んだら、な!
信夫文字摺り
週末に房総半島、千葉県いすみ市の家に帰ったら、父親に「草刈りをしてくれ」と言われた。エンジン付きの草刈り機で、隣の空き地の雑草を刈り取るのである。
草刈り機は、なるべく地面すれすれに歯を動かして、雑草を根元から刈るようにするのだが、これが、なかなか難しい。しばしば地面を削ってしまう。まあ、30分ほどやったら、なんとかコツがつかめた。
「おっと、いけない」と思ったのは、新しく燃料を入れた2回目の草刈りだった。長く伸びた雑草に隠れていた、ネジバナに気づいたのである。
ラン科の植物で、らせん状に花が咲くので、「ネジリバナ」とか「ネジバナ」と呼ばれる。荒れ地によく見られる野草だ。
らせん状に花が咲くネジバナ |
我が家の隣の空き地は、地主が遠くにいて、「好きなように使っていていいですよ」と言ってくれている。それで、ここで薪を割り、割った薪を積んで乾燥させているが、夏は雑草を刈って堆肥に積んでいる。
前々から、ネジバナがあちこちに出ているのは知っていた。今回は、その周囲の草を刈らずに残して、あとから根を掘りあげて鉢に植えた。わきを流れる川の堤防工事のおかげで、空き地の半分ほどが建設機械に踏み荒らされ、今年は雑草さえほとんど出なくなり、ネジバナも残り少なくなっていた。保存してやらないと、すっかり消えてしまうかもしれないと思い、鉢植えにしたのである。
ところで、ネジバナには、「文字摺り草」という別名がある。
百人一首の「みちのくの信夫文字摺りたれゆえに乱れそめにし我ならなくに」、という歌をご存知だろうか。左大臣源融(みなもとのとおる)の歌で、『古今集』では、ちょっと語句が違うのだが、百人一首と、『伊勢物語』では、こういう歌になっている。
この歌を知っているのは、その歌の舞台が、私が育った福島市の「文字摺り観音」だからである。芭蕉も、『奥のほそみち』の旅でここを訪れ、「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」という句を残している。
文字摺りというのは、石の上に植物をおいて、その上に布を置き、石でたたいて染色する技術だそうで、「乱れ模様」に染め上がるという。私は、それがどんな模様かわからないけれど、ネジバナは乱れたように花が咲くので、「文字摺り草」とも呼ばれるようになったらしい。
小さいけれど、よく見るときれいな花で、野草愛好家にはけっこう人気があるそうだが、加えて私は、故郷の「信夫文字摺り観音」を思い出し、愛着が深いのである。
たった一度の仲人
私はこれまでに、一度だけ仲人をしたことがある。それは、34歳の時だった。
読売新聞秋田支局から東京の本社に戻って、少したった頃である。私に「仲人をしてくれ」と言いに来たのは、秋田支局大曲通信部(当時の大曲市、現在の大仙市)時代に知り合った小田嶋忠広だった。秋田県仙北郡西木村(現在の仙北市)出身の彼は、東京に出たが体調を崩して、故郷に近い大曲に戻り、そこで情報誌『ファースト』を出した。
小田嶋君が発刊した『ファースト』 |
五輪真弓ライブイン横手、秋田県民会館・梓みちよリサイタル、五城目町で八代亜紀ショウ……といったコンサート情報を中心に、秋田県内の写真家の作品、絵画グループの展覧会紹介、秋田放送のDJインタビューなど、確かに、あのころは目新しい情報誌だった。
それを読売新聞秋田県版に紹介したのが縁で、彼はしょっちゅう私に会いに来るようになった。東京に戻ったのは彼が先で、私が本社勤務になると、また、しばしば会うようになった。
と言っても、会うのはたいてい酒場だった。彼はすぐ酒に酔い、自作の詩の一節を披露した。現代詩らしい難解な詩ばかりだったが、私の批評に、彼は案外すなおに耳を傾けてくれた。
とは言え、「仲人」には驚いた。「フリーの編集者」というのが、彼の職業で……要するに定職がなく、ほかに仲人を頼める人もいなかったのだろう。「生活人」としての彼は、まったく頼りなく、よく一緒になってくれる女性がいたものだと、正直思っていた。
その後、彼は、詩集を2冊出した。
だが、奥さんから「私は、貧乏は平気ですけど、いくらなんでもあの人の稼ぎでは、食べていけません」と、涙声の電話を2度もらった。私がいないときに、かみさんが受けた電話もあったかもしれない。小田島に頼らず、奥さんは仕事を求め、二人の息子を育てることにした。そして、離婚を前提に別居することにした。
その直後、私は小田嶋から、久しぶりの電話をもらった。用件は、奥さんとの別居のことではなく、「加藤さん、オレ、肺癌になった」ということだった。それが3年前だ。すぐに、かみさんが見舞いに行った。
手術して、経過は非常によかったはずなのに、昨年末、癌が再発した。入退院をくりかえしていたが、だんだん悪いほうに進んで、5月に、故郷に近い田沢湖町(現在は仙北市)の玉川温泉に行くという連絡を受けた。また、かみさんが見舞いに行き、「昔の話をしたら喜んでいたよ」と、帰って来て言った。
玉川温泉は、癌患者の間では有名な温泉で、岩盤浴をして患部を温めると、末期癌が治ることがあると言われている。「でも、秋田の山奥まで行ったら、最後の体力を奪ってしまうんじゃないの?」と、かみさんは心配した。私は、田沢湖町の隣が西木村だから、故郷を見たいのだろうと思った。実際、友人の車で出かけた小田嶋は、西木村に寄って墓参りをしてきた。
私は、なかなか見舞いに行くことができずにいて、やっと6月14日の木曜、今いる会社の横浜支社で会議を設定し、その会議の前に、会いに行った。が、小田嶋の意識は、すでになかった。小田嶋が逝ったのは、私が病室を出て2時間後だった。49歳だった。
会議のあとの酒席が終わり、その後、親しい同僚2人が私の酒に付き合ってくれた。「やっと見舞いに来れたのに、なんで、きょう死んだ」と私が言うと、2人は、「それは、その人に呼ばれたんだよ」と言ってくれた。
小田嶋は、5年前に、小説集『んだら、な!』(文芸社)を出している。
「んだら、な」とは、彼の故郷の方言で「じゃあ、ね」ということ、もっとわかりやすく言うと「さよなら」ということだ。
小田嶋忠広が残した3冊の本 |
最初にこの小説集を読んで、私は葛西善三とか、嘉村磯多といった、破滅型の私小説作家を思い起こした。いまどき、こんな小説を書くやつがいるのか、と思ったのである。
たとえば、「壱万円日記」という作品がある。友人から預かった1万円と、自分の金千円で2週間を過ごすことに決め、それをどう実行したか、という日記だ。が、電車賃を10円単位で考えながら、タバコは買ってしまい、あげくには、7日目で有り金を全部使ってしまう。1万円を小田嶋に預けていた友人は、「ああ、それはいつでもいいよ」と言ってくれる。「金で友達をなくした」ことは多々あるのに、小田嶋は、そういう友人につい甘えてしまうのである。
読んでいて、おかしくて、情けなくて、泣きたくなって来る小説だ。納められている7編の短編小説が、みんな、そうなのである。
表題になった「んだら、な!」は、やっと絵が売れるようになった親しい画家の友人と、老後を故郷で暮らそうと準備をしていた小田嶋の父親が、前後して他界してしまう話だ。彼らから小田嶋は、無言の「んだら、な」というメッセージを受け取り、「んだら、な」という気持ちを返している。だが、小説の最後は、「さようならというこの方言は、私からは、決して妻には切り出すまい」という言葉でしめくくっている。
何を言ってるんだ、小田嶋。奥さんの方からそう言われたとしても、お前の方から「んだら、な」なんて、言える義理か。ほんとに最後まで、奥さんに面倒をかけて……彼が死んで、『んだら、な!』を読み返して、最初に読んだときと同じことを、彼に言いたくなった。
でも、どうしても見離すことのできない、何かがあったやつでもある。
通夜で、私とかみさんは、奥さんに頼まれて親族席に座った。それから1週間がすぎるが、今でも、私としては珍しく、気持ちが落ち込んだままである。
(2007年6月25日記)