になったのである。
 血液の検査をすると、消化管系で気になる値が一つだけ出てしまった。内視鏡をやるか?という話になり、「それなら上と下から一度に突っ込んでくれ。」と、無理な頼みをした。同級生は消化器内科の先生たちに何とか頼み込んでくれて一日で済ます予約を入れてくれた。その日だけ我慢すればいいのかと思っていたが、甘かった。
 前日に低残渣食という1000カロリー程度のお粥と汁物を朝から食べ、夜は水のようなスープだけ。はじめは一日絶食してもどうって事はないと高をくくっていたが、だんだんつらくなってきた。食べれないと思うと余計食べたくなるものである。女房は気を使って台所の隅で何かを食べているが、そんなことをされると余計に気になる。気を紛らわそうとテレビをつけると料理番組だ。馬鹿野郎と思ってチャンネルを変えるとまたグルメの旅とか食べ物の番組ばかり。日本人はみんな食べ物のことしか考えていないのかと腹が立ってくる。気を紛らわそうと、庭仕事を手伝ったり、泳いだりしてみたが、空腹感はさらにひどくなり、とうとう眩暈がしてきた。最後のとどめは就寝前に飲む小瓶の下剤である。やっと空腹から開放されて寝入ったところで目が覚めて暗闇をトイレに走った。
 翌朝は絶食で水分も取らずに胃カメラに行った。医者は小一時間遅れてきて、「夏休み体制ですみません。」と一言。胃カメラは研修医の時に一度患者さんの痛みを知ろうと、自分たちの練習も兼ねて同僚の研修医同士で飲みっこした事がある。あの苦しさは飲んだことのある読者にはわかるだろう。今日も同じだ。肩の力を抜いてくださいと言われるが、苦しいのだから肩に力が入るのはどうにもならない。ファイバーが喉の奥を押す度にゲーゲーとなる。胃の中でそのファイバーが反転すると吐き気は極地に達する。やっと検査が終わると、「画像がきれいになって進歩したでしょ。」と映像を見せてくれた。25年前と検査を受ける側の苦しさは何も変わらない。何が進歩だ、ふざけんなと言いそうになって、ありがとうとお礼を言った。
 痺れた口のまま、内科の受付に戻ると、「これ、飲んでください。」と、2リットルの下剤の入った大きなプラスチックの袋をポンと渡された。いくらスポーツドリンクのような味付けになっているからといっても2リットルを飲むのは大変だ。しかも下剤である。隣で背中の曲がった小柄なおばあちゃんがこの下剤を紙コップに移しては少しずつ少しずつ一所懸命に飲んでいる。この小学生のような体のおばあちゃんと僕の量が同じかよと、気の毒な気持ちになった。それにしても当たり前のように機械的に下剤をポイと手渡す若い看護婦にも腹が立つ。僕は一時間かけて何とか飲み干したのであるが、それからが大変だ。2時間トイレに通い詰めである。体はもうフラフラ。ふとそのおばあちゃんを見ると、家族の人に付き添われて何度も何度もトイレに通っている。検査の前に逝っちゃうんじゃないかと心配になった。個人の体重や便通の程度を加味した処方というのはないのだろうか?ここまでしないと検査ができないのか?検査をする側はこの大変さがわかっているのかな?ここでも検査を受ける側の苦労は25年前と何も変わっていない。
 またもや検査室の前で小一時間待たされてから、お尻から太いファイバーを突っ込まれた。垂れ流しのような感覚に苛まれつつ、ファイバーは進んでいるらしい。大腸の曲がり角を越えるためにお腹の上から手で押さえたり、体を右を向けたり、左を向けたりするのであるが、お尻から棒を突っ込まれたまま動くのはなかなか容易ではない。やっと終わって、例の綺麗な画像を見せられたが、頭が朦朧としていてよく覚えていない。とにかく上も下も問題はなかったようだ。「この検査は何年に一度かはやったほうがいいのですかね。」と、もう10年位はやらないでもいいですよという答えを期待して聞いてみた。すると、あっさり、「できたら毎年やってください。」と言う。ほんとうにふざけんな、お前がやってみろ、と言いそうになって、ありがとうとまたお礼を言った。患者はほんとうに大変だ。

世界競泳
 カンボジアに戻る前日の2日間、この夏休みで一番楽しみにしていたイベント、世界競泳の前半戦を千葉で観戦した。長男の狭いアパートに何日も泊まりこんで、水泳を観戦している親父もこの世には居るらしい。世界のトップスイマーの泳ぎをこの目で見るのは初めてだ。初日にあまりに感動し、興奮した親父はとうとう翌日には長男と甥っ子も呼びつけて一緒に観戦した。
 観客席からは水泳はよく見えないだろうと勝手に思い込んでいたが、実は観客席から泳ぎはよく見えるのである。テレビではわからない、手の入り方、足のキック、体の曲がり、首の動きまで一人一人の泳ぎの癖がはっきりと見える。ウォームアップ、クールダウンの練習もゆっくり見れたのであるが、イエローキャップのオーストラリアチームの泳ぎが印象的だった。大きいストロークと強い安定したキックで体のブレがどの選手もない。何か特別な練習をしているように見える。キックをする足元で、水しぶきが立つのではなく小さな泡のようになった水が膨れ上がっていく。まるで船のスクリューのようだ。
 アメリカがトップの連中を連れてこなかったのは残念だが、オーストラリアからは、長距離界の伝説的スイマー、グラントハケットや短距離女子のホープレントンが来た。ポーランド、ジンバブエ、南アフリカからもいいスイマーが来ている。その中でもやはり北島康介の泳ぎは周りとはまったく違っていた。飛び込んで浮上してくるときにすでに体半分をリードしている。北島のキックの速さははっきり他の選手と違う。両脚が引き付けられて蹴りだす瞬間のスピードが違うのである。どうやってあんな動きができるのかわからないが、キックは大事らしい。ひたすら感心していると隣で見ていた息子に「世界記録を出せる選手の違いは目で見てわかるものだよ、パパ。」と諭された。陸上でも同じらしい。
 残念だったのは、日本選手だけを応援するわざとらしい会場の演出。世界大会と銘打ちながら日本の国旗を振り回し、メガホンで応援するアルバイトたちを雇う。日本の選手だけを日本語で長々と紹介し、日本の選手が入賞したときだけインタビューする。こんなことをさせる日本水連にも呆れるが、見に来ている子供たちも自分の所属するスイミングクラブの選手だけを応援している。コーチも親も悪い。もちろん僕も日本人選手を応援するし、日本人選手が負ける時は残念である。しかし、がんばって競り勝った選手にはどこの国の出身であれ、惜しみない拍手と賛辞を送りたい。それだけのことだ。世界のレベルとの違いを目の前で見ることがいい。いずれにせよ、生まれて初めて目の前で見た世界のトップアスリートの姿は僕に全く新しいイメージを与えてくれた。

 興奮冷めやらぬまま、プノンペンに戻り、また暑苦しいプノンペンの日常に復帰する。お手伝いさんも運転手もガードマンたちもみんな元気でいてくれた。何より愛犬は長い留守をじっと僕の帰りを待っていた。何の変わりばえもしないこっちでの僕の日常が嬉しい。そういえば水泳はこっちでの僕の日常だったな。長い休みの後で頭と体の社会復帰はそう簡単にできないが、尊敬するカンボジアの人たちに見習ってぼちぼちいきましょう。


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