んだんだ劇場2007年12月号 vol.108
No4
自転車とパソコン

イングリッシュ・ウエザー(雨の日のフットパス)
これまで、どちらかというと、晴れた日のことばかり書いてきた。もちろん、イギリスにも雨の日はある。一ヶ月も滞在していれば、その雨にうんざりすることだってある。これまで三度でかけたイギリスで、三度目の今年(2007年)は向こうの宿の人たちが口をそろえて「最悪な年」というくらいに雨が多かった。テレビをみていると、宿から100キロも離れていないところで大洪水の被害が出ているというニュースが流れていた。確かに今年(2007年)は雨が多かった。それなのに、どうしても歩けなかった(歩く気がしなかった)日はたったの2日しかなかった。
アッシュ・ムアー(ピーク・ディストリクト)
雨は毎日なんらかの形で降っていた。だから、雨に濡れたことは何度もあったが、不思議と雨にうんざりしたという感じがない。むしろ、そうした連日の雨にも関わらず、私たちは結構陽射しの中を歩いていたような気がする。この謎めいた話の種明かしは、イギリスの変わりやすい天気にある。いま降っている雨も、ゆっくりと時間が過ぎれば、そのうちにあがり、さっきまでの暗い空が嘘みたいに、雲の間からまぶしい陽が射してくる。そして、あっというまに青空になる。最初はたまたまのめぐり合わせかと思っていたのだが、これが毎日のことになると、雨の受け止め方もだんだん変わってくる。これが、イングリッシュ・ウエザー。
2007年の場合でいうと、朝ぐずついていても、昼前には空も晴れて、明るくなり、やがて陽が差してくる。ほんとに、さっきまでのあの薄暗い感じはなんだったのだろうと思えるくらいに、からっと晴れ上がってしまう。それは映画の場面が変わるように、物の見事というしかない。毎日こんなパターンが続くので、いっそのこと、昼前から動けばいいのかなとも思ったりした。夜は9時過ぎまで明るいのだ。いや、残念ながら、私たちは朝型人間。それで、今年はそんな展開を予想(期待)して、でかけることが多かった。するとまた、ちゃんと予定通りに晴れてくれる。そして、「そーれ、やっぱり今日もそうだったじゃないか」と思う。なんだか儲けたような気分になる。

雨が晴れたグロサップ近郊のフットパス
しかし、まれにおまけもつく。変わりやすい天気ということは、全天晴れわたった空から、突然こんなはずじゃなかったという雨が落ちてきたりする。日によって、そんなことが何度も繰り返されることだってある。ただ、その雨もやがてはまた晴れる。必ずという保証はないのだが、雨というものは、しばらくすれば晴れるもの。今年は、イギリスでは。

2007年7月4日の日記
5:30起床、外の様子が気になる。路面が濡れ、雨が降っている。ただ、明るく感じる時もある。昨日のパソコン日記を打ち込んだ後、画像処理のソフト確認。やっぱり不調。二人は寝ている。通りに面したこのホテルでは、着いた時から通りの車の音が気になった。これまで静かな部屋だったせいもあって、その音が耳につく。そのうち慣れるだろう。この雨模様の状態で、どこへ行ったらいいのか、見当つかず、空を見る。時間があるから、日記の中の数値集計部分(支出・歩数・画像情報)などを見やすく整理。二人6:15起床 7:30朝食。ここの食事くらいがちょうどいい。今回、このホテルではあまり折り紙をやらない。前の宿でやり過ぎたせいかな(?)。地図を見ても、私にアイデアなし。妻の提案・・・昨年最後の日に歩いたSettle周辺を逆コースで歩き、途中の様子をみて、コースを変えようという案で決着。*****の**さんへお礼の手紙&**送付。遅ればせながらの実施。思いつくままの手紙を書き、9:00郵便局で住所&切手確認、投函。
パラパラしていた雨上がる。******* 9:26 (鉄道) 9:50 Settle。一度歩いた道は気持が楽。これは、歩行中地図担当の妻がより強く感じることだろう。10:00 Settle Market Placeわきの坂を上り始める。やはり雨模様。ただパラパラ雨も、しばらくすれば止む。昨年は快晴だったことを思い出すが、救いは視界が利くこと。急なのぼりの後の草原は昨年気に入ったコース。登りつめたところで、湧き水が発生しており、迂回。11:10-20休憩を取ったら、また雨がパラパラ。ひどい雨ではなく、また止む。12:10-20パン昼食、私は食べたくない。腹一杯なのは、朝食をたっぷりとっているせい。風あり。農家のところまでは昨年の逆コースで、そこから滝経由で下に降り、様子をみて川沿いをSettle駅まで戻るコース。雨が何度も降っては止む。この頃になると、青空と雨の繰り返し。川沿いのコースは最初のうちの草原がよかった。

雨が上がったセトル近郊のリブル・ウェイ

セトル近郊のフットパス(遠くでは小学生たちが雨の中のサッカー)
今朝の雨模様を考えると、今日はなんだか儲けもののような感じ。とにかく満足したコースを歩けたことに感謝。快晴になった後の天気雨があがり、また雨。小学生がこのHeavy Rainの中でサッカーの授業。教師も平然としている雨感覚に驚き、土砂降りに近い状態でカメラを濡らさぬように気をつけながら、何度もシャッター。いまさら傘をさす気分にもならず、ずぶ濡れ状態だが、私の靴は中まで浸みていない。二人の登山靴の中はすでに濡れ、最後には捨ててしまおうとも言っている。(こんなはずじゃなかったのに)
15:10 Market Place着。二人は先に駅へ。ここで昨年も買ったChips(1ポンド)を買い、暖かいまま駅で食べる。15:38出発まで、天気は青空から雨、曇り空と何度も変わる。列車は定刻の到着、途中あちこちで冠水している草原をみるが、行きの時より水量は多い気がする。16:05 *******着、Morrisonで買物、16:35部屋に戻る。私息子妻の順でシャワー。息子の洗髪、体洗いをそばで見てやる。画像処理(ACDSee)ソフト不良のため、パソコン取り込みに時間がかかり、その間葉書を二枚書く。二人は寝ている。18:45息子は疲れて寝たままなので、私が一人で夕食を買いに行く。***への折り紙プレゼントは回る華。19:05-20今日も豪華な夕食。外では若者たちがキャアキャアしている。警察官も多数出ている。二人は寝る。インターネットをしにでかけ(20:15-21:15)、戻って少しの画像処理の後、21:30就寝。

セトルの駅
2007年6月25日の日記
6:25 起床、パソコン日記。Rain&Windの予報通り、外は風雨が強く、これでは歩けない。息子が離れのこの部屋の中でパソコンの小林旭「熱き心に」にあわせ、得意の腰ダンス。部屋にいると、ここがイギリスであることをしばし忘れる。8:00-9:10ゆっくり朝食、その後こちらも長期滞在のアメリカン・レディに折り紙のコマを教える。いや一緒に折り紙時間を楽しむ。部屋で休憩の後、母屋のリビングへインターネットしにいく。アメリカン・レディからの「HAIKUプレゼント」が椅子の上に置いてあった。

Kenji new friend
Fingers move create beauty
Treasures always ours

Raining brings us time
To create dancing,speaking art
Kenji works majic
      
  J***** B****

(注)彼女らには、ハートのリング、キャンディボックスやアクロバット・ホース、おしゃべり蛙(フロッグ)をプレゼント。折り紙のことについては、別の機会に詳しく書く。

雨の日、アメリカン・レディーと折り紙
ほかにすることがないので、ゆったりとこれまでのブログを更新(10:00-12:30)。妻は部屋で折り紙のくす玉作り(宿の夫婦へプレゼント予定)。窓の外は依然強風雨。今日のウォーキングは諦める。
14:10雨の中、一人洗濯のため、コインランドリーへ徒歩15分。ずぶぬれになったが、ヤッケをきていたので問題なし。二人には休養時間。Wash(14:35-15:00)-Spin(15:05)-Dry (15:10-15:30)、Coopで買物し16:00部屋に戻る。16:15-16:30インターネット。17:00-17:50休養。18:05三人で外へ。雨やっと小止み状態。いつもとは別の道を下る。お馴染みの***が定休日のため、今日は**で夕食を買う。昨日からの雨で町の小川があふれている。旧市街方面からManor Parkへ歩き、そこでも小川が大氾濫のさまをみて、19:30宿に戻る。19:45-20:15豪華な夕食(Shurimp Fried Rice4.6、Fried Mixed Vegetable2.4、ハム、ジャガイモ缶、コーン缶、苺パック、牛乳&ワイン)。雨が上がった宿の庭を見る。21:30就寝。

できれば、雨の中は歩きたくない
元々、私(たち)は雨の中を歩くのが好きではない。そんなこともあって、あらかじめ誰かと野外へ出かける約束をあまりしなくなった。約束をすれば、雨でもでかけなければならないから。我が家の3人なら、その日の天気によって、やめることもできる。最近は時間的なゆとりもあるせいか、天気予報をみて、晴れた日を選んで、計画を立てる。あるいは、快晴の朝に急いで用意をして、でかけることもある。とにかく、基本的に雨の中は歩きたくない。濡れるということがいやなのと、雨の日は総じて視界がよくないし、のんびり、ゆったりした気分にならないからだろう。もはや、若い頃のように「雨をもろともせず、ずんずん進む」という感じはなくなっている。しかし、一ヶ月のイギリスで雨は避けられない。

BBCテレビの天気予報
部屋のテレビをつけるのは、その日の天気が怪しい場合が多い。(因みに、原則として、それ以外の時はかけない。かけても、よくわからないのが一番の理由。それに、なによりテレビは騒々しい)。今年は雨模様の日が多かったから、念のためにと、音を消したテレビをつけ、朝のワイドショーで何度も繰り返される天気予報で確認する。ただ、日本とは違って、イギリスのまわりの海が雨を連想させる濃い青色で、陸地部分はどんよりとした曇りにつながる薄茶色で示されており、これに雨の降っている部分の表示がかぶさってくるので、いつも雨が前提の天気予報に思えてくる。実際、しょっちゅう雨が降っているとしか思えない。それに、天気がころころ変わるこのイギリスにおいて、天気予報がどれくらい役立つものか、実はよくわからない。ただ、晴れてほしいなあと思う時にだけ、天気予報をみていた。
参照:BBC・ウエザーセンター http://www.bbc.co.uk/weather/ukweather/

雨に平気なイギリスの人たち
イギリスに行って、「やっぱり、私たちは日本人だ」と感じるのは、ちょっとした雨でも、条件反射のように傘をさす時だろうか。雨には濡れていけないもの・・・という感覚が私たち(日本人)にあるのかどうか。イギリスで雨に出会うたび、ここではたくさんの人たちがそれぞれの濡れ方で、実に堂々と雨に濡れている。どうして、わざわざ、そんなにしてまで濡れるのだろうと思うくらい、傘なんかささずに雨の中を歩いている。
雨に濡れながら、街の通りの椅子でティータイムしている人。雨の日の学校への行き帰り、「傘なんか、持ってるわけないさ」という感じで、平気で濡れながら、話しながら歩いている生徒たち。学校では、どしゃ降りの中でもサッカーの授業を続けている先生、そして嬉々として走り回っている生徒たち。山でも、草原でも、ずぶ濡れになりながら、歩いている人たちをよくみかける。そんなんじゃ、後で風邪を引いてしまうだろうと思うのだが、至る所で「雨なんか、まったく平気」という光景に出会う。考えてみれば、「雨に濡れてはいけない」なんてことになったら、イギリスでは生きていけないのかもしれない。

雨のペナイン・ウェイイ

雨のステインフォースにて
これまでで一番ひどい雨だったと思えた日(2006年7月9日)でも、私たちが大問題にしていたその雨に、拍子抜けするくらい平然と、いや超然としていた人たちのことを思い出す。それは、Yorkshire Dale の Dent から Ribblehead まで峠越えをした時のこと。最初は陽も差していたのだが、やがて降り始めた雨はとうとうホテルに戻るまでやまなかった日のこと。
私たちはずぶ濡れになって Ribblehead の駅に到着。早速、その時持っていた予備の着替えで、可能な限りの保温を考え、小さなこの駅舎でその時間帯だけ開いていたショップで1ポンドのホットコーヒー(インスタントだったが)を買い、温まっていたら、子どもたちが入ってきた。私たちのような雨具の装備もなく、一体どこをどう歩いてきたのか、先生もまたずぶ濡れになっていることをさして気にするでもなく、そのままの格好で40分ほど電車を待っていた。
あるいは、途中合流したもうひとつの道では、やはり濡れたままの親子が犬を連れて、私たちの前を歩いていく。そういえば、途中ですれ違った人たちも、あるいは追い抜いていった人たちも、雨具は着ていたが、「まあこんなものさ」という感じで歩いているように見えて、この場合に限らず、雨の日のイギリスの人たちを見ていると、私など逆にほっとするようなところもあった。

リブルヘッドの駅舎にて

リブルヘッドのフットパス
そんな雨の日のフットパス。やはり晴れていたらなあとは思うのだが、多少の雨なら、そのうち晴れることもあるのだろうと歩いてみる。そして、どうしようもない雨なら、雨で楽しめることを探す。そのひとつが、これから書くデジカメとパソコンだろうか。

「フィルムカメラ」から「デジカメ」へ
以前から、旅行にカメラは欠かせなかった。ところが、イギリスに行き始めた頃から、あの重いカメラをぶら下げて歩くのがつらくなり、イヤになってきた。カメラがイヤなのではない。カメラの重さがイヤになった。もうひとつ、これは間違いなく年のせいだろうが、カメラのピントを合わせるのが大変になってきた。これまで愛用のカメラはフィルムカメラ(コンタックス)。メモ代わりに使っているオートフォーカス(自動焦点方式)のポケットカメラでは満足できず、写真を撮る目的の時には一眼レフを持参、シャッターのたび、ピントを合わせていた。しかし、世の中いつのまにかデジカメ時代。あちこちでデジカメをみるにつけ、だんだん気になってきた。その一方で、まだまだ早すぎる気もしていた。どこか、おもちゃの感じがしていたからだろうか。それで、いつもの癖で、模様ながめの状態が続いていた。
ところが、突然(!)デジカメを考えなければならないハメになった。退職後、無収入という状況になって、フィルム代や現像・プリント代の出費が直接こたえるようになった。そこで、二年目のイギリス旅行の時、試しにコンパクトなデジカメ(PENTAX Optio M10)を買ってみた。ただし、デジカメだけでは不安なので、この時は従来の重いカメラも持参。同じ風景を撮りくらべてみて、あっさり「デジカメで充分」ということになった。まずは、デジカメの世界がこれほどまで進んでいることに驚いた。いまとなっては、フィルムカメラにこだわっていた自分がおかしい。もちろん、フィルムカメラの良さは認めるが、いまの私にはデジカメの利点ばかりが多くなった。

チャッツワース(ベイクウエル)

ハワーズを歩く
そして、これを機に私の中に変化が起こった。昔から、写真はたくさん撮る癖がついていたのだが、デジカメで撮った写真をパソコンの画面で大きくして眺めたら、これが意外にいい。ポケットカメラなどと馬鹿にしてはいけない。パソコンの画面だけで充分に思えてきた。いや、気に入ったわずかなものをプリントするだけで充分。二年目にはパソコンを持っていったこともあり、旅行中に大量の画像処理もできて、充分に楽しめた。それで、三年目は小さなデジカメだけを持参。その代わり(?)、途中で一台壊れてしまうのが心配で、もう一台購入した。ともかく、これで気軽に写真が撮れるようになった。静止した状態の写真なら、以前のフィルムカメラと遜色ないのだと思う。おかげで、荷物も軽くなった。(もっとも、後で別のしっぺ返しを食らうのだが、この話はいつかまた・・・)

パソコン持参
二年目からパソコンを持っていこうと思ったのは、デジカメのためというのがひとつの理由。一ヶ月という期間だと、手持ちのSDカードだけでは容量が足りない。なにしろ、私はたくさん写真を撮る。そこで、現地で毎日その都度、パソコンにデジカメの画像を取り込むことにした。もうひとつは、外国にいる娘との連絡にインターネットを使った交信が必要になった。もっとも、この辺の知識が充分だったわけでもなく、どちらかというと苦手な分野だったのだが、物事追い込まれると(そして、それがどうしてもしたいことなら)、結構なんとかなるもの。事前にヤフーやら、パソコンメーカー(東芝)、ヨドバシカメラなどに確かめられるだけ確かめて、なんとかなった。

トイレがパソコンルームになる(二人が寝ている場合)
パソコンへの画像の取り込みは、電源さえあれば、どこでもできる。(注:イギリス仕様のコンセントに差し込むためのプラグ・アダプターと、パソコンに対してはイギリスの電圧に対応するケーブルの準備は必要) ただ、インターネットへの接続はそれができる場所を探さなければならず、これはいまのところ、それなりのエネルギーを必要とする。これまでパソコンを持参した2回の旅、8ヶ所の町で1ヶ所だけどうしてもできない町はあったが、それなりに探し回れば、利用できる形はそれぞれに違っても、まあまあなんとか接続できた。

インターネットへの接続
これは、あるゲストハウスの無線LANが使えた場所を除き、すべて有料。一番高かったのが10分で1ポンド。これまでの体験から、15分1ポンド、30分2ポンド、1時間3ポンドといったレートが妥当かなと、自分では受け止めている。時に、時計とにらめっこの場合もあるが、通信文などはあらかじめ作成しておいて、店でインターネットに接続した後、それらをコピーして使う工夫をして、娘だけが見れるブログを画像つきで更新する。これらは、すべて私の余力で作った時間、つまり妻や息子が休んでいる時間に行なう、私の自由時間での世界。だから、その店の中での私の様子を妻も息子も知らない。
その店というのは、いろいろに探し、尋ね回って、やっとみつけることが多い。今迄で一番遠いのが、宿から歩いて15分くらいのところ。現在の私のパソコンは東芝TX760LS。画面が大きい分、かさばって、結構重い。だから、持ち歩くのはそれなりに大変なのだが、楽しみの時間のためには、なんとか我慢できる。時間は、午前中に歩いた後の午後の時間だったり、夕食を買いに出たついでのことが多い。パソコンタイムが終わった帰り、休養中の二人の希望の夕食を買っていく。もちろん、それぞれの店の雰囲気も違い、店とのめぐり合い方もそれぞれだから、やる内容は同じでも、そこでの過ごし方はそれぞれに違う。

それぞれの町のインターネット接続
海外での最初のインターネット体験(ブログ更新)は、さる観光地のパソコン・ショップの一室。拙い英語で、自分のパソコンをインターネットに接続したい旨を伝えると、パソコンの準備を始めた段階から、デジタル時計がポンと押され、カウントされる。こんな場合の「10分1ポンド」という料金はあまり心地いいものではない。やたら自分を急かせるこの感じは、これまでほとんどやったことがないテレビゲームをしているようなものだろうか。それで、二日目からは、その時計を事前に受け取り、パソコンの準備がすっかり完了してからポンと押す。たいてい10分では終わらず、目安の20分手前になったら、終了のポンを押し、急いでパソコンを終了させる作業に入るという、自分なりのルールを作って、使わせてもらった。
アトリエの二階がその場所になっていた店では、まわりの絵に囲まれ、窓の向こうに街の通りを見下ろす落ち着いた雰囲気の中、店の主人の気に入った音楽が日替わりでかかっていて、これが楽しみだった。インターネットの反応(ブログが更新されるの)を待つ間、それなりに時間があるので、この時間のために持っていった折り紙で作ったものを、いつも帰りにプレゼント。そのせいか、時間がオーバーしても、たいていは30分1ポンドにまけてくれた。

ある町のバーにある、私のくつろぎ場所
雰囲気でいえば、バーの片隅にその場所がある店もよかった。私がパソコンを開くと、「なにか飲み物は?」と聞いてくるので、たいていはスモールビールを頼む。これが1.3ポンド。実は、飲まないでもタダで回線を使えるみたいなのだが、やはり気が引ける。午後の時間はお客がまばら。夜になると、そばでお客がわいわいやっている中、一人ビールをチビチビやりながら、パソコンに向かう。隣の席に誰かいることもあったが、たいていは一人のことが多かった。実は、ここも探しに探した結果、やっとみつかったお気に入りの穴場。
ほかの町のパソコン・ショップでは、若者たちがたむろしている中、東洋の変なおじさんがパソコンをしているという妙な感じだった。彼等がパソコンゲームに夢中になっているそばで、私も堂々とマイペースの時間を過ごしている。気楽なのは、こちらは日本語なので、のぞかれるという心配がまったくないこと。10日ほど滞在したその町では、毎日やってくる若者(青年・少年)たちに折り紙パフォーマンスをしていたせいか、彼等からよくビスケットが回ってきた。

私がプレゼントした折り紙で遊ぶ若者たち
しかし、一番よかったのは、宿の中でインターネットに接続できた時だろう。そんな場所が一ケ所だけあった。もちろん無料。その無線LAN、自分の部屋では使えず、リビングルームに限られていたのだが、二人が休んでいる時間なら、いつでも好きなだけ、リラックスした気分で使えたので、雨で閉じ込められた日は願ってもない時間となった。
逆に、唯一できなかった(どうしても、できる場所がみつからなかった)町の宿では、宿に尋ね、あちこち探し回ったこともあって、ご主人のパソコンを借りて、娘にメールすることができた。ちょうどその日が娘の誕生日だったので、そんな話をしたら、ご主人が撮ってくれた画像を付けて、送るオマケまでついた。

パソコンの魔力
パソコンは得体のしれない魔力を持つ「おもちゃ」だと思う。その魔力については、私がここに書くまでもない。気がついたら、私もパソコンが必要な人間になっていた。会社勤めだった頃は、会社でずっとパソコン漬けだったせいもあって、家に戻ってまで、パソコンをやりたいとは思わなかった。だから、娘から譲り受けた使い古しのパソコンは半分眠っていた。ところが、会社を離れた途端、パソコンの世界が急に迫ってきて、それが広がってきた。そして、心地よく身に迫ってくるものだから、会社の時とはくらべものにならないくらい、その辺の勉強も始めてみる。
ただ、インターネットを使ったメールのやりとりは、どちらかというと最小限に控えている。ブログも楽しんではいるが、娘との交信用(?)であって、公開はしていない。これは、携帯電話を持たない理由とも重なっているのだが、便利・簡便ゆえの煩わしさを避けたいという思いが強い。そこで、メールの部分は自分が本当に交信したい人のみに限っている。

パースレイ・ヘイのフットパス
旅行日記・金銭出納帳
イギリス滞在が一ヶ月。パソコンがその威力を存分に発揮しているのが、デジカメで撮った画像の処理、そして二年目に作った「旅行日記」と「金銭出納帳」を合わせたエクセルファイルの活用。内容の詳細は紹介できないが、金銭出納帳にその日の出費内容と金額を打ち込むと、その日の項目ごとの出費合計、旅行全体の出費(累計)もすぐに出てくる。これにはイギリスポンドとその時点での日本円への換算も設定している。(2007年は1ポンド250円に設定)
費用の項目としては、宿泊代(これが一番大きい)、食費、交通費、雑費、そして私の出費として、小遣いとアルコール代の区分け。滞在中の一日の費用の目安は、3人で100ポンド。宿代を75ポンド以内に抑えると、まあまあの線で収まる。日本での日々の生活では、出費の記録などつけてもいないが、多分旅行という特別な世界をおもしろがっている部分と、できるだけ無駄をしないようにという意識も働いているのだろう。旅行でも、毎日の生活のリズムをそのままにするのが私の理想。記録することで、がんじがらめにするつもりはないが、3人の中でまだ余力のある私が、その日受け取ったレシートやチケット、メモを基にパソコンに入力すると、いろいろなものが自動的に集計される。余談ながら、昨年と今年の比較。宿泊料は120ポンド増え、食費は68ポンド、交通費は96ポンド、アルコール代は42ポンド減り、全体で80ポンドほど減った。ただし、ポンドと円の換算レートは昨年(2006年)220円、今年(2007年)250円。

この日記・出納帳には、少しずつ項目が増えていく。たとえば、旅行中の楽しみとして、妻がつけている万歩計の数字。これは、夜ベットにつく時の数字を朝入力する。これは、山の斜面と平坦でも誤差がでるから、あくまでも目安。今日は歩きすぎかどうか、体の感覚とくらべてみたりする。また、昨年との比較では、数字が減ってきている。きっと、途中の休み時間も多いし、歩く時間も少なくなってきた。代わりに、私が写真のために立ち止まることは多くなった。その写真の画像容量なんかの数字も入れてある。
なにより多くのスペースをとっているのが毎日の旅日記。(今回も、最初の方に掲載) これは、歩いている時にメモしたものや、デジカメの画面をメモ代わりにして、その日の行動のあらましを、時間を追って、日記スタイルで打ち込む。同時に天気のことにも興味がわいてきて、その移り変わりを記入する。これらは、パソコンだから、気軽にできることなのだと思う。

バクストン郊外
時代遅れの心地よさ
ところで、私は携帯(電話)を持っていない。一緒に暮らす妻も息子も持っていない。決して、無理をしているわけではない。3人が3人とも、いまのところ、その必要を感じていないからだ。以前会社勤めだった頃は、管理者としての役目柄、会社支給の携帯を持たされた。その時初めて携帯を体験し、その便利さと煩わしさを知った。以前から私には、携帯を持って、歩きながら大声で話している姿が奇妙でこっけいだった。それはいまでも変わらない。その私が、退職に至る5年ほどの間そんな姿をさらしていたわけで、やはりみっともなかったと思う。
しかし、なにかのきっかけで、これをいつありがたく使うことになるとも限らないので、このことはあくまでこっそりと言う。たまたま、いまのところ、私たちには無縁なのだと。なくて、困っていない。どこでも連絡可能ということが、いまのところ、そんなに魅力的なことには思えていない。公衆電話で充分。(もっとも、この公衆電話の数が最近は少なくなってきた) 連絡が取れないなら、その時はその時という割り切りが家族のお互いにある。そして、どこかでこの「時代遅れの感じ」が適度に心地いいのだとも思っている。自分でもあえて追跡しないし、追跡されてもいない感じがいい。この状態がいつまで続くかわからないが、いまはこのままでいいのだと思う。

これまでにも、似たようなことがいろいろあった。総じて、便利なもの、時代の流行(はやり)モノにはいつも反応が遅い。車については、先にも書いたが、ちょっとこじれた事情(仮免での失敗)から縁遠くなり、私はいまもって、運転には無縁。ただ、妻が運転することで、8年ほど前やっと車を購入した。ワープロも、パソコンも、テレビもそうだった。便利なものを決して拒否はしないが、できる限り時期を遅らす形でめぐりあった方が、私の中ではバランスが取れていいのだと思っている。
実は、その便利なものに慣れたら、きっとのめり込むに違いないということも計算に入れて(?)、私なりのバランスを保っているのかもしれない。そんな自分とイギリスのフットパスと、まったく関係のないことのようだが、私の中ではそれなりにつながっているような気がしている。

グラシングトンから川沿いに歩くデールズ・ウェイ
旅のきっかけ
私はたいていの場合、とっかかりが遅く、かなり追い詰められて、やっと腰があがる。それまではけっこう格好悪く、ぐずぐずしている。加えて、人がやっていることには、意外に素直になびかない、あまのじゃくなところがある。ところが、一度味をしめると、これまでが嘘みたいに、一人で勝手に舞い上がり、夢中になり、まわりがみえなくなる。これまでを振り返ってみると、実にいろんなことがあてはまる。このことは、旅についてもいえる。そして、それぞれの変化に、必ずめぐりあわせのようなきっかけ(出会い)がある。そんなことを書いてみたい。
まだ、家を離れた世界を知らなかった子どもの頃、親戚の中で旅行する学生の話を聞いて、それがどういうものか知らずに憧れた。高校の入学から下宿生活をすることになって、思えばそれが旅の始まりなのだろうが、一人寂しさの中から、おっかなびっくり一人旅をしてみたいと思うなにかが生まれた。高校一年の時の10日あまりの自転車旅行は怖いもの知らずと若さでできたことだと思う。一度体験すると、そこから旅の世界は広がっていく。金はなかったが、時間はあった。できるのは歩くこと。40年前、大学浪人していた時、落ちた大学の構内を走る一方で、結構歩いた。歩くということは、あの時代の私には反逆的な感じで気持ちよかったのだろう。車の仮免に失敗し、車に距離ができて、ますます歩くことに夢中になった話は前に書いた。
会社勤めを前に、これでもう自由な時間はなくなってしまったのかと思ったが、意外や意外、求めれば、自分で自由にできる時間は手に入れられることを体験した。その繰り返しが、33年の会社勤めだったような気がする。ただ、なぜか海外へはなかなか関心が向けられなかった。やはり、気おくれがあったのだと思う。

海外旅行のきっかけ
最初のきっかけは、大学生の時旅行会社の添乗員アルバイトでお世話になった方から、90年2月中国に誘われたこと。その時の心地よい刺激から、私は2ヵ月後の春休みに家族を誘って、北京にでかけている。一度味をしめると、今度は違った形ででかけたくなった。それから、行き先はアジアへも向いていったが、それは冒険旅行などというものではなく、ホテルと飛行機だけが決まっている、個人的なフリープランというタイプのツアー。これが、私(たち)には程よいものであると、すぐにわかった。ただ、アジアは料金的にも距離の近さからもすんなり受け入れられたが、ヨーロッパとなると、こちらにはまったく思いも至らなかった。

ヨーロッパという世界
きっかけは、友人の家族がデュッセルドルフ(ドイツ)に住むことになった2002年。「遊びに行きたいね」という、思いつきから出た言葉がそのまま現実になった。今後のことはわからないが、元々団体旅行というものは頭になかったから、どうやって自分なりに動けるのだろうかと考えるところで、ヨーロッパは躊躇していたのだが、彼らに会いに行くという具体的な目的ができると、これがエネルギーになった。そして、最初のヨーロッパ(フランクフルト空港)で、私はこれまでに体験したことのない、頭が真っ白になる状態を経験する。内心、それなりに旅慣れている(はず)と思っていた私が、ほんのちょっとしたことで、すっかりまわりが見えなくなって、動転する場面を迎える。
いま思えば、状況が悪かった。フランクフルト空港からデュッセルドルフ行きのバスに乗る予定だったが、発車まで20分少々しかなく、それであわててしまった。出発場所がみつからない。間が悪いことに、たまたま聞いた何人かに私の英語が通じなかった。それで、あわてた。そしたら、空港のドイツ語の表示が、急にワケのわからないものになった。いま思えば、なんとも滑稽なのだが、15分かそこら空港内をやたら動き回った。それでも、みつからない。時間は過ぎていく。ああ、遅れる。どうしよう。
実をいえば、何のことはない、階を間違えていただけのこと。いまは、いくらでも笑える。そして、妙に懐かしい。遅れたら遅れたで、ほかに方法はいくらでもあったはずなのに・・・。似たようなことは、その後イギリスでは何度も経験する。しかし、英語圏のせいもあるのだろうか。場面に慣れてきたせいもある。一息ついて、落ち着けるようになった。もうひとつは、家族が一緒ということもあるのだろう。

モンサル・トレイ
旅仲間としての相性
一人の旅でなければ、いまはほとんどが家族と一緒の旅になりかけている。どちらかといえば、家族以外の人との旅は好まないのかもしれない。理由ははっきりしている。家族と一緒の方が、私には居心地がいいからだ。家族と一緒の旅のキャリアは長い。気心が知れている。なにより、これまでそれなりの時間をかけて積み重ねてきた、こういう旅の仕方について、お互いに合意ができて(?)いる。大体において、一ヶ月も旅をして、また一緒に出かけようなんてことは、他にはなかなか考えられないことだろう。これは、旅仲間としての相性、バランスといったものだろうか。お互いの癖を知っていて、それなりにわがままが利くし、お互いの状況も理解できる。ここで詳しくは説明できないが、息子の心の悩み、実は妻のしたいこと・・・などなど。

グラスミア湖近くのフットパス
私自身の変化
振り返ってみれば、私たちの旅も少しずつ変わってきた。私自身が一番変わったと思う。若かった頃は若さのまま、がむしゃらに完璧を求めていたところがある。完璧という言葉の代わりに、とことん・・・という言葉を使ってもいい。それで、よく妻と喧嘩になった。要するに、私は体力にまかせて、欲張りだった。まだ時間があるから、もっと先を歩きたい。向こうの山へも登りたい。できる限りのあれもしたい、これもしたいと、これは病気のようなものだった。それが、いま全くなくなったかというと、そうでもない。ただ、ほどよく適当でよくなった。その方が心地いい。
一番のきっかけは私自身の、さらには妻の体力の衰えだろう。「なにをあせってるんだ、もっとゆったりしたらいいじゃないか」 無理がきかなくなってきた自分に対してそう思う気持ちに、体の方が自然になじんできた。そして、これからの家族のありようについて考えるようになった。

息子とは、おそらくこの先、私たちができる限り一緒に暮らしていくことになるだろう。ただ、私たちがいなくなった先のことは、私たちにはどうしようもできないことだから、いまあれこれ考えても仕方がない。それなら、その時までは家族でこれまでのような旅をしていきたいと強く思うようになった。旅といっても、私たちの場合は我が家の暮らしの延長のようなところがある。そういいながら、一番わがままがいえるのは、依然として私であるという「いいとこどり」をしながら、いま旅の中に、私たちなりの落ち着き場所をみつけられているような気がする。

イングルボロウ山への道
はぐれない旅、分かれ道では待つ息子
ここまでのイギリス旅行で、ありがたいことに三人がはぐれたことはほとんどない。いや、一度だけある。最初の年、ロンドン経由で日本へ戻る前日。ある町で、私が絵葉書を買いに店に入った拍子にはぐれて、一時間半ほど別々に過ごしたが、荷物を預けていた宿では合流できた。
はぐれる・・・という意味で、一番の心配は息子なのだが、彼を長い時間見失ったことはない。それというのも、はぐれたかなと思った時、彼は決まってその場を動かないからだ。これは、彼が小さい頃から変わらない。おそらく、彼が自然に身につけた彼なりの知恵なのだと思う。ほぼ例外なしに、そういう状況になった時、彼はその場を動かない。どんなに時間が過ぎても、その場を動かない。その一方で、彼を探すためあちこち動いて、時間を費やすのは決まって私たち。そういうことなら、たくさんある。ほとほと疲れて、元の場所に戻ってみると、たいてい彼はそこにいる。
フットパスを歩くようになってか、最近は彼が先を歩くことも多くなった。道の状況はいろいろ、もしやという場合もあるにはあるが、決まって分かれ道のところで、彼は待っている。待つということでは、彼には特殊な能力がある。まるで忠犬ハチ公のようなところがある。

懐かしい、ある事件
彼が中学生だった、19年前の話。その日、私たちは遠くの町へ用事があって、でかけた。車を持っていない私たちは、自転車で駅まで行って、駐輪場に預けた。実はその日、私たちはでかけた町で思いがけず友人に会い、その人の車に乗せてもらって、家へ戻ることになった。おかげで、予定より早く家に着いたわけだ。戻ったら、息子の姿が見当たらず、彼の自転車もない。駅に預けた自転車は明日にでも取りにいくことにして、彼を待った。だが、彼は戻らない。暗くなっても、戻らない。思いつくところは電話したが、彼はいない。だんだん心配になってくる。娘(彼の妹)は泣きべそをかき始めた。そこで、私は駅へ自転車を取りにいくことにした。あちこち探すにしても、自転車の方が便利だろうと思って。
その駅の駐輪場の前で、私は息子の自転車をみつける。おそらく、金を持っていなかったので、駐輪場には入れられなかったのだろう。そこで、念のため駅のそばも探してみたが、みつからない。一体どこへ行ってしまったのだと、内心腹も立っていた。しかし、駐輪場の前にポツンとある彼の自転車をみると、やはり心配は変わらない。その時、私は「もしや」と思って、駅の改札がある地下への階段を下りていくと、そこに彼がいた。話を聞けば、駐輪場に私たちの自転車があるので、改札のそばに座って、私たちを待っていたのだという。彼をみつけたのが午後8時。かれこれ4時間くらい、彼は待っていたという。駅からの道、息子と自転車のライトをふたつ並べて走りながら、私は彼の話を聞いていた。

「のぼりがあれば、くだりがある」
思えば、もう少し危ういことが、これまでに3回あった。なぜか、どれも彼と自転車旅行をした時のこと。息子は小学校の頃から自転車に乗るのが好きだった。就学時健診で、彼は特殊学級を勧められたのだが、なぜか私(たち)はそれには従えず、あくまで普通学級を希望。おかげで、毎年進級のたびに、教育的措置という「特殊学級へのお勧め」を断り続けることになる。そんなこともあって、私の「若い血」が燃えたのだと思う。彼が小学5年の夏、220キロ離れた私の両親の住む町までの自転車旅行を企てた。一学期の終業日、彼は子供用自転車で、私はあえてママチャリの後ろの荷台にテント用具一式を積んで、4泊5日の予定で旅にでた。
今から21年前(1986年)の話。無謀といえば、無謀な話だった。私たちは小学校の校庭にテントを張り、旅を続けた。あの頃はそんなことができた。学校の校庭ならどの町にもあるので、夕方を迎えた町で、校庭を探し、少しうす暗くなった頃にテントを張った。
1986年の自転車旅行
忘れられないのは、ある山脈を越えた時のこと。この時の体験は、彼のこれまでの世界を完全に超えていた。どこまで行っても、目の前の上り坂は終わらないのだ。最初は元気のよかった彼が自転車を投げ出して、もういやだと泣いた。予想していたことではあったが、ここまで来てしまうと、もう戻るに戻れない状況になっていた。私は道端にうずくまる彼のそばにすわって、待った。なにを待ったのだろう。そのうち、きっと彼はまた自転車を押すだろうと思った。いや、祈った。常套手段(?)、チョコレートなんかでご機嫌をとったりもした。しばらくして、彼は自転車を押し始める。しかし、また自転車を投げ出す。そんな繰り返しだった。この時は私が待った。そうするしかなかった。随分な時間だったと思うが、ほかに方法がなかった。
しかし、そのうち、私たちは山脈の峠にたどり着いた。思えば長い時間だったが、下り坂になってみれば、もうさっきまでのことなど飛んでしまう。なんといっても、それから20キロ近く、私たちはペダルを踏むことなく、その山を下ることができたのだから。実をいえば、それはママチャリのブレーキが焼き切れるほどの坂だったのだが、そっちの方ではハラハラだったが、文句なしに気持ちよかった。この時から、彼と私の間にひとつの合言葉ができた。「のぼりがあれば、くだりがある」。
1986年の自転車旅行
自転車旅行の奇蹟・幸運
この旅に味をしめ、私は彼と何度も自転車旅行をたくらんだ。振り返ってみれば、いまの私には目を回すようなことばかりだ。そして、彼とはぐれることになった最初は、私が小学生の頃過ごしたある町へ、これも何泊かの予定で旅をした時のこと。いまはもうなくなってしまった、かつて住んでいたその家があったあたりを眺めているうち、彼の姿を見失ってしまった。てっきり、先へ進んでいるものと思い、先へ先へと自転車を飛ばし、数キロ先の分かれ道まで行って、また戻ってくる。一体この時、私は分かれ道周辺を何度往復したのだろう。あきらめて戻った、はぐれた家の近くに彼はじっとしていた。
二度目は、中学の卒業を前に、40キロほど離れた高等養護学校を見学に行った時のこと。さすが、中学校の普通学級は彼につらいこともあったのだろうが、それから先のことを考えるきっかけに・・・と、この時も自転車ででかけた。天気もよく、快調な旅だったが、ひょんなことで彼を見失ってしまう。当然あわてて、あちこち探したが、どうにもみつからない。覚悟を決めて、私は家へ戻ることにした。もう、あたりは真っ暗な状態。先に着いた私は、彼を待った。その彼が一人で、真っ暗な30キロほどの道を我が家までたどり着いたのは奇蹟としかいいようがない。

1989年の自転車旅行
阿賀野川事件
もうひとつの奇蹟については、私が恥ずかしい。「阿賀に生きる」という映画をみて、阿賀野川に沿った道を旅したいと、彼とでかけ、途中でごねた彼と喧嘩になった。それで、家に帰るという彼に対し、私はけっこうカッカした状態で、彼の自転車をたたんでやり、彼には青春切符を一枚渡し、磐越西線の日出谷駅で別れた。私は、その後何日か一人で自転車をこぎ、その途中で事の次第を知る。彼は無事家に戻っていた。いや、無事に・・・とはいえないだろう。彼は、渡された青春切符を持って、我が家のある町の名前を言い、何度か汽車を乗り継ぎ、夜やっと駅にたどり着き、そこで足止めを食う。
理由は私が渡したはずの青春切符が表紙の一枚であって、切符ではなかった。つまり、無効だったことが判明したわけだ。私は喧嘩した時、動転して、実は表紙を渡していたのだ。そこで、駅から家に電話が入り、事情が判明。彼の置かれた事情から、彼は改札を出ることができたらしい。そして、家の近くのバス停で、おなじみ自転車屋のお兄さんにあって、彼のおかげで我が家にたどり着いたというわけ。実は、その間、彼はずっと自転車の輪行袋を担いでいたのである。それは12時間あまりの旅だったと思う。いま、久し振りにこのことを思い出した。短気で頑固、なんという親だったのだろうか。

バクストンのサルモン・テンプル・タワーにて
そしていま、のんびり歩く旅
しかし、いまもって、お互いにこうした関係(?)の親子でいられて、こうして旅ができている。体力的にはもうすでに逆転しているのだろうが、これまでのキャリアで、まだなんとか私も一緒に歩けている。あれからたくさんの時間が過ぎて、いまになって、やっと彼といい感じの旅ができているようにも思う。
その彼が、最近好きな場所を思い浮かべてみる。それは、もちろん険しい急な道ではなく、木々がこんもり茂った、うっそうとした場所ではない。どちらかというと、開放的な場所のことが多い。山ならば、まわりに樹木が少ない縦走路のようなところがいいみたいで、それはまさにイギリスのフットパスなのであった。

娘の写真
現在、外国に住んでいる娘が結婚(入籍)手続きのため一時帰国、また戻っていった。挙式は来年2月。その時に使う小さい頃の写真を探すように頼まれ、久し振りにアルバムの中に埋もれていた20年以上も前の写真を眺めていたら、とても懐かしい気分になった。娘が最後に選んだ(つまり挙式で使うことになった)写真の中には、彼女が私たちと一緒に歩いていた(歩かされていた)頃のものがある。
早池峰山へ登る途中、妻のそばでバンザイしているのは1歳1ヶ月の娘。まだ歩けない彼女を背負子に入れて登った。春3月の公園のベンチに私と並んですわって、話をしている写真は3歳の時。これも延々とそこまで歩いて、たどり着いたもの。当時、車を持つことなど考えもしなかったから、出かけるというのは歩くことを意味した。5歳6ヶ月の時、兄と一緒に沖縄・竹富島でケンケンしているのは朝の散歩の写真。そして9歳の時、朝日連峰を5日間の予定で縦走した時の写真は妻が撮ったもので、中腰の私が両足に二人の子どもをすわらせている。この年(1988年)は梅雨が長引き、出発を延ばし延ばしにし、8月に入って、じれるように強行出発。そしたら、登山口に向かうタクシーの中で梅雨が明けたというドラマチックな始まりだった。

八丈島での子どもたち二人(1986年)
そんな家族との写真を選んだ娘。小学5年の時、親離れ宣言をして以来、一緒に歩くことは少なくなったが、最後に歩いたのは、高校2年の彼女が計画した朝日連峰縦走。そんな懐かしい写真を眺めながら、ふとこんなことを思った。「子どもたちが小さかった頃、もしイギリスのフットパスに出会っていたら、どうだったろうか」と。おそらく、当時エネルギーがあり余っていた(?)私にとって、フットパスは物足りないものだったのかもしれない。果たして、いまのように心を動かされ、楽しめていたのかどうか。そう思いながら、私のどこかに、これは夢としての話なのだが、小さい頃の子どもたちと一緒にイギリスのフットパスを歩いている光景が浮かんでくる。

スキプトンのフットパス
世界遺産:Fountain Abbey (Ripon)
宿泊したい町の大筋は妻が決める。彼女が決めるところなら、問題はないだろうと、私はその後の宿探しを一緒にやる。今年、彼女がリポンという町を選んだのは、「多分その辺にいいフットパスがありそうだ」という予感が働いたからだと聞いた。もうひとつ、近くに世界遺産のFountain Abbeyがあったからだと、これはイギリスに行ってから聞いた。正直なところ、私には世界遺産というこだわりはない。それが目当てという気持ちもない。世界遺産そのものはすごいとは思うが、そればっかりでは飽きてしまう(?)のではないかと思っている。ただ、たまにそういうのがあってもいいんじゃないかということで、二年目あたりから、一ヶ月の間に最低(少なくとも)一ヶ所だけは世界遺産を訪ねてみようという約束になっている。
その日は天気もまあまあで、Riponの宿からFountain Abbeyへの道を歩き始めた。最初、車道と平行した形のフットパスはそこそこの感じだったが、庭園に入った途端、光景は一変。写真のため(ばかりではなく)、しゅっちゅう立ち止まりたくなるような景色が続いた。Abbeyへのまっすぐな道に沿って、鹿が群をなし、犬を連れた散歩のご婦人、ジョギングのカップルやら、広い庭園の中の悠然とした木立の感じもいい。
そんな、時おりの散歩の人たちだけのぜいたくな世界の中を歩く。長い長い坂道を上りつめたセントメリー教会で陽が差してきた。その教会の外で、若い女性が誰かを待つように出たり入ったりしている。まさか、私たちを誘っているわけでもあるまいに。同じようにまっすぐな道といえば、Cirencester(サイレンセスター)のBroad Ride。領主が所有する土地が無料で公開されていて、その長さ、広さとも、とてつもないものである。

セントメリー教会への道

ファウンテン・アビー
こちら、Fountain Abbeyの入場料一人7.5ポンド(三人計22.5ポンド)は私たちにとってはそれなりの出費。しかし、入ってみて、妻は満足する。彼女が好きなのは建造物よりも廃墟。なるほど、彼女の世界がわかる気がする。廃墟の方が何倍も想像力をかきたてられるからだ。因みに、このFountain Abeeyのことは『地球の歩き方』(06-07版)にかろうじて、わずか載っている。AbbeyからWater Gardenへの草原も心地いい。景色のほか、いろんな道をいろんな形で散歩しているイギリスの人たちを眺めて過ごす。
昼食をはさみ、たっぷり入場料分楽しんだ後、実はリポンへ戻るバスに乗り遅れてしまう。そんなバスがあったことを思い出した時には、もう遅かった。のんびりした分、30分くらいのタイミングでそれを逃したことになる。もうバスはないから、帰りも1時間半ほど歩いて戻るしかない。残念、これで少々疲れが出てしまう。

ところが、再びセントメリー教会に戻ったら、そこではこれから結婚式が始まろうとしていた。さっきの女性は、このセレモニーを待っていたのだろうか。教会のまわりには、それなりに人が集まっている。聞けば、教会の中での挙式は1時間くらいかかるらしい。さて、どうするか。疲れた妻と息子はそのまま戻り、私はこの場面を最後まで見届けたくて、ここで待つことにする。その間、教会のまわりを歩いたり、集まった人たちを眺めて過ごす。
バスに乗り遅れたおかげで、よくこんな場面に出会ったすることがある。逆に出会えなかったこともある。後で、宿の主人に聞いたところでは、この教会でやるのは、かなり規模の大きな(つまり、たくさんのお金がかかる)結婚式で、めったにないものだそうだ。そんなイギリス的紳士・淑女の世界を囲んで、眺めている人たちを眺めているのも楽しかった。やがて、たくさんのクラシックカーを連ねて、野外パーティーに移動する人たちと一緒に私もリポンへの道を戻ったが、この日はまたとない一日中快晴の日。

リポン・セントメリー教会

リポン・セントメリー教会

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