んだんだ劇場2007年3月号 vol.99

No10− 風向きが変わってきた−

エアロビ再開、風向きが変わってきた…かもね
 潮目というのだろうか、ちょっと精神的な風向きが変わってきた。迷信を信じるほうではないが、父親の三回忌を終えたら、なんだか本当にヘンな憑き物がスロンと落ちた。カスミがかったようにボケていた目の前に晴れ間が見えるようになった。不思議なものだ。2月の初め、これまでにないような不安が押し寄せてきて、その唐突さにたじろいだ。精神的動揺は数日間続いた。このままでは病気になってしまう、思い切ったことを新しく始めなければ。「そうだスポーツクラブで身体をもう一度鍛えなおそう!」……極度のスランプに陥ったとき実体のない頭(精神)よりも身体を鍛えるほうが効果的なことは体験上知っている。もう2年以上スポーツクラブはご無沙汰だ。ウォーキングで毎日1万歩以上歩いているし、もう過度に疲れることは年齢的にマイナスなだけ、とエアロビクスはあきらめていたのだが、思い切って再開することにした。あれこれ考えず翌日SC(スポーツクラブ)に飛び込んだ。雰囲気が2年前とまるで変わっていた。中高年というか老人が増え、ボーっとしていると突き飛ばされてしまうほど混雑している。さらに驚いたのは、常連の女性陣(昔のエアロビ仲間)がそろって健在、「アレッ安倍さん、ひさしぶりっ」とみんな駆け寄ってきて声をかけてくれた。インストラクターたちにも笑顔で迎えてもらい、一挙に気分が晴れやかになった。初日は見学だけと考えていたのだが、ジムのいろんなマシーンをためし、施設を歩き回り、それだけで汗が出た。こんな汗をかいたのは2年間ほとんどなかった。翌日は調子に乗って「入門エアロ」(30分)のレッスン。どうにかついていけたが、翌朝は身体の節々が悲鳴をあげていた。これからはまたSC中心の暮らしが始まるのだろうか。多分そうはならないだろう。この2年でそのへんはずいぶん「大人」になったから。でも夢中になれるものがあるって、いいよなやっぱり。
元社員のM子さんの子ども
毎日こんな天気で、不安
散歩の途中にこんな空き地が

地方で出版は可能なのか?
 格差社会とか、地方切捨てとか、かまびすしい議論が続いている。データやエピソードを突きつけられると、なるほどとは思うのだが、社会的に孤立した閉塞的な場所で仕事をしているせいか、今ひとつピンとこない。
 世間的な現実味が乏しいのだが、小生らの社会とのわずかな接点とも言える「新聞広告」効果でみると、やはり格差というか地方の疲弊は歴然としているようだ。もう長い間、地元新聞(や東北各地の地元紙)の1面に全三段の広告を2ヶ月に1回打ち続けてきた。しかしここ2年、まったくその広告効果がないことがわかり、回数を減らす決断をした。もしかすると「出すタマ(出版物)」が悪いだけなのかも、と思ったりもしたのだが、以前はたいした本でなくても広告さえ出すとそれなりの注文はきた。やはり構造的な問題だろう。
 広告は版元が社会とつながる唯一の媒体である。地方紙出稿すべてやめるわけにもいかないが、軸足を大きくシフトさせ思い切って全国紙である朝日新聞の日曜日読書欄下の5段12割広告に定期出稿することにした。去年の12月からはじめて、まだ2回目なのだが、とりあえず1年間は続けてみる予定だ。
 地方紙から全国紙に鞍替えした理由はローカル色の強いテーマの本であっても読者は全国に散らばっている。いいかえれば地方から読者は消えている、という判断によるものだ。地域から確実に読者は確実に少なくなっている。これは間違いない。たとえば20年前なら秋田県内だけで4000部売れた地元本がいまは1000冊。4000部売れた頃は県外の読者のことなどまったく考えたこともなかったが、いまはそのかろうじて売れた1000部のうち400部が県外読者によって支えられている。この400部の人に読んでもらうために多大なコストを余儀なくされる時代に入ったわけである。
 これでは地方で出版だけで食べていくのは不可能である。それにしても過去2回の朝日出稿ゲラを見ていただくとお分かりだろうが、高額本ばかりである。これは広告料と売り上げ予想高を秤にかけた末の苦肉の策。朝日といえどももはや広告でバンバン本が売れるなんていう時代ではないのだ。

東京マラソンぶるぶる応援記
 今回の東京3泊4日の旅は有意義だった。いろんな人たちと会えたし、めったにできない体験もした。新宿ゴールデン街はあいかわらず(といってもそれほど知ってるわけではないが)だったし、「地方・小」のK氏と休日に久しぶりに渋谷の「くじら屋」で食事。友人のSさんと食べた麹町「根本」のサバ味噌煮定食は絶品で、尊敬するY出版社・Mさんとの会話は楽しかった。
 でも、なんと言ってもハイライトは東京マラソン。マラソンを生で見るのは初めてなので楽しみにしていたのだが、とにかく寒かった。寒さには自信があったのだが薄着をしていたせいか震え上がった。小雨に強風、朝早い暗い空の神保町に車がゼロ。横を通り過ぎた中年のカップルが「会葬の礼以来ね、こんなの」とつぶやきながら通り過ぎた。交差点で交通規制する警官に「広報が徹底していない」と殴りかからんばかりに食って掛かる若者がいた。靖国通りと外壕通りが交差する7キロ地点のエイドステーションでの応援。そばにいたマスコミ関係者が「先ほどスタートしたもよう」と無線でやりとりしている数分後、水道橋方面からパトカーに先導されたランナーたちの姿が見えた……が、これはいかにも速すぎる。車椅子ランナーたちだった。猛スピードでパトカーが近づいてくる意味がわかった。写真を撮ろうとしたが速すぎてあっという間に通り過ぎてしまったのだ。上半身の大きさが普通の日本人の2倍ほどある。「外国人メダリストの招待選手だ」という声が後方から聞こえた。車椅子ランナーの最後尾が通り過ぎたあたりからトップランナーたちの姿が見えた。これもあっという間に通り過ぎる。有森も鈴木宗男も興味はない。今回の応援は同じスポーツクラブに通うIさんの応援だ。Iさんの容姿を頭に思い描きながらランナーたちを凝視しているのだが、ランナーのかたまりは徐々に巨大になり、一人一人の顔を判別するのは不可能だ。こちらの沿道沿いを走ってくれるのを祈るしかない。外国人ランナーがやたら多い。視覚障害者や両手のないランナーの姿も。一人おかしげな旗をもって後ろ向きに走っている老人がいた。どう見てもフルマラソンを走れる体型をしていないデブ系がたくさんいるのもショック。走法を見ているとある程度、ランナーのレベルはわかる。時間が経つにつれランナーの走り方がプロからアマチュアのそれに変わるのがよくわかる。その境目あたりになってもIさんの姿を見つけることはできない。「見逃してしまったかな」と帰ろうとしたとき、道路の反対側からIさんが「アンバイさ〜ん」と白い手袋を振ってこちらの沿道まで横切ってきた。アチャ、ランナーに発見されてしまう応援者というのも間抜けな話だ。Iさんが通り過ぎた後は沿道の喫茶店に入り、入り口の窓からサンドイッチとコーヒーの朝食をとりながら最後尾まで見届けた。喫茶店にトイレを借りに来る女性ランナーが多いのに驚いた。その後、有楽町まで出てビッグカメラで買い物を済ませ、銀座に出ると東京は元の青空に戻っていて、マラソンの最後尾がちょうど通り過ぎたところだった。銀座が21キロ地点だった。
車椅子のトップランナー
このへんから走法が乱れ始めた
沿道の喫茶店で朝食
銀座21キロ地点の最後尾ランナー


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