んだんだ劇場2007年11月号 vol.107
遠田耕平

No76 村に逃げるく

村に逃げる
 新生児破傷風を追いかける村の旅は相変わらず続いている。もちろん好きでやっているのであるが、実は最近はあまりに事務所で(僕にとっては)「くだらない」と感じるミーティングや会議が多く、自ずと足が村に向いているのである。「村に逃げる」と僕は事務所の連中には言っている。
 実際に現場の村を歩いたこともないコンサルタントや専門家という人たちが、山のように押しかけてきた。しかも外国人でありながら、「この国の保健行政はこうあるべきだ。」とか、「これから5ヵ年でこうすべきだ。」とかをお話しするというのである。最後には、数え切れない指標と目標を盛り込んで、何百ページもの英語のレポートを海外の援助団体と一緒に作る。政府の担当者がレポートの中身も現実性も少しも理解していないのに、手打ちをして援助額を底上げする。政府の担当者は実はそれでニヤリと笑って終わる。ところが、少し経って、ふたを開けてみると、政府は何もしていないじゃないかということになる。援助団体は散々文句を言う。腐敗している。責任がない。成果がない。それからまた、大げさな会議を開いて、またもや訳のわからない新しい指標を作り上げ、さらに援助額の底上げを約束をして閉幕するのである。政府は勝手知ったる援助団体と、またニヤリと笑う。
 僕にはどうもこの繰り返しに見える。外のおせっかいである。それなら今、外からの援助もおせっかいも本当になくなったらどうだろうか。この国はダメになって消えてしまうだろうか?僕にはそうは思えない。カンボジアの人たちは優秀である。今こそ外の雑音を絶ち、時間をかけながら自分たちの言葉と自分たちの力で国を治める形を作っていくときに見える。それにしても経済はモンスターだ。止まっているものを容赦なく飲み込む。心配は尽きない。思えば僕もそのおせっかいのその一人である。早々に自分がいなくなる時を思いながら、今日も「村に逃げる」。

欽ちゃん
 保健省の人たちは実は村をよく知っている。あのポルポト時代に、村に強制移住させられたからだ。彼らはメガネを地中深く埋め、医学生や医者である事を隠し、見えるものも見ない振りをした。命がけで10メートル以上もあるパーム椰子の木に登って樹液を採り、砂糖を作り、手を豆だらけにして田んぼを耕して、生き延びた人たちである。ヤモリも食べ、雑草も食べ、わずかな主食の米をポルポトの兵士に賄賂で渡しながら生き延びた人たちである。
 僕がよく村に一緒に行く「欽ちゃん」と呼ぶ保健省のサラット先生もその生き残りの一人である。50歳半ば、目尻が垂れ下がっていて、おちょぼ口で楕円形の顔の輪郭は僕が大好きだったコント55号の欽ちゃんによく似ているので僕はそう呼んでいる。日本で大人気のタレントだと説明したので、彼は大いにその呼び名を気に入っている。いつもニコニコしていて、人に怒るということがない。部下が何をしていても怒ることがない。優し過ぎると言えばそれまでだが、そして何も決まらない。そうやってポルポト時代を生き抜いたのだと言われれば納得。地方に出ると俄然元気になって、よく食べよく飲む。椰子の木に登るのは得意だったという明るい欽ちゃんを僕は基本的に好きである。
 この欽ちゃんと地方に行ったときでことである。欽ちゃんが待ち合わせの場所になかなか現れない。やっと現れた欽ちゃんに「どうしたの?」と訊くと、「墜落した輸送機を見てきたんだ。」と言う。カンボジアの工場で作った服を満載し、タイに向かっていた輸送機が、操縦ミスで田んぼの中に墜落したと言う。5人の乗務員は奇跡的に無事、積荷も無事だったらしい。らしい?とはどいうこと?と訊くと、欽ちゃんが着いたときには積荷はきれいに村人たちに持ち去られていた後だったらしい。「今晩あたり機体もみんな無くなるだろうな。」と言って、みんなで腹を抱えて笑った。「後数日したら地方で安い、高級シャツが出回るぞ。」と誰かが言ったものでまたみんな大笑い。実は本当にそれから一週間して地方の市場で4枚10ドルの高級シャツをみんな買いに行ったのである。不当に安い労働賃金で作られた製品がこんな形でカンボジアの庶民に還元されるのも悪くない。
 コンポットという海に面した風光明媚なこの県は仕事をしない。病気の報告が何もない。本当に報告がないのかと現地の担当者に聞くと、「実はあるんだけど、遠いから面倒臭くて行かないんだ。」という。「県の連中もそれでいいと言うんだ。」と馬鹿正直に答える。「忙しい、お金は出ないし、仕方ないでしょ。」と、県の無責任、郡の無責任。そのしわ寄せが全て保健所に行く。保健所も馬鹿らしくてやっていられない。実はこのあと有効期限切れのワクチンを使い続けている保健所をいくつも見つけた。これが、問題のある他の県での実態でもある。晩御飯で、久しぶりに海で取れた新鮮な蒸し海老をみんなで食べた。(うまい…。それにしてもこの県はなー…。」と思ったらつい愚痴ってしまった。「ここは食べ物は本当においしいけど、仕事は本当にまずいね。」と下手なクメール語で言うと、全員大爆笑。うけた。
 欽ちゃんは言う。ベトナム戦争に巻き込まれ、ポルポト政権による大虐殺が起こる前のカンボジア人はこんなではなかったと。今のカンボジアの現状は未だに人が人を信じることができない。お互いが協力し、与えられた仕事を責任を持って果たすということができない。人を信じてはいけないと教え込まれたポルポト時代。信じたものから密告されて殺された。今もそう教える。どんなに取り入っても、賄賂を渡しても、まずは自分と家族が生き延びることが一番である。仕事の中身などはどうでもいい。仕事は適当にやらないといけない。その気持ちが政府の高官から一番下の公務員まで染みこんでいる。ポルポト時代の心の傷は今も本当に深い。あと何年掛かるか分からないが、こうして現実を見ながら、一つずつ少しずつ現地の人たちの声と力で現場のひずみを直していくより仕方がないのだろうと感じる。
 海岸線に沿って車で走っていた時だ。海の向こうのすぐ手の届きそうなところに大きな島影見える。フーコック島だ。この島はベトナムの最南端に位置している島で、僕がベトナム時代にポリオの根絶を確認するために何度も行こうと思ながら行けなかった島だ。ベトナム戦争時代は北の政治犯の収容所になっていたが、今ではヌックマムの産地、人気の観光地だ。「カンボジアから行けるかな?」と欽ちゃんに聞いたら、欽ちゃんの垂れ目が少し吊り上ったように見えた。「フランスが悪いんだ。あれはカンボジアだよ。」と。確かにどう見てもカンボジアの島である。フランス統治時代にカンボジアは自らの領土だった現在のベトナムの南部を全て割譲させられた。その時、このフーコック島も割譲させられたのである。時代に翻弄された悲しいカンボジアの歴史と、心に秘めた国を思うカンボジア人の想いが欽ちゃんの垂れ目の奥に交錯した。

お産婆さんの秘術
 ここで僕が最近巡り合った何人かのお産婆さんたちのユニークなへその緒の処置の秘術をいくつか紹介しよう。
 煙たなびくわらぶき小屋から出てきた74歳お産婆さんの秘伝は「マルー」という植物の葉っぱをかんで、唾と一緒にへその緒の断端に吐きかけるのである。これはインドではパンの葉と呼んでいた。ビートルナッツのかけらを包む葉っぱで、石灰をつけて、一緒にムシャムシャ噛むのである。すると口の中がビリビリ痺れて、歯が真っ赤になる。アジアの国々ではお年寄りの趣向の一つで、習慣性がある。噛み終わった後は吐き出すので、吐き出したところが真っ赤になる。インドやバングラでは、よく壁に「吐き出すな。」と張り紙がしてある。僕もこのマルーの葉を噛んでみたが、この葉だけで舌が痺れてくる。カンボジアではとてもポピュラーな伝統医の治療法らしく、あらゆる傷口によく使うんだと後で聞いた。
74歳の可愛らしいお産婆さん。マルーの葉を噛んで付ける
これがマルーの葉、噛むと舌が痺れる
 「わしは百歳じゃ。」といって出てきたこのお産婆さん。ボケている。村の人たちはみんな彼女がボケていると知っているが、急なお産では今も彼女を呼んでしまうという。実際は84歳らしい。数日前のお産のことも、へその緒をどうやって切ったかもはっきり覚えていない。でも、村人によると、このお産婆さんの得意技は台所の灰とスズメバチの巣をつけることだという。村のおばさんたちはよく知っている。どこに行ってもおばさんたちの情報と言うのは大事だ。でもこのおばあちゃんはなんだかとてもかわいらしい。みんなで「ソーム、アオイ、アーユー、ヴェーン(長生きしてくださいね。)」と言ってお別れした。
「わしゃ、100歳じゃ」少しボケているが、かわいいお産婆さん。何も覚えていない。
おばあさんの好きな台所の灰
 もう一人出会った75歳のお産婆さん。この人は年齢にも関わらず実にかくしゃくとしている。トレーニングも受け、器具も持っていて、きれいにへその緒を切っている。でも、そのあとに必ず付けるのが線香の灰。切り口に必ず「線香の灰(ペッ、トゥーク)」をつけるのである。村のおばさんたちもみんな口をそろえてやってもらったという。これも、カンボジアの昔ながらのやり方だと言う。
 このお産婆さんたち、口を揃えて言う。「もう引退したいのよ。でも、貧乏な家族に頼まれれば断れないわ。」と。少しの礼金でも、やってあげると言う。保健所の助産婦たちがもう少し何かできないだろうか。お産婆さんたちと連絡を取りながら、時折彼女たち介助をしてあげてもいい。緩やかな移行が必要だろう。それにしてもおばあちゃんたちは愉快で面白い。
スズメバチの巣、藁葺きの家の中にある。ハチが泥と唾液を混ぜて作る。伝統薬として今も人気がある。 これもおばあさんのお気に入り。
しっかりものの75歳のお産婆さん。 お線香の灰を付けるのが得意

全ては一人から
 こうして一つ一つの症例を追いかけて村を歩き、一人一人から話を聞いていると、僕は楽しい。そして随分といろんな事を教えられる。どうしてこうなるんだろうと思っていた絡まっていた糸のような思いが少しずつとぎほぐされていくようにも感じる。
 「臨床は一人一人を診ますが、公衆衛生や行政は人口全体、国民全体を診るんです。」と、よく聞かされた。「国民全体の健康」、よく考えると分からない。「全体が健康」とはどういうことだろう。「全員が健康」と言うことはあるわけがない。「全体」と言うのが第一、全く分からない。「全体さん」がいるわけじゃない。全体さんが幸せを感じるわけじゃない。全体さんが感情を持っているわけでもない。要は全体は一人一人の集まりで、一人一人の集合体でしか、全体はあり得ないのである。つまりは一人一人がどれだけ健康でどれだけ幸せかと言うことが一番大事なのである。その一人一人の幸せや不幸せの累積がぼんやりとした集合体の形で見せてくれるのが、国家が口にする国民全体の健康と言う言葉であるだけだ。国家はあくまで個の集合体であり、治世者がそれをはっきりと自覚して初めて個である国民の健康や幸せの累積を全体としてぼんやりとながら語る事を許されるのである。
 全ては一人一人から始まる。一人を心から診ない医療における全体像は存在しないのである。公衆の衛生を確保しようとする国家の公衆衛生の観念は個に発するしか道がない。歩き、出会い、一人一人の患者の苦悩を知る中で、それは育つ。データや統計や集計からでは決して生まれ得ないものだ。ここに至って、しばしば対極的に語られることの多い、臨床と公衆衛生がいかに元を同じにしているかがわかる。一人一人である。その意味でも、病める人、一人一人を誠心誠意診る事に医療の原点があることは紛れもない事実である。
 僕は未だに全体を語るにはあまりに未熟だ。あまりに個を、あまりに一人一人を知らなさ過ぎる。そう思うと僕はますます「村に逃げる」のである。


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