んだんだ劇場2007年10月号 vol.106
遠田耕平

No75 新生児破傷風を追いかけて村を行く

新生児破傷風
 僕が最近凝っているものがある。とは言ってもまた水泳や自転車の話ではない。一応仕事である。仕事であるが、仕事と趣味の境のはっきりしない僕にとってはどちらでもいい。以前にこの紙面でも何度かお話した新生児破傷風である。
 新生児破傷風は、生まれて間もない赤ちゃんが数日でおっぱいを吸えなくなり、痙攣が始まっていく病気だ。痙攣が始まると多くの赤ちゃんは1ヶ月以内に死亡する。原因はへその緒から入り込むばい菌である。このばい菌は動物の糞や土の中にいて、傷口から入り込むと人に感染する。生まれたての赤ちゃんにある傷口はへその緒の切り口である。
 このへその緒を切るときに汚い竹べらや錆びた鋏などで切るとばい菌は入り込む。さらに、へその緒をきれいに切ったとしても、その後で切り口に灰を塗ったり、蜂の巣を付けたり、牛の糞を塗ったりする習慣のあるところがある。すると、やはりばい菌は入り込む。
 この病気を治療する方法は限られている。このばい菌が作る毒素が全身に回るので、毒素をわずかに解毒するか、消えていくのを痙攣を抑えながら待つしかない。しかし予防する方法がある。母親が妊娠中に破傷風ワクチンの接種を2回受けると、免疫が母親にできる。同時にこの免疫抗体は胎盤を通って、胎児にも移行し、生まれる時にすでに赤ちゃんがこのばい菌に対する抵抗力を持つことができるのである。 
 実はもう一つ予防する方法がある。賢いわが読者の方はすでにお判りだろう。そう、清潔である。へそ緒を清潔に切って、その後ばい菌が入らないようにきれいな布で包んで清潔に処置すればいいのである。日本は清潔な分娩と処置を普及することで、この病気を克服した。
 母親にも赤ちゃんにも関わるこの病気の対策はユニセフの長年のお気に入りである。乳幼児への予防接種の普及はWHOの十八番である。しかし、お母さんへの予防接種は私たちの仕事ですとユニセフはがんばった。ワクチンも10円程度と安い。ここ15年余り、インド、アフリカ、中東、アジアと, 世界の途上国で妊婦、さらに妊娠可能な15-45歳までの年齢全ての女性に破傷風ワクチンをやるぞと鼻息荒く進めてきた。
 破傷ワクチンは残念ながら一回の接種では効かない。2回では3年しか効果がない。3回で5年、4回で10年、5回で20年から30年は程度は大丈夫だろうといわれている。これが生涯に何度も出産をする女性の出産時の有効度の判定を複雑にしている。さらに、生まれたばかりの赤ちゃんが数日から数週で亡くなったという報告は、自宅でお産婆さんの介助でお産をすることがほとんどの途上国ではなかなか行政側には届かない。
 どうも実態がはっきりしないのであるが、ユニセフは「来年2008年でカンボジアはほとんど新生児破傷風の赤ちゃんが無くなったことにしましょう。」と無理なことを言う。「一例一例赤ちゃんとその母親を追跡して実態を調べたほうがいいよ。」とユニセフに何度も言ってみたのだが、忙しいという。「じゃ、僕が一つ一つ言って調べてみるよ。」というと、保健省の仲間が待っていましたとばかり、一緒に調べて歩くことになった。
 氷山の一角ではあるが、一年に30例〜40例の報告がある。でもこの氷山の一角が大事なのである。やることは実に単純だ。このうちの少しでも多くの例をこの目で村まで行って確かめ、母親と会い、お産婆さんと会い、保健婦と話し、県の衛生局の担当者と、なぜで赤ちゃんが破傷風にかからないとならなかったのか、何とか助けられる方法はないのかを一緒に考えようというのである。単純な話であるが、一軒一軒、一人一人の母親の話が、僕の心に残る話になる。

楽しいあぜ道歩き
 プレイベン県に行った時だ。患者の家はそれほど遠くないというので気楽に出発した。ところが田んぼのど真ん中まで来て、車が通れなくなる。ここからは田んぼのあぜ道を歩くという。周りの水田には人の膝丈ほどに伸びた青い稲が一面に広がる。地平線まで伸びる青い稲の中で視野を遮るのは、真直ぐに空に向かって突き出したパーム椰子の群れと、こんもりと農家を囲む木々の塊だけだ。雲が風に乗って早く動く。雨期の雲がうまく太陽を遮ってくれるのでありがたい。雨さえ降らなければいいであるが…。
裸足であぜ道を歩く
ひたすら歩いた1時間半
 あぜ道はすぐに田んぼからあふれ出した水で途切れる。みんな靴を脱いでズボンの裾を手繰り上げて裸足で歩き始めた。サンダルで来ればよかったと、僕も裸足になる。県の衛生部から来た男は自分の故郷だと行って、すいすいと青い穂の波間を縫ってどんどん先に行ってしまう。水溜りの下は粒の細かい砂地で肌の感触は意外と気持ちがいい。ところどころ膝ほど深くなるので、脚をとれられないよう気をつける。あとは乾いたでこぼこのあぜ道だ。ベトナムでは粘土質の泥で、脚が抜けなくなったことが何度もあった。これじゃ重装備のアメリカ兵が軽装備のベトコンに狙い撃ちされた訳だと納得したことを思い出した。インドではよく牛の糞の中に足を突っ込んだ。こっちではせいぜいアヒルの糞ぐらいなもので楽だ。
 それでもでこぼこのあぜ道を一時間以上も歩くと慣れない足の裏がひりひりと傷んでくる。それにしても、まったくの都会育ちで日本でもあぜ道を歩いたことなどない僕が、カンボジアのあぜ道を裸足で延々と歩いているのだと思うと愉快で笑えてくる。
 一時間半ほど歩いて田んぼの中の一軒家に辿り着いた。ここがその報告があった家だという。よくそれがわかるなと感心するのであるが、彼らにはわかるらしい。家族の人たちがクメールの人らしい素朴な笑顔で迎えてくれた。目の前に居る二十歳そこそこの若い女性がお母さんだ。なんと赤ちゃんは昨夜息を引き取ったという。初めての子供だ。なんと言っていいかわからない。でも、その若い母親は伏目がちにかすかな笑顔を絶やさない。その奥に夫と夫の母親だという姑がいるが、僕らを避け、目を合わせないようにしている。何があったのだろう。
赤ちゃんを亡くした若い母親と夫。(奥で横を向いているのが姑)、後ろの揺り籠には昨夜まで赤ちゃんがいた。
 赤ちゃんは家で生まれたという。お産婆さんを呼びにやったが、何せ遠い。間に合わずに姑が竹べらで切ったという。それから1週間余りして赤ちゃんの様子が変化する。青い色になり、おっぱいを吸えなくなり、痙攣が始まる。プノンペンの小児病院に連れて行って入院させるが、症状は良くならず、10日入院して諦め、家に帰ることにしたという。家に帰って2日目の夜、生後19日で赤ん坊は息を引き取った。少しずつ聞いていく。へその緒はそのお母さんが竹べらを使ったのだけど、危ないと思いお湯で一度洗ったという。切ったあとのへその緒には抗生物質の錠剤を砕いて塗したという。姑としてできるだけをやったのである。
 若いお母さんは注射が怖くて一度も破傷風のワクチンを受けていなかった。妊婦検診ももちろん受けていない。ここの保健所は建物すらまだできていないで、スタッフは村を束ねるコミューンのリーダーの軒先を借りて、仕事をしているという。助産師はいないし、保健所のスタッフが予防接種に村に毎月行くと入っても誰も不便なあぜ道を何キロも歩いて一軒一軒回ったりはしない。この家に居る3人の学童前の子供たちも定期の予防接種をきちんと受けてはいなかった。
 一体誰が悪いのだろう。どうしたらよかったのだろう。もしお産婆さんが一度でもこの若い母親に会ってワクチンのことを教えていてくれていたら…。もしお産婆さんが、間に合わないときのために姑に処置の仕方を教えてくれていたら…。もし保健所のスタッフがお産婆さんと連絡を取って、危ない妊婦がどこにいるかわかっていたら…。
 ユニセフや援助団体は清潔なナイフと消毒薬や石鹸をセットにした出産キットを作って安価に保健所に配り、安価にお産婆さんにお購入させているから大丈夫だという。現実は貧しい農家ではお産婆さんに1ドル払うのが精一杯である。この出産キットを買うにはさらに1ドル近く払わないとならない。お産婆さんも結局は無理を言ってまで買わせないし、使わない。それならなぜ、もっと安く、負担のない値段で貧しい家が買えるようにしないんだろう。援助団体や政府の無駄なお金の使い方から見れば微々たる出費だ。じゃ、保健所で産んだらいいだろうという。でも保健所は5-10ドル以上お金がかかる。これでは貧しい母親が行けるわけもない。さらにひどいところでは余計な点滴や手数料を取られて倍以上のお金を払わされる。それならば、家で産みたいという母親たちの気持ちは男の僕にも実によくわかる。
 新生児破傷風の数は社会の変化、道路の整備、予防接種の普及、お産婆さんの老齢化に伴って確かに減っている。しかし、貧しい人たち、行政のサービスから遠くに置かれている人たちはいつもやっぱり変わらず犠牲になるのである。そして新生児破傷風で亡くなる赤ん坊たちと大事な子を亡くして涙する母親たちは, ここに光が届かない限りいつまでも残り続ける。

カンダール県の2例
 カンダール県の2例を追いかけたときは少し事情が違った。2例のどちらの母親も破傷風ワクチンを注射が怖いからやっていなかったという点は同じだ。でも、どちらも出産は保健所の助産婦が家で介助しているのである。この助産婦は中年のどっしりとした明るいおばちゃんである。もちろん清潔な出産を自宅でしたのであるが、後が悪い。一例はへその緒に台所の灰を塗ったという。もう一例は庭にかかっているボロ布で包んでいたという。ばい菌はそこから入った。数日後におっぱいが吸えなくなり痙攣を起こす。だが、幸いにもこの2例はプノンペンの小児病院に運ばれ、一命を取り留めた。二人とも今元気である。
保健所の助産婦と母親。ワクチンの注射が怖かった。
助かったラッキーな赤ちゃん。
 ここの人たちはプレイベン県の農家ほど貧しくない。助産婦は自宅分娩で、15-20ドルを要求し、農家は周りの親戚からかき集めて払うという。保健所で産めばその半分以下で済むが、自宅分娩を高額にしておくのが唯一保健所での分娩を促す方法だとそのおばちゃんはいう。それでも、母親たちは子供がたくさんいて忙しく家から離れられないという理由で家で産みたがる。それはそれで助産婦のおばちゃんの収入も上がるし悪くないと彼女は思うのだろうか。この村のお産婆さんは高齢で、このおばちゃん助産婦が村の自宅分娩はほとんどやっているらしい。
 ここでまた質問。どうしたらよかったのだろう。この助産婦のおばちゃんはワクチンを怖がって受けていない妊婦がいることは知っていたという。もしこのおばちゃんがもう少しがんばってくれて妊娠中にワクチンを受けさせるように説得していてくれたら…。もしこのおばちゃんがもう少しがんばってお母さんにへその緒の処置の仕方を説明していてくれたら…。おばちゃんは保健所の仕事が忙しくてなかなか家を訪問をすることなんかできないわよ、とぼやく。それもわかる。
 保健所のチーフといくつかの村を束ねるコミューンのリーダーと会えた。車座になって、県の衛生部の担当者も交えて話し合ってみた。僕のまったく下手なカンボジア語を保健省の仲間がまともなカンボジア語に通訳してくれる。毎月村長たちとミーティングをしているから話をしておこうという。いったい何を話しているんだろう。大体が政治の話である。それでもこういう人たちとの話が楽しいのである。
 こういう時、実は僕は幸せな感じなのである。楽しい感じでもある。悲しいことを見て、越えられない壁を見て、解決できない壁も感じ、途方にもくれ、言葉も想いも思うように通じなくて、歯軋りする。それなのに不思議と幸福感がある。楽しいと感じる。僕はズレているんだろうか。その楽しい思いをもっとたくさん感じれるように時間を使わないとダメじゃないかと最近は思う。具にも付かない議論ばかりをするオフィスの話。机の上だけの議論で本当の生きている人の姿を自分の目で見て自分の肌で感じることのない人たち。僕はそんな中で残り少ない生きている時間を無駄にしたくないと思っている。本当に生きている人たち、そこに僕が探しているものがある。
へその緒をくるんだ埃と土で汚れた布
お母さんがへその緒に塗った台所の灰

僕の原点
 先日テレビである生物学者の話をしていた。彼は研究という競争の中で夜も寝ずに斬新な論文に追われる余り、とうとうある日倒れてしまったという。その時その生物学者がわかったことがあった。生物学が楽しくてはじめたのにいつの間にか論文に追われ、楽しくなくなっていた自分に気づいたという。あの楽しかった思いはなんだろうと。あの自分、その原点に戻ればいいんだ、と思って、自分を取り戻したという。結果がすぐに出なくてもいい。失敗がいくら続いてもいい。楽しいと感じるものは所詮そんなものだからだ。自分の心がいつでも原点の楽しいと思う気持ちに立ち返れるなら何をしてもいいし、大丈夫だと心のゆとりも笑顔も戻ったという。
 僕の原点はなんだろう。原風景のようなもの。ここのところ、僕はずっとそのことを考えている。僕の原点、原風景はなんだろう。何も持っていない何も背負い込んでいないゼロの一点の僕。僕が始まるそのときの僕、裸のままの僕のいる一点。そして、何かを心から感じ、楽しいと思ったその時、勇気と力が満ちてくるそんな始まり。
 それは多分ずっと昔の僕だ。大学を飛び出して難民キャンプに行ったときよりもずっと前の僕。物心付いた頃、僕の家では父と母がいつも喧嘩をしていた。夜になると父の怒鳴り声と母の悲鳴のような声が眠りに入ったばかりの僕を揺さぶり起こした。毎晩神様にお祈りをしていた。仲良くなりますようにと。小学校3年になった頃、父が女を作って家を飛び出した。神様は何もしてくれないとわかった。取り乱した母が一度だけ長男の僕に悪態をついた。僕は弟二人を連れて施設に預けられる覚悟をした。弟たちと離れ離れにだけはなるまいと心に誓った。
 結局その母は死ぬまで僕ら3人の兄弟を身を挺して支えてくれた。それから祖父に助けられ、叔父に助けられ、何とか毎日を乗り切っていった。今の僕はそんなラッキーのたまたまの積み重なりでしかない。毎日買い物籠を下げて叔父と買い物に行った。八百屋や、肉屋や、魚屋の大人たちに「女の子のようだな。」と冷やかされた。食事の支度を手伝い、皿洗いをした。毎日が無事に過ごせることそれだけがラッキーで、なんだか嬉しかった。世間から踏みつけられれば瞬く間に消えてしまうような母子家庭にいた。でも、楽しかった。母と弟たちと話し、泣き、笑い、時に喧嘩をしても、一緒に居られることが楽しかった。
 僕の原点はかなり暗いけど、どうやらあの頃らしい。世間から踏みつけられれば瞬く間に消えてしまうあの頃の自分のような人たち。その笑いや、怒りや、喜びや、悲しみの声を、この目と耳と体で直に感じる時、僕はあの時の僕に一瞬にして戻る。僕自身が彼らだったのだから当り前だ。神様は何も言わずに今もただ僕のそばに立っている。相変わらずだ。でも、たまたまのラッキーな僕を黙ってここまで連れてきた。それならやることはまだある。どんどん湧いてくる。僕が僕を忘れないなら、どこでも楽しくやれる僕がいる。消えしまいそうな人たちがたくさんいるのだから、やることは尽きない。
 「よし!やるぞ。」と、思わず口から大きな声が出てしまった。隣のソファで仰向けになって犬と一緒に居眠りをしていた女房が、突然「なに言ってるのぉー。」と、吐き出すようにつぶやいた。寝言かと思ったが、そうでもないらしい。地獄耳だ。この人が、まさかカミ…、いや、カミサンです。


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