んだんだ劇場2007年2月号 vol.98
No32
ボラのヘソ

寒ボラは美味
 2006年の大晦日、近所の釣り好きのお爺さんが、鯔(ボラ)を3尾届けてくれた。
 「今、釣ってきたばかりだ」というボラは、体長40pもあり、しかもバタバタと暴れていた。

いただいた鯔
 私が住んでいるのは、房総半島の太平洋岸、千葉県いすみ市である。JR外房線・大原が最寄り駅だ。我が家のわきを流れる落合川は夷隅(いすみ)川に合流し、3キロほど先で太平洋に流れ込む。その河口付近で今ごろ、成熟した鯔がたくさん釣れるらしい。このお爺さんには今までも、イナダ、アカエイ、マンボウ、ナマズ……と、いろいろな魚をいただいた。
 「家族が、あまり魚を食べないんだよ。ここだと、喜んでもらってくれるからね」
 そう言われると、断るわけにはいかない。私が家にいれば、たいていの魚をさばくが、かみさんはマンボウ、ナマズにはてこずったようだ。
 鯔は出世魚で、小さいときはオボコ、またはスバシリと言い、河口付近で大群が見られるころはイナと言う。それから海に戻ってボラ。たまにとてつもなく大きくなることがあって、それはトドというのだそうだ。「とどのつまり」の語源だそうだが、スズキの大きいのもトドと言うらしく、どちらの魚が語源か、私にはわからない。それに「トド」というほど大きな鯔を、私は見たことがない。
 イナは、人の目に触れることが多い。それが群れを成して元気に泳ぎ回る様子を上から見て、いなせ(イナの背)という言葉ができた。粋で、ちょっと勇み肌の若者で、まあ、「江戸っ子」の心意気みたいなものだろう。
 今回の鯔も元気一杯で、やたらと暴れる。私もちょっと困った。で、手が滑らないようにタオルで尻尾の方をつかみ、頭を出刃包丁の背で殴りつけて失神させてから、3枚におろした。
 「鯔の刺身はまずい」という人が多い。でも、それは、釣った時期と場所による。今ごろからは「寒鯔」と言って、脂が乗ってくる。まずい鯔は、変なエサを食べているせいもある。「鯔がおいしければ海がきれいな証拠」という人もいるから、私の住んでいる辺りの海はきれいなのだろう。いわゆる「泥臭さ」など、ちっともない。
 3尾あったので、サクは6枚できる。そのうち2枚はていねいにウロコを取り、皮に熱湯をかけてすぐ氷水に入れ、皮付きの刺身にした。白身の、きれいな魚だ。

美しい鯔の刺身
 鯔にはもう一つ、美味がある。
 「それは、カラスミでしょ?」と言う人は、かなり魚に詳しいが、卵巣を塩漬けにしてカラスミを作るのは、私も、まだやったことがない。
 もう一つの美味は、ヘソである。
 と言っても、魚にヘソがあるわけがなく、その正体は胃袋。別名をソロバンダマと言うように、コロコロっとした姿をしている。

ボラのヘソ。実は胃袋
 塩を振るか、醤油をかけて串焼きにするのが普通なのだけれど、今回は簡単に、縦半分に切り、中を洗って、バター焼きにして、ちょっと醤油をかけた。胃袋は筋肉のかたまりなので、そのコリコリっとした歯ごたえが、たまらなくうまい!
 ボラのヘソは、釣りをする人だけの特権。海辺に住んで、そのおすそ分けにあずかれるのがありがたい。

路面電車
 昨年末、愛知県豊橋市へ行く機会があった。会社の社内報に連載している「インターチェンジから20分紀行」の取材である(この連載は、中日本高速道路のホームページで見ることができます。「地域情報」をクリックすると、左下に案内がありますから、ぜひご覧になってください)。
 豊橋は譜代大名の城下町で、城跡や東海道の宿場の本陣などが残っていて、歴史遺産の被写体には困らないところだ。特に今回、紹介したかったのは、豊橋ハリストス正教会聖堂である。ギリシャ正教の協会で、大正4年(1915)に、地元の大工が京都正教会のビザンチン洋式を学んで建てたそうだ。戦災にも遭わず、今も当時の姿を伝えている。

豊橋ハリストス正教会
 ……と、まあ、そういう写真を撮りに行ったのだが、行ってみて、今でも路面電車が走っているのには驚かされた。しかも、市役所前の国道1号を堂々と走っているのである。

豊橋市の路面電車
 私が育った福島市もその昔、路面電車が走っていた。JR(当時は国鉄)福島駅前のメーンストリートは「電車通り」と呼ばれていた。私も子供のころは、よく乗った。かなり遠距離までつながっていて、市の陸上競技場へ行く時などは、たいてい電車に乗った。
 それがなくなったのは、いつなのだろう。俳優の芦田伸介と池内淳子が最後に記念乗車した写真を、親に見せてもらったことはあるが、その場にいた覚えはないから、私が大学に入って福島を離れたあとのことだろう。
 札幌、函館、仙台、福井、京都、広島、松山、長崎、鹿児島の路面電車にも乗ったことがあって、長崎では、乗り換える時に車掌さんが「乗り継ぎ券」を渡してくれて、通しの料金で乗ることができるのに感心した覚えがある。
 でも、仙台と京都は地下鉄開業に伴って廃止された。京都の電車がなくなるときに、「環状線などネットワーク化されていたものが、一か所でも途切れると、交通路としてはひどく不便になって、乗客が急減する」と、どこかの大学の先生が新聞に書いていたのを覚えている。それに、「道路に線路があると、車が走りにくい」ということも聞いた。だから、路面電車はいずれ姿を消すだろうと思っていた。
 それが、豊橋では、間違いなく市民の足として活躍しているのである。詳しい路線図は知らないけれど、5〜7分間隔で電車が走り、料金は大人150円、小児80円だそうだ。
 見ていて、なんだかうれしくなった。
 ついでに、インターネットで調べたら、全国14か所で、まだ路面電車が走っている。そして驚いたことに、新規開業の路面電車まであった。
 それは、富山市内を走る「富山ライトレール」という。
 富山市街地の東寄りの海辺に、岩瀬という所がある。かつては北前船で栄えた港町だ。私も、無明舎出版編集長の鐙さんと二人で訪ねたことがある。が、その時、電車には気づかなかった。
 それもそのはずで、開業したのは昨年4月29日。まだ、1年もたっていない。
 ここには、以前、JR西日本の富山港線があった。それを第3セクターが譲り受けて、路面電車でJR富山駅を結ぶことにしたのだ。駅の数を増やし、ひんぱんに電車を走らせ、しかも非常に床の低い車両を導入してお年寄りなどの乗り降りも楽なように配慮したそうだ。
 こういう話は、うれしい。
 採算が採れなくて廃線になった鉄路は数多いが、それを簡単に切り捨てずに、市民の足として復活させようとした心意気が、うれしい。
 富山は今ごろ、雪だろう。車の運転が面倒な積雪期こそ、こういう交通機関が役立つに違いない。
(2007年1月6日記)



ナタで削る豆腐

ついに食べた六浄豆腐
 以前に、富山県・五箇山の豆腐を紹介したことがある。縄でくくって持ち運びするほど硬い豆腐だ。
 で、その時、「山形県には、もっと硬い豆腐があるが、まだ食べたことがない」とも書いた。角に頭をぶつければ死ぬかもしれない、というほどの豆腐だ。
 その名を「六浄豆腐」という。
 今年になって、ついに、それを食することができた。娘の友人で、山形県出身の人が、正月で帰省したときに買い求めてきてくれたのである。
 鉋(かんな)を持ち出して、自分で削らなければいけないのかなと思っていたのだが、それは、すでに削ってあって、1パック55g詰めだった(これで500円)。

削り節のような六浄豆腐
 取り出してみると、少し茶色みがかっていて、食べると塩の味がした。使うときには、これを湯で戻す。そうすると、塩が抜けてきれいな白色になる。戻したものを和え物にしたり、汁の実にしたりする。汁に入れるのは、そのままでもいい。が、塩味を加減しなくてはならない。
 調理して食べてみると、弾力があって、湯葉のような上品な味わいだった。
 詳しいことはわからないが、豆腐の表面に塩をこすりつけて水分を引き出し、陰干しにして乾燥させると、しこたま硬い豆腐になるのだそうだ。水分が少ないので日持ちがよく、昔はたんぱく質の保存食でもあったようだ(この商品も、常温で一か月は大丈夫)。
 作っているのは、山形県西村山郡西川町岩根沢の六浄本舗、ただ1軒である。その昔、「京の都六条から出羽三山に来た修験者が伝授していった」と、袋に印刷されていた。その説明を読んで、「六浄」というのは、よく富士登山の人が口にする掛け声、「六根清浄」の略だと気づいた。
 西川町は、山形市の北の寒河江市から西に位置し、岩根沢は、寒河江川を上って北に入った山あいの集落だ。修験の霊峰、月山(がっさん)の南西山ろくと言ってもいい。もしかしたら、かつてはこの辺りから月山へ登る道があったのかもしれない。
 まあ、そういう詮索を始めるときりがない。私としては、念願の「六浄豆腐」を味わえただけ、しかも日本の食の伝統文化の一端を知っただけで満足だ。
 ……と言っておきながら、実は、ぜひ味わってみたい伝統食品が、もうひとつある。
 それは、高知県大豊町桃原地区で生産されている「碁石茶」。日本では唯一の、完全発酵茶である。製法の類似性から、「中国・雲南省から伝わった」と推測されている。たしかチベットにも、同類のお茶があったはずだ。
 もちろん今は、通信販売で入手できるのだけれど、どうせなら、現地を訪ねてみたい。かなりの山里のようだが、なおさら意欲をかきたてられるではないか。

ある言い訳
 私は今、名古屋に本社のある中日本高速道路という会社の、広報室に席を置いている。同僚に岐阜県土岐市出身の人がいて、先日、「これ、わかる?」と、インターネットから引っ張り出したプリントを持って来た。
 「東濃弁」という方言集だった。「東濃」とは、岐阜県の美濃地方東部地域を指す(その北東は同じ岐阜県でも飛騨地方になる)。見せられたのは、左側に方言が書いてあって、その右側に標準語訳がある一覧表だった。右側を隠して、左側の言葉がわかるか、ということだった。
 これが、まあ、ちっともわからない。
 「あからかす」は「こぼす」、「おがらかす」は「いじめる」、「けなるい」は「うらやましい」という具合である。
 風呂にはいるときには「ご無礼します」と言い、風呂から出たときには「ご無礼しました」というのが挨拶だそうだ。なんとも、おくゆかしい言葉づかいだ。はっきりとは推測できないけれど、家族の中で、風呂に入る順番が決まっていた時代が頭に浮かぶ。
 画鋲を「がばり」(画貼り)、模造紙を「B紙」というのは、語源がわかる。
 そこで、「けった」とは、なんのことか、この「房総半島スローフード日記」の読者の中で、わかる人がいるだろうか。
 答は「自転車」。
 右側に、「けったマっシーンとも言う」と書いてあって、吹き出してしまった。
 その昔、サドルとハンドル軸の間を直線の横棒でつなぐ自転車が主流だったころ、最初からサドルに座らずに、左足をペダルに置いて、右足で地面を蹴って少し走らせ、タイミングよくサドルにまたがる乗り方をしたものだ(私は右利きなので、左足がペダルになる)。要するに、「地面を蹴って乗るマシーン」ということなのだろう。
 と、こういう書き出しにしたのは、今回、「ある言い訳」をしたいからである。
 昨年7月の日記で、「電子レンズ」という話を書いたのを、覚えていらっしゃるだろうか。今、私の家がある千葉県いすみ市に、どう見ても「音楽スタヅオ」と、東北弁のようにしか読めない看板がある話から始まって、秋田の人が、「電子レンジ」をズウズウ弁で訛って「電子レンズ」と文字にも書いた、という話である。
 おおかたの人には笑ってもらえたのだが、何人かには批判された。特に、生まれてすぐから小学校2年生までを秋田ですごし、秋田弁を自在に使いこなせる娘には、「秋田の人をバカにしているようで、ちっとも面白くなかった」と言われた。
 そう言われれば、確かに、配慮が足りなかった。
 でもあの話を書いた時、なぜ、次から次へと秋田の言葉が思い出されたかと言うと、今は、秋田に行ってもそういう言葉で話す人がほとんどいないからだと思う。それは秋田に限らず、全国どこへ行っても共通の現象で、私の中で、方言がひどく懐かしく思えたからだと思う。だから、ついつい、昔の思い出がよみがえってきたのだろう。
 現に私は、名古屋へ来て1年3か月が過ぎるが、タモリが言うような「ミャーミャー、ニャーニャー」というような名古屋弁を聞いたことがない。名古屋の人が海老フライを「海老フリャー」と言うことはあっても、「カキフリャー」とか「イカフリャー」とかは言わない。「海老フリャー」は「タモリ語」であって、名古屋の人も、おふざけで真似しているだけなのである。
 だからこのごろ、旅をして、方言らしい方言を話す人に会うと、なんだかホッとする。
 そういうことを、「電子レンズ」の最後に書くべきだった……と、ずっと反省していたら、先日、NHKのラジオ(私は、読書のじゃまになるので、単身赴任宅にテレビは置いていないが、ニュースの多いNHK第一放送のラジオは毎日聞いている)で、またまた面白い話があった。
 「ふるさと自慢 歌自慢」という公開放送の番組で、会場は青森県弘前市だった。その地域でいろいろな活動をしている人が登場し、「ふるさと自慢」を語ってから、1曲歌うという番組である。
 弘前では、とても元気のよい女性が登場し、「私の自慢は、津軽弁。このすばらしい言葉を子供たちに伝え残す運動をしている」と語った。
 「どさ」、「ゆさ」――「どこへ行くの?」、「湯(銭湯)へ行く」――この会話がよく引き合いに出されるように、津軽弁は、日本の方言の中でも極端に言葉数の少ない言語である。やはり、地元でも、こういう言葉を話す人は少なくなっているのだろう。
 しかし、彼女は元気だった。アナウンサーに「将来の夢はなんですか?」と聞かれ、彼女は答えた。
 「津軽弁を、日本全国に広めることです!」
 うーん……「その意気や、よし!」ではあるが……まんず、ムリだべなぁ。
(2007年1月20日記)


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