んだんだ劇場2007年9月号 vol.105
No1
著者プロフィール
森原健児 (もりはらけんじ)
1948(昭和23)年生まれ。2005年6月、33年勤めた会社を早期定年(扱い)退職。それまでのサラリーマン生活をリセットし、家事見習いとなる。趣味、折り紙。近くの児童館で子どもたちと「折り紙クラブ」を楽しむ。2005年より朗読ボランティアを始める。妻、そして息子と娘。

英国流さんぽ事始

はじめに
 少し思わせぶりな、ついでに、おおげさな言い方をすれば、私たちが出会ったイギリスの「フットパス」なるものに、おそらく日本ではお目にかかることはできないような気がする。たとえ、できたとしても、それはごく部分的な、そこだけのものであって、イギリスのように無限(?)に続くものではないと思う。そんな、いまの日本にはなくて、日本では経験できないものだから、私(私たち)はこうして惹かれてしまったのだろう。

腰痛とのめぐりあわせ
 これから、「イギリスのフットパスを家族で歩く」という、ちょっとは元気な話を書こうとしているのだが、今年が三回目(三年目)になる、そのイギリスのフットパスから戻ってまもなく、やっぱり今年も腰が痛くなり、しばらく横になっていた。なんとか歩けるようになり、こうして書き始めたワケだが、最近使わずにいた「まわし」(コルセット)を、また腰に巻きつけている。ついこの間まで、イギリスのフットパスを軽々と歩いていたことを思えば、腰を引いて歩いている姿は、なんとも情けない。しかし、振り返ってみれば、この腰痛のおかげで、私(そして私たち)はイギリスのフットパスに出会えた・・・ともいえる。
 ここでいう「フットパス」なるものが、一体どういうものなのか。そして、何がよくて、これまで三年も続けて、腰痛持ちの私が、家族と一緒にそれぞれ一ヶ月の間、そのフットパスを歩きにでかけ、できるなら来年もまたでかけたいと思っているのか。それらについては、これから思いつくまま書いていく。とりあえず、ここでは、私が撮った写真でそれなりに想像してもらうことにして、まずは我が身に起こった腰痛という災難が、めぐりめぐって、フットパスを歩くことになるまでの経緯から始めてみたいと思う。

スコットランドに近い、ハドリアンズ・ウォール・パス

57歳の早期定年退職
 私は、まもなく59歳。外目にはいつも若い、若いといわれ、そのおだてに乗って、結構フットワークよく動いてしまうのが、私のお調子者の一面。しかし、そのツケは必ずめぐってきて、いつも人知れず、休養(つまり、ほかになにもできない状態)という形で、見かけ倒しのつじつまが合う。私は、俗にいう団塊の世代。ただ、自分ではその意識も自覚もほとんどなく、今年が団塊世代の大量退職の始まりという話題には、以前から無関心だった。ただただ、わが身の都合で、2年前の2005年6月(57歳の時)に、それまで33年勤めた会社を辞めた。理由は腰痛。定年扱いによる早期退職というものを、目の前の問題として考え始めた56歳・それ以前から、会社の椅子にすわっているのが苦痛になっていた。それが、とうとう我慢できなくなり、それで辞めることにした。もうひとつ、当時のお役目からくる精神的なストレスも大きな理由だったような気がする。だから、当時は「勤めの方はもう充分かな(?)」という気持ちと腰の痛みとが、一緒になって、私に声をかけていたのかもしれない。決断する迄の一年間、退職後のことを考え、いろいろ迷いもしたが、いざ辞めてしまうと、すべてが見事にあっけなかった。同時にさっぱりした。そのさっぱりついでに、腰の痛みは一時的にどこかへ飛んでいってしまい、連鎖反応のように、私の「旅をしたい」血が騒いだ。

一ヶ月という響き
 これまでの会社勤めのしがらみから、一気に抜け出た状態になって、まず「旅をしたい」と思った。行き先はどこでもいい。いや、外国。日本だと、昨日までのことがチラチラして、きっと落ち着かないだろう。それで外国。期間は一ヶ月。なぜ一ヶ月かというと、その時頭に浮かんだ、格安航空券の有効期限一ヶ月というものを最大限に利用したいと思ったから。
 会社勤めの時は、一ヶ月の休みなど、夢のまた夢。だから、今迄絶対にできなかった一ヶ月という響きにこだわった。もうひとつ、でかけるなら、家族一緒。それは、これまでの我が家の旅のなりゆきから、自然にそう思えた。このことは後で書く。とにかく、その時の私に一人旅への憧れはなかった。一人旅は寂しすぎる。一人になると、どんどん一人の世界に沈み込んでいくようで、たまらなかった。だから、いま暮らしている家族三人ででかけるのがいい、そう思った。
 行き先は、妻が行きたいというイギリス。なぜイギリスなのか?それは、英語圏なら、なんとかなるだろうと思えたから。理由はそんなところ。ただ、同じ英語圏でも、アメリカは私の先入観から、今回は行きたくなかった。もちろん(!)、すべての行程が決まっているツアーは最初から考慮になかった。やはり、自分たちで行き先を決め、自分たちの足で歩いてみたかった。これも、今迄の私たちの旅の仕方からして、自然にそうなった。ヨーロッパで言えば、期間は短かったが、ドイツでの経験がある。まだまだ、その元気はあるはず。つまり、最初の到着地とその日の宿泊地だけを決め、後はなりゆきまかせの旅。今迄のように、現地に行けば、その後の行き先は自然にみつかっていくだろう。これこそが旅のおもしろさ・・・と考えた、これまでのやり方は、最初の年、半分が予想通りで、半分は予想外だった。

ガイドブック
 旅に出かける前、妻は必ずガイドブック(主に『地球の歩き方』)を読む。かなり、じっくり眺める。私は、そんな彼女にまかせる気持ちもあり、また面倒くさいところもあって、さらっとしか見ない。そのせいもあって、あらかじめどこへ行きたいということもなく、現地に着くと、まず彼女が行きたい場所に従う。最初は、たいていガイドブックに載っている場所が多い。ただ、ガイドブックに載っているところが、必ずしも私(たち)の行きたい場所とは限らない。そのうち、現地の状況や案内をみて、当初の予定はコロコロ変わる。今迄の旅が、ずっとそうだったこともある。これは、効率の悪いやり方のようだが、現地になじんでくると、少しずつ見えてくるものがあって、この方が結局はおもしろかったということを、これまでの経験から感じている。
 この時も、時差調整を考え、まず彼女が提案したオックスフォードに数日滞在することにした。そして、初めてのイギリスの街を歩き、郊外へもでかけ、まあまあ楽しめていた。次に移動した、これも彼女の希望だったストラッドフォード・アポン・エイボンでも、最初は街を歩き、それから郊外へでかけていった。もしかして、私たちの時間の過ごし方が変わっている(?)とすれば、シェークスピアが生まれたというこの町での場合、シェークスピアに関する見学コースの中でも、入場料のかかるところへは、よほどのことがない限り入らず、外から眺めたり、そこまでの道を歩くことで充分に思えていたことだろうか。つまり、いつの場合も、「自分たちの足で歩く」ということが旅の基本的な部分。だから、それなりに「散歩道」というものは歩いていた。

「フットパス」との出会い
 そんな過ごし方をしていたある日、私たちは偶然、これまで歩いたことがなかったような道、つまりこれから私が書こうとしている「フットパス」に出会った。それは、ストラッドフォード・アポン・エイボンからバスででかけたブロードウエイという町でのこと。町の通りから、向こうの山の上に見えたタワー(これは、日本でみたガイドブックの写真集にあったもの)まで行って、あそこで昼ごはんを食べようと登り始めた道が、それだった。道の始まりには標識があって、それに従って登っていくと、道はやがて牧場の中の草原になり、羊たちが私たちの近くで草を食べている。その草原の中に道は続いていた。道といっても、人の歩く部分の草色が少し変わって、それが目の前にずっと続いていて、道とわかる、そんな道だった。
 私たちが歩いていくと、それまでのんびり草を食べていた羊が驚いて、逃げていく。しかし、少し離れた場所まで行くと、またなんでもなかったように草を食べ始める、そんな羊たちのそばを歩いていることに、その時の私はかなり興奮していたような気がする。最初は、こんな場所を公然と歩けること自体、信じられない気持ちだったのだが、平日だったその日、途中で何人もの人が降りてくるのに出会い、そのたび「ハロー」と声を掛け合っていると、ここを歩いていても問題ないことがわかり、さらに登っていくと、下に広がっていく景色がすばらしかった。
 実は、この時私たちは地図を持っていなかった。いつもの思いつきで歩き始め、あそこで昼ごはんを食べて、また降りてこよう・・・くらいの気持ちだった。しかし、目的のブロードウエー・タワーに着いて、そこで出会った老夫婦に、そこからチッピングカムデンという町へも、同じような道を歩いて下りていけると、彼らが持っている地図で教えてもらい、ここであっさり予定変更。その人たちが歩いていく方向へ行ってみることにした。内心、ひそかな興奮は続いていた。
 さらに、途中で私たちを追い越していった別の夫婦は、地図を持たない私たちを、途中何度も待っていてくれ、ここが眺望で有名なドーバーズヒルだと説明もしてくれ、それからは拙い英語で話をしながら、一緒にチッピングカムデン迄歩くことになった。歩きながら、私が作ってプレゼントした折り紙(注:私にはこんな特技がある)のお礼に鹿笛をもらったりと、思いがけず楽しい時間を過ごして別れたのだが、このことがきっかけで、私たちは彼らが持っていた地図(後で詳しく説明)を購入し、この地図を持って、歩くことがイギリスの旅のすべてになった。

ハドリアンズ・ウォール・パス(Hadrian's Wall Path )
 こうして振り返ってみると、イギリスにいる間、いつかはこのフットパスに出会うことになったのだと思う。例えば、オックスフォードの町やストラッドフォード・アポン・エイボンの町でも、朝の散歩などでは、FOOTPATHという表示を何度も見かけていたし、実はそれと知らず、その一部を歩いていたのだと、後になって気づいた。実際に「フットパス」と呼ばれている道を歩いてみて、それまで歩いていた道がこの「フットパス」につながっていたことを、あっさり納得できた。

『地球の歩き方/イギリス(04〜05)』
 ところで、イギリスへ来るまで、この「フットパス」のことを知らなかったのかというか、そんなことはない。ガイドブック『地球の歩き方/イギリス』(04〜05)』では、その概略の説明に2ページ弱のスペースを取っていて、歩くことが旅の中心になる私たちは、当然ながらこの部分は注目して読んでいた。たいていはさらっとしか見ない私でも、この部分はじっくりと何度も読み返した記憶がある。しかし、最初からここにポイントを絞って、でかけて行ったわけではない。
 そもそもガイドブックというもの、たいていどれも「お勧めモード」で書かれている。だから、ガイドブックなわけだが、これは期待通りでないことが多い。いや、私(私たち)にとって・・・と言い直した方がいい。万人向けに作られているガイドブックだから、考えてみれば、当たり前のこと。ともかく、この部分の説明も「フン、フン」とうなずく程度でしかなかった。
 ちょっと、余談。それでも、数多いガイドブックの中で、『地球の歩き方』は私たちの好みの記述が少しは多いということで、これを一番の参考にしている。ただ、その参考の仕方が少しずつ変わってきた。いまは、そこに書かれてある客観的事実(情報)のみを受け取る。だから、「ここがよかった」「お勧めです」という部分は、いろんな見方・感じ方のひとつとしてだけ眺める。「なるほど確かに」「そうかもしれないね」から「まあ、こんなものか」「やっぱり、こんな書き方をするんだろうね」とか「これじゃ、だまされちゃうよね」・・・とか。それは写真に対して、説明の文章に対して。おそらく、書かれていることにウソはないのだと思う。ただ、それを勝手に、自分たちに都合よく解釈したくなるから、現地での実際の感じ方にギャップが出てくるだけの話だと、私は割り切っている。

「フットパス」についての記述
 ところで、『地球の歩き方/イギリス(04〜05)』の中の「フットパス」についての記述・・・「フットパス」をたどっていなかを歩く・・・という2ページ弱の部分を改めて読み返してみると、わずか(?)なスペースにも関わらず、その概略について、実に適切にポイントを押さえた書き方をしていると思う。だから、ここをじっくり読めば、察しのいい人はここからいろんなヒントをつかめるはず。それに、ここに書かれてある項目から、インターネットなどでさらに詳しい情報を得ることも可能な気がする。ただ残念なことに、『地球の歩き方』には、私(たち)が最初偶然めぐりあった、草原の中に続いている「フットパス」の写真がなかったし、その辺の記述もなかった。もし、それらがあったら、印象はかなり違っていたと思う。
 そこには、次のように書かれている。 「運河沿いの小さな小路、畑の裏の散策路、少し長いハイキング用トレイル」「のどかな田園風景が広がるコッツウォルズ丘陵、森と湖が調和した絵画的な風景が広がる湖水地方、ヘザーが咲く荒涼としたムーア(荒れ野)、谷や川、森など変化に富んだ地形を行くハイランド、南西部の美しい海岸沿いのコース」・・・といった表現に、実はイギリスではかなりの部分を占めているに違いない、あの牧草地の光景が出てこない。もっとも、これは実際にイギリスの「フットパス」の魅力を知ってしまった、いまの私の勝手な思い込みのせいかもしれない。

しかし、よくよく眺めてみると
 その『地球の歩き方』のことで、もう少し書く。イギリスから戻って、中に掲載されている地図をよくみると、たとえば今年歩いた、私たちにはとてもよかった、ヨークシャー・デイルズ国立公園内のKettlewell−Grassington−Bolton Abbey を結んでいた Dales Way がちゃんと記されている。よくよくみれば、フットパスについて書かれている部分が、ほかにもあちこちみつかる。また、掲載されている写真にしても同様に、戻ってきてから眺めてみると、これらの写真から「あの光景」が想像できたかもしれないと思えることが何度かある。これは、一年で終わらず、またでかけることになって、発見できたことのひとつ。

「トレッキングツアー」
 いま、目の前に某旅行会社の海外登山&トレッキングツアーのチラシがある。その中のひとつ、ちょうど今年(2007年)私たちがイギリスへでかけたのと同じ頃の「イングランド最高峰登頂と湖水地方ハイキングとコッツウォルズ」という9日間のツアー。これを見ていると、なんとも不思議な気分になる。まず、505,000円という旅行代金。実は、私たちの32日間のイギリス旅行にかかったすべての費用の一人分(つまり、日本国内での出費も含めた三人分の全出費を3で割った金額)は、これをはるかに下回っている。おまけに、この旅行代金には空港税や燃油サーチャージなどの追加料金(6万円ほど)が含まれていない。
 次に行程をみると、半分以上は移動の時間で、歩けるのは4日間だけ。とにかく、移動が多い。これは、短い期間でコッツウォルズと湖水地方を欲張っていることが一番の理由。少なくとも、どちらかに絞って、行程を組んだら、もっと歩く時間が生まれるはずだし、費用も多くはならない気がする。もっとも、これは旅行会社がいろいろな人のために募ったものだから、これはこれでいい。ただイギリスへいく場合、たとえ期間が短くても、私はこのようなツアーでは決して行かないだろうとこっそり思う。
 理由の一番は、なんといっても自由にならないことだが、もうひとつの理由は、ツアー旅行の場合、道中であれこれ不都合(不本意)なことがあると、それが自分たちではどうにもならない天気のことまで、旅行会社へのクレームにしたくなる、おまかせ気分がイヤだから。また、旅行中の居心地の悪いことは、決まって自分ではない誰かのせいにしたくなる。そして、意外にこのようなことが旅行の一番の話題(思い出)だったりするから、イヤ。

ここまで書いてきて・・・
 実は、ちょっと迷っている。こうした旅の話は、私たち家族の好き勝手が形になっただけで、誰に押しつけるものでも、お勧めできるものでもない。妻がいうように、慎ましく私たちの中でとどめておくことではないかとも思う。その一方で、思いがけず出会ってしまった、このワクワクする世界のことを誰かに話したい思いもある。と同時に、それがちょっと惜しいような気もする。あるいはまた、これを書くことで、自分のまわりが騒がしくなるのはイヤだなあと思うところもある。
 そんなことを考えながら、かなり以前のことを思い出す。もう10何年も前のこと、私たち夫婦はかつて実際に「フットパス」を歩いたことがある*夫婦から、その時の話を聞いている。しかし、その時は、それがまだでかけたこともない海外の、しかも遠いヨーロッパ(イギリス)の話だったこともあって、心惹かれるものがあったことは確かなのだが、それっきりになっていた。ただ、あの時彼らがとても楽しそうに話していた気持ちが、いまの私にはよくわかる。だから、私も話を聞いてくれそうな人には、こうして話をしてみたいのかもしれない。その場でしか味わえないものまで、私には決して表現できないと思いながら。

いい時期のめぐりあわせ
 それにしても、私たちはいい時期にイギリスのフットパス出会ったと思う。ここまで、私に限らず、私の家族のありようも変わってきたのだが、その変わりようを振り返ってみると、おもしろいことに、フットパスとは出会うべくして出会ったような気もしてきて、私たちの旅の夢はイギリスへでかけ、フットパスを歩くことに落ち着いてきたようにも思える。以下、そんな私たちのここまでの道筋について書く。

ピーク・ディストリクト国立公園モンサル・ディルズ(Monsal Dales )

旅の始まり
 私は高校の時から親元を離れ、下宿生活をするようになって、自分で旅行すること、自分でも旅ができることを知った。親戚にそんな人がいたことも、きっかけのひとつだったと思う。大きな旅といえば、高校2年の夏、一人ででかけた10日間ほどの自転車旅行がある。その後、予備校・大学時代を通じて、旅行といえば、ほとんどが歩く旅だった。例外は、ある時(ちょうど大阪万博の頃)旅行会社の添乗員のアルバイトをしていたことがあって、気取って観光旅行をしたこともあったが、基本はやはり歩く旅だった。勤めてからも、それは変わらなかった。理由のひとつは、車の免許を持てなかったことかもしれない。
 この時代、珍しい部類に入るのだろうが、私は車の免許を持っていない。そして、いまのところその意欲もない。大学生の時、たった一度の免許取得のチャンスに失敗、それがいまに尾を引いている。当時、なんとも甘えた息子だったと思うのだが、私は父にその費用を出してもらい、自動車学校に通っていた。ところが、仮免の試験で大きく脱輪、指導員に「これは人身事故に匹敵する」と怒鳴られ、それですっかりおじけづいてしまった。おまけに、補習に結構な金がかかるといわれ、さらに腰がひけてしまった。結局、そのあと何をすることもできず、自動車学校の費用は全部無駄にし、そのまま車から遠ざかり、いまに続いている。
 この時の反動で、私は歩くことに夢中になった。そして、自分の中でひそかに車に対する敵対意識をふくらませてしまった。とにかく、よく歩いた。県庁所在地を結ぶ旅だとか、函館から札幌までの540キロを9日間で歩くとか、先へ先へと、ただガムシャラに進む感じで歩いていた。山にも登り始めた。結婚してからは、妻を誘って歩き、一緒に山へ登った。そして、走るようになった。ちょうど市民ランナーという言葉が出てきた70年代のこと。やがて、妻と二人で走り、子どもが生まれると、今度はその子どもを連れて、旅に出た。二人目の子(娘)は、一歳になる前から、背負子に入れて、連れ歩いた。

テントをかついで、島の旅
 テントを担いででかけるようになったのは、宿泊代がかさむから。もちろん、車はなかったから、居住用と食料保管用のふたつのテントにあわせた荷物を大人二人が担ぎ、あちこちへでかけた。できうる限りの休暇を取ってでかけたその旅は、主に小さな島のことが多かった。小さな島なら、一度テントを張ってしまえば、ほかに移動することもできないから、そこで落ち着いて過ごせる。それが理由。ほんとによくでかけた。そんな若い頃の写真をみると、それはもう私ではない気がする。バスや電車や船を乗り継ぐ間、荷物は全部背負って歩いたのだから。
 そのテントの旅は、娘が小学5年の時、親離れ宣言をしたのを契機に、勢いを失っていくのだが、それまでは父親の絶対的な権力で「有無を言わさぬ」号令一下の旅だった。そして旅先でも、ほとんどは歩くことが主。もっとも、この頃は子どもに合わせて、まわり道をすることも多く、ゆっくり歩くことも、これはこれでおもしろいと私は満足だった。私はいつも、家族の最後尾を歩き、その後ろ姿を写真にするのが楽しみで、これは形を変え、いまも続いている。思い出しておかしいのは、時に奮発して、遊園地へ行くことになった時、お握りを持って、2時間ほどの距離を歩いていくなら、連れていくと言った私に、子どもたちがよくついてきたことだろうか。

一人旅は・・・というと
 もちろん、一人ででかけたこともある。こちらも、できるだけお金を使わないようにと、テントも多かったが、この時は結構一人にびくびくして過ごしていた。要するに、私はかなりの臆病者で、一見アウトドア派に見られるのだが、それは家族がそばにいて、なんとか格好がついていただけの話。これは何度も感じている。度胸がないといえば、北アルプス穂高の大キレット(絶壁)を前に足がすくみ、いったん山を降りて、向こう側へたどり着ける山道を登り直したこともある。高い所が駄目なくせに山登りをし、自然の中でも、その自然には染まりきっていないくせに、よくでかけていた。バックパッカーの旅なんて、実は柄じゃないのに、そういう自分を演じたくて、でかけたこともあった。

息子との出会い
 そんな私(たち)の旅に変化が起こったとすれば、それは息子との出会いがきっかけだろう。彼が生まれた時、私はマラソンに夢中になっていて、事の次第をしっかり受け止めていたとはいえない。その間、妻がいろんな形で対処していた。やがて、時が経つにつれ、彼の発育が遅れている事実をいろんな場面で目の当たりにし、それで目が覚めた部分もあるし、一方ではその事実を認めたくなくて、なんとかこの状況を乗り越えようと、彼に頑張りを求め、また私自身も頑張り始めたことを、いま懐かしく思い出す。以来、まもなく32歳になる彼と、これまで一緒に暮らしながら、私も妻もあの頃とは随分変わってきたように思う。
 彼を知的障害者というには、私自身いまもって抵抗がある。ほかに知恵遅れという言い方もあるが、これにも抵抗がある。親の希望で普通学級へ通い続けることができた小中学校では、通信簿各教科の評価はすべて最低の1だったのだが、私とくらべ、まずその心根(こころね)の部分から、折々の時の過ごし方、楽しみ方、人との接し方をみていると、遅れているとか、遅れていないという見方はほんとに部分的のもので、彼の方が「生きていく上での知恵は輝いている」と思える時が何度もあった。それは、いまも形を変え、折に触れて、感じる。そして、どちらかというと優等生タイプだった私は、彼にいろんなことを教えられてきた。

息子のこれからのこと
 その彼の今後のこと、私たちがいなくなった後のことを考えたりする。まあ、先のことなど誰にも予測はできないし、結論からいえば、私たちにはどうしようもできないだろうというところに落ち着く。たとえ、もしなにがしかの「遺産」を残すことができたとしても、それが事をうまく進めてくれるものかどうかもわからない。そんなこんなを考える時、ふっと私たちがこれまで、お互いに共有してきた「歩く世界」が、もしかしたらこれからの、(いや)いまの私たちにとって、大事なひとつになるのではないかと思えてきた。その思いは、このイギリスのフットパスに出会って、また強くなったような気がする。
 確かに、小さい頃は無理やり歩かせていた部分もあった。しかし、その結果かどうか、彼はいま他の人にくらべても歩くことを嫌がらず、それが当たり前のことになっている。おかげで、私たちも一緒に歩くことを楽しめている。なんのことはない、これだけで充分ではないか。そんなふうに思うようになった。

イギリスのフットパスを歩くことが好き
 それに、彼はどうやら「イギリスのフットパスを歩くこと」が好きらしい。日本ではなかなか味わうことができない、イギリスの緩やかな丘陵の道や草原の道を歩くことが、彼にはとても心地いいみたいだ。だから、そんな道を嬉々として歩いている彼をみていると、もしかしたら、これがようやくたどり着いた、この家族の「旅の形」ではないかとさえ思えてくる。
 それに私自身、最近日本の山の急な登りや、ただひたすら下るだけ(?)の急な下りには、どこかでうんざりし始めている。おそらく、体力がなくなってきたせいだろう。ウンウン頑張りすぎることがイヤになってきた。そして、できるなら私も、心地いい道をのんびり歩きたいと思うようになってきた。現在、娘は外国で暮らしているため、家族の旅といえば、私と妻と息子の3人ということになるのだが、私たち夫婦の体力の衰えもそのひとつとして、また私の腰痛も加え、それぞれが持つハンディによって、この家族にはほどよいバランスができてきたように思う。

ヨークシャー・ディルズ国立公園マーラム(Malham)
次回から、フットパスの具体的な話にはいります。


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