んだんだ劇場2007年6月号 vol.102
No46 カレン語が消えていく

ライチの季節
 雨季に入った。日本の梅雨とは違い、降る時には徹底的にどしゃ降り、雨が上がればすっきりとした青空が広がる。雨が降り始まったとたんに、庭の植物や裏庭の小さな畑の野菜、バナナやパパイヤの木々が、それこそジャックと豆の木に出てくる豆の木さながら、ぐんぐん大きくなってきた。堆肥に混じっていたカボチャの種が芽を出して大きな葉を広げ、山芋のつるが傍の木にぐるぐる巻きつき、畑はまるでジャングルのようだ。日本の緩やかな植物の成長とは異なり、生命がはじけるような勢いで成長していく植物を見ていると、なんだか力が湧いてくる。
 私の大好きなライチもちょうど旬。近くの家々の大きなライチの木が、おいしそうな真っ赤な実をつけている。今まさに食べ頃の実をたわわにつけたライチの木を見つけた夫。その家のお婆ちゃんに「このライチの実、どうして売らないの?」と聞いたところ、「誰も取る人がいないからねえ」とのこと。そこで夫は、早速木に登っておいしいライチをたくさん手に入れた。もちろん1キロ25バーツ、しっかり取られたけれど。
 何しろライチの旬は短い。今年はいよいよ帰国を控え、おいしい果物は食べおさめだ、と気合の入っている私は、ライチを見かけるたびに必ず買い求め、ひたすら食べまくっている。その結果、スーパーで買うライチよりも、近所の家から買ったもののほうが、ずっとおいしいことがわかった。やはり鮮度の差なのだろうか。何しろもぎたてだもんねえ。やっぱり、庭にライチの木を植えようかなあ。そして定年退職後は、ライチの木の下に寝椅子を置いて、ライチをつまみながら涼しい風に吹かれ、、、うーん、いいねえ!

論文最終章
 多くの人々から「詰めが甘い」と厳しいご意見をいただいた私の論文最終章。最後の力を振り絞って、手直しをすることに。
 改めて読み直してみると、同じことの繰り返しが多く、前後の段落の内容が全然つながっていないところもある。しかもあまりにも長いため、自分で読んでいても、道に迷ってしまい、思わず眠くなってしまうという恐ろしい章であることが判明した。
 しかし、一般に、博士論文で他人が読む部分は、概要と最後の章のみといわれているだけあり、気を抜くことができない。
 何とか眠くならずに読んでもらうには??と頭を絞り、まずは不必要な部分をひたすら削った。そして、次に結果をまとめた図に手を加え、カラフルな色も矢印もつけてみた。ふむふむ、ちょっとよくなってきたようだ。
 そしてさらに削って削って、うん、とりあえずこれでもう一度指導教官に読んでもらうことにしよう。
 ふと気がつくと、もう大学院ももう4年目。自分としてはあっという間のような気がするが、とある知り合いの一言、「えー!まだ勉強してるの?」の方が真実をついているだろう。
 無事口頭試問に合格すれば、のんびり学生生活ももうおしまいである。ちょっと淋しいなあ。

消えていく言葉
 この地球上から消えていく言葉(言語)がたくさんある。特に危機にさらされているのは少数民族の言葉だ。
 夫はタイ語の他に自分の民族の言葉であるカレン語を話すのだが、現在のカレン語の状況を見ていると、多分100年後にはカレン語は地球上から消えてしまうのではないかと不安になる。
 カレン語は少数民族の言葉である。そのため、学校で習うことはない。使われるのは家庭内か、もしくは教会などに限られている。
 我が家の子どもたちは父親とはカレン語を話す。しかしやはり母親の言葉である日本語の方がずっと優位で、子どもたち同士の会話も日本語だ。それに日本語ならたくさんの本もDVDもあり、なんとかして日本語のレベルを保持しようと熱く燃える母親がいる。一方、カレン語で書かれた子ども向けの絵本などほとんどないに等しい。カレン族の昔話をまとめた本が最近出たため、私がせっついて夫に読み聞かせをしてもらっているものの、それもなかなか続かない。夫も子どもたちにカレン語を話して欲しいという思いはあるものの、カレン語が消えていくという危機感がないのか、それとも面倒なのか、私に言わせれば本当に気合が足りない。
 子どもたちが成長して込み入った会話をするようになったとき、それをカレン語を使ってできるかどうか、というのはかなり重要だ。もしカレン語のレベルがそこまで達していない場合、夫は子どもたちと一体何語で話すのだろうか。日本語?英語??それとも、もうお互い会話のない父娘になるのだろうか。
 そして残念ながら、将来子どもたちが結婚して孫ができた場合、夫が孫たちとカレン語で会話できる可能性はほぼゼロであろう。なぜなら、母親になった子どもたちは、ほぼ確実に母語である日本語で、子どもたちに話しかけるであろうから。
 つまり我が家のカレン語はこれから100年以内に確実に消滅してしまうことになる。
 しかし我が家はまだこれでもよいほうだ。まわりのカレン族の家族をみていると、状況はもっと深刻だ。子どもたちは学校でタイ語を習うため、家でもタイ語を使うことが多い。兄弟同士はもちろんタイ語だ。また親自身もタイ語で子どもたちに話しかけることが多く、カレン語が話せない子どもがどんどん増えている。もちろん読み書きはできない。少数民族は差別されることも多く、それを避けるために、子どもたちにはしっかりタイ語ができるようになって欲しい、という気持ちもあるだろうし、人前では自分が少数民族であることを悟られないようにタイ語で話すというのも理由かもしれない。
 しかしどんな理由にせよ、このような家庭では少なくとも50年以内にカレン語は消えてしまうだろうし、同様の家庭が増えれば増えるほど、カレン語はさらに追い詰められていくであろう。
 言葉とはすなわち文化そのものだと、私は思っている。言葉が消えるということは文化が消えるということに等しい。
 なんとかしてカレン語を守りたいと思うのだが、今の私にできるのは、夫をつついて子どもたちに本を読んでもらうことぐらいだ。日本に帰国したら更に状況は厳しくなるかもしれない。なんとかよい案はないかなあ。


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