んだんだ劇場2007年7月号 vol.103
No37
東京を出てゆきたい月夜です


しぶとく生きるユキノシタ
 漢字では「雪の下」と書くのだろう。ずっと、そう思っていたのだが、「花の形が、白い舌を出したようなので、雪の舌」という説があるのを、つい最近知った。

今年も咲いたユキノシタ
 そう言われると、2枚の白い花弁が「舌」のようにも見える。が、「雪の下でも葉が枯れない」という、「雪の下」説も捨てがたい。まあ、それはどちらでもいい。5月から6月にかけて、高々と茎を伸ばして咲く花は、小さいけれど、美しい。
 実は、この写真は、昨年撮った。家の裏にある薪小屋のわきに、鉢植えにしておいたユキノシタだ。背景が茶色い板なので、花の形がはっきり見える。ところが、表の花壇では今、梅の木の下に群がり咲いていて、そちらの方がみごとなのだが、写真を撮ってみたら花の形がよくわからない。それで、去年の写真をお見せすることにした。
 さて、このユキノシタは、どこから入手したのだろう、と考え始めたら、どうにも思い出せない。かみさんに聞いたら、「どこからもらったんだっけ?」と言う。二人とも、どこかから数株をもらったことは覚えているのだが……。
 ただ、房総半島、千葉県いすみ市に家を建てて間もないころ、東側のデッキのわきにあった6畳ほどの広さの、日当たりの悪い斜面に植えたのは確かだ。ユキノシタは、匍匐枝(ほふくし)と呼ばれる細い枝を伸ばし、それが着地した所に新しい根と、芽を出してどんどん増えるから、3年くらいで斜面いっぱいに広がった。そして、この季節になると、斜面全体が、白い花でおおわれるようになったのだが、2004年10月の台風22号の水害で、家の東側斜面が土砂崩れを起こしたとき、ユキノシタの大部分も流されてしまった。
 残ったのを、あわてて移植したのが、今、また増えてきたのである。
 しぶとく生き抜いてきたこの花を見られるのは、とてもうれしい。
 でも、「どこから入手したんだっけ」と、名古屋の単身赴任宅から電話したら、かみさんは「どこからだっけ?」と言ったそのあとで、「せっかくもらったのに、まだ食べてないね」と言った。
 ユキノシタの葉は、てんぷらにして食べられるのである。が、食い意地の張った私ではなく、かみさんの方が「食べてないね」と反応したのが、なんだか、おかしかった。

夜明け前の月明かり
 いすみ市の家で、6月3日の日曜日、前夜にちょっと一杯やって9時半ごろ寝てしまったせいか、午前3時半ごろ目が覚めた。気がつくと、外がやたらと明るかった。100mぐらい離れている、畑の向こうの家も、そのまたずっと先の山の形も、くっきりと見えた。
 雲ひとつない空に、満月に近い月が出ていたのである。

夜明け前の月明かり
 2階のベランダに三脚を持ち出して、写真を撮った。このホームページではわからないかもしれないが、パソコン画面いっぱいに写真を伸ばすと、畑の向こうの家の、屋根の端が月明かりを反射して輝いている。
 それくらい、明るい月だった。
 その月を見ているうちに、私は、橋本夢道の俳句、

東京を出てゆきたい月夜です
が思い浮かんだ。
 橋本夢道と言っても、知っている人の方が少ないと思うが、私の大好きな俳人の一人である。「5・7・5」にも、季語にもこだわらない自由律の俳人で、一部には、

精虫四万妻の子宮へ浮游する夜をみつめている

といった、エロチックな作品を評価する人もいる。しかし、昭和49年に亡くなった夢道は晩年になっても「妻よおまえはどうしてこんなにかわいいんだろうね」などという作品を、ぬけぬけと発表しているような大変な愛妻家だったので、新婚当時、純真な気持ちからこんな言葉が出てきたのだろうと、私は思っている。
 夢道は、戦前のプロレタリア俳句運動に参加して、特高に逮捕され、2年間、刑務所に入ったこともある。その時の作品

うごけば、寒い

などは、自由律俳句ならではの緊張感のある作品で、私も「すごい」と思う。
 夢道には『無礼なる妻』という句集があって、それは、

無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ

という1句から名づけられた。これは、戦後すぐの作品だ。日本人全員が飢餓状態だったそのころを知っている人なら(私は知りません)、食卓にのぼるのが「馬鹿げたもの」ばかりだったと思い出すだろう。夢道は、奥さんに文句を言っているようで、実は、そんな「馬鹿げた時代」にしたやつらに文句を言っているのである。そんな、反骨の人でもあった。
 私は学生のころ、私に最初に俳句を手ほどきしてくれた志摩芳次郎先生から、この句集を借りて、原稿用紙に、1行おきに、1句ずつ、全部書き写した。学生で、句集を買う金がなかったからだが、書き写した『無礼なる妻』は今も、ちゃんと厚紙で表紙をつけて、本棚に置いてある。
 志摩先生は、橋本夢道と親しかった方だ。その後、私は森澄雄先生に師事し、伝統的な俳句を作るようになったが、すでに故人となられた志摩先生は、私の視野を広げてくれた恩人と、今でも感謝している。
 だから、紹介したい夢道作品は、もっともっとたくさん、私の頭の中にあるのだが、折につけ思い出すのが、「東京を出てゆきたい月夜です」なのである。
 東京都心、大手町にある読売新聞社に通勤していたころ、時々、この句を思い浮かべさせる月が、ビルの間の空に出ていた。
 そして今、こんなに明るく、美しい月の光を浴びることができるのは、東京を出てきたおかげだと思っているのである。
(2007年6月9日記)



んだら、な!


信夫文字摺り
 週末に房総半島、千葉県いすみ市の家に帰ったら、父親に「草刈りをしてくれ」と言われた。エンジン付きの草刈り機で、隣の空き地の雑草を刈り取るのである。
 草刈り機は、なるべく地面すれすれに歯を動かして、雑草を根元から刈るようにするのだが、これが、なかなか難しい。しばしば地面を削ってしまう。まあ、30分ほどやったら、なんとかコツがつかめた。
 「おっと、いけない」と思ったのは、新しく燃料を入れた2回目の草刈りだった。長く伸びた雑草に隠れていた、ネジバナに気づいたのである。
 ラン科の植物で、らせん状に花が咲くので、「ネジリバナ」とか「ネジバナ」と呼ばれる。荒れ地によく見られる野草だ。

らせん状に花が咲くネジバナ
 我が家の隣の空き地は、地主が遠くにいて、「好きなように使っていていいですよ」と言ってくれている。それで、ここで薪を割り、割った薪を積んで乾燥させているが、夏は雑草を刈って堆肥に積んでいる。
 前々から、ネジバナがあちこちに出ているのは知っていた。今回は、その周囲の草を刈らずに残して、あとから根を掘りあげて鉢に植えた。わきを流れる川の堤防工事のおかげで、空き地の半分ほどが建設機械に踏み荒らされ、今年は雑草さえほとんど出なくなり、ネジバナも残り少なくなっていた。保存してやらないと、すっかり消えてしまうかもしれないと思い、鉢植えにしたのである。
 ところで、ネジバナには、「文字摺り草」という別名がある。
 百人一首の「みちのくの信夫文字摺りたれゆえに乱れそめにし我ならなくに」、という歌をご存知だろうか。左大臣源融(みなもとのとおる)の歌で、『古今集』では、ちょっと語句が違うのだが、百人一首と、『伊勢物語』では、こういう歌になっている。
 この歌を知っているのは、その歌の舞台が、私が育った福島市の「文字摺り観音」だからである。芭蕉も、『奥のほそみち』の旅でここを訪れ、「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」という句を残している。
 文字摺りというのは、石の上に植物をおいて、その上に布を置き、石でたたいて染色する技術だそうで、「乱れ模様」に染め上がるという。私は、それがどんな模様かわからないけれど、ネジバナは乱れたように花が咲くので、「文字摺り草」とも呼ばれるようになったらしい。
 小さいけれど、よく見るときれいな花で、野草愛好家にはけっこう人気があるそうだが、加えて私は、故郷の「信夫文字摺り観音」を思い出し、愛着が深いのである。

たった一度の仲人
 私はこれまでに、一度だけ仲人をしたことがある。それは、34歳の時だった。
 読売新聞秋田支局から東京の本社に戻って、少したった頃である。私に「仲人をしてくれ」と言いに来たのは、秋田支局大曲通信部(当時の大曲市、現在の大仙市)時代に知り合った小田嶋忠広だった。秋田県仙北郡西木村(現在の仙北市)出身の彼は、東京に出たが体調を崩して、故郷に近い大曲に戻り、そこで情報誌『ファースト』を出した。

小田嶋君が発刊した『ファースト』
 五輪真弓ライブイン横手、秋田県民会館・梓みちよリサイタル、五城目町で八代亜紀ショウ……といったコンサート情報を中心に、秋田県内の写真家の作品、絵画グループの展覧会紹介、秋田放送のDJインタビューなど、確かに、あのころは目新しい情報誌だった。
 それを読売新聞秋田県版に紹介したのが縁で、彼はしょっちゅう私に会いに来るようになった。東京に戻ったのは彼が先で、私が本社勤務になると、また、しばしば会うようになった。
 と言っても、会うのはたいてい酒場だった。彼はすぐ酒に酔い、自作の詩の一節を披露した。現代詩らしい難解な詩ばかりだったが、私の批評に、彼は案外すなおに耳を傾けてくれた。
 とは言え、「仲人」には驚いた。「フリーの編集者」というのが、彼の職業で……要するに定職がなく、ほかに仲人を頼める人もいなかったのだろう。「生活人」としての彼は、まったく頼りなく、よく一緒になってくれる女性がいたものだと、正直思っていた。
 その後、彼は、詩集を2冊出した。
 だが、奥さんから「私は、貧乏は平気ですけど、いくらなんでもあの人の稼ぎでは、食べていけません」と、涙声の電話を2度もらった。私がいないときに、かみさんが受けた電話もあったかもしれない。小田島に頼らず、奥さんは仕事を求め、二人の息子を育てることにした。そして、離婚を前提に別居することにした。
 その直後、私は小田嶋から、久しぶりの電話をもらった。用件は、奥さんとの別居のことではなく、「加藤さん、オレ、肺癌になった」ということだった。それが3年前だ。すぐに、かみさんが見舞いに行った。
 手術して、経過は非常によかったはずなのに、昨年末、癌が再発した。入退院をくりかえしていたが、だんだん悪いほうに進んで、5月に、故郷に近い田沢湖町(現在は仙北市)の玉川温泉に行くという連絡を受けた。また、かみさんが見舞いに行き、「昔の話をしたら喜んでいたよ」と、帰って来て言った。
 玉川温泉は、癌患者の間では有名な温泉で、岩盤浴をして患部を温めると、末期癌が治ることがあると言われている。「でも、秋田の山奥まで行ったら、最後の体力を奪ってしまうんじゃないの?」と、かみさんは心配した。私は、田沢湖町の隣が西木村だから、故郷を見たいのだろうと思った。実際、友人の車で出かけた小田嶋は、西木村に寄って墓参りをしてきた。
 私は、なかなか見舞いに行くことができずにいて、やっと6月14日の木曜、今いる会社の横浜支社で会議を設定し、その会議の前に、会いに行った。が、小田嶋の意識は、すでになかった。小田嶋が逝ったのは、私が病室を出て2時間後だった。49歳だった。
 会議のあとの酒席が終わり、その後、親しい同僚2人が私の酒に付き合ってくれた。「やっと見舞いに来れたのに、なんで、きょう死んだ」と私が言うと、2人は、「それは、その人に呼ばれたんだよ」と言ってくれた。
 小田嶋は、5年前に、小説集『んだら、な!』(文芸社)を出している。
 「んだら、な」とは、彼の故郷の方言で「じゃあ、ね」ということ、もっとわかりやすく言うと「さよなら」ということだ。

小田嶋忠広が残した3冊の本
 最初にこの小説集を読んで、私は葛西善三とか、嘉村磯多といった、破滅型の私小説作家を思い起こした。いまどき、こんな小説を書くやつがいるのか、と思ったのである。
 たとえば、「壱万円日記」という作品がある。友人から預かった1万円と、自分の金千円で2週間を過ごすことに決め、それをどう実行したか、という日記だ。が、電車賃を10円単位で考えながら、タバコは買ってしまい、あげくには、7日目で有り金を全部使ってしまう。1万円を小田嶋に預けていた友人は、「ああ、それはいつでもいいよ」と言ってくれる。「金で友達をなくした」ことは多々あるのに、小田嶋は、そういう友人につい甘えてしまうのである。
 読んでいて、おかしくて、情けなくて、泣きたくなって来る小説だ。納められている7編の短編小説が、みんな、そうなのである。
 表題になった「んだら、な!」は、やっと絵が売れるようになった親しい画家の友人と、老後を故郷で暮らそうと準備をしていた小田嶋の父親が、前後して他界してしまう話だ。彼らから小田嶋は、無言の「んだら、な」というメッセージを受け取り、「んだら、な」という気持ちを返している。だが、小説の最後は、「さようならというこの方言は、私からは、決して妻には切り出すまい」という言葉でしめくくっている。
 何を言ってるんだ、小田嶋。奥さんの方からそう言われたとしても、お前の方から「んだら、な」なんて、言える義理か。ほんとに最後まで、奥さんに面倒をかけて……彼が死んで、『んだら、な!』を読み返して、最初に読んだときと同じことを、彼に言いたくなった。
 でも、どうしても見離すことのできない、何かがあったやつでもある。
 通夜で、私とかみさんは、奥さんに頼まれて親族席に座った。それから1週間がすぎるが、今でも、私としては珍しく、気持ちが落ち込んだままである。
(2007年6月25日記)


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