桜の古木の物語
白川郷の春
連休の2日目、4月29日に、世界遺産「白川郷」へ行った。富山県との境界、岐阜県白川村である。私の単身赴任宅がある愛知県稲沢市からは、愛知・岐阜県と富山県を結ぶ高速道路「東海北陸道」の荘川(しょうかわ)インターまで行き、国道156号を下って、片道140キロある。
私は、朝4時に起きて、5時前には出発した。東海北陸道は、郡上八幡(岐阜県郡上市)辺りから対面通行になり、片側2車線が1車線に絞られるために、どうしても渋滞が起きる。昨年8月にこの道を通ったときは、渋滞を抜けるのに30分以上かかった。それで今回は、やたらと早起きして出たのである。
荘川インターのちょっと手前、標高877メートルの「ひるがの高原」サービスエリアでは、気温0度。4月末とは思えない寒さだった。白川郷には7時半ごろ到着し、集落を見下ろす丘に登ると、桃の花が咲いていた。
桃の花と白川郷と雪の山 |
雪を輝かせているのは、白山に連なる山々だ。
合掌造りの集落には、桜、レンギョウ、雪柳も咲いていた。私が8年半を過ごした秋田では、「梅も桜も一緒に咲く」と言われたが、ここも、秋田と季節がほとんど同じらしい。こんな景色は、ほんとうに久しぶりだ。
昨年夏に訪ねたときは昼過ぎで、観光客がぞろぞろ歩き、合掌造りの家はどこも「商売熱心な」土産物屋になっていて、ひどく興ざめした。が、こうも朝早くだと観光客はまばらで、きままに集落の中を歩き回った。
そのうちに、何軒か、合掌造りの巨大な茅葺き屋根に、湯気が立ちのぼっているのに気づいた。朝日で急に温められ、屋根におりていた霜が一気に蒸発し始めたのだろう。
屋根から湯気の上がる合掌造り |
ああ、これは、いい。
いかにも、山国の朝、である。
秋は、どんな顔を見せてくれるのだろうか。そんな気持ちにもさせられた。
樹齢500年の桜が見たかった
そもそも、今回は、白川郷が目的地ではなかった。荘川インターから15分ほどのところに大きな枝を広げる、桜の老木を見に行ったのである。
この辺りは、新湊市(現在の射水市)で富山湾に注ぐ庄川の、最上流部に近い。飛騨と美濃の国境に端を発した庄川は、急峻な山々の間を流れ下り、延長115キロの大河となって砺波平野を潤している。雪解け水が洪水となって、何度も川筋を変えた歴史があるように、非常に水量も多い。
荘川インターから国道156号に入ると、すぐに峡谷をまたぐ橋を渡る。その下流に、御母衣(みぼろ)ダムにせき止められたできた湖が広がっている。
春浅い、御母衣ダム湖と白山連峰 |
そのほとり――現在の地名で言うと、岐阜県高山市荘川町中野に、樹齢500年と言われる2本の桜があるのだ。しかしこの桜は、もともとここにあったものではない。ダム湖に沈んだ村から、植え替えた巨木なのである。
ここに貯水量3億3千万立方メートル、当時は「東洋一のロックフィルダム」と言われた御母衣ダム建設の話が持ち上がったのは、私が生まれた昭和27(1952)年だった。しかし、そのダム湖に沈む荘川村中野地区には、1200人の住民がいた。戦後復興のための国策である、電源開発計画の一環だったが、住民には受け容れられない話で、「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」が結成された。
彼らの説得のために、電源開発株式会社初代総裁、高崎達之助さん(1885〜1964、後に経済企画庁長官、通産大臣などを歴任)自らが、何度も現地に足を運んだ。住民が移転に合意するまで、7年かかった。昭和34年11月、「死守会」の解散式が行われた時、すでに電源開発総裁を退任していた高崎さんは、「死守会」から招待されて、式に参列した。
その日、高崎さんは、これで訪れるのは最後になるかもしれない村内を歩き回った。そこで、ある寺の境内に、桜の巨木があるのを発見したのである。「この桜は、村人の心の拠りどころだったのだろう。この桜を湖の底に沈めてはいけない」と、高崎さんは思ったという。東京に戻った高崎さんは、すぐに何人かの専門家に「桜を移植したい」と相談したが、すべて「無理だ」と断られた。樹齢500年に達し、幹周り6メートルという巨木の移植は、「常識外だ」というのである。
しかし高崎さんはあきらめず、そのころ「日本一の桜博士」と言われていた研究家、笹部新太郎さんを神戸に訪ねて説得した。笹部さんが現地に来てみると、別の寺にもう1本、桜の巨木のあるのがわかった。「2本移植すれば、どちらかは生き残るだろう」と笹部氏は考えた。実際の作業を請け負ったのは、愛知県豊橋市で造園会社を営んでいた丹羽政光さんだった。丹羽さんは、「東海一の庭師」と言われていたそうだ。
1本で重さが40トンもあった巨木が、ダム湖を見下ろす現在の場所に移植されたのは、昭和35年12月。移植作業は、1か月もかかった。そして翌年春、老木は2本とも芽を吹き、わずかながら花まで咲かせた。
今年、「荘川桜」の開花は、4月25日と予想されていた。私が29日に行ったのは、「見ごろになっているだろう」という予測と、その日の天気予報が「快晴」だったからだ。しかし花は、やっと2分咲きだった。山の気温は、私の予想以上に低かったのだ。
4月29日の荘川桜 |
連休の後半、私は房総半島、千葉県いすみ市の家に帰る予定だった。が、もう一度、荘川桜を撮影に行くことにした。それは、5月3日にした。この日の天気予報も「晴れ」。白川郷までは行かずに、「荘川桜」から戻って、昼ごろに名古屋を発つ新幹線で家に帰るという計画を立てた。しかも、インターネットで検索すると、「今年の満開は5月3日」だという。インターネットで見る「満開の荘川桜」は、すばらしい。今年の5月3日、これ以上の好条件はないはずだ……ったのだが。
今年は、これで「満開」の荘川桜 |
「あの桜が、枝もたわわに花を咲かせるのは、数年に1度なんですよ」
私が勤めているNEXCO中日本(中日本高速道路株式会社)では今、来年3月末の全線開通を目指して、東海北陸道の工事を進めている。その最後が、今年1月にようやく貫通した、長さ10キロの飛騨トンネル(道路トンネルでは日本第2位)を含む区間だ。この工事に携わった人は、みんな荘川桜のことをよく知っていて、「今年は、開花と同時に葉も出て来ているらしいから、みごとな眺めにはならないかもしれませんよ」と、私は社内で言われていた。老桜の品種はアズマヒガンザクラと言い、「葉が先に出る」ことも珍しくないらしい。それに、鳥の「ウソ」が花芽をほとんどついばんでしまう年もあるという。
まあ、それはしかたない。
しかし今年、私はどうしても、この桜を見たかった。
来年春に東海北陸道が全通すると、荘川インターの先の、飛騨清見インターから白川インターまで高速道路で行くことができるようになる。今は、「世界遺産・白川郷」を目指してくる観光バスが「途中にある荘川桜」で停車するが、たぶん来年は、ほとんどが白川郷へ直行してしまうだろう。あっと言う間に、この桜は忘れられてしまうかもしれない。
だからこそ、今年の風景を記録しておきたかったのだ。
水没する村の人々に「立ち退いてくれ」と交渉した高崎達之助という人は、至誠の人に違いない。村人さえ思いつかず、交渉の条件にもしなかった老木を、東奔西走して守ったという事実だけからでも、それは知れる。だから、「死守会」が、移転の話を聞き、高崎さんの誠意を受け止め、最後には解散式に招いたのだと思う。
2本の老木が、年ごとに樹勢を弱めていくのも、しかたのないことで、盛り上がるように花が咲くのは、もう、期待しない方がよいのかもしれない。
しかし、この桜には「物語」があり、人のなさけがこもっている。
たとえ「みごとな満開」にならなくても、来年、私はまた、この地を、その時期に訪ねたい。
(2007年5月12日記)
愛犬モモの物語
もうすぐ6歳
もうすぐ、6月6日で愛犬モモが6歳になる。と言っても、モモはどこかから迷い込んで来た犬で、獣医に見せたら、「歯の具合からみて、4か月でしょうね」と言うので、逆算して6月、そして覚えやすいように、6日を誕生日にしただけだ。
3年前に、雨水タンクの土台をコンクリートで造ったときに、モモの足型を、生乾きのコンクリートにつけて、日付も書いた。
モモの足型 |
6年前の10月、子犬がフラフラと歩いて来て、腹をすかせているようだったので、牛乳をやったら、そのまま居ついてしまった。私は前々から、一度は犬を飼いたいと思っていたので、「これはいい」と思い、「ウメ」という名をつけた。
ところが、そのころは元気だった母親が、「ウメじゃぁ、おばあさんみたいで、かわいそうだ。モモがいいよ」と言い、かみさんもそれに賛成して、「モモ」になった。
しかし、ペットをテーマにしたテレビ番組を見ていたら、「人気の名前」という特集があって、犬も猫も「モモ」がトップなのだそうだ。「ウメ」だったら個性的だったのになぁ、と、私は今でもひそかに思っている。
獣医さんに見せたら、モモはメスだった。が、大人になったら、ちょっと怖い顔になった。
精悍な印象のモモ |
鼻先がとがっていて、黒くて、祖先のどこかにシェパードがいそうな顔立ちだ。獣医の待合室で、どっかのおばさんに「あーら、鼻黒ちゃん」などと、声をかけられたことがある。それで、こういう顔立ちの犬は意外に少ないと気づいた。
絶対に、兄弟
モモは、どこから来たのだろう。手がかりは、ある。
私はモモを連れて、片道30分のコンビニまで、よく散歩に行く。田舎道は、道筋の家の庭に、季節を問わずいろいろな花が咲いていて、楽しい。1・5キロほど歩くと、田んぼのあぜ道になって、田んぼの向こうにコンビニが見える。そのあぜ道で、モモによく似た犬に出会ったのだ。
名前は、ミル。コンビニから、さらに向こうの、夷隅川にかかる橋を渡ったところにある家の犬だった。
モモ(左)と、ミル |
毛色はミルの方が少し黒っぽいが、顔立ちや、毛色の変わり具合、尻尾の巻き方、それに腹の方の毛のふさふさした具合など、本当によく似ている。飼い主に聞いたら、年齢もモモと同じだった。
コンビニから、西にある橋の方ではなく、北へ1キロほど行くと、万木城跡という城跡がある。この日記でも以前に、子供の日にたくさんの鯉のぼりをはためかせる祭りがある、と紹介したことがある城跡だ。ミルは、その城跡の近くで拾って来たと、飼い主は言う。
「ほかにも、何匹かいたかもしれないね」
万木城から我が家までは、2キロ以上あるが、子犬が歩けない距離ではない。それにモモは、最初から固形物を食べることができた。親犬は、乳離れさせてから育児放棄したのだろうか。ミルが、その家に飼われるようになったのも、そのころらしい。
さらに、手がかりがあった。
よく行くホームセンターの駐車場で、これまた、毛色の似た犬を見つけたのである。
毛色のよく似た犬 |
こいつは、車の中にいた。首から背中にかけての毛色の変化具合が、モモにそっくりなのだ。鼻がとがって、黒いのも同じ。飼い主には会えなかったので、この犬の素性はわからない。けれど、モモに関係のある犬だと、私は確信している。
要するに、モモの親は近辺のどこかにいて、モモに似た犬が何匹もいるということだ。それが野良犬ならしかたないが、飼い犬だとしたら……乳離れした子犬を、飼い主がどこかに捨てたのだろうか、そんな想像をすると、ちょっと腹が立つ。
私は、モモが1歳になるころ、避妊手術をした。モモが母親になれないのはかわいそうだが、子犬が産まれて、それを養いきれなかったら、そちらの罪が重いと思ったからだ。
ちゃんと番犬をしてますよ
モモを飼う、と私が宣言したら、父親は、すぐにホームセンターから犬小屋を買ってきた。体重10キロほどの犬だから、室内犬にもできたのだけれど、私も、父親も、母親も、「犬は外」が当たり前だと考えていた。エサはもちろん「残り飯」。冷やご飯にみそ汁ぶっかけ……ようするに、古典的な犬の飼い方なのである。モモは「ノラ暮らし」の経験が身についていたせいか、なんでもよく食べた。時には、散歩の途中でカエルまで食べて、カエルが宿主の寄生虫に取り付かれ、病院へ連れていったこともある。
一昨年の誕生日に、お祝いだからと、缶詰のペットフードをやったら、「これ、食べていいの?」という顔つきをした。粗食になれているモモは、たいへんなご馳走だと思ったのだろうか。
これ、食べていいの? |
まあ、今では、かみさんが時々、肉系統の缶詰を与えているらしく、モモも当たり前のようにそういう「御馳走」を食べている。
モモは、教えたら、「お手」も「伏せ」もすぐに覚えて、人にかみつくこともなくなった。賢くて、けっこうがまんづよくて、いい犬だ。
ただ、一つ、夜中でも吠えるのが、ちょっと困る。
夜中に我が家に近づく不審者は、ノラ猫がいちばん多いが、これから、畑の作物が実ってくると、タヌキ、イタチ、それに、たぶんハクビシンと思われる動物が現れる。モモは、しっかり「番犬」を務めているので、そういう不審者に向かって本気で吠えるのだ。
近所は2、3軒しかないが、迷惑になっても困るので、今は夜、鎖をつけたまま、玄関の土間に入れて寝かせている。それでも夜中に吠えることがあるけれど、私はかまわないことにして寝ている。
昼寝するモモ |
名古屋の単身赴任宅においてあるパソコンの、デスクトップの背景は、この写真。昨年の「春うらら」のころに撮った。
仕事から帰って、この姿を見ると、なんだかホッとする。
(2007年5月26日記)