んだんだ劇場2007年3月号 vol.99
No33
梅は咲いたが……

天神様に梅の花
 20年近く前のことだが、ある女性に「誕生日は、いつ?」ときかれ、「2月9日だよ」と答えたら、「あ〜ら、肉(ニク)の日ね」と、言われたことがあった。
 私と同じ体型の女性で、「あんたに、言われたくないよ」と腹が立ったが、残念ながら私は今年、ほとんど変わらない体型のまま、55歳の誕生日を迎えてしまった。
 その日、房総半島、千葉県いすみ市の家から、「梅が3輪、アーモンドの花も咲いたよ」と、かみさんのメールが届いた。
 それで、1月末に訪ねた、愛知県岡崎市の岩津(いわづ)天満宮を思い出した。岡崎の中心街からほぼ真北に位置する、近辺の天神様では最も参詣者の多い神社だ。

岩津天満宮の拝殿
 岡崎は、徳川家康の生まれた場所であり、江戸時代は代々、譜代大名が岡崎城主になったこともあって、神社・仏閣が多く、しかもやたらと葵の紋が目立つ。3代将軍家光が造らせたという、小さな東照宮まである。
 徳川氏発祥の地は、岩津からさらに北の、今は豊田市になっている「松平郷」である。今なら、東海環状自動車道の豊田松平インターで降りて、東の山へ入ったところ……と、簡単に書いたが、実際に行ってみたら大変な山奥だった。家康から200年ほど昔、ここに勢力をはっていた豪族の館へ、遊行僧(念仏を広める時宗の僧)がやってきて、豪族の娘婿になり、松平親氏(ちかうじ)と名乗った。この人を初代として、9代目が、徳川氏を名乗った家康になる。
 『日本系譜総覧』(講談社学術文庫)では、親氏の祖先は、八幡太郎義家の孫の新田義重につながっているけれども、これは、眉にツバをつけなければならない。源氏でないと征夷大将軍になれないからと、こしらえた系図らしい。要するに、家康の先祖は、氏素性のはっきりしない、旅の坊主だったということだ。
 しかし、親氏はなかなかの人物だったらしく、たちまち近隣の小豪族をまとめ、勢力を拡大した。2代泰親(やすちか)の時に山を下り、岩津城を奪ってから、松平氏は矢作(やはぎ)川(少年日吉丸が蜂須賀小六に出会ったという、ウソっぱちな話で有名な矢作橋がかかる川)に沿った平野部を侵食し、ついに、家康の祖父の清康の時代に岡崎に出た。
 と、まあ、そういうことを予備知識として、岩津天満宮を訪ねた。
 岡崎市岩津町は、山と平野部の境のような地形である。天満宮は、東名高速のすぐ東側の山の上にあった。城跡もすぐ近くらしい。平野部を見下ろす小高い山で、なるほど、戦国初期のころであれば、城を構えるにはよい地形のように思われた。
 神社の縁起によると、この山頂に、雷鳴と共に菅原道真の霊が降臨したのが、この天神様の始まりという。と、言われても、現代人はだれも信じないだろうが、こういう伝説は各地にある。
 醍醐天皇の時に右大臣にまで昇進した菅原道真は、当時の朝廷で威勢を誇っていた藤原氏一族のねたみを買い、大宰府に左遷され、2年後に没した(西暦903年)。その直後から、京の都には落雷などの災害が頻発したうえに、藤原氏の主だった人が次々に変死して、これは怨霊と化した道真のたたりだと、当時の人々を震え上がらせたそうだ。そのあたりの話は、梅原猛の『神々の流竄』(かみがみのるざん、新潮文庫)を読んでもらえればよくわかる。それで、道真の霊を鎮めるために、道真を「天満天神」にまつりあげたのが天満宮なのである。
 道真の怨霊は、青龍となって天界を飛び回ったそうで、そこから、各地に道真が降臨したという伝説が生まれたらしい。岩津天満宮もそのひとつ、というわけだが、実際は江戸時代の18世紀中ごろ、この近くの信光明寺の住職が、鎌倉の天満宮から分霊を受け、この地にやしろを創建したのが始まりである。近辺に天神様がなかったせいもあるだろうし、江戸時代になって、菅原道真を学問の神様とする信仰が広まったことも追い風となって、岩津天満宮は大変なにぎわいを見せるようになったのだと思う。私が訪ねた日も、受験生らしい若い人の姿が目立った。
 境内に梅の木が多いのは、どこの天神様も同様で、それは、道真が大宰府へ旅立つ際に、「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」という、有名な歌を残したからだ。
 だから、岩津天満宮に梅の木があるのは当然なのだが、まだ1月だというのに、もう咲いていたのには驚かされた。

岩津天満宮の梅の花
 本当に今年の冬は、暖かい。私の誕生日に、いすみ市の家の梅が咲いたというのも、初めてのことだ。「梅は咲いたが……桜」も、もうすぐ咲き始めるかもしれないなぁ。

八丁味噌の里
 岡崎市を訪ねたのは、今、私が勤めている中日本高速道路の社内報に連載している「インターから20分紀行」の取材のためである。高速道路のインターを下りて、20分の距離にある名所・旧跡を紹介しようという企画だ。
 岩津天満宮を訪ねたのとは別の日、私は、カメラバッグと三脚なんかを担いで、岡崎市の中心部を10qほど歩き回った。おかげでその後2日間、足が痛かった。体力の衰えを痛感した取材だったが、徒歩取材の最後に、へとへとでたどり着いたのが、「八丁味噌」の醸造元だった。
 豆麹で造る独特の味噌で、岡崎の城から「八丁」(約900m)の距離にあったから、この名がついたという。矢作橋に近い辺りで、今も2軒の蔵元が、昔ながらの蔵で味噌を造っている。

昔ながらの面影を残す八丁味噌蔵通り
 その1件、「カクキュー」を見学した。ここは、昨年のNHK朝のテレビ小説「純情きらり」の舞台にもなったところだ。番組の1回目で、主人公の少女が落っこちた巨大な味噌桶が並んでいたのは壮観だった。岡崎市では今、この番組を観光に使おうと、「ロケ地」と書いた小さな看板や、出演者の手形があちこちに置かれている。

「純情きらり」ロケ地の看板

主人公を演じた宮崎あおいさんの手形
 さて、「八丁味噌」のことである。
 この味噌には、独特の香りがある。私はあまり抵抗がなかったが、転勤で名古屋に住むことになった人の中には、「あの味噌は、だめだ」という人も多いらしい。では、なぜ、独特の香りになるのか……醸造蔵を見学して、その一端をかいまみた。
 豆麹を使う(普通の赤味噌は米麹を用いる)ということもあるが、これを「2年以上寝かせる」という長期醸造にも、大きな理由があるのだろう。昔ながらの味噌なら当たり前と思う人が多いだろうが、現在市販されている味噌の多くは、そんな長い醸造期間は不要なのである。中には、「発酵から出荷まで3か月」という、「即席醸造」のような味噌まであるのだ。最近「ダシ入り」という味噌が多いのも、味噌本体の足腰が弱いのを、「ダシ」でごまかしているんじゃないかと思っているくらいだ。
 名古屋名物のひとつ、「みそカツ」は、八丁味噌をみりんで伸ばし、砂糖などの甘みを加えて練り上げて「味噌ソース」にしている。実を言うと、八丁味噌の味噌汁は、私もおいしいとは思っていない。が、炒め物の味付けとか、味噌だれに使うと、八丁味噌の独特の香りが生きると思う。
 何より、塩味がしっかりしているのがいい。「減塩味噌」では、最初から長期醸造はできないはずだ。

今も八丁味噌の醸造に使われている巨大な桶
 見上げるばかりの醸造桶を見ながら、そんなことを考えた。 
(2007年2月11日記)



バッケが出たぞ

顔を出したフキノトウ
 2月17日に、房総半島、千葉県いすみ市の家へ帰ったら、畑の隅にフキノトウが顔を出していた。立春を過ぎているから、当たり前と言えば当たり前かもしれないが、今年は、やはり早い。

畑の隅のフキノトウ
 我が家の畑に、なぜフキ(蕗)があるのか、私には記憶がないのだが、父親が「植えた」と言っていたようにも思う。以前は家の裏にも生えていたはずだ。わきを流れる落合川の河川改修工事で、家の裏の竹林が姿を消し、畑の様子もだいぶ変わって、昨年は「あれ、こんな所にフキが出ている」と思った記憶はある。
 まあ、どちらにしても、ときどきフキを採って食べていたが、フキノトウを食べたことはないと思う。「食べよう」と思うほど数が出ないせいかもしれない。
 ずいぶん前だが、群馬県の……町村名は忘れたが、新潟県に近い辺りの農協へ、フキノトウの取材に行ったことがある。まだ、周囲に雪の残っている時期なのに、そこでは大きなハウスの中に、たくさんのフキノトウが顔を出していた。「はしりのフキノトウ」として東京で高く売れる、という話を聞いた。まあ、それはいいのだが……農協の婦人部が、定番の「フキノトウ味噌」はもちろん、てんぷら、フキノトウを刻んで入れた「お焼き」など5、6種類の「フキノトウ料理」を作ってくれて、ひとつひとつはおいしいのだけれど、まとめて出されると、あまりにもフキノトウの香りが強烈で、ちょっと持て余した。
 フキノトウは、早春の香りだ。
 ちょっとだけ食べたいなぁ、と思うものではないだろうか。
 ところで、写真のフキノトウは、食べるには少し遅い。花が開く前あたりが食べごろである。ところが秋田では……。
 もう、25年くらい前になるだろうか、秋田県の協和町(現在は大仙市)の山奥へ取材に行ったときのことだ。確か、「秋田県の民謡」を新聞に連載していた頃だったと思うが、古い唄をよく知っているご老人を訪ねた折り、唄の舞台となった近くの鉱山跡に案内された。そこで、消えかかった雪の間から、たくさんのフキノトウが出ていた。
 「おいしそうですね」と私が言うと、「あれ、バッケを食べるの?」と言われた。
 秋田では、フキノトウを「バッケ」と言うのである。
 「それなら、採ってやるよ」と言ってくれたので、私も、地面から顔をのぞかせたばかりの「バッケ」を懸命に探したのだが、ご老人が「これくらいあれば、十分かな」と私に渡してくれたのは、写真くらいのフキノトウではなく、これがもっと茎を伸ばして、しっかり花を開いたものばかりだった。
 「これは、食べない」とも言えず、礼を言ってもらって帰ったが、茎の伸びたフキノトウは調理法がわからずに、捨ててしまった。
 そんなことを思い出したら、秋田では茎の伸びた「バッケ」をどう調理するのか、今になって知りたくなった。

葉を食われたブロッコリー
 毎年いま頃になると、我が家では、ブロッコリーの1番果は食べてしまっていて、わきから伸びた2番果、それに、それよりまだ小さい芽を食べる。これがおいしいことは、前にも紹介した。ところが……写真を見ていただきたい。
 周囲の葉が、軸を残してすっかりないのである。

葉のないブロッコリー
 ヒヨドリのしわざだ。
 太平洋岸ではあるが、海から直線で5qほど内陸に入った我が家の辺りは、山里である。鳥もたくさんの種類が飛来する。
 スズメより少し大きくて、全体に灰色っぽいヒヨドリは、よく見かける種類だ。しかしこいつは雑食性で、ある年は、玄関前の夏みかんの花をほとんど食べられて、実がつかなかったことがあった。しかし、こんなに見事に、ブロッコリーの葉だけを食べられたことはなかったと思う。
 ブロッコリーの葉は、どうせ硬いだろうからと食べたことはないが、茎はおいしい。だから葉もおいしいのかもしれない。動物は、「食べごろ」をよく知っているものだから、春先の葉がおいしいことを、ヒヨドリは心得ているのだろう。
 でも、ちょっと調べたら、ヒヨドリは本州では留鳥だそうで、いつでもいておかしくはないものの、冬は少し暖かい地域へ移動するらしい。この時期に、我が家の周辺にヒヨドリがいつでもいるかどうか、ちょっと確信は持てないが、もしかしたら、これも暖冬の影響で、いつもはいないヒヨドリが早々とやって来たのかもしれない。
(2007年2月24日記)


無明舎Top ◆ んだんだ劇場目次